天智天皇暗殺説について考える(1)

『逆説の日本史』で井沢元彦氏は天智天皇暗殺説を唱えている。天智暗殺説自体は前からあったらしく(「逆説」によると郷土史家の山田万吉郎氏が嚆矢だという)、有名なのは井沢説だろう。


概略を書くと、『扶桑略記』という史料の天皇崩御の記事に「一云 天皇駕馬 幸山階觶 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり、これは天皇暗殺について書かれたものだということ。


本当だろうか?


この件については、既に多くの批判がなされている。山田邦和教授の反論はこれ。

 天智天皇の死に関して不思議な話が伝わっています。
平安時代末期に僧皇円によって書かれた『扶桑略記』では、天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず、後日履いていた沓だけが見つかった。その沓が落ちていた所を山陵としたといいいます。
 この話から天智天皇の死が暗殺ではないかなどトンデモナイことをいう人がいますが、遠山美都男先生も指摘されているように(『天智天皇PHP新書)、 道教では仙人が姿を消して昇天する(尸解{しかい})するといわれていますので、この伝説は天智天皇が神仙であるということを示しているものなのです。聖徳太子菅原道真にも同様な話があります。

天智天皇陵(平安京探偵団)


俺も大筋これに同意。以上…


ではツマラナイので、俺の思うところを少し書いてみようと思う。

天智天皇暗殺説について考える(2)

井沢元彦氏は『扶桑略記』の記事を「事実」とみなし、考えられる可能性は「事故」か「暗殺」しかないと断定した。確かに「事実」であるのならば、出かけたまま帰ってこなければ、そういうことになるだろう。そして、沓だけあって死体がないのであれば、それは事故よりも暗殺の方の可能性が高いであろう。全くもって「合理的」で「科学的」な「名推理」だ。


一方、歴史学者は、そうは受け取らず、天智天皇が「神仙」であることを示しているのだと解釈した。


ところで井沢氏は、「逆説」の序論で、「日本の歴史学の三大欠陥」の一つとして、「日本史の呪術的側面の無視ないし軽視」ということを上げて、歴史学を痛烈に批判している。しかし、天智暗殺説について言えば、呪術的側面を重視しているのは、むしろ歴史学者の方であり、軽視しているのは井沢氏ではないだろうか。


井沢氏が、呪術を軽視している歴史学を批判している言論を真似て書けば、井沢氏は「私は神仙などというバカなものは信じない、だから過去においても神仙というものは、歴史史料に対して何の影響力も持っていない」と考えているといったところか。


もちろん俺は、「日本史の呪術的側面」を重視する立場であるから、この場合、歴史学者の見解を大筋で支持する。

天智天皇暗殺説について考える(3)

と、ここまで書いてきて何だが、実のところ、遠山美都男氏の『天智天皇』を読んでいないので、俺の考えと歴史学者の考えが、どのくらい一致しているのか少し不明なところがある。だから「大筋で」とした。


上で記した解説には「尸解(しかい)」という言葉が出てくる。

仙人は基本的に不老不死だが、自分の死後死体を尸解(しかい)して肉体を消滅させ仙人になる方法がある。これを尸解仙という。羽化昇天(衆人のなか昇天することを白日昇天という)して仙人になる天仙、地仙などがあるが位は尸解仙が一番下である。

仙人(ウィキペディア)


ちなみに聖徳太子の件というのは、『日本書紀』の片岡山飢人伝説のことと思われ。
飢人伝説(王寺町ホームページ)
太子が施しをした飢人が死んで、後に墓を調べると遺骸がなく、太子が与えた衣だけが残っていたという話。太子がこの人物が聖人だと見抜いたのは、太子もまた聖人だったから云々。


また、これは指摘されているのか知らないけれど、持統天皇天武天皇を偲んだ歌。

明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし
やすみしし 我が大君 高光る 日の皇子
いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は
沖つ藻も 靡かふ波に 潮気のみ 香れる国に
味凝 あやにともしき 高光る 日の御子(万2-162)

【通釈】明日香の浄御原の宮に、天下をお治めになった、天皇陛下――日の神様の御子であらせられる陛下は、どのようにお思いになってか、伊勢の国の、沖の藻を靡かせる波に揺られ、潮の香りばかりする国においでになったまま、お帰りにならない。無性にお会いしたくてなりません、日の神様の御子に。

持統天皇 千人万首


この天武天皇が「潮の香りばかりする国においでになったまま、お帰りにならない」というのが、勉強不足で、どこをどう読めばそう解釈できるのかよくわからないんだけれど、先の天智天皇が山科に行ったまま帰ってこないという記事と似ていて気になるところ。


ちなみこの歌については、千田稔氏はこう解釈している。

伊勢の国は持続天皇にとっては非常に羨ましく思われるところで、それは亡くなった天武天皇がいま伊勢の国にいることが羨ましく思われるというわけです。そう見る根拠というのは、天武天皇は亡くなった後、飛鳥南方の大内陵に葬られるわけですが、その後、東に、つまり神仙に近いところへ遷ったのではないかと解釈すると、その神仙の地は伊勢になるわけです。ですから持続天皇にとっては、天武天皇が仙人たちのいる神仙の地へ行かれようとしていることは非常に羨ましいというわけです。そう解釈するとこの歌は非常によく分かるのではないかと思います。この解釈は高橋徹氏によって示唆されたものです。

「アマテラスをめぐって」 『千田稔シンポジウム 伊勢神宮』(人文書院


つまり、天武天皇も神仙になったということですね。

天智天皇暗殺説について考える(4)

扶桑略記」の記事には、一つ気になるところがある。それは、なぜ「沓(くつ)」なのかということ。もちろん天皇が暗殺された際に沓が脱げて、殺人事件の証拠が残ったなんて話をしたいわけではない。


天智は神仙になった。それは良い。だが、なんで沓だけが残ったのだろう?先に紹介した聖徳太子の伝説では、飢人は「衣」を残していた。またヤマトタケルも「衣」だけが残っていた。それなのに天智の場合は「沓」。他にも「沓」だけが残っていたという伝説があるのだろうか?


天智天皇陵には「御沓石」と呼ばれる石が実在する。これをどう解釈すべきか。沓が落ちていたという伝承を元にして、「沓石」と名付けられたという可能性もあるし、逆に「沓石」と呼ばれる石があったので、沓が落ちていたという伝承が生まれたという可能性もあるように思われる。あるいは無関係という可能性も。


「沓石」で検索すると、世の中には多くの「沓石」が存在することがわかる。


goo辞書で「沓石」を調べると、

柱や束柱(つかばしら)の下に据える土台石。柱石。礎盤。

「沓石」goo辞書


だけど、それだけではないようにも見える。ざっと見ただけだが、


愛知県豊田市、猿投神社の「沓石」は「景行天皇が海を渡ってこられ、上陸して留められた舟が石になったもの」
大岩信仰


大分県速見郡日出町の八津島神社の「沓石」は空から降ってきたもの。
八津島神社の神霊石とヤタ石「石と文化」


諏訪七石「御沓石(おくついし)」
諏訪大社と御柱


神奈川県小田原市の曽我五郎の沓石
謡蹟めぐり 小袖曽我1 こそでそが 曽我の里


まだまだいくらでもありそうだ。そして由来は千差万別。ただ「巨石信仰」と関わりがありそうではある。


俺の全くのあてずっぽうだけれど、こうして見ると「沓石」が先で、後から伝承が作られた可能性の方が高いのではなかろうか。もし、そうだとすれば「沓石」の本来の意味は伝承とは別のところにあるだろう。そもそも「クツイシ」の「クツ」が本来「沓」の意味なんだろうかとも思う。良くわからないけれど。


(追記)八津島神社の「沓石」だけど、よく読むと「踏石」とも書いてある。『日本書紀』に景行天皇が土蜘蛛を退治する時に占いに使った石を「踏石」(はみし)と名づけたとある。
帝踏石