『夕凪の街 桜の国』の感想

映画『夕凪の街 桜の国』をみたので、その感想を書いておこう。
原作はこうの史代の名作マンガ『夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)*1だが、ある意味では実験マンガとすらいえるほどにマンガ技法の粋を極めたこの作品*2をどうやって映画化しているのか気になっていたところ、行きつけのサイトで映画の感想文がアップされていたのを見かけて踏ん切りがついた。
原作で特に印象的だったのは、『夕凪の街』の途中に出てくるエッシャー的騙し絵*3と、同じく『夕凪の国』の終盤の空白だったのだが、さてこれは映画ではどう処理されているのかと思えば、全然出てこなかった。その点は少しがっかりした。
とはいえ、こうの史代の絵からそのまま抜け出してきたかのような麻生久美子をはじめとするキャストには全く違和感がなかったし、文部科学省のお墨付きを貰いながらちゃんとラブホテルのシーンも出てくるので、全体としてはかなり満足できた。強いて不満を挙げるとすれば、1時間58分という長丁場で原作の密度が薄まってしまった感があることくらいか。1時間半くらいの長さのほうがよかったような気がする。
あと、これは全然評価とは関係ないのだが、『桜の国』で旭が恋ヶ窪駅で360円のきっぷを買って電車に乗り、行った先が東京駅の高速バス乗り場というのは変だと思った。恋ヶ窪駅から西武新宿駅まで360円なので、たぶん中央線か山手線あるいは丸ノ内線に乗り換えたということなのだろうが……。
ところで、原作マンガは以前コーヒーをこぼしてぐしゃぐしゃにしてしまったので捨ててしまい、今は手許にはない。もう一度買って再読してみたい気分になった。ついでに、こうの史代の他のマンガ*4も読んでみたい。さらにこうの史代が芝山倉平の絵を描いているという『日本の鉄道こぼれ話』も読んでみたいと思っている。

*1:どうでもいいことだが、このタイトルを書くときはいつも「夕凪の街」と「桜の国」の間をどうするのか迷う。Amazonの表記では間にスペースを空けずに続けて書いているが、映画『夕凪の街 桜の国』OFFICIAL SITE夕凪の街 桜の国 - Wikipediaでは間に半角スペースを入れているので、ここではそれに従うことにした。

*2:こことかこことかここなどを参照。

*3:草むらから手が生えているように見える。

*4:夕凪の街 桜の国』のほかには『長い道 (Action comics)』しか読んだことがない。

「ライトノベルの定義」の目的

>「〜の定義」を問題にするのなら、まず何の目的のための定義なのかをはっきりさせた方がよいと思う。定義した後で何をどうしたいのか、その目的によって定義の仕方も変わってくるし、それで一応不都合はないだろうと思う。

 そもそも「何のために定義するのか」ってのが全然見えてこないわけですよ。「○○はライトノベルか否か」なんて、そんなに重要な問題なのか。自分なんかは、ライトノベルの定義について考えるときは常に「ライトノベルという現象を、時代の中に正しく位置づける」ことを意識しながら考えているつもりなのだけど。

再掲*1

これは前にも言ったことがあると思うのだが、定義論争が紛糾する理由の一端は「定義」が定義されていないことにある。こんな初歩的なところで足下がぐらついていては、ライトノベルの定義などできるはずがない(なお、誤解のないように言い添えておくと、「ライトノベルの定義について実りある議論を行うために、『定義』を定義せよ」と主張しているわけではない)。

ついでにもう一つ、いや、「ついで」というよりむしろこっちのほうが重要だと思うのだが、定義によって物事の理解が深まることは稀で、たいていの場合は定義など不要だ(物事について理解を深めるのとは別の理由で定義が必要になることはある。たとえば統計調査を行うときなど)と強く主張しておきたい。

*1:原文にあった脚註は丸括弧でくくって本文の中に取り入れている。

西宮南北バスで行く秋期限定谷川流作品舞台縦断OFF

このオフ会(?)に人が集まりすぎて、採算のとれないバス路線が本格運行してしまったらどうするのだろう、という若干の不安もあるのだが、そんなことを心配しても仕方がないので、皆さんふるって参加しましょう。
関西の人は言うに及ばず、関東の人でも新幹線の始発に乗ればたぶん10時には西宮北口に着くから大丈夫!

子供の発見/子どもの発見

Something Orange -  『ハリー・ポッター』中心史観の恐怖。*1でえらく批判されていたのでそそられて「1900年から2007年までの名作を紹介! ファンタジー今昔ものがたり」を見てみた。ファンタジーも児童文学もあまり詳しくないので、どの程度の偏りがあるのかはよくわからなかったが、それとは別に気になったのが、右横*2の記事だ。3つのページにそれぞれ「19世紀のファンタジー」「20世紀のファンタジー」「21世紀のファンタジー」という見出しの記事があるのだが、最初のページの「19世紀のファンタジー」の小見出しに「近代社会のひとつの特徴とも言うべき、「子どもの発見」」という小見出しがあり、次のように書かれている。

18世紀末、イギリス・ローマン派の詩人たちは、子どもの中にこそ人間が人間たる資質の存在することに気づく。彼らは、合理主義をすべてに優先させた近代市民社会の非人間性を認識する課程で、大人たちが失ってしまった貴重なもの(想像力や感受性)を、失わずに持っている子どもの存在に注目した。生命にあふれた子どもの姿、自由で生き生きしたその行動が、大人にとって持つ意味を発見したのだ。

あれ? 近代における「子供の発見」ってそういう意味だったっけ?

1番目にヒットしたページと2番目のページから引用してみよう。

ヨーロッパの意識の中に子供が出現したのは16世紀〜17世紀のころでありそれまでは子供は存在しなかった。なぜなら6歳までの幼児と7歳以降の大人という境目があっただけでどちらも現在のような子供の捉え方とはまったく違うものだったからである。今日において子供は普通、親にとってかわいい存在であり、また社会にも子供用の製品が溢れかえっている。しかし子供が存在しなかった時代には、もちろん子供用の衣服もおもちゃもなく赤ちゃんは包帯でぐるぐる巻きにされていたという。つまり社会に存在していたのは力の弱い大人と力の強い大人だけだったのである。

「子供の発見」という事をご存知でしょうか? これはある人の著書なのですが,「子供」という存在が発見されたのはそう古くはないのです. つい最近まで「子供」は存在していませんでした. そこに居たのは「半人前の大人」だったのです.

「ある人の著書」というのが具体的に誰の何という本を指しているのかは不明だが、すぐに思い浮かぶのは『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』だ。こんな内容の本。
いや、もしかすると「子供の発見」と「子どもの発見」は別のことを言っているのかもしれない。
で、再度検索してみた。

教育関係の話題が多いようだ。なるほど、教育関係者の間では「子ども」のほうが標準になっているということか。
結局、イギリス・ローマン派の詩人による「子どもの発見」の詳細はわからなかった。尻切れトンボでごめんなさい。

追記

 むかむかした。萩(はぎ)じゃなくて荻(おぎ)だってば!!!

あっ、こりゃひどい。

*1:凄い見出しだ!

*2:閲覧環境によっては異なるかもしれない。

文化・芸術と権力

NaokiTakahashiの日記 - 適当に聞き流してほしいんだけど(とコメント欄での高橋氏の解答)を読んで、思い出した例2件。

どこかにうまくまとまった解説記事があれば参照して、この問題についてちょっと考えてみることにしたい。今は時間がないので、とりあえずメモ。

信玄餅が食べたい

小海線に世界初*1のハイブリッド列車が導入されたので、夏のある日に乗りに行った。山梨県はいま大河ドラマとのタイアップでいろいろな行事や催し物があって、観光客も多い。うんざりするほど人がいた。
土産物屋に入ると、どこにでも桔梗信玄餅があって、見た目には非常においしそうなのだが、元来へそ曲がりなので信玄餅のほうを買おうと思うと、これが全然見あたらない。通信販売だと簡単に買えるようだが、山梨に行った土産を通信販売ですませるというのも変なので、結局買わずじまいだ。
まあ、生きていれば一度くらいは信玄餅を食べる機会もあるだろう。

*1:本当にそうなのかは知らないが、ポスターにはそう書いてあった。

まだ生きている!

ふだん、ウェブを巡回するときにはスクリプトを切っているので、はてなスターも見えないのだが、今日、たまたまスクリプト可の状態で日記を開いてみるとここモノグラフの中の人、草三井氏がはてなスターをつけていることに気が付いた。
「モノグラフ」といっても、最近の若い人は知らないかもしれないが、2年くらい前までは、ライトノベル系ニュースの大手サイトだった。本家の更新は去年1月を最後に途絶え、モノグラフの自由帳のほうも、もう1年以上更新していない。その後もイベントで姿を見かけた人は何人かいるようだが、今年に入ってからは「カナダに留学したらしい」とか「電撃でデビューが決まったそうだ」とか「あたしの友達の友達のお姉さんが聞いた話なんだけどさぁ」とか「廃業して髷を落としたんだろう」とか、妙な怪情報が聞こえてくるだけで、いったいどこで何をやっているのか、さっぱりわからない状態が続いている。
もしかしたら、もはやこの世の人ではないのかしれないと思ったこともあったが、はてなスターのおかげで、草三井氏がまだ生きていて、ウェブにアクセスしていること、そしてライトノベルへの関心が多少とも残っていることを知った。いつの日か、きっと再び「モノグラフ」を再興してくれることを期待しよう。