昨晩

 TBSラジオ東浩紀氏が出演して、放送は聞けなかったが直後にネット上でだいたいの内容と反応を見るid:hazuma:20030920。「表現の自由」論がいつの間にか「若者が恐い」論になっていたらしい。
 コミュニケーションの取れない相手のイメージが怪物化するのはどこも同じ。ひきこもり当事者もそういう目で見られているid:mommoo:20030917。身体感覚を伴ったコミュニケーションの回路を手探りする必要を感じるのだけれど。
 「俺の性欲を刺激しないように国家がポルノを規制しろ」というのは、自分で自分が制御できない感覚に怯えている個人が持ち出すありがちなリクツに見えるけど。「失業者である俺が外国人労働者を殺さないように国家が奴らを排除しろ」みたいな。

デビューネット

 ほとんど眠れないまま朝を迎え、外出。淡路プラッツ10時到着。お昼までミーティング。お誘いしていたgojo氏id:hikilink:20030916とも会えた。
 ひきこもり支援は、「ひきこもり」か「過酷すぎる就労」かの二者択一を迫るのではなく、いわば「第三の道」を目指すべきだ、いやそういう道を「創ら」ねばならない、といった話をする。
 具体的には、僕としてはひとまず滝本竜彦氏を挙げ、彼のように「支援」などとは一切考えずに自分の道を勝手に歩んでいる人間が結果として面白いものを生み出し、それが苦しんでいる人にとって有意義になる、そういうスタイルを採る人がもっと居てもいいのではないか、と言った。いきなり「支援」などと大風呂敷を広げるのではなく、ひとまず自分のゆがみのままに突っ切ってみること。これは、僕がかつて引き受けた相談依頼のすべてを「抱え込んでしまった」ことへの反省にもよる。僕は「支援」という発想に個人的に行き詰まった。そこで参考にしたのはやはりオタクの世界だった。
 各人が自分の快楽に忠実に作品を生み出しそれを相互に消費する世界。・・・・厄介なのは、ひきこもりの人が自分の快楽を見失っているということなのだが。

親の会

 1:40〜4:00、親の会でゲスト講師。ほぼ喋り詰め。あれでよかったのかどうか。終わってから、いつものように非常に耐えにくい空虚感の発作のようなものに苦しむ。引きこもりについて内面を吐露するように喋り尽くしたことで自分の内面が全て吐き出され空洞になったような感覚。めまい。もはや自分は自分を支えるための内臓を失ってしまった。と言っても過ぎていく時間。帰るまでにはまた1時間ほども電車に乗らねばならない。フラフラしながら、ヤングジョブスポットの話をする。

帰路

 三ノ宮でジュンク堂センター街店に立ち寄る。懸案の『ファウスト』(講談社)ようやっと購入。本屋に来たのは何ヶ月ぶりだろう。せっかくなので思想・哲学・心理のコーナーなど見て回り、いつの間にか立ち読みに没頭。

  • スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』。「信じる」という営みは「-x」と「+x」の対関係を生きるようなもの、という訳者のあとがきにひとまずうなづく。「信じる」という構造がないと人は何もできないのではないか。たとえば事故で突然死んだ人間にとって、死ぬ前日の生き方はまさに「信仰」であり、虚妄にすぎない。だって翌日には死んでしまうのに、あたかも「今後もずっと生きられるような顔をして」生きていたのだから。でも、それは遡行的に「虚妄だった」と言えるわけで、今の僕が「明日死ぬかもしれない」(その可能性はゼロではない)からと言って今日何もしないという態度をとるなら、僕はいつまでたっても何もできない。「遅くともしないよりはマシ」というスローガンを愚鈍に墨守した人間がけっきょくは成果を残す。
  • 『危ない精神分析』(矢幡洋亜紀書房)。PTSD問題の聖書『心的外傷と回復』およびその著者ハーマンをボロクソに言う書。要は虚偽記憶症候群(false memory syndrome)の問題なのだが、暗澹たる気持ちになった。犯罪が「あった」証拠もなければ「なかった」証拠もないケースについて、どんな確定的なことを言えるのか。「記憶の戦争」については、僕は主にデリダラカンの対立を中心に考えていたのだけど、こういう分かりやすい日本語で分かりやすい論点を扱った本は刺激になる。
  • 今年30歳になる引きこもり当事者の女性が書いた体験手記。今日の親の会では「親は、無条件に子供の味方である唯一の存在」みたいなこと言ったが、もちろんそれはわざわざ親の会に来ているような親たち相手だからこそそう言ったまでで、現実には「子供の味方ではない親」はいくらでもいる。『日本一醜い親への手紙』なんてのも思い出す。ひきこもりについては、退屈でもていねいに辿るべき話はまだまだ多い。
  • 主に10代に取材した「不登校・自殺・ひきこもり」についての本。「30歳を過ぎたら死んでもいい」などというのは僕も10代のころ考えていたことだが、やはり「生きていてもしかたがない」感覚、「世界はますます悪くなっていく」感覚は僕の頃より多数派になってきているということか。先日の新聞では、今の新入社員は「夢をもとうとしない」「興ざめした現実主義的なことしか言わない」。同じ流れか。「真剣に考える者ほど絶望し、半径5メートル以内の現実しか見ない者だけが元気」という指摘に、東氏の「動物的」を思い出す。人間的な意識を持つ者ほど「何もする気が起きない」。
  • InterCommunication』。斎藤環氏の連載「メディアは存在しない」。「マトリックス」と「攻殻機動隊」と「ラカン」。私という「情報の束」のコピー可能性。

本屋を出て

 こんなことを考えながら歩いていた。時間経験が没頭経験の継続である必要がある。それ以外の仕方ではほとんど支えられない。とくに僕はもう35歳だ。かつての僕にとってはもう死んでもいい歳。ナルシシズムでは自分を支えられない。鏡像は文字通り見るのも嫌。
 時間経験が、「快感の糸をたどるような」作業でないと。快感体験はいい加減なことをやっていたのではもたらされない。勤勉だけが私に快感をもたらす。(性活動は、誰にとってもきわめて真剣かつ勤勉だ。)
 アルコールに依存するように言語に依存する。読み、語り、聞き、書くこと。僕の没頭の心棒だけを残して他は無視すること。そういう信仰生活のような没頭生活のみが僕に綱渡りを許すのではないか。言葉はすぐに座礁して快感の糸を見失うけれど。