阿部彩『弱者の居場所がない社会:貧困・格差と社会的包摂』

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

 やっと読了。新書一冊に5日か。最近、格差や貧困の話がつらい。もう、どうしようもないだろう。日本はこのまま社会が腐っていくしかないんじゃとしか、思えない。
 まあ、「社会的包摂」って、成功した社会は存在しないんじゃないだろうか。国民国家そのものが、外来者や周縁的立場の人々を排除して成り立ったようなものだし。北欧なんかのモデルも、移民がどんどん来ても大丈夫ってものでもないだろうし。


 第一章は各種のデータから、日本における貧困者の割合を指摘する。食事や衣服の欠如、ライフライン社会保険への支払いの滞納、医療へのアクセスから、5-10パーセント程度は貧困な状況にあること。また、一人親や単身者世帯に貧困の割合が高いことを指摘する。
 第二章は、「最低限の生活」の算出の仕方の紹介。絶対的貧困相対的貧困の概念や算出方法としてのマーケット・バスケット方式と実態家計方式の紹介。そして、最後に、ある状況にある人物を設定して、その人に必要な物資を議論によって割り出すミニマム・インカム・スタンダード方式の紹介。
 第三章は社会的排除の話。人間関係、職業による社会的役割、身の置き所の必要性。
 第四章は「格差」が社会の構成員全体に悪影響を与えるということを、ウィルキンソンの研究を引きながら指摘する。社会的な格差が大きい社会は、構成員全員が大きなストレスにさらされ、そうではない社会に比べて、全体で死亡率が上がっている状況。また、社会全体の人間関係が荒廃すること。このような格差は、「マタイ効果」によって自動的に増幅されてしまうことが指摘される。ウィルキンソンの研究では1980年代のデータを使用して、日本は平等な社会ということになっているが、その後、景気の善し悪しに関わらず、一貫して拡大していることも指摘される。バブル期、小泉時代も通じて、せいぜい横ばいというのがなんとも。
 第五章は社会的な包摂政策についての議論。現在の社会保障制度は社会保険、公的給付、職業訓練の三本柱から成り立っているが、社会保険制度は長期の給付に向かない、公的給付は受けること自体が社会的排除につながってしまっている状況、職業訓練は脱落者が必ず出るということで、社会的包摂には必ずしも向いていないと指摘。「出口」である労働市場がストレスフルなこと。社会的包摂には、社会からの「承認」が重要であること。
 第六章はまとめということで、阪神大震災の復興の過程で、それ以前からの格差を増幅してしまっていること。長期的に悪影響が残っている状況から、それらをカバーする政策の必要性が指摘される。
 ここまで来て、最大の問題は労働政策なんじゃないかって感じがするな。格差の拡大が、正社員は滑り落ちまいと必死で働いてサービス残業ややりがいの搾取につながり、非正規雇用による困窮の固定という状況を生んでいる。最低でも、現行の労働基準法の厳格な運用が必要なのではないだろうか。あと、第二章で「日本人は冷たいのか?」って節があるが、本当のところ日本人は冷たいんじゃないかね。社会的想像力の欠如が、視界外の人への冷酷さにつながっているのかもねとは言えるが。


 以下、メモ:

 イギリスの子どもの貧困研究では、貧困層の子どもがもっとも恐れるのは学校で仲間はずれになることであり、それを避けるためにみんなと同じような服装が非常に重要だと言われている。バース大学の研究者テス・リッジは、子どもにとって、学校は生活の大部分を占め、そこで他の子どもたちから「承認」されることが、子どもの自己肯定感や自尊心に不可欠であると結論づけている。「たかが衣服」と侮れないのである(同『子どもの貧困と社会的排除』中村好孝・松田洋介訳、桜井書店、2010年)。p.30-1

 経済的貧困には、ただモノがないというだけではないさまざまな側面がある。経済的制約は、しばしば、人々を束縛する。それは、選択肢がないこと、ゆとりがないこと、時間がないこと、将来の見通しが立たないこと、安心がないこと、にもつながる。
 さらに、経済的制約は、他者との交流やつながりさえも奪う。所得が低い層ほど、孤立の度合いが高いことは、さまざまなデータからも確認される事実である。さらには、現代社会において経済的地位は、社会的地位を意味し、社会の中で低い順位に常に置かれていることは、精神的に大きな苦痛である。それは、人として敬われないこと、自尊心を失うこと、希望がないこと、につながる。そして、経済的貧困は、究極的には、人々を「社会的孤立」に追い込み、「居場所」さえをも奪ってしまう。このような状態を「社会的排除」という。この社会的排除とは、プロローグで述べた「社会的包摂」の反対の概念であるが、次章でくわしく述べたい。p.68

 このあたり、メアリー・ダグラスの『儀礼としての消費』と非常に近しい問題だな。人間関係を構築するメディアとしての「もの」。それの操作に失敗すると、社会から排除されてしまうと。

 家がない状態の究極のかたちは、公園や駅舎や道路など屋外で寝泊まりする、いわゆる「ホームレス」である。厚生労働省による「ホームレス」の定義は、「都市公園、河川、道路。駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」であり、厚生労働省の最新の2011年1月の調査によると、約1万人が全国で確認されている。この数値は減少傾向にあり、2003年の初回調査で確認された約2万5000人の約半数となっている。また、ネットカフェや漫画喫茶等で寝泊まりする人の数は、厚生労働省が2007年に行った調査によって、全国で約5400人と推定されている。
 この数値だけを見ると、日本社会において「衣食住」の「住」がない人は、人口に比べればごくわずかである。
 しかし、「家」と呼べるものがない人というのは、屋外やネットカフェに寝泊まりする人々だけではない。24時間営業のファーストフード店など本来睡眠をとるためではない営業施設で仮眠をしてしのぐ人々、自治体などが提供する一時的な収容所(シェルターなど)に寝起きする人々、派遣労働などの「住居つき職場」で働いており、職と住居を同時に失う危険性の高い人々、友人や親族の家を転々とする人……。
 欧米での「ホームレス」の定義には、このような人々も含まれ、日本の「ホームレス」(=野宿者)の解釈に比べ、かなり広くなっている。欧米では、家賃の滞納が頻繁であったり、賃貸契約が居住者の最低限の権利を守っていなかったりといった、立ち退きを迫られる危険性の高い人も「ホームレス」の範囲に含まれている。
 だから、もし日本でも「ホームレス」の範囲を欧米と同様に広げて考えるならば、野宿者やネットカフェ難民の数万人とはケタが違う数の人々が「住」の危機に直面しているといえる。p.32-3

 日本の住政策の貧困。

 社会的包摂政策をいち早く打ち出したEU諸国において、社会的包摂を促す政策の最大の柱は雇用政策である。なぜなら、EU諸国では、現代社会において、個人が他者とつながり、自分の価値を発揮する最たる手段が就労だと理解されているからである。
 働くことというのは、ただ単に賃金をもらうための手段というだけではない。働くことによって、人は社会から存在意義を認められ、「役割」が与えられる。働くことは、社会から「承認」されることなのである。
 だからこそ、人は「働く権利」があり、失業していることは、その機会を奪われることであり、失業そのもの自体が、たとえ、そのことが生活に何の影響を及ぼさなくても、社会問題であるとの認識なのである。p.110

 社会的存在としての労働。これは、別に現代だけの話じゃないよな。

 いわゆる「ホームレス問題」が都会のあちらこちらで深刻化した1990年代、多くの都市では、長椅子型のベンチが取り除かれ、一人ごとに仕切りがあるベンチや、最もひどい例ではパイプ型のベンチに取り換えられた。パイプ型のベンチは、もはや「椅子」と呼べるものではなく、かろうじてよりかかることができる「取っ手」とでも呼んだ方が正しい代物である。ホームレスの人々が横になることを防ぐためである。
 しかし、このようなベンチには、足腰の不自由な高齢者や、赤ちゃんを抱えた男女など、公園でもっとも座ることが必要であると思われる人々でさえ長くは座れないであろう。社会で一番弱い層を「排除」しようとすることは、結局、すべての人に住みにくい社会をつくることなのである。p.118-9

 いや、ほんとだよなあ。屋根がない東屋なんかも、そういう排除目的なんだろうけど、日影がない東屋とか、撤去しちまえってレベルだしな。

 ウィルキンソンによるその一つの答えは、人間は自分と似た社会的地位にある人と交流し、仲間意識を持ち、自分から離れた社会的地位にある人とは関係を持つことが少ないということである。関係を持つことが少ないと、人は信頼することができない。格差が大きい社会においては、自分と離れた地位にある人々が増えるため、すべての人にとって信頼できる人が少なくなるわけである。
 格差と人間関係の劣化を結ぶもう一つのリンクが自尊心である。格差が大きい地域や国においては、社会的地位が低い者は自尊心を保つことが難しい。自尊心を傷つけられたことに対する反応として、暴力に走ってしまうこともある。
 ウィルキンソンは、犯罪研究の蓄積の中から、暴力行為の大半が、恥をかき、面子を失い、自尊心を傷つけられたことに対する反応である、とする。特に、若い男性にはその傾向が強い。格差が大きい社会においては、「地位争いが激化し、地位の重要性が高まる」(前掲『平等社会』155ページ)。その結果として、人々が自尊心を失うリスクが高くなってしまうのである。p.136-7

 格差と人間関係。自尊心というのは重要なタームだな。

 しかし、20世紀後半になってからは、このような個々人の生活習慣の違いだけでは、寿命や健康度について説明できなことがわかってきた。そこで個人の健康に影響する社会的要因が重視されるようになった。すなわち、個人がどのように健康的なライフスタイルをおくっていても、その人が住んでいる社会からの影響をまったく受けないことは不可能だということがわかってきたのである。
 イギリスでは、社会的地位の低い人ほど心臓病の罹患率や死亡率が高いことが判明し、「健康格差(Health Inequality)」が一大社会問題として認識されるようになった。さらに、その人が社会のどの位置に、どれくらいの接点を持って生きているかが、その人の健康に多大な影響を与えることがわかってきたのである。p.142-3

 社会と個人の相互作用の緊密さ。まあ、当然と言えば当然の話だな。

 リグニーは、マタイ効果を逆行するシステムを作るのに必要なのは、私たち、特にマタイ効果の恩恵を受けてきた層の人々が、自分のポジションが自身の能力や努力の結果だけではなかったであろうことを認識することだと言う。p.154

 ところがそうじゃない人が多いんだよな。自分の成功は自分の努力の結果だとか思いこんでいる人間が多い。