神武東征伝説と「幻の大和国」(その12)

そろそろまとめたい。


先日、大型建物跡が出土して話題になった纒向遺跡。ここが「ヤマト王権」の出発点だと考えられる。

纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が発見されていない。現在発見されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い。

纒向遺跡 - Wikipedia


纒向遺跡は「人の住む集落跡が発見されていない」。今後発見される可能性がないわけではないが、それよりも「祭祀のための聖地」である可能性が高いと思う。


とうことは、どういうことかというと、この地域を地盤とする豪族が周囲を併合してヤマト王権が誕生したのではなく、「倭国の首都」として、この地が選ばれた可能性が高いということであろうと俺は思う。


その際、なぜヤマトの地が選ばれたのかといえば、俺はそこが当時考えられていた日本の領域の地理的な中心だったからだと思う。つまり、西は九州から東は少なくとも北関東あたりまでが「日本」だと考えられていたということ。そこに住む人々がその時点で全てヤマト王権に服していたわけではないかもしれないが、王権に服すべき土地だとは考えられていただろう。


それと同時にそこが、古代人にとっても過去のことになる古い時代に「西から来た英雄によって征服された土地」であるとみなされたのだろう。つまり、当時既に「神武東征伝説」あるいはその原型と考えられる「ヒコホホデミの伝説」が存在したということであり、そして神武の後継者が支配すべき「日本の領域」が設定されたということ。


ここで留意しなければならないのは「神話」は古くから伝えられた伝説であるということ。勝手に都合よく改竄しては誰も信じない。創作するなどもっての外だ。当時の人が「これが真実だ」と信じられるものでなければならないということ。


それが「真実」だと認められたのは、上に書いたように、ヤマトが当時の人々が漠然と認識する「日本の領域」の中心にあったからだろう。もちろん「日本の領域」とはいっても、それは当時の人々の認識するものではあるのだが、それが過去からずっとそうだったと考えたとしても不自然なことではない。そういうことは今でもよくあることだ。そしてヤマトが「日本の中心」と決定することで、漠然と認識していたものが確実なものとして固定化していったのだろう。


これが俺の考え。


ちなみに、『聖徳太子と日本人』(風媒社)で大山誠一氏は、

ヤマト王権は、纒向に成立した。そこは日本列島の東西の接点にあたる。重要なことはこのことである。決して大和盆地の勢力が王権を成立させたのではない。東日本の厚い支持を背景に、西日本諸勢力を糾合したのである。逆に、西日本の高度な文化を背景に東日本の支持を取り付けたとも言える。その東と西の間には、大きな壁がある。その壁を利用して、東西のバランスの上に、巨大な権力を構築したのである。これが、天皇制の原点である。

と主張している。大山氏の「聖徳太子はいなかった論」にはちっとも賛同できないけれど、この部分は参考になる。



ただし、これで終わりではない。まだ重要な問題が残っている。ヤマト王権の主権者たる「大王」はどこから来たのかということだ。


(もう少しつづく)