「デキナイ人のリスク免除」と、「オリジナルのエリート志向」

id:Ririka さんが、「適材適所」および「上位1%」について考察している

 (アメリカは、)「適材適所」が徹底して広く行き渡っている、という意味で合理的な社会なのだろう。

 どんな種類の能力でも、高いほうの端っこの1%くらいになると、その他大勢の人間同士の能力差に比べて、極端に開きがあるとおもう。(双曲線が漸近線に近づくほどカーブが急になるように)
 そして、人は、自分自身よりも能力が上の世界については、その中での差異を見分けることはできない。
 その能力が収入に反映されるなら、「アメリカの上位1%の資産合計は、下位95%の資産合計を上回る」id:ueyamakzk:20040512#p5 ということが起きても、不思議はないっておもう。(それが「正義」なのか、とか、そういう社会のほうが住みやすいのか、という別の課題があるけれど)



僕は引きこもり及びその支援について考察してきたわけだが、ひきこもり当事者(経験者)というのは、極めつきの「デキナイ人」*1だ。(「ひきこもりにはもともと有能な人が多い」というのは僕も感じるが、現実に今の時点で社会参加できず働けないのであれば、それは空しい指摘。実際にどうすれば働けるか、を考えないと。)
「支援が必要な人」というのは「デキナイ」人たちなわけだが、そういう人たちも自意識のレベルにおいてはプライドがあったり、前向きな向上心が必要であったりする。
それは支援について考えている僕自身の問題でもある。僕は「経験者」として「自分に何ができるか」を考えているわけだが、僕自身が無能ではないのかという疑惑、それに「ひきこもり支援は本当に僕にとって魅力的な戦場なのか」という疑念もある。


僕は僕で、「自分なりのスタイルとジャンルでの上位1%(それどころかNo.1)」*2を目指す。ただし同時に、「デキナイ個々人からのリスク免除」としてのベーシック・インカムを考える。あるいは、「(脱落者*3の)再チャレンジ選択肢の多様化」について考える。
自分の問題がはっきりしてきた。

 (ひきこもり当事者としてマスコミに登場する)この青年たちは「できない私たちのことを認めて」などとも言うのである。*4

僕自身は「ひきこもりという現象において突きつけられている問いを共有してくれ」とは言ったが、「デキナイまま認めて」とは言っていない。2ちゃんの一部で言われているように「ひきこもりは社会問題」であって、それ自体として帰属を威張るような筋合いのものではない。働くことができない人間が大量に居るのであれば、それを養うために誰か他の人間が働かねばならない。自分の家が裕福であるならば個人レベルでは問題ないが(閉じこもること自体を責められるべきだとも思わない)、社会全体のレベルで見れば、(当たり前だが)「誰かが働かねばならない」。
生活保護や障害者年金などのように「審査 → 受給」という手続きの必要な支援は、「誰が受け取るのか」で血生臭いバトルが必要になる(受給されて以後にも社会の冷たい目線と戦わねばならない)。しかしベーシック・インカムなら、「成人全員に無条件の同額支給」であるから、不公平感はない。裕福になりたければ働けばいい。
個々人レベルでのリスク免除が、社会全体としてはGDP*5を押し上げるのか、そうではないのか、というのはこれから調べてみたい。


当たり前だが、ベーシック・インカムの実現可能性は今のところ未知数だし、そもそもその実現をリアルに自分の人生設計に織り込むわけにはいかない(実現するとしてもいったい何十年・何百年先になることか)。現実的には、いま目の前の状況においてどのような選択肢があり得るか、自分としてはどのような選択肢において生き延びることができるのか、を考え実行せねばならない。
「デキナイ人間として選択肢を模索する」とともに、自分自身がオブジェクト・レベルで「デキル人」を目指しその技能を実現せねばならない。



*1:「意志はあってもデキナイ」のではなく、「ヤラナイ」人は、そもそも支援の対象ではない。ただし「ヤラナイ」の根底には「デキナイ」があったりする。その点には先日も触れた

*2:ナンバーワンよりオンリーワン」という歌が流行ったが、このフレーズは経済世界での生き残り戦略としてはうなずける。しかし、無条件のロマンティックな自己肯定として語られているのだとしたら、かなり気持ち悪い。デキナイ人の空想的自己救済。(それに、いろんな人が指摘していることだが、この歌を歌っているSMAP自身は「ナンバーワン」なのだ。)

*3:言うまでもないと思うが僕も脱落者の1人だ。

*4:『脱!ひきこもり』ISBN:4939015645 p.4

*5:GDPとGNPのちがいについてはこちら

「デキル人」百態




昨日の記事が気になって、世界長者番付*2について調べてみた。

  • フォーブス誌 世界長者番付(2004年版)
    • 資産10億ドル(1100億円)以上は587人*3
    • アメリカの上位1%の資産合計は下位95%の資産合計を上回る」「ビル・ゲイツ一人(5兆1260億円)で、下からの1億1250万人分の合計以上」については、それらしいソースを見つけられませんでした*4。(「国民の総資産」とか言う場合には、動産と不動産があるし、それぞれ1秒ごとに価値が変動しているんでしょうか。うう、難しい)




*1:ついさきほど、「はてなダイアリーユーザー4万3千人」のメールが届きました。2ヶ月で1万7千人増えたわけですか・・・。

*2:日本の「高額納税者」は、相続や不動産売買で「動いたお金」(フロー)の指標にはなっても、「資産総額」(ストック)そのものではない。世界長者番付は「資産総額」のほうで、こちらのほうが「実際のお金持ち」をあらわしているはず。

*3:Wal-Martウォルマート)の Walton 一族が6〜10位を独占、資産合計は1000億ドル(11兆円)。ただしアメリカで「一族の」なんて言っても意味ないか。

*4:所得格差について調べているうちに、「ジニ係数」という言葉を見つけました。こちらの表を見ると、アメリカも他の国とそれほど違わないような・・・。

モテ と 稼ぎ

ネット上で人気を博するということは、それだけ文才があっていい仕事をしたということなのだが、そこで「上位1%」に入っても、(バナー広告などもあるけど基本的には)収入はゼロ。
「稼げる仕事」は、それだけ人の役に立っているのかもしれないが、「人の役に立つ仕事」は必ずしも「稼げる仕事」ではない。


前にも書いたが、地域通貨では、参加は簡単であっても、「魅力的な財・サービスを成立させる」ことがきわめて難しい。「魅力的な財・サービス」が成立しないときには、経済活動は完全に停滞する(通貨の存在意義自体がなくなる)。
地域通貨においても、実は待望されているのは「稼ぐ人」=「魅力的な財・サービスを提供する人」であり、それは一般の通貨市場と同じく稀有の存在だ。
「魅力的な存在になる」ことは各人に課せられた難しい仕事だが、「役に立っている人はそれに応じて収入を得られる」ように、評価と収入のメカニズムを決済制度の設計図そのものにおいて変えてしまおう、というのがPICSYだと思う(が、実は僕自身はまだシステムの数学的な構造がよく分かっていない)。


仕事において「モテる」(魅力的で価値のある仕事をする)ことと、それが経済的な報酬を生むということ。
モテる人が稼げるシステムが必要だと思うのだが。



学問的評価 と 経済的評価

id:Ririka さんは大学の研究について、「仕事の価値」と「報酬(研究費)」の関係を問題にしているが、難しいのは、「収益につながる研究」イコール「価値のある研究」なのか、ということだ。いちばん極端なのは純粋数学や人文系の研究だと思うが、工学系にさえもこの葛藤はあるのではないか。
企業利益や軍事技術に直結するような基礎研究にばかり予算が与えられ、その予算の割り振りを通じて市場動向*1や政治意思が研究方針を決定してしまうわけだが、「これでいいのか」とか。
これは最近、「国立大学の独立行政法人化」の問題として、日本で徹底的に議論された。「教育・研究の現場にも競争原理を」「いや、大学は本来的に社会の不採算部門であるべきだ」云々。市場原理が導入されてしまえば、教育・研究自体がポピュリズム大衆迎合主義)に陥って、本来的な使命を果たせないではないか、というわけか。
うーん・・・・。よくわからん。


医学・生理学でノーベル賞をとった利根川進氏は、たしか「研究費がケタ違いだから」アメリカに渡った、とどこかで語っていて、こんな文章を書いていらっしゃる。
ハーバード大学は私立*2」というのだが、たしか大学自体がNPO団体ではなかったろうか。日本ではNPO法が平成10年に施行され、昨年も改正されたが、個人や企業がNPO法人に寄付をしても税制上優遇されない(というかかえって損をする)ため、寄付金がぜんぜん集まっていない。いっぽうアメリカではNPO法人への寄付がたいへんな税免除につながるため、富裕層はこぞって寄付をするという(寄付先を検討する専門職があったりする)。日本とアメリカの大学事情の違いには、そんな話も関係しているはず。


「研究者の誰が報酬と研究費を勝ち取るのか」というのは、「大学における意思決定」という問題であって、経済や法律の事情もからんだ、とても政治的なテーマだと思う。
そもそも、「研究や教育に携わってもお金が自由にならない」となれば、優秀な人材はどんどん流出してしまうのではないでしょうか・・・・。



*1:「産学協同」というのは全共闘世代にとっては罵倒語だったはずですが、今ではむしろ積極的なスローガンですよね。

*2:ハーバードだけで「1兆5千億円の資産があり、毎年数百億円の資金が国から出ている」というのはすごいな。

「デキル人に予算を、デキナイ人に選択肢を」

 ベーシックインカム財政的に実行可能であるとしても、それは政治的には絶対に実行不可能であると指摘される。

 一国レベルでのベーシックインカムの導入は、個人所得税でまかなうにせよ、富裕税などでまかなうにせよ、金持ちの海外逃亡と貧乏移民の大量流入をまねくとされる。
 世界規模の政治的意思決定機関を欠いた現在の国家間体制では各国が互いに牽制しあってベーシックインカムの導入には至らない、という結論になる。特に政策決定者が「合理的」であればあるほど、囚人のジレンマ状況は避けられないというのだ。*1



「まったく研究成果を出さない人にも一定額の給与が保障される」ような大学があったら、そりゃみんな殺到するか。しかもその給与が、「デキル人たち」の成果の再分配だとしたら・・・・「デキル人たち」は純粋競争状態を求めて学外逃亡。――いや、社会全体の再分配と、大学内の研究費割り振りの話をごっちゃにするのは乱暴すぎるな。研究成果は、それ自体が収益を生む商品ではないし。


上で書いたけど「デキル人」=「稼ぐ人」ではないですよね。ある学問や芸術にものすごく秀でた人であっても、その成果自体が経済ベースに乗らない場合には、報酬には結びつかない。自分を「デキル人」と認めさせ、かつそこに経済的な報酬をもたらすことは、それ自体が自己演出というか、自己プロデュースというか、政治的な自己アピールだ(評価にはもちろん社会的な文脈もある)、と言ったら大げさすぎますか。(こういうのって、たとえば「マーケティング」の話になるんですか?)


「才能のある人に予算がまわり、いったんドロップアウトした人にも再チャレンジの選択肢がいくらでもある」というのは、社会を棲みやすくするために大切な条件だと思うのですが、いかがでしょうか。
「デキル人」と言ってもその評価軸は多様であるべきだし(その意味で経済的恩恵を受ける「デキル人」が多様な形で生まれるべき)、「デキナイ人」も、まったく違った新天地やジャンルでは存在意義が発生するかもしれない。



「デキル・デキナイ」教育版

学習指導要領の変更をめぐって論争が起きていますが、「公立の中学・高校に通っていたのではマトモな教育を受けられない」、つまり「お金のある人だけが優秀な教育を享受できる」という不安が広がっている*1
ツメコミ教育をなくそうとしたのは落ちこぼれ対策なのでしょうが、これは実は「不適応者のための選択肢を増やした」ことにはなっていないし、「貧乏で優秀な人」には低レベルの教育を押し付けることになる。
教育においても、「デキル人には無条件の教育機会を、デキナイ人には別の選択肢を」という施策が必要なのではないでしょうか。



*1:先日TVで、「朝日塾中学校」というところが紹介されていました。私立の学習塾が母胎となっていて、「株式会社が設置する全国初の中学校」だそうです。「塾の要らない中学校」がキャッチフレーズで、公立中学に比べ1.5倍の授業時間が予定されており、やはりかなり高額の学費が必要なようです。

ふい〜

今日のお話は、僕の中のクリティカルなテーマの雛型が形をとったようなことになっています。
何度も何度も、この辺の話には立ち返ってくるでしょう。
しかしさすがに今日は限界なので(笑)、これでお開き。
さて、僕は何に関して「デキル人」を目指すのでしょう・・・・。