契約と再契約

20日に催された「海燕オフ」発祥の「契約→再契約」の話をしたいと思います。
(中略)
決断主義はバトルロイヤル状況——、ぼくが言い換えるなら「万人による万人に対する闘争」(by ホッブズ)とでも呼ぶべき状況を生むだけなので、いずれ超克されなければいけない……。そういう問題提議のみで終わっているのが『ゼロ年代の想像力』でもある。
 つまり「決断主義」というワードは作業仮説に用いられる言葉にすぎず、その「次」が要るのだ。



 元々この仮説には大きな見落としがあって、まずニーチェが二世界説を批判して言うような「価値の相対化」がそもそもの間違いであること。

 人間は痛みを感じるのはイヤだと思うし、目の前で泣いてる女の子がいれば助けたいと思うものだ。そこで「助けたいという気持ちと助けなくていいという気持ちの価値は相対化される」というのは思考停止に近い。何もかもが無価値になるようなレベルなんて、所詮は仙人や宇宙人のレベルだろう。

 生身の「快/不快」スイッチを持った人間が、ベターを目指し、イヤなことにはイヤだと思い、(相対化されがちな善悪に対しても)「最善」を願いつづけることに、何の間違いがあるだろう?

ゼロ年代における「契約から再契約へ」の想像力 - ピアノ・ファイア
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20080923/p1

 オフに参加していた僕も少し、この契約-再契約の話を整理してみたいと思います。*1
 整理したいな、と思いながら今まで放置していたのですが、ちょうどよいタイミングでペトロニウスさんのところでも記事がありましたので、それをスタート地点にします。

組織や企業共同体をテーマにすることは、セカイ系的なことを乗り越えるためには、重要な考え方です。ただし・・・・・マクロ(=全体)に翻弄されて、全体の奴隷になり下がるしか…そのあきらめしかないというのは、意味のない結論です。


『毎日が日曜日』 城山三郎著 日本株式会社の経済戦士たちのバイブル? - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081003/p2

 さて、乗り越えるべき対象として「セカイ系」と「決断主義」が提示されました。そして「契約-再契約」はそのソリューションとして十分現実的なモデルではないかとも思っています。これら三つが実際の流行であったかはともかくとして、同じ俎上に並べられ一つの系統として話されたのは何故でしょうか。その視点から「セカイ系」「決断主義」「契約-再契約」を考えるところから始めます。

セカイ系

 さて、セカイ系とはなんであるかですが

世界

社会 → ここを中抜き

自分

本と映画と、時々仕事:岡田斗司夫 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/magimagi7/archives/64664880.html

 これはなるほどと思うのですが、それはむしろ「副作用」ではないでしょうか?
 僕は思春期にいわゆる「セカイ系」が直撃しています*2。その時ふれた空気感は、社会という中間集団を認識できない、あるいは見ていなかったことなのでしょうか。それは違う。
 むしろ今思えば、社会から疎外された印象であったと思います。つまり社会を十分に認識し見ていながらも、参与できないものであり、構造の複雑さゆえ理解の難しいものであり*3、一方的に強制力・影響力を与えるものだった、そういった印象を感じていたと思うのです。エヴァのシンジが最終的に引きこもる、それは世界に対する一つの答えだったとも思えるのです。*4
 そう「セカイ系」と呼ばれる作品は「社会から強制される」または「社会に参与できない」存在=少年・少女が描かれていたのではないでしょうか。その副作用が、社会の中抜きという形なのではないでしょうか。*5
 さて、「社会に参与できない」「社会から強制される」物語として「セカイ系」を置くと、これに対する一つの答えが「決断主義」であると言えます。

決断主義

 決断主義とはなんであるか、原文にあたっていないので正確ではないと思いますが、例示される作品群や語感や議論から「自己責任により意思決定を行う」という「社会から引きこもる」とは真逆の解を持っているのではないかと考えます。
////////ここからしばらく読み飛ばしてどーぞ
 ちなみに僕は決断主義やマッチョという言葉が嫌いでして、*6というのも物凄い無責任に見えるからなんですね。
「自己責任により」ってお前も書いているじゃないか、と思われるかもしれませんが、その自己責任こそが無責任に思えるんですね。だってこれ、極言したら「失敗したら死ぬんで勝手にやります」になりませんか? 失敗したときに己のみによって全てを補う、というなら分かるんですが、それって無理でしょう? 空手形の発行じゃないか、と。*7つまり本当の責任*8の取り方なんて「結果を出す」*9以外にあるわけないだろう、それらを踏まえての「社会からの引きこもる」だろう、と思うわけです。
 もう少し言っておくと、責任への認識は引きこもり解の方が優れていますが、結果的にもっと無責任だよね、というのは明らかなので、いやいや決断主義的な態度を選択する人もいるでしょう。*10*11
////////ここまで
 さて、先ほど「真逆の解」と言いました。お分かりでしょうが、この視点では二つの解に「問題」は共有されています。ではこの問題はどこから発生するのか? いずみのさんの「相対化」への指摘によるものでしょう。
「全ては相対的である」とは正しいと思うのですが、これって「神の視点」からの物言いなんですよね。けど全ては相対的である故に*12「神は死ぬ」わけなので、矛盾してるよなー、というのがいずみのさんのツッコミですね。結局現生人である僕らの内数人は「目の前で女の子が泣いていたら助けたい」人もおり、その人の視点からは絶対なわけです。神*13にならないと全ての価値を相対化なんてできねーし、行き着いたところで全ては無価値だよねー、つまんないねー。*14
 ただそこで、いろんなものを相対化して、自意識が十分に発達してしまうと「女の子を助けたい」という直感に対して「それって偽善じゃね」とか「助けた結果もっと悪いことになるかもよ」とか「助けても助けなくても宇宙規模ではなにも変わんないんじゃね」とかメタ自意識の「それってただの逃避じゃね」とか「悪くなろうが助けるべきじゃね」とか「変わらないなら助けたほうが得じゃね」とか某サイボーグ並みに自意識がささやいている来るわけですよ。*15もう決断するか、引きこもるしかないよね。

ここまでのまとめ

 つまり、相対化によって自己の行動に根拠・動機を求めることができなくなってしまうのですよ。*16そしたら「引きこもる」ウィンプ・オタク・引きこもりか「決断する」マッチョ・ヤンキー・決断主義者の二者択一。なんというディストピア。オワタ。
 そこで「契約-再契約」の出番ですよ。前二者とは「他者」が出てくる時点で大違いだよね! そしたら今度は非コミュ問題も出てくるけど「人間良い嘘に騙されるべき」メソッドの出番ですよ。と概説をして終了。眠い。
 というか、これでもう言いたいこと分かるんじゃね?

*1:概ね自分自身のためですが

*2:もちろん描いていた人たち大人だけどね

*3:もちろん今でも難しいですが

*4:ちなみに僕はリアルに引きこもりました(笑)。進路希望、本気で書いたら「神」「仏」「世捨て人」「ライ麦畑の番人」あたりが有力になるような状況

*5:疑問系なのは定義が合意形成されていないから

*6:オフ会でペトロニウスさんに「マッチョだなぁ」と言われて一瞬マジ凹みする程度には

*7:この自己責任の議論に関しては、義務や義務に違反した罰則は指しません。選択した行動のネガティブな結果に対する補填する、あるいは組織からの除外を受けること、またはそれをリスクとして意思決定前から承認していることなどを指しています

*8:再三になりますが倫理とかにおけるですよ

*9:この結果とはピアノ・ファイアにあるような自然状態を防ぐことも含めてですね

*10:俺とか

*11:あ、それと僕のサイト名はここら辺に起因しているので、たぶんぱっと思いつくようなツッコミは通過済みじゃないかな。だから考えてない突っ込みはNoThankYou

*12:エターナルフォースブリザード

*13:あるいは宇宙人や仙人

*14:この段落矛盾してるね。でっていう

*15:ちょっと眠くて例えがずれてきてますが修正が効きません

*16:ここら辺は大きな物語の喪失と絡むところですね