「経済学者の良心」に背かなくても「御用学者」にはなれます

 ただし問題意識ないままに財務省の説明を真に受ければですが。

 財政制度等審議会の「建議」を遅まきながら読んでそんなことを思いました。

 これは報道などでは「埋蔵金」を財政政策として利用することを例外的に認めたということで大きくとり上げられたようです。高橋洋一さんのいくつかの著作を読んだ上でこの「建議」を読むと非常に面白いことに気が付きます。

 それはそもそもの「埋蔵金」の捻出過程というのは、高橋本に詳述されていますが、ここの13頁にある特別会計の積立金の活用(財政投融資特別会計の18年度と20年度の利用による国債残高の圧縮)というものでした。これがなぜ可能になったかというと、上の囲みで大層に説明されている「財政投融資特別会計の積立金が所与の金額を超える場合に」云々というその「所与」が財務省によっていいかげんに規定されてきたことにあったわけです。それは具体的に金利変動準備金のいいかげんな大きさの設定、さらにその後には恣意的に作った準備率の設定とその恣意性を認めたこと(総資産の10%という恣意性から5%への変更)として「埋蔵金」がでてきたわけです。

 この経緯について高橋さんは以下のように指摘しています。
「ほんとうは財政審(財政制度等審議会)の学者こそが「埋蔵金」を言わなければいけないんだよ。あんなに人数がいるのに、だれ一人言わないどことか、逆に「埋蔵金などない」と役所の代弁をする人もいるようだ」(『霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」128頁)。

 もちろん今回でもこの10%から5%が「シミュレーション」を行なった結果として引き下げられたとしていますが、はてさてどんな「シミュレーション」だったのでしょうか?ここらへんの反省や議論がこの審議会で行なわれたのでしょうか? 今回は「埋蔵金」の財政政策への使用にムキになっているようですが、そもそもこの「埋蔵金」を今回のように「建議」で正当な使い方であると高らかに語っている国債残高の圧縮に利用せずに、ず〜〜〜っと財務省の説明を真にうけて放置してきたこの審議会(長年やっておられる方も散見します)こそまさに「盗人猛々しい」という俗語がぴったりです 笑。

 この審議会が正当化してきたのはそういう財務省のご説明を真にうけることの繰り返しだったわけで、別段、経済学者としての良心の背く背かないの話ではないのです。ただ単に無知や無関心だけで必要条件を満たします。

 過去の審議会は埋蔵金はないと財務省の説明を真にうけ(A)

 少し過去の審議会は10%が「合理的な根拠」があると財務省の説明を真にうけ(B)

 現在の審議会は埋蔵金の財政政策への利用は将来の世代の負担を増やすだけだ、という説明だけを真にうけてます(C)

 少しずつ賢くなっているのは事実ですが、すべてさきほどの「御用学者の必要条件」を満たしているのです。ところで賢明な読者の方々は気がついているでしょうが、いままでこの審議会こそ長年にわたって将来世代の負担を彼らの理屈にのってどんどん増やしていたことはわかりますよね? (A)や(B)を無知と無関心で支持していた(=埋蔵金国債残高の圧縮に利用しなかった)彼らこそその将来世代の負担そのものを増やしてきたわけです。

 埋蔵金国債残高の圧縮ではなく財政政策に使うのはイレギュラーだがしぶしぶ認めるだなどという資格がこの集団にないのは一目瞭然なんですが。

 ところで僕は埋蔵金を財政政策に使うことは、将来世代の負担を増やすこととは思えないんですよね。それは財政政策は「短期」の効果しかないのは当たり前ですが、それでも目前の危機を回避しないでは、そもそもただ単に昨日の「狂人たちの祝宴」エントリーで書いたことと同じことが起きるだけで、そのためには今回のような利用は景気の悪化と長期的な停滞の回避を通じて、将来世代の負担を軽減していくことに繋がるんじゃないでしょうか? まあ、いずれにせよ、そのためには埋蔵金だけではとても不足で金融政策をどうにかしないといけないのは無論ですけれども

竹中平蔵氏の「個人の力」論とポピュリズム

 論評をためらうすごい面子だ

 http://policywatch.jp/

 このエントリーの続きで以下を読んだ。

 竹中平蔵インタビュー続きhttp://diamond.jp/series/kishi/10017/?page=3

 国民、ひとりひとりの力っていったいなんなんだろうか? 八丈島に竹中氏がいったときに島民の人たちがいっぱい彼の話を聞きにきたことが日本がまだまだ大丈夫だと考える「国民の力」なのだろうか?。

―それでは、今の日本の一番本質的な問題点は何だと思いますか。

 日本人一人一人の力が落ちているということである。力が落ちているからこそ、非常に安易に国に頼るグループがたくさん出て来る。政治家もパワーが落ちているから。安易にポピュリズムに走る。そして、それをチェックすべきメディアや評論家も力が落ちていて、ちゃんと機能していない。

 そのポピュリズムを煽り、大して緊急の課題でもない郵政民営化に国民の熱意を注ぎ、ムダな時間を消費したのは竹中氏自身ではないのか?*1 そして現在、メディアや評論家としての竹中氏の最近著『闘う経済学』における論証の力の低下こそまさにあなたの指摘するその力の低下そのものではないのだろうか?

 なお以下は拙著『経済論戦の読み方』(2004年、講談社現代新書)での小泉ー竹中改革とポピュリズムの関係について書いた章の冒頭部分である。

 2004年初夏の参議院選挙の争点は、年金問題イラクへの自衛隊の派遣問題をめぐるものであった。このような具体的な政策課題をめぐる対立の図式が注目を集めるのは、ここ数年でも珍しい現象といえる。小泉政権発足後は、政党間の争いというよりも「改革派」vs「抵抗勢力」という図式がメディアや世論によって受容されてきた。大嶽秀夫はこの事態を「日本型ポピュリズム」と表現し、改革派=善、抵抗勢力=悪、という二元論的イメージによって、対立する陣営をおとしめる政治手法であると指摘した(『日本型ポピュリズム中央公論新社)。
例えば自民党でも民主党でもこの二大政党の経済政策に特別大きな差を見出すことは不可能に近い。特殊法人改革や財政再建、そして今回の年金問題ですら、両者の経済政策は収束化現象をみせているように思える。このような政策の類似化は各政党の求心力さえも失わせてしまいかねない。そこで作り出されたのが「抵抗勢力」というイメージである。この抵抗勢力はその時々の文脈で、官僚や道路公団前総裁だったり、党内の最大派閥であったり、また抵抗勢力打破を唱えた小泉首相自身ですらあったわけで、まさに融通無碍にこの言葉は使用されてきた。そしてこのような二元論的なイメージ戦略が有効であったことも、この戦略をフル活用している現政権が、いまだ40%を超える支持率を維持していることからもわかる。では、なんでこのような中味の乏しい二元論的ポピュリズムが、政治の中で有効に機能したのだろうか。
 経済学には「中位投票者の仮説」という考えがある。これは本来対立する理念をもった二大政党が、過半数の投票を得るために次第に政策の幅をひろげていき、やがてちょうど自分たちの理念の中間に位置する投票者の意見に一致してしまうというものである。いま違った政策上の意見をもつ投票者が、その理念がもつ大きさによって順番がつけられ多数の人が並んでいるとしよう(例えば、税率を0.1%から10%まであげてもいいという人が順番に並んでいる状況を想像していただきたい)。両方の政党とも中位投票者の支持を得ようと、その意見を修正していき、やがては両政党とも真ん中の順番の投票者の意見を公約として採用することになるというものである。
 この仮説が今日の日本を語る上で興味深いのは、この政党の政策が収束化するという現象を解き明かすからだけではない。改革派=善、抵抗勢力=悪、という中味のない日本型ポピュリズムをも説明可能だからである。政策上で本質的な違いのない政党に残された差別化の手段は、ブランド品などと同じイメージ戦略だからである。今日の価値観が多様化する社会の中で、実は多様化しているのが政治選択の幅ではなく、イメージの幅であることをこの仮説は明らかにしている。
 では、そのような政策の収束化とイメージ戦略的なポピュリズムのどこが問題であろうか。例えば、今回のような年金問題は、両党の公約をみるかぎり大差ないので、あえてイメージ戦略の中で国民的な対立を煽るとことは不幸な事態といえよう。世論調査を分析しても年金問題のどこが本質的な論点なのか理解されていない懸念が強い。これは政策の収束化という現象とイメージ戦略に基づく差別化という現象を、国民の側がうまく把握していない可能性を意味している。また価値観の多様化をこの二大政党制という大きな流れがイメージ戦略の部分以外でうまくすくえるのか、というより深い課題がある。