「一里木の跡」碑

(注 これは2012年7月26日あたりに書いたものです。正確な場所を忘れたので、載せられなかったもの。
 普段は交通量が多い上に、歩道がない場所なので、写真なんか撮れるような場所ではないのだが、15日は水害直後で交通量が減っていたので、写真を撮ってみた。熊本大学の前を通る県道337号線(旧国道57号線)は、かつての豊後街道を通っていて、阿蘇を越えて、大分市鶴崎まで通じていた。この場所、熊本城の街道元標から一里の場所にあたる。確かニ里木にも記念碑があったような。三里木は駅の名前にもなっていて分かりやすい。
 左面の俳句は判読がものすごく怪しいです。



表面

一里木の跡
  熊本県知事 沢田一精



右面

  一里木の榎の碑
 むかし 熊本から外に通ずるには豊前 豊後 薩摩 日向の
四往還があって 元標の新町一丁目札の辻から一里毎に両側に
榎を植えてこれを一里木 ニ里木 三里木といっていた
この地は豊後往還のいわゆる大津杉並木で知られる道路の
一里木の所在地で 近年まで左右に実に見事な大榎が天に
伸びていた
思へばむかしはお江戸三百里に旅立つ人を見送ってここで別れの
杯を酌みかわし無事を祈ったという
その歴史を秘めた大榎が近年相次いで枯死して姿を消し
去ったので愛惜の念ふかく ここに記念の碑を建てて後世に
伝えることにした           精之 撰
   昭和四十八年三月吉日
     熊本県大津街道杉並木保存会 松原 覚
      〃    〃  事務局長 吉村四郎



左面

旅人の憩ひし緑陰あととめず 小壺


熊本県大津街道杉並木保存会
理事 櫛山 弘 田副敏郎
   星子敏雄 石原義賢
   水上長吉 魚住 進
   坂本篤美 大古閑純一
   坂本 貢 大住 正
   島田四郎 塩田義朗
   藤江甚吉 上田博信
   黒田正巳 渡辺キミ
   荒木精之 渡辺幸義
   阿部次郎
建設省
 熊本工事々務所建立
  所長 高橋健二
  前所長 江崎正敏


  題字 沢田一精
  撰文 荒木精之
  献句 阿部小壷

施工

施工
(資)西日本興行
 鹿島石華園

清水万石2丁目天満宮の狛犬

 熊本型とはずいぶん違った形態の狛犬。台座には文字が刻んでいるが、写真ではほとんど読めず。これは拓本でも取るしかなかろうな。とりあえず、「皇紀二千六百年」とは書いてあるようだ。そうすると、1940年ごろの設置か。調べてみても、あてはまる分類はないようだな。髭の形が不思議。






清水万石2丁目天満宮の猿田彦

 これも上の狛犬と同じ神社に存在。清水方面では猿田彦大神碑はあまり見かけないし、見かけても神社の境内だな。猿田彦大御神と彫ってあるのが特徴。

室園年禰神社の猿田彦

 「猿田彦大神」の文字の横に、書を書いた人の名前が書いてあるようだが、達筆過ぎて読めない。昭和12年設置と比較的新しいもの。




裏面

昭和十二年二月吉日
     奉納
  高野○○高本道

黒髪菅原神社の猿田彦

 これも神社境内。このあたりを七曲がりというそうだが、名に恥じない曲がりくねった道。こういう道は楽しい。
 裏面の年紀の設置月は五月あたりの可能性もあり。




裏面

明治二十四年
一月中○
   建之

『歴史群像太平洋戦史シリーズvol.68:米陸軍戦闘機』

 第二次世界大戦中の米陸軍航空隊の主要な戦闘機を現存する実機の写真解説と設計の経緯、構造、戦果などにまとめている。他に大戦前、夜戦、試作機、レンドリース・逆レンドリース機などをまとめて紹介した章がある。実機の細かいディテールやなぜその機種が開発されたかなどがきっちりと説明されて、非常にわかりやすい。
 しかし、実機を見ると、P-39エアコブラとアリソンムスタングがかっこいいな。あと、航空機の評価も興味深い。日本機相手のは結構強かったP-40。高空性能が劣るため米軍では使い物にならないと烙印を押されたが、ソ連での活躍など低空高速戦闘機としての素性は良かったP-39。複雑な構造から生産性や整備性に劣り充分な量が供給されなかったが、他に機種の補佐を受けて、過大な評価を受けるに行ったったP-38。必要な時に必要な量が供給された「間に合った兵器」であるP-47。へろへろの枢軸国空軍をボコボコにしたP-51。しかしまあ、やはり日本軍機は性能が低かったのだな。で、ドイツの方が強かったと。しかし、P-39の敬意を見ると、発注側のせいで迷走する事例って結構多いんだな。
 あと、第二部のまとめて紹介される飛行機も興味深いな。夜間戦闘機が結局、物になっていないとか。あと、最近、大戦直前の複葉から単葉への過渡期の戦闘機がわりと好きになっている。大戦前のP-26やP-35あたりも結構いいな。

阪本保喜・かくまつとむ『聞き書き 紀州備長炭に生きる:ウバメガシの森から』

聞き書き 紀州備長炭に生きる―ウバメガシの森から (人間選書)

聞き書き 紀州備長炭に生きる―ウバメガシの森から (人間選書)

 備長炭を焼く現役の焼き手である阪本保喜氏に対するインタビューをまとめた本。備長炭が高く評価されるのは密度の高い木であるウバメガシを焼くことによって、火持ちがよく、安定した火力を長時間発揮できることであるという。そのため、燃料としての木炭の需要が、エネルギー革命によってなくなったあとも、炭火で焼く料理のためのプロの需要によって、存続した状況。しかし、細くてある程度の長さのあるもの以外は、売れずに買いたたかれるのが現状という。なんか、いい使い方はないかねえ。備長炭は発電なんかにも向いていそうだが。まあ、あんまり大規模にやるとウバメガシの資源が枯渇しかねないし、難しいのだろうけど。あと、臭い消しなどの利用に関しての、木炭は燃やされてなんぼ、一年に一度程度しか買わない人相手では商売にならないといった意味の発言が興味深い。
 しかし、かつてはさまざまな樹種・品質の木炭が生産されていたわけで、今炭焼きをやっている人はそういう広い経験をもとに高い品質の製品を生産できる。それに比べると、ウバメガシの特定品質のものしか売れない現状は、幅ひろい経験を積んだ新世代の育成を不可能にするのではないだろうか。そう考えると、先行きは大変そうだな。海外からの安い炭との競争にもさらされるし。
 実際の炭焼きの手順も興味深い。窯で焼くところしか考えないが、実際には山で目的の木を伐り出し、輸送、加工して釜に詰めるまでの作業がかなりの部分を占めるという。あと、目に見えない釜の中を煙と臭いで見通すところとか。しかし、2007年の時点で木馬を使っているってのもまた。
 あと、戦前は木がある所に小屋を作って炭を焼き、木がなくなると別の場所に移動するということを繰り返していた体験の話。それが戦後は、自動車が利用できるようになって、特定の場所に窯を固定するようになったというのも興味深いな。炭焼き小屋に関しては、『炭焼きの二十世紀』でも扱われているが、どこも似たような感じだったようだ。


 以下、メモ:

 ひとつは、世界自然遺産に登録された屋久島や白神山地知床半島のように、植物たちの長い攻防ののちに安定した「極相林」の姿を、手付かずのまま残す方法である。
 それらの森が太古からの姿を保ってきたのは、伐採や搬出を行うには地形が険しすぎたり、生えている樹木に、労働に見合うだけの価値がなかったためだ。結果的に残った森ともいえるが、そうした原生的な森の姿が評価されるようになったのは、生態学という科学用語が一般化したつい近年のことである。p.12

 いや、実は日本列島で人間の手が入っていない森はないんだけどね。屋久杉なんか長年切られまくっているし。
 あと、この下りの後で、江戸時代の木炭経済がそれほど劣っていないと書いているが、江戸から明治あたりには、森林の相当の負荷をかけていたのだが。

 飯炊くときに、備長炭をひとかけら入れるような使い方は流行ってきたけどな。たしかに、炊飯器に入れたら、炊きあがった飯はうまいわ、わしとこでもやっとるよ。水道の水に入れても味がようなるで。
 けど、そんなんで捌ける量て、ほん知れたるよ。なんぼ備長が人気が出てきたいうたかて、それは昔の信用とは別の部分での注目や。わしら炭焼きとしては複雑やわ。やっぱり燃料として注目を集めんことには将来はない思うよ。炭ゃ、燃やしてもろてなんぼやさかいの。電気は炭の敵やいいやっても、わしらかて、もう炭では煮炊きも暖房もしとらん。電気中心の生活や。夏になったらクーラー全開よ(笑)。p.23-4

 最近、備長炭ブームやいうけど、わし、ブームという言葉は好きでないんや。叩くとええ音が出る、マイナスイオンがどうのというても、あんまりピンと来んの。そんな用途が広がっても炭焼きとしてはうれしいことないよ。そんなんは一回買うたら、次に買うのは一年先やろ。
 いちばん評価して欲しいのは「炊いたときにええ炭」という本質や。灰にしてもろてなんぼ。備長炭という炭が、いちばん活きるところで消費を広げる工夫をしていかんと、炭焼きの将来はないんと違うか。p.185-6

 新利用法の限界。

 それでもそういう山の木はのどから手が出るほど欲しい。やっぱりええ炭を焼きたいさかいな。もちろん腕を磨き続けたいということもあるんやけど、最近は問屋も厳しなって、ほんまにええ炭しか取らんようになってきた。備長炭は、完全に質の競争の時代に入って、もうええ炭焼く職人しか生き残れんのや。p.42

 一番いい部分しか使われない状況。

 土や砂粒を構成する鉱物粒子自体はかなり熱に強いが、かつて海底に堆積したときに混じったミネラル分が触媒になると、低い温度で溶け出す。その分岐点が、ちょうど紀州備長炭を精錬するぐらいの温度なのである。たとえば備前焼の土なども海成粘土の一種で、あまり窯を高温にすると器がゆがんだりふくらんでしまう。p.82

 そうすると、平野部の土の大半が適さないことになるな。

 野猿と木馬のリレーで林道の端まで持ってきたら、今度は三輪使うて窯まで運ぶ。この車、正式にはなんていうんかのう。わしら三輪、三輪いうとるけどの。
 エンジンは五馬力ぐらいの小さいもんやけど、一回で五〇〇キロぐらいは積めるの。軽トラより、ちょっと多い。今でもここら(和歌山)では新品で売りよる。蜜柑山とか多いやろ。小回りの利くさかい、山では軽トラよりも便利やな。というても、道幅はぎりぎり。たまに路肩崩してひっくり返すこともあるよ。軽いさかい、すぐ戻せるけどの。新型は三〇何万円かする、わしのは出始めくらいに買うたやつやけど、まあよう働くわ。元は十分とったやろ。p.112

 調べてみると、動力運搬車と称するものらしいな。三輪タイプの外に、キャタピラタイプとか、動力付き手押し車みたいなのもあるようだ。高いのは50万くらいか。本書で紹介されているのは、淡路の農民車みたいな感じだけど。こういうのが売られている。最後のがレトロな感じでいいな。
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 阪本さんは何でも自分で作ってしまう人である。炭焼き職人も事業者。いかに生産コストを下げるかが採算性のカギになる。そのために真っ先に抑えなければならないのが外注費というわけだ。「炭焼きは割に合わない仕事」とぼやきつつも、これまで続けてこれたのは、大工仕事や土木作業、機械いじりでき、電気にもある程度通じた、典型的な昔の日本男児だからだろう。p.164

 確かに、昔の人はいろいろと造れたみたいではあるが。