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2017-08-27 宝塚雪組 ミュージカル・ロマン『琥珀色の雨にぬれて』

宝塚雪組 ミュージカル・ロマン『琥珀色の雨にぬれて』


宝塚雪組 ミュージカルロマン『琥珀色の雨にぬれて』

なにをおいても駆けつけなければならない望海さんと真彩ちゃんのお披露目公演!
千回おめでとうございますといっても足りないくらいよ@ジュリエット、という思いを胸に劇場に向かいました。

柴田先生作の再演を繰り返されている名作。設定のクラシカルな雰囲気が望海さんには合うだろうなとは思っていたものの、あらすじを読んだ段階では物語自体にはそこまで惹かれず。やや不安を抱きながらの観劇だったのですが、そんな後ろ向きさはとんでもない杞憂でした。終演後はたくさんのものを受け取ったせいか、心がじっとり水分を含んだように重たくたわんでいて、帰ってきてからいまもまだその水分の正体について考えています。
ストーリーを説明されただけでわくわくする、実際観劇しても即座に楽しい!と思う作品もあれば、説明されただけではピンとこない、あるいは苦手と思える作品であったとしても、具体的にどういう表現方法で描かれているか、生で観て確かめて初めて話の奥行きにぐっと胸を掴まれることもあるのだと改めて気づいた思いです。だから舞台観劇が好き、と一言でいえばそういうことなのだろうけど。メインの4人で歌い継ぐ「セ・ラ・ヴィ」が、歌詞だけ読むと平易を通り越して無骨なほど直截的なのに、この物語中に挿入された瞬間、たっぷりと情感をたたえた名曲としか思えなくなったのと同じように。

主人公のクロードがキャラクタとして、男性像として得意なタイプかと問われたら、今までの傾向としては苦手としか言いようがなく、でも好きな役者さんが演じている、というじっくり考えるための特別なフックがひとつあることに加え、登場人物への好き嫌いと物語が与える印象を分けて考えようということを、最近どんな物語を読んだり観たりした時でも考えるようになったのが、この作品を好きと感じられた理由のひとつだと思う。友達に勧められて『テヘランロリータを読む』を読んだのがきっかけです。やや脱線。

幕が上がる前にミラーボールの光の粒が劇場内をきらきらと照らして、そうして幕が上がったら白基調の衣装の娘役と黒燕尾の男役が厳かにタンゴを踊りだす、そういう美しい光景をお芝居の導入として目の当たりにできるのは宝塚の世界観だけかもと思った。2階から見下ろした舞台上で、円を描くように踊る人たちの白と黒の衣装の対比の様の美しさ。
冒頭でクロードの回顧録として語られること自体が、物語に既にぼんやりとした影を落としていたり、描かれない場面の取捨選択の意図や空白の場面自体に想像を巡らせたり。登場人物の個々の生活という基盤がまずあって「恋」は成り立っている筈だけれど、そうした個々の家庭や人間関係を踏みつけにしても、さみしさやみじめさやつらさ込みで最優先に美しく描かれるものが「恋」の物語って、この現代においてリアル男性と女性で美しく演じるにはかなり難しいものかもと思う。普段から別に恋愛ものジャンルに目がないわけじゃない、むしろ苦手とする性質なのに、なぜ宝塚を好きなんだろうとふと我にかえることもあるけれど、その謎について楽しく考え続けるかぎり、たぶん宝塚に足を運び続けてしまう。

物語全体を捉える言葉を探しあぐねているので、ひとまず役について個別に言及します。


クロードについて
駄々っ子の坊や。世間知らずのお坊ちゃん。純粋な人。ぶきっちょさん。(ところどころ敬語になるの萌え
愛と革命の詩のパンジュ侯爵で望海さん落ちした友人と、望海さんはひと癖ある黒い役が一番はまるみたいに言われてるけど、いかにもまんなかの人然とした白い役も似合う人だよね、ニンよね、と常々話していたことが現実になってうれしい。白くて、白さゆえに周りの人をあたためたり和まさせたり傷つけたりする人。傷つけたことで自分も静かに傷ついたり、でも本当の意味では汚れることがない人。みんなに愛され、愛し返すことが自然にできる人。でも愛するというのは人をわけ隔てることで(@愛すべき娘たち)。誰かを選ぶことが誰かを愛さないと決めることに繋がる、そのことを「気がつくと誰もいなくて 君だけが君ひとりだけがそばにいた」と歌う彼は考えたことはあったかな、とぐるぐる考える。

冒頭の散歩の場面では、シャロンとの初めての出会いでうきうきふわふわしているとはいえ、違う星というのは君たちとの話で僕と彼女は同じ星の住人かも、心のありかは同じだ、みたいに口走ってしまう軽率さを見せるけど、それは手の内をあっさりさらしてしまう裏表のなさ、無邪気さも同時に指し示す。恋敵のはずのルイが、そのクロードが見せる明るさゆえに好ましさをおぼえているという特異な状況、雰囲気が伝わるから、観ているこちら側も一緒にクロードという男にじわじわと惹かれていく。思ったままを口にするひまわりのような男か君は。
婚約者がいる身にも関わらずふらふらと別の想い人を見つけてしまう時点で、おいおいその頭の切り替えはいったい、と肩を掴んで揺すぶりたくなるのに、シャロンのためにタンゴを学ぶ手段を得ようとして一喜一憂する姿、タンゴを語る熱っぽい口調の滑稽さかわいさがすでに憎めない。まあ自分でもまずいと思いつつ惹かれてしまうことはあるよね…フランソワーズは兄の手前断れなかったのかもね、とちょっと心を寄せてしまう。ルイとの男同士の会話ではシャロンについて気軽に話していても、いざ本人の前に立つと憧憬のまなざしを向けるにとどまってしまう、純朴さひたむきさが持ち味のクロードくん。クラブで絡まれているところを助けに入るときも「友達」という言い方で囲うのが、前後の対応も相まって育ちの良さを感じさせて(「嫌がっている相手と飲んでもつまらないだろ」という酔客にかける言葉のまっとうさにときめく…)、その立ち振る舞いがシャロンのような世界で生きている人には余計にたまらなかったのだと思った。あの場で恋人だなんて言葉を口にしたら余計に事態が悪化するというのも、そもそも顔を合わせるのはまだ二回目というのもあるにはしても、いちいちやり方がスマートだ。やり方がスマートな人は親の遺産を好きな女追っかけるのに使い込んだりしないという説もあるけれど、そこは汗水垂らしてお金を稼いだことのない公爵様だから気前がよいというのも…。あすこでルイの切符の奢られ方が変に卑屈にならずあっけらかんとしているから救われるけど、生活に困窮したことのない人の精神の余裕みたいなものは、クロードというひとの魅力のひとつで、ルイとの対比としてそこを突き詰めて考えると少し残酷だなと思った。それはシャロンとの対比にも結び付くから。
とにかく、そういう家柄に生まれて教育を受けたからこそスマートな振る舞いが息をするようにできる人、自分を抑えて生きてきたのではなく、抑える自分というものがそもそもほぼ存在しなかった、やりたいようにやったらそれが自分の周囲も望む道だった人の前に、思うがままを貫けば大事にしていた身近な人を不幸にしてしまう、そんな選択肢が出現してしまうということ。その奔流に身を任せるというのが「自分の全てを賭けたのだ」に繋がるのかなと、ふと思いました。全てを賭ける、と覚悟して行動を選んだのか、選んだ後からすべてを賭けていたことに気づいたのか。どちらとしても、皆に祝福される道しか選んでこなかった男が、そうではない裏道の恋に足を踏み入れてしまうことで陰りを身にまとうというエロス。
シャロンの言葉や仕草をひとつもとりこぼしたくないというように横顔を食い入るように見つめていたくせに、彼女に琥珀の指輪を見せてもらいながら顔が接近したことに気づいても、強引にいけずに身を不自然に引いてしまう、一押しできるムードのなかでがっつかないクロードの品の良さ。その前段があるからこそ、思いを遂げた後、オリエント急行を待つ駅での「…抱きたい」に、一度女に許されて抑制が効かなくなった男の欲が、直視をためらうほどぶわっと溢れて見えるのだと思う。

そもそも「崇高なまでの美しさ」だの「純粋だ」だの、クロードはシャロンの本質を本当に見抜けていたのか、見たいシャロンしか見ていなかったのではと思わせるなかで、青列車でルイがジョルジュから無理やりシャロンを「借り」ようとしてつれなくされたのを嬉しそうな顔で見ているクロードが印象的だった。恋敵が自分を出し抜けなかったということ以上に、彼女が自分の思うままに振る舞うのをただ見ているのが好き、という初めてルイと共同戦線を結んだ時の言葉が生きる。
また、オリエント急行を待つ駅で、フランソワーズが来てしまった後のシャロンの畳みかけるようなクロードを切り捨てる言葉や振る舞い、なぜ自分を苦しめるようなことをするんだ、と必死に食らいつくクロードは、シャロンをホテルのロビーで見捨てたときの彼よりも、彼女のことを理解しようとしているように見える。
1年前のホテルのロビーで、フランソワーズに煽られて口を突いて出たシャロンの言葉は、世慣れてない坊やのクロードには一世一代の愛の告白を汚すような返答にしか思えなかった。そういう愛を試すようなやり方をする人と彼は今まで対峙してこなかった。でもその「経験のなさ」(恋愛の、ではなく)が彼という人を形作っている。その擦れなさゆえんに彼は愛されている。そう思っていたけれど、1年経った彼は少し変わったのか。
もしかしなくてもシャロンが消えていた1年間、あのホテルのロビーで交わした言葉の意味をずっと考えていて、自分のやり方を悔いていたのかもしれない。あるいは単に彼女の愛を勝ち得たと確信した直後の男の自信によるものかもしれないけれど。

シャロンに歩み寄った一方、物語も終わりに近づいたミッシェルとのやりとりでの「無理なのか」に、彼は自分のとった行動が周りを不幸にする、それによって与えられるかもしれない制裁についてまでそもそも深くは考えていなかったのだろうなとわかってしまって、無自覚な傲慢さに驚く。でもその計算づくでなさ、心の思うままに行動してしまうところがミッシェルに「君はぶきっちょだから」と言われる所以で、妹を泣かされたミッシェルが頭の固い兄貴として振る舞えない理由でもあるのだと思う。
真ん中の人しか許されない所業を次々と繰り返しながら、それでもその人間性ゆえに見放されない、愛されてしまう困った人。


シャロンについて
大人っぽい役も似合う、歌だけでなく芝居もできる娘役さん、という認識はもともとあったけれど、もっと上の学年の娘役さんがはまる役では?といわれていたシャロンを自分のものにしている真彩ちゃんの芝居に衝撃をうけた。所作はもちろん、柴田先生の書かれた数々の台詞の美しさを堪能できたのは、大人の女性として深みとやわらかさと涼やかさを併せ持つ彼女の声音あってこそ。冒頭の森の場面で白い衣装を身にまとって舞台を駆けながら歌う姿の軽やかさ。少女のような振る舞いから一転、突然現れた男へ不思議そうに首をかしげながらの「おはよう」の落ち着きぶりが、声をかけられたことにどぎまぎしているクロードとの対比として、彼女の空間掌握具合を露わにする。取り巻きとして一緒にいれば素敵なことが起きそうな気がする、彼女にあの声で紹介してもらいたい、そんな気持ちを自然と持たせる真彩ちゃんシャロン
列車の展望台の場面の、心はいままさに語られているマジョレ湖に立って琥珀色の雨を見ているような、ここにいるけれどいない、遠くを物憂げに見るような顔つきが印象的だった。その話を彼女はどこで誰に聞いたのか、私がクロードなら胸が騒ぐなと思う。「これ、琥珀よ」と指輪を雨にかざすような手の伸ばし方にも。そこで縮まった二人の距離と安易にそれをチャンスと見なさないクロードの動揺を見て、いままでシャロンがそばにいたのは隙あらばキスをねだるような輩が多かったのかもなと思った。そうではないクロードだからこそ、オリエント急行に乗る約束にシャロンは抱き付いて喜びを現したのかなと。「うれしい」の「い」を言い切らない「うれし…」のたたえる情感と、思いがけない喜びが腕の中に飛び込んできたクロードの呆然とした横顔が記憶に刻まれている。

クロードのことを「駄々っ子の坊や」といなせるだけの経験豊富さ、自分が決めたように好きなようにふるまって、自由に生きている様子も彼女の大きな魅力でもあるけれど、ホテルロビーでのフランソワーズとのやりとり、クロードに見捨てられて呆然としている姿をみてしまうと、彼女という人のかわいさをあなたは本当に知っていたの?ルイの方がよほどふさわしくない?とクロードに問いかけたくなる。フランソワーズの捨て身のわかりやすさとは対照的に、シャロンの身の投げ出し方はストレートには表れていない。向けた刃で相手を傷つけるようで、同時に自分も傷ついている。シャロンという人をクロードがもっとよくわかっていたら、フランソワーズへの当てつけのように放った言葉の真意が読み取れていたのかとも思うけど、シャロンも同じく、クロードという人がまっすぐすぎるがゆえに彼女の屈折したやり方を受け止めきれない、というところまで見抜けなかったともいえる。どちらにせよ、シャロンの性格上あの場で黙っていることはできず、そしてフランソワーズのようななりふり構わなさはシャロン美学には反していた。オリエント急行に乗る駅でのやりとり、フランソワーズが来てからの観念したようなシャロンの潔い振る舞いや言葉の絶妙さ。自分の哀れさを主張せず、こうなることを予期していたように潔い。けれどそうした姿勢を崩さない彼女であってもこんな状況が堪えていないはずはない、というこちらに見えない心の内を想像させる。彼女の見事すぎてそうと見抜かせない虚勢が、自然と痛ましく思えてしまう。矜持ゆえにすっと伸ばした背筋の彼女はたぶんどんな他者からの慰めも求めていないし、言葉をかけたらぴしゃりと跳ね返されそうだけれど。シャロンもまた「ぶきっちょ」な人だと思う。この人は、常に一番欲しいものは手に入らないんじゃないかなと思わせるさみしさがある。寄りかかれるのは常に彼女に本気で向き合ってくれない人。そう考えるとルイの寄り添い方も、シャロンにとっては傷をざりざりと舐められるようで堪らなかったのかも。安易な判官びいきかもしれないけれど、そういうキャラクタに弱いので、シャロンのこともこの作品内では一番気にかかる存在。
全然シチュエーションは違うのだけど、幕末太陽傳での真彩ちゃんのおひさは「このままじゃあたし、お女郎に出されてしまうんです」「こんなことになるなんて、思いもよらなかった」と咲ちゃん演じる徳に告げる言葉に、同情をそそって助けてほしいとすがるようなあわれっぽさがいっさいなかった。そんな星のめぐり自体に怒っているような口調で、気丈さが逆にいじらしさを感じさせてならなかったな、と今回の台詞の感情の込め方に通じるようななにかを思い出した。
また、時代的にも若尾文子さんや高峰秀子さんといった往年の名女優さんが若かりし頃の映画に出ているときの台詞回し、声音に近いものを感じて、そこにもぐっときている。とても好き。


ルイについて
翔くんこんなにかっこいいなんて聞いてなかった…。クロードと全く異なるタイプという対比が効いているのもあるのだけど、クロードがフランソワーズを追って去った後の、わかりあえるのは同じ穴のムジナのおれたちだけ、とシャロンを後ろから抱き込んで手首のあたりをやさしく握るようにしながら揺らす様子が、彼女のキッとした気丈な顔つきもあって駄々っ子を慰めているようで、その余裕がたまらなかった。シャロンと別れて1人で帰ってきた場面のグレーのスーツの似合いっぷり。「おいで」「おれがドジでどうしようもなかっただけ」「またはないのさ」と連なる引き際鮮やかな物分かりのよい男の格好良さ。ひいきが誰もいない状態で観たら多分ルイ役者に落ちている。このアウトローさが美味しい役だし、翔くんはルイを格好良く演じてその美味しさをしっかりものにしていると思った。


エヴァについて
「金と恩義」しかないし、続き部屋には鍵がかけてありそうなボーモン伯爵シャロンの間柄を、エヴァが盛りに盛って「取り返しのつかない」ことになると「伝言」したのはクロードをけしかけたかったんだろう。彼女がいなければふたりはあんなことにはならなかった、というある意味立役者で共犯者。ああいうマダムの使う「惚れたね」って語尾がたまらない。黒蜥蜴の緑川夫人みたいな。彼女と花商人子爵距離感や気脈の通じ方も好み。あゆみさんのああいったお役を初めて見たけれど、色気の香りかげんが絶妙で素敵でした。「今週のあなたは最悪!」ジゴロたちに指南してるところの台詞の声もすきだけれど、真骨頂はダンスでしたよねと思い出す、ルイと踊り出した途端に発揮されるのびのびとした躍動感にも、腕の長いダンサーさんの身体の使い方って観ていて気持ちいいなあと楽しかった。


また後程追記できれば。

2017-02-26 『星逢一夜』再演

『星逢一夜』再演




劇場で一回、ライブビューイングで1回観劇。

宝塚作品に抱いていた認識を揺さぶられた初演も、登場人物らのやさしさが身にしみるからこそよけいに苦しい再演も、それぞれに心に残る作品。

宝塚で初演再演と観るのは初めて。しかもあの星逢一夜。同じ演目を同じキャスティングで上演しても、同じ作品にならないのは知っていたけど、今回は脚本に手が入ったというのもあって、同じ内容を時間を経て再演した作品というのとはまるっきり異なった。紀之介は後半はもう別人といえるくらい変わって、そんな紀之介に応じて源太も変わった印象。紀之介はむしろ初演の方が、江戸務めが案外性に合っていたのか、あるいは苦労の連続で心を閉ざしてしまったのか、大人になるっていつまでも星ばかり眺めて過ごせないってことかもな、という様変わりぶりだったので、今回の方が「変わっていない」。幼少期からの人格に連続性が見える。
そのせいで、江戸務めをしながら里の民にも心を置いてきた彼の立場は、いっそうつらいものとなる。

星逢祭りでの邂逅場面。
源太と「晴興さま」の再開、前回はもっと身分の差におどおどしていた印象。今回はもっと純粋に喜んでいる様子が伝わるはくはく具合。高いところに置かれて距離をおぼえる紀之介のさみしさはそこまで変わらない?
そして源太の「泉はおまえにやる」のカットですっきりしたなにか。そもそも普段は私は「泉をもらってやってくれ」という言葉じりにもねちねち物言いするタイプなのだけど、時代的にも源太の語彙的にもそういう言い方をするほかないし、なにより言葉や態度から伝わるのは彼の二人を思う気持ちなので、もう黙るしかない。黙るしかないといいつつ、「やる」は自分の手の内にあるものに使うけど、この場合の「もらう」は現在の所有権が自分にあると思って言っているわけじゃないから使っているんだろうなあという印象。こちら側の言葉遊びの範疇かな。
上記台詞カットのためか、時間をあけて観たせいかわからないけど「あんたを幸せにする!」と叫ぶ泉の激しさが「相変わらずの負けず嫌い」も作用しているのだとしたら、彼女にとってはつらいことだなと思った。10年間、源太との間に3人の子をなした泉は、紀之介を心のどこに置いていたのか。

晴興が髷を結って登場する最初、郡上藩騒動の沙汰を吉宗公の言葉として皆に言い渡す宮中の場面。
「この度の騒動」についての皆への報告役が、晴興からにわにわさん演じる久世に変わっているところ。前回厳しい処分を言い渡していた側と、その人に意見をしていた側があべこべになっている。政策に則って裁きを下したのはあくまで吉宗公で、晴興は年貢の納め方の変更云々ついてアイディアを出しただけ。彼は自分の口出しがここまで民を厳しく取り締まる政策に繋がるとは、想像していなかったんだろうなとわかる。なすすべもない様に彼の苦しさが伝わり、施政者としての吉宗公の厳しさにひりひりとする。

貴姫が晴興と吉宗公の元にやってくる場面。
「その顔」と晴興の浮かべる表情について指摘をするのが、貴姫から吉宗公に変わっている。表情の裏に隠している感情も「痛み」から「迷い」へ変更。施政者として情を断ち切る者の「痛み」と、施政者としては情が濃すぎる者の、自分がやっていることに決心がつかない「迷い」か。
貴姫を「みだりに立ち入らぬように」ととがめるのも晴興から吉宗公へ変更。ちっとも家に帰ってこない夫婦関係が初演より緩和されているのか、単に晴興の立場が弱まっているのはわからない。でも再演の晴興の雰囲気だと、泉を心に残していても一応結婚までした相手を無下にすることはなさそう。

ごちそうさん
「湯じゃのう」のタイミングが前回は両脚入れ終わってからで、桶から出した足を土間に置いていた気がするよ!?という台詞と動作のタイミングのずれと足を置く場所(草履の上)が変更に?閑話休題気づいたところ。ごちそうさん、の深さがさらに増している気がするよおっとぅ……
ちぎみゆの陽と陰だからこその割れ鍋と綴じ蓋、互いが守りつつ守られているようなコンビ感はもちろん大好きだけど、みゆちゃんとのぞみさんのしっとり、じっとりとした、二人が芝居上で絡んだときのなまなましさの同質性、みたいなものもとても好き。星逢とコルドバで観られたのは幸せだった。

晴興が源太に一揆をやめさせるよう言う場面。
台詞の細かい変更ももちろん、声音や表情から伝わる二人を取り巻く空気が違う。前回ほどに袂をわかった、敵対した者同士、という雰囲気がない印象。一揆の場面もそうだけど、源太の晴興へかける言葉は、怒りにまかせているというより、優しく強い突き放しにも聞こえる。年貢について自分たちの要求がのめないのなら、情ゆえの迷いを見せるな、と彼の苦しい立場をわかっているようにすら聞こえてくる。源太はどこまで理解している人だったんだろうか。強いからやさしくなれる人。

一揆後の吉宗公と晴興のやりとりの場面。
「源太一人の命と引き替えに」
源ちゃんが村向こうにまでその名を響かすいい男なのは知ってるけど、流石にあの時代の九州農民一人の名は都まで届いてないと思うので「首謀者一人」とかにした方が吉宗公には伝わるのでは。でもお客さんが耳にしたときの印象や、物語の、晴興のなかでの彼という人間の重さの方をあえて久美子先生はとったのかな、とも思う。
「年貢は特別に今年は半分」
結構な温情だなと思ったけど、源太や紀之介の思いが少しは報われたことを、里のみんなに伝える方法はこれしかないのか。元々「一揆など成功した試しはない」という認識も史実的には微妙なところなので、むしろこっちのほうがリアル? やっぱり手厚すぎる裁きだとしたら、作劇のために曲げた箇所が、初演はより過酷な設定にするため、再演では宝塚的やおとぎ話にまとめるために作用しているのかも。

泉と晴興の最後の櫓の場面
「私が愛したのはおまえだけだ」
「泉はなぜこんなにあなたが好きなのでしょう」
まさかの初見は気づいていなくて、ライブビューイングで認識した箇所。
愛した好きだと口にしなくても十二分に伝わる思いのやりとり。
ただ、利己的な人たちの、自分と相手だけを燃やし尽くすような関係性も物語としては好きなので、初演のその要素が変わってしまったのはそれはそれでさびしい気も。でも泉の「あなたを閉じ込めたりせん」と言いながら過ぎる執着で蛇に変化してもおかしくない、彼女が発する炎には好ましいと思っていたけど、紀之介の言葉は本心ではあっても真摯さというよりむしろ男としてのダメさが伝わる……という印象だったので、ばっさりなくなってよかったのかも。愛情の対象を言葉で限定しないことで、ある意味彼の人生に貴姫という妻があったことを否定していない、フォローにも繋がると考えるのは広げすぎか。
むしろ言葉には収めきれないほど大きな気持ちに変わってしまった二人の罪深さのあらわれかも知れないし、男女の愛を超えたものへ変化していった清らかさかもしれない。でも、愛している、と口にしない方が泉への対応としては誠実に見えると思った。言葉にすると「けじめ」「甲斐性」みたいな文字がでんと見える。今回の方がシチュエーションに流されていない、と感じる。「言わずともよい」の重みが違う。という個人の意見として。

とりこぼしも多々あると知りつつ、そんな変更点を踏まえながら見ると、初演と変わっていない箇所の言動も、受け取る意味合いが変わってくる。一揆を起こすかつての仲間を見下ろしながらの「これが私の生きる道か」も、初演は仕事人間にここまで徹しておいてなにを今更、と思わせるところ、再演は「迷い」を抱えていた晴興ならばやむなし、と心を寄せてしまう。
紀之介は「晴興様」になっても「山の案山子」の心を持ち続けている。初演でも、きっと彼の心の中に小さい子どもは棲み続けていたと思うけど、再演では緑深い蛍村や、その里で一緒に燕星を見た子どもたちのことを大切に思い続けている紀之介のことがより観客に伝わり易くなっている。ように、私には感じた。性質は変わっていない人たちをも別つ「立場」や「運命」の苦しさに、物語にするすると乗って、するすると運ばれた再演だった。回数を重ねた初見のときのように、余計な思考の寄り道をしなかったという意味で。

私が今まで生きてきた範囲で理解可能な文脈に引き寄せるとこういう意味だけど、どうやらそれだけではない気持ちが彼らの間にはたゆたったりキャッチボールされているようだ、みたいなやりとりを見ながら、自分は生きられない人生を味わう醍醐味を、ありがたみをわしわしと噛み締める。
お芝居でも本でも、他人の物語を水のように欲しているし、これからもおいしい水をかぎわける五感を養いたいと思った、心に残る沢山のうちのひとつの公演。

久美子先生作品は心にいつもとても響くけど、身分差の話でない「翼ある」であっても、女性側にしんぼう役を振ることが多い先生という印象。舞台上での献身、耐え忍ぶ姿を美しく消費することに、意識的に一歩立ち止まりたいと思う。宝塚であっても。
そういう前提を踏まえると、時代設定×場所×身分という三重苦の星逢一夜も、描き方によってはただただ受け入れがたい話と捉えていたはずなのに、設定だけ並べたてては伝わらない、言葉では集約できないなにかが見るたびに心のひだに入り込んでくる。初演は好きと言い切りがたいけれど、やっぱりとても大切で、再演は好き、かも、、、と口にしてしまうし、もちろん同じく大切な作品。



真面目に物語のことを考えると上記の通りで、源ちゃんの、ちいさいころの愛らしさ〜青年になってからの村一番のいい男ぶり〜さらに歳を重ねた守るべき妻子あるどっしり構えた男ぶりの、あたまから尾っぽまで食べられます感に胸を一突きされたということも書き添えておきたい。舞台を降りた姿の女性としての美貌をいやというほど知っている身として、こんなにある種理想の男を、幻のように舞台上につくって見せてしまう罪作りさを思った。公演期間が終わった今「もう、会えん」わけだもの。宝塚って、お芝居ってすごい。

2017-02-11 陥没

陥没



演出家作品を観劇するのはキネマと恋人に続き2作目。

前回がとても幸せな観劇体験だったので、今回も、とわくわくしながら臨んだのですが、観劇後の感想としては今まで見た舞台作品内で堂々のワースト1ランクイン!でした。

お芝居をおもしろく感じるポイントなんて人それぞれです。
冒頭の、舞台装置と映像をあわせたお得意の手法には前回以上に眼を奪われて、ここからお話がどう展開するのだろうと期待をさらに膨らませました。幽霊になった瞳の父と神様2人により引き起こされるドタバタや、七つ道具のチープさ、テレビの中で一生を終えた未確認生物のミイラ(メス)のくだり等々、大小ちりばめられたモチーフに笑う瞬間もありました。

けれどそれ以上に、話のそこここにちりばめられた、笑いを引き起こす意図で描かれている登場人物たちの言動の多くに、全くもって笑えないどころか終始不快感をおぼえました。途中で飽きたとか退屈したとかいうことは全くなく、終始テンポよい観客を引きつけて離さない展開で、でもその中に席を立って帰りたくなるくらいの光景がテンポよく挟み込まれる悪夢。

つまらないという意味での時間とお金を返せ!のほうがまだマシ。今後この人の作る作品は遠慮しておこうかな、と思うような、作り手のものの見方が合わないと感じる作品だった。だからこれからするのは演出としてうまくない、という話ではないです。

初めて会った女性に、一目惚れと称してセクハラにまみれた言動を繰り返しながら執拗に迫る男のしつこさが実を結んでしまう、肯定的に描かれる世界(社会科教師肯定され大門は否定されているけれど、この両者の女性たちへの執着具合は紙一重と思う)
好きな女に偏執的な好意を寄せる男に憤慨して、正義の鉄槌ならぬ暴力を振るう男にときめく女たち(念入りに2パターンご用意)(殴って解決できたシンプルな時代の話)
厳しい物言いをして拳を振るう男に急に従順になるわがまま娘(神様も昭和)
結婚していない女に夫のことを執拗にたずねる女(を、年配女性の物忘れとして落として笑う)
スタイル抜群の女優さんに「どうせあたしはおっぱいが大きいだけの女よ」と拗ねさせる(彼女にあのボディコンシャスな制服を着せるだけで十分では?)
身体的にハンデのある弟・清春をなにかと笑いのオチに持っていくやり方
その弟をかばいながら「こいつは誰よりも心のきれいなやつなんだ!」と叫ぶ兄・是春
肯定的な偏見というレッテルを貼り付けるテンプレ価値観にまみれた台詞)

この時代設定にしなくても、こういう人たちいますよね?でも恐らく、作品内で普遍的なものとして問題提起する意図はないですよね?上司からセクハラを受ける部下を皆で笑って見ている宴会会場に紛れ込んだ気分だった。

オリンピックの需要を見込んだホテルやそこへ集う人々が語る未来への希望・不安以上に、これを描いても許容される時代を選んだら昭和設定になったのかな?とたずねたくなる旧態依然とした人々の価値観や定型の振る舞い。上記に連ねた内容も、普段は見過ごしてしまう可能性がある下世話な中吊り広告レベルから、倫理観を疑うレベルのものまで様々だったけれど、切り分けるのもばからしいくらいに多発する光景にうんざりしてしまったのでまとめて置いておく。

ポリティカル・コレクトネスを遵守した作品なんて期待してなかったけれど、どうしても前述の内容を含む芝居を描きたいというのなら、目指すのはみんな笑えるまっすぐな意味でのコメディ作品ではなく、昭和から現在にいたるまでなお続く差別や偏見にまみれた社会へのまなざしを切り取ったブラックコメディでは?

客席で聞き取った多くの爆発的な笑い声は、そうしたひねりある笑いを受け取った人たちのものにはどうやっても捉えられなかった。この光景を許容して「心あたたまる作品だった」と称している多くのお客さんにも首をひねりました。ということは、この作品は驚くべきことにまっすぐな意味での明るいコメディとして作られているみたい。こうした客層が多いことを見込んで作られたからこそ、高い評価を受けて成功している作品なんでしょうか。

自分と違う意見を認めない、なんてそんな意味合いではなくて。何を楽しむかは自由です、自由なんですけれど。

私も冒頭or巻末に「この本には差別表現が含まれてるけど当時の状況を鑑みて作者にはそのような意図がないと判断しママ掲載以下略」みたいな昭和に生まれた作家の随筆や小説をそれなりに読んではきたけれど、作中には現代においてはどうやっても通用しない価値観も多く登場するし、この立場の人に人権は与えられていなかったのだな……と暗澹たる気持ちになることも多くありました。

現代にそうした価値観を含む物語を新しく生み出すのだったら、それなりの理由が必要だと思う。作り手の差別や偏見まみれの意識を前面に押し出した問題提起作品?としてではなく、この作品が、恐らく何の配慮もなく入れ込まれた差別や偏見込みでハートフルな物語として作られ、消費されているという事実に疑問符を突きつけたい。

特に最後にあげた清春の扱いについては、いくら家族が彼を大事にしている描写があったとしても、終始違和感をおぼえた。彼が彼の事情ゆえにできないこと、他の人とのズレを客席側におもしろいでしょ?と提示して笑いを誘うのはあまりにも作り手側にセンスがない。(皆が成長する過程で培う「個性」と同様に扱っている、特異な振る舞いをする人を笑いのネタに使うのはよくあることだ、みたいな言い訳には、その「個性」を笑うってどういうことなの?「違い」を誰かを悲しませない笑いに昇華するには相当なセンスがいるけどこれ、できてなくないか?と返す)こういう状況っておもしろいけど、今の配慮が進んできた世の中だとなかなか大声出して笑うの難しいよね。でもここでは笑っていいよ、そういうふうに描いてるから。という作り手の声が聞こえてきた気がしました。

兄・是春が大門に激昂するきっかけになった清春に対する台詞も、元夫と現夫のキャラクタの対比をそこまで露悪的に強調する必要がどこにあるのか、と思わせるくらい唾棄すべき内容。惚れ薬の効果で穏やかにフェードアウトさせる温情を与えるキャラクタに言わせる台詞ではないと思う。

しんどい境遇に育った人が常に人に感謝する人間になるわけじゃない、というのを体現するような結のいやあな感じには一周回って好感をおぼえなくもなかったけれど、あの玉露の温度や修学旅行費のくだりのブラックさも、最終着地点の爽やかさを見るにあまり意図されているものではない? はとさんが少し呟いていた、皆が豊かになった時代と取り残された人たちの格差が広がるばくぜんとした不安、みたいなものは、いかにも育ちの良い、借金をチャラにした瞳と未来有望そうな是春の再婚をにおわせるラスト=富の再生産によって見事成就したのでした?くらいの深読みをしてしまったけれど、これもたぶん別に意図されてはいない。

映像と舞台装置とテンポの良さにごまかされた、驚くほどださい、センスのない作品を見てしまった。自分が何をいいと思ってなにに拒否反応を起こすか再確認できただけ、無駄ではない約3時間半だったと思いたい。

役者さんはそれぞれの役を生きていて、見事だからこそ、それが逆にもやもやを抱え込むはめにもなったりしたのだけれど、キネマに引き続き拝見した緒川たまきさんは役どころとしてもこの作品の良心のような存在で、舞台上での佇まいからしてもう、たまらないくらい素敵でした。

本作を見るきっかけになった芳雄さんは、皮肉なほどの当て書きだったなと。脚が長くてスタイルがよくてストライプのスーツが似合うとか、そういうところは問題じゃない。いつも大きい方のハンバーグをくれる、再婚相手をかわいそうな子なんだよと口にする、女にちょっとだらしない、浮気の末にバツイチった「いい人」という役のニンっぷり。惚れた女の複雑な境遇をさして、だからおれにしか彼女は理解できない守ってやれない、と自惚れてた男が、別のぽっと出の男に「彼女、危なっかしいところがあるから」と、すぐ「理解」されてて目が泳ぐ、みたいな流れはせいせいするし、わかったつもりでいる男もたいそうハマるお人だなあと思いました。皮肉です。チャリティを受け取ってもらえない井上芳雄という新たな境地。
役者に偏りすぎて脱線。

まるで見当外れの方向から言葉を投げつけて、すばらしい作品に泥を塗りたくっているのかもしれないなあと迷いながら、でも感じたことをどうにかして残しておくべく、言語化。

2016-06-19 ミュージカル『ドン・ジュアン』2、3

ミュージカル『ドン・ジュアン』3



▼プレイボーイぶり
アンダルシア美女の扱いを見ても、ジュアンはじゃじゃ馬ならしがお好きで、飼い慣らすのに少し骨がいるような気の強い美女相手じゃないと燃えない、だから手の内に入ってしおらしくなったら捨てるんだな、という流れが分かりやすすぎる。おそらく何百回と繰り返してきた光景のうちの一つなんだろうと頷ける。彼女と競るようにして向き合って踊る、力関係が拮抗しているシーンからの、捧げた薔薇の花を投げ捨てられて、気の強い女は嫌いじゃない(と思ってそうな顔)、ギア二段階目オン!の流れ。おれと踊れ、と彼女を口説くあの低音の艶は、いま思い返してもゾクゾクもの。あの調子で囁かれたら、踊るだけでは許されまい。
カリ様の表情がとても豊かなので、初めの気のない素振り、いやがる振りをしているところからの、踊りが進むにつれて彼にどんどん気持ちが傾いてついに屈服させられる、という心の動き、経過が手に取るように伝わる。ジュアンがアンダルシア美女の背後から腰を手を回して太ももを抱え上げる乱暴さと、ねっとりとした目つき手つきの緩急。

▼騎士団長さんの面倒見
騎士団長の亡霊のジュアンへの言葉や行動は、結局悪意あってのものとは思えない。彼はジュアンにしかみえていないのだからジュアンにとって印象深い姿で現れてきているだけで、本当は騎士団長の魂が形を成したものというわけではないのでは?という話を観劇後にしていた。世界は愛に溢れているのにお前だけがそこにいない、という台詞も、だから愛を知って早くこちら側へ来なさい、というふうにもとれる。ジュアンに愛を思い知らせて、愛を通じて彼の中に眠る様々な感情を目覚めさせるために天から下された存在のような。

▼どピュアかよ
そもそもジュアンさん、快楽しか追ってこなかったせいで、人の心の機微に疎すぎる。だからこそスイッチが入った途端の1人に対する気持ちの重さが、見たからにコントロールを知らない噴出量。マリアと出会った直後の、いままで下半身でしか考えてこなかったような男の「愛してるドン・ジュアンと言って欲しい」「彼女の名前をこの肌に刻もう」の夢みる乙女具合と瞳のまっすぐさ。
そして、愛が嫉妬を連れてくるなんて知らなかった!と苦しげに吐露する、マリアに婚約者がいたと告げられた直後の曲は、流石にそこは知っていると思っていたけれど?!とカマトトぶりにおののく。そしてカマトトではないことに、この人本当にいまのいままで自分本位で相手の気持ちを考えたこともなくて、来る者拒まず去る者追わずだったのか、と呆れてしまう。同時に、初めての感情にもがき苦しむ姿がまた、どれだけ初心なのかと驚くような剣幕で、真剣そのものなのが見てとれるせいで、ついついかわいいと思ってしまうし、捨てておけないやつめ、という目で見てしまう。かわいい。

ミュージカル『ドン・ジュアン』2


最初の走り書きと同じことを言い換えたり、ぐだぐだと。

ドン・ジュアンはヒーローじゃないから、相手の気持ちを慮ることが必須じゃない。彼は基本的に自分以外守るものがない。そこがある意味清々しい。真実の愛を得て、正しい人として目覚めて、信念のために死んでいく話とは少し違う。

決闘の場面も、ラファエルがジュアンを手にかけた人殺しになることや、マリアが愛する人を喪って悲しむことについても、そこまで深く考えていないように見える。後者については考えていたかもしれないけどそれも、自分の死をもって刻みつけて相手に永遠の愛を乞う、という「愛とは解き放つこと 愛とは離れてあげること」と歌っていた某ミュージカルとは対照的なむちゃくちゃダメなやり方、利己的な愛。でも彼は正義のヒーローじゃないから、お手本と掲げられるような、誰からも認められるような愛を示さなくてもいい。

「あいつらがおれたちを許さなくても、おれはあいつらを許してやるよ」というような台詞があったけれど、彼の呆れるほどの不遜さと傲慢さと同時に、自暴自棄な頃とは変わって、生きることへの余裕も感じとれる。彼は変われたんだろうか、changerと歌っていたけれど、これから変わるんだ、変わりたい、変わるのよ、という気持ちを示す曲で、結局変われないのが彼への罰だったんだろうか。
決闘なんてしなけりゃよかったのに、身体を繋げる前に、きちんと心を通わせてゆく方法についてはまったくの初心者だったジュアン。もうマリアから告げられた事実にただ驚いてぶわっと噴き出す感情にさらわれてしまったように見えた。必然性がない決闘を自ら選択して、破滅の淵に向かってしまうのは、ものものしい呪いが理由というより、ただ自分の感情をコントロールできない、愚かさゆえだなと思うのだけど、どうすればいいんだ、と騎士団長に怒鳴り散らしながらも助けを求めて懇願するようなオロオロした姿は、本当に最後までバカだね、あんたは…(イザベル声)とあわれみの言葉を投げかけたくなるような愛おしさがある。

愛おしさといえば、マリアが1幕終わりにジュアンを自分から抱きしめるのも、いままで女から奪う側だった男が初めて受け取る側にまわるという転換がありがちだけど、わかりやすくて鮮やかで好き。奪ってゆくような方法で得る愛しか知らなかった男が、女から抱きしめられることにひどく動揺する姿。

ちゃぶ台ひっくり返したいと思うような出来事があっても、実際は実現不可能なのが現実で、でも自分ができないことを、たとえば理性の綱を断ち切って欲望に身を任せるような刹那的な生き方をしている人を見るのは、安全圏にいながらにしてある種の爽快感を味わえて、楽しい。

最後の最後でもうこれしかない、という覚悟は彼にあったのか、迷いながらの消去法の選択だったのか、次回確認事項。

2016-06-18 ミュージカル『ドン・ジュアン』その1

ミュージカル『ドン・ジュアン』その1



初日観劇後の走り書き(主に主人公について)

インタビューや生田先生との対談で想像を巡らせてワクワクドキドキしていたけれど、人としてわりとどうしようもないダメさ、クズ男であると同時に、女たちが彼を求めてやまないわけがひしひしと伝わるような造形の主人公が、周囲を巻き込んで踊り狂って最後にばたりと倒れるような物語。

1幕の色っぽいシーン、ある意味自暴自棄ともとれる振る舞いにもわー!クズーと合いの手を入れつつカルロの横やりには「いまは彼の放蕩ぶりを堪能するターンなので学級委員は黙っててよ!」と思うほどに見惚れ、1幕ラストから2幕への、マリアと出会って愛を知った彼の生まれたての雛のような無垢さ、むき出しの感情表現、その素直な表情、様変わりようはもう、たまらなかった。小さい子が花を一輪差し出すような好きの伝え方を、時間を巻き戻して初めて学んでいるような。実のお母さんへの愛情の向け方をいきなり間違っている段階で、大人の階段を何段一気に駆け上がってしまったんでしょう彼は。そのとばしてしまった部分を、マリアといっしょに改めて踏みしめて降りては上って、を繰り返しているイメージ。
マリアに婚約者がいるとわかったときの反応も、いままで女たちにしてきた仕打ちを思い返せば他人のことを責められる立場ではなかろうに、そう突き放すのもかわいそうなくらい、怒りのなかに宿る悲しみの強さが伝わる表情や歌での嘆きに、かわいそう、という気持ちが湧いてしまう。相手の気持ちをいままで考えてこなかったからこそ、自分のものとして落ちてきた感情に初めて、多感な少年のように動揺するのだろうから、すべては自己中心的な生き方に因るものなのだろうに、誰も教えてくれなかったのね、とこちらが心を寄せてしまう。いい大人を気持ちの上で甘やかす。世界は愛に溢れているのにお前だけそれに気づいていないとかいわれちゃう男に。ちょろまかされているのか。
あんなふうにマリアの膝でくうくうと眠る、よけいな色に染まっていない寝顔(衣装のことではない)を見ると、このまま幸せになって欲しいと思うのと同時に、いままでの彼の行いを思い返して、イザベルが決闘直前で口にするように彼の行き着く先を見届けたい気にもなる。罪つくりな男です。

1幕の色っぽいシーン、注目すべき点は多々あれど、アンダルシア美女の生腹と言わずいたるところを撫で回すジュアンさんとふたりのダンスは、もう完全にはいってるよこれ激情のずんはな並みのアレだよーとすごく興奮しました。男役だからなのか、カリ様だからなのか、娘役さんとの色っぽいけど上品さが勝ってしまうそれとは、もう種類が別の色気のくどさ。露出度だけではないなにか。
途中で現れたエルヴィラが、裸みたいな格好の女と踊るのがそんなに楽しいの?!と激怒していたので、あっまだただのダンスシーンだったのかと我に返ります。しかし騎士団長の娘とのお楽しみシーンがわりとフワフワした振り付けだったのに、ただのダンスのアンダルシア美女とのほうが直接的だなんて、振り付けの問題とはいえ、あの宝塚の舞台上でその空気感を作り出せる2人がすごい。

細かいところで色々気になったなかのひとつとして。
ラファエルの、手が荒れちまってかわいそうだ…なんて言いつつ彫刻をやめさせようとする、相手の大事にしているものをまるで尊重しないやり方に、マリアあんたそれやめといたほうがいいよ、と観客に思わせておいて、ジュアンに彼女が仕事に打ち込む姿に見惚れさせる、彼女の好きなものを尊重させる、だからふたりは惹かれあった、という対比かと思っていたので、そのあと出来上がった(一応最後の仕事になる)彫刻をジュアンのためにためらいなく金づちで壊す彼女に結構びっくりしました。愛によって人は変わる、の方に重きが置かれている説がナンバーの趣旨として強そうなので、ラファエルモラハラ男として描かれているのではなく、単にマリアに彫刻を捨てさせるだけの魅力が足りていないだけだったのか。まあ彼女の愛を失ったとはいえ、関係ない人間に暴力振るってしまってるし、マリアどちらに転んでもだめんず確定ではある…

他に、メインテーマに肉薄した部分だと思うのだけど、お前(ジュアン)がいま失おうとしているものにあいつ(ラファエル)は動かされている(だから負傷して、殺される際でもなお、彼は戦いをやめない)、という騎士団長の亡霊の言葉に動揺するジュアンの構図が印象深かった。ラファエルのマリアへの愛といっても、前述の彼女の仕事への理解のなさをみても、それって相手のことを本当に考えてるの?それは愛なの?と個人的には首を傾げる部分が多い。でもそれが相手にとって受け入れられるものかどうかはまた別として、愛は愛と、少なくともこの作品内では認められているのかなと。エルヴィラの愛しかり、その人なりに真剣にひとりの人に向けている気持ちは、ひとつの愛の形として権利を得ている描かれ方に見えます。アガペー(気持ちだけの動きは全部こちらに入るのか)とエロス…?
しかし騎士団長、娘を娼婦にされかけたのにやってることは結構な世話焼きさんでもしかしたらただのいい人疑惑が。