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 はじめに

2014/11/09(日)

『屍者の帝国』、再読


 『屍者の帝国』、再読を終えた。終盤、円城塔伊藤計劃への思いが、ワトソン博士へ向けられたフライデーの独白のうちに、にじみ出るというのではない、溢れていた。円城が自らをフライデーになぞらえてワトソン博士たる伊藤を追悼していることがすぐに理解された。

屍者の帝国

屍者の帝国

 円城塔の「あとがきに代えて」の中の一文が心に残った。

この小説が、悪辣な冗談にしか見えない世界に対する笑い声として受け取られることが叶うなら、それ以上の幸せはありません。

 私の知るある書き手も同じようなことを書いていたなと思いだし、ぼんやりと『屍者の帝国』の筋を思い出しているうちに、なぜか涙が流れていた。


 早逝した伊藤計劃への思い入れは、以前は私の中にあったかもしれないが、今は忘れてしまった。伊藤計劃の問いは私にとって切迫したものではなく、率直にいってとても惜しい人を亡くしたとまでは感じていない。円城塔の作品はそこはかとなくユーモアがあると感じはするものの、よく分からないので好んで渉猟したいとも思わない。フライデーがなぜワトソン博士にそんな思いを持つというのか、あまり必然性がないように思う。私が悲しみや憧れに胸をうたれ涙を流してしまう物語には一定の類型があるのだが、今回の作品はそれには当てはまらない。

 にもかかわらず、静かに泣いている自分を感じながら思ったのは、伊藤計劃という人への追悼の気持ちでもなく、円城塔という人への関心からでもなく、亡くなってもう戻ってこない人への敬愛の気持ちの在り方に対して感ずるところがあったのだろうなということ。

 使わなくなって久しい「はてなブックマーク」というサービスで、私は「追悼文」という、見方によっては悪趣味なカテゴリーを設けている。そのような感覚と関連しているのだろう。なぜそうした関心を自分が持っているのかはわからない。


 記事をアップロードする前に見返していてもう一つ思い当たった。先ほどの引用部分を読んで私が、悪辣な冗談にしか見えない世界を思って改めて落胆しつつ、そこへ笑い声をもたらそうとする個人の意志に胸をうたれた面が多分にあったのだろう。

2014/10/30(木)

ドイツの、合理性に反するかのような高度の精神性

池田信夫 blog : アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である

記事の内容をきちんと理解したとはいえないのだけど、関連して想起したこと。

ドイツの合理性、ホロコーストに対してさえも発揮される合理性。その一方で、例えばエンデ、あるいはシュタイナーのような高度に精神的な、いわゆる能率的・即物的とは正反対な、ある意味でオカルトとすらいわれそうな思惟・実践が存在する。エンデなどは近代資本主義に対してほとんど憎悪に近いものを示している。これは「合理性」に対する反動なのか、別の伏流として流れる精神性なのか、なんなのか。

2014/08/29(金)

トマスとして期待しながら

 イエス・キリストに会ってから信じても遅くないのでは: 極東ブログ

を読んだ。

 最後の「復活のイエス・キリストは、そうして死を信じる人間の絶望にユーモアをもたらす。」という1文が、そこまでの文脈との関係でよく理解できなかった。

 これは非難ではない。イエスキリストが人間の絶望にユーモアをもたらす、ということは私なりに理解している、というか、そのような人物像の存在としてイエスを理解しているつもりだ。

 ただ、トマスの話、死の話、と来て、なぜイエスのユーモアなのだろう。

 書いていて思ったのだけど、「イエスがトマスに表れたのは、トマスが自分の基準でもって「こうでなければ信じない」という一線を引いた、その一線を乗り越えて現れ、ユーモラスに自分を開示したのだ」ということだろうか。

 だとしても、トマスの不信の基準と、自分の死を絶対的な基準とする死の奴隷としての在り方は異なる。

 いや、異ならないのかもしれない。自分なりの基準でもって世を裁き、自分を裁き、「究極の罰に甘んじるなら何をしようと文句を言われる筋合いはない」というところまで至ってしまう、そういう危険を有しているのかもしれない。(関連して、裁くことによるニヒリズムは、愛を存続させない在り方だと思う。)

 とすれば、「トマスの不信」は当然死の奴隷への一里塚的な要素を有していることになる。しかし、イエスは、そのような在り方をも裁かない(ということになる。)

 裁くのではなく、ユーモアでもって、そのような死の奴隷への在り方を超越してみせ、ひょいっと目の前に現れる。

 この辺りの理路は、「〜ということだとすれば」「こういう文脈を前提とすれば」という仮定を積み重ねる話なので、後で自分で読んでもよく意味が分からないかもしれない。

 いずれにせよ、復活ということの意義、いや、復活ということの喜び・good news(福音)は、そのような筋道からも一層重要だと思えた。

 自分の死という、どうしようもない終着点、その終着点から逆算して人間は自分の行動を決定していく。しかし、その終着点すら破壊してみせる、いやピョンとゴム跳びで超えられるということ。あるいは、その終着点が帳消しになる。そのような素晴らしいお知らせ。

 私はキリスト教徒としてのマイノリティ感、いわゆる普通のみんなに属することのできない淋しさをしばしば表していながら、どこかでまだ、死んだらおしまいと思っている。あるいは、死による復讐というものをある意味で「信じている」。いいことではない。かつ、日本的だと思う。

 そのことを恥ずべきこととして反省するというのではなく、イエスが再び私のドアをノックして訪れ、私がそれに気付くことを期待していたい。他力本願なようにも思える。しかし、そもそも、救いというのは一方的なものではなかったか。

 この数日も、時折救いのような訪れを感じてはいた。救いは去ったわけではない。ただ私と共にいて、辛抱強く見守っているのかもしれない。

 10分少しでほとんど推敲もせず書いてみた。

 そうそう、「しかしその先には、そうであれば死を決意しえすればなんでもできるはずだという思いが潜む。この世が与える罰は死刑までだ(そこに至るまで苦しみはいろいろ選べるが)、自分の死を支払えば人を殺したっていいことにだってなる。」という最後のほうの下り。これは、『死ぬことと見つけたり』の世界ではないのか。とふと思った。『死ぬことと見つけたり』には肯定的評価をしていながら矛盾している、などと誰かを非難する意図はない。単に、そうなのかもしれない、と思っただけ。死は甘美だし、力を与えてくれることもある。ただ、それは同時に死の奴隷なのかもしれない(他の何かの奴隷でなくなる代わりに)。『1984年』の世界では、物語の舞台ではイングソックが推進されているのに対し、アジアでは「死の崇拝」が信仰されているのだったか(調べないで書いている)。

2014/02/08(土)

珍説 お湯張り時(どき)


 お風呂を沸かすとき、ボタンを押すと

「お湯張りを、します。」

 というアナウンスが流れる。

 お湯張りという言葉が自分の普段使う語彙にはあまりないので、そのアナウンスを聞くと少し新鮮に感じる。ときどき、「おゆはり」という音から、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』のことを思い出す。

 御湯張月(おゆはりづき)。意味が分かるようで全然分からない。

 椿説弓張月の主人公のことも思い出す。源為朝(みなもとのためとも)。子供に「為朝(ためとも)」と名付けたらホストみたいで嫌だが、悲劇の英雄だからか、私の好きな名である。

 今気付いたのだが、主人公の名、

 お湯をためとも

 とも言えますね。湯舟に。

 言えたから何なのか。でもなんとなく話がまとまってしまった。


 いろいろまとめていきたい。

2012/07/26(木)

ある人の文章の変化と


 今日はある人の闘病記のブログを見かけた。その人は以前、外国のある若者や特定のグループを手ひどく嘲笑する記事を書いていたので、少しやり合った。傲慢なようだけど、あのとき徹底的に言い負かしたりしなくてよかった。

 文体も内容もだいぶ変わっておられた。

 人生は負け戦だと思う(他方で大いなる祝福でもあるけれど)。お互い頑張りましょう。快復を祈ります。ほんとに。