オリエンタリズム?

昨日ご紹介したサイトは「生まれも育ちも日本」の方だったのですが、あらためて「日本語以外の言語による情報の送受信」について考えさせられました。で、久しぶりにググってみた。
google:hikikomori → 18,100件。
去年10月の検索時に何件だったかは覚えてないけど、ヒットするページの顔ぶれがだいぶ変わっていて、増えていることは間違いないと思う。
Polski となってるこのページポーランド語? ほかにも見知らぬ言語のサイトで「hikikomori」という単語が登場しているんだけど、英語とフランス語で特に多くヒットするのは、検索エンジンのせいじゃないよね?


去年の7月にエントリーされた記事へのコメント欄がいまだに伸びていたりして、興味は続いているんだろうけど、やっぱり初歩的な憶測の域を出ない見解が多い。(当たり前か。日本でさえそうなんだから。)


阪神大震災のとき、『Newsweek』英語版の記事で、ぺしゃんこに倒壊したビルの前を赤いランドセルしょった女の子が笑顔で歩いてる写真があって、それに(たしか)「東洋の神秘」みたいなタイトルがついてた。「西洋人の我々ならあの状況ではとても耐えられないが、日本人には得体の知れないメンタリティがあって、だからあれほどタフなのだ」ということだと思う。
これも「オリエンタリズム」だろうか、と思ったんだけど(被写体にわざわざ「少女」を選んでるあたりも他者性の強調なのかな、とか)、「hikikomori」の扱いにも似たような傾向があるんだろうか。だとすれば、「ニート」(英国発祥の概念)との絡みでどう論じるか、も難しくなる。


「世界的な広がりを見せる depression の表れ方の一つではないか」という意見には興味を持ったけど、やっぱり論じ方は難しいな・・・。


興味深い「日本語以外の Hikikomori 論」を見つけたら、ぜひ教えてくださいね。ていうか、 hikikomori はどう論じればいいんでしょう。



「説教する権力」あるいは「訓練」考

社会の大半の人は、ヒキコモリに無関心だ。でもその無関心な沈黙は、いわば「量子化されていない批判」であって、いざ何かが起こればあっという間に怒号に変わる。社会が危機に晒された、と判断されれば、その犯人は実体化される。 → 「誰も何も語ろうとしない」からこそ恐ろしい、という事実がなかなか当事者に伝わらない。
あえて言葉にして、≪場≫の状態を変える、という作業が大事だと思うのに。【6月6日追記:この辺の比喩、いま読むとかなり恥ずかしい。理系の比喩を安易に使うとチープに見えますね…。消したいけど、いましめのために残しときます。】


これだけ言葉を尽くしても、一部の当事者からはなお「上山も強引な引き出し屋だろ」と言われる。脱力感・・・。
「引きこもりを批判する人」というのは、思想史的位置付けとしてはどういうポジションになるのだろう。


実際には、極限的な引きこもり状態(工藤定次氏いうところの「純粋ひきこもり」)においてそれを「楽しんでいる」人なんていないし、ある程度開放的な状態*1での安定的継続を望んでも、支援の打ち切りや親の死亡でお金がなくなれば、そのまま死ぬしかなくなる(いい悪いの問題ではなく、事実として)。
様々な自覚症状があって、働くことにはあまりにも強い苦痛が伴う、というかその苦痛の激しさが、インポテンツ(無能力)に帰着する。働けないし、雇ってももらえない。
激痛とともに生きるか、黙って餓死するか。当事者にはその選択肢しかない。いっけん理解者のように見えた人も、「厳しさが足りない」「自分が変われるよう努力しろ」*2。影響力のある社会学者も、「遺棄されても仕方がない」。 → 社会的に無能力な人間を軍事的な訓練で矯正しようという思想は、今後ますます勢力を強めるのではないか。


「無能力」を根本事実とする≪引きこもり≫にとって、「訓練」というファクターが重要であることは絶対に否定できない。ただし、それは「環境を変える必要がない」ということではない。「悪いのは全て本人だ」という意味でもない。


東浩紀さんが現代の権力について、「規律訓練型から環境管理型」に変化している、という指摘をされている*3。規律訓練を要請する権力があれば反抗もしやすいが、権力が環境と一体化すれば「悪いのは自分だ」と思わざるを得なくなる。あるいは、規律訓練が失われていることに苛立っている個人(まさに説教をしたがる人)は、本人がいくら「古き良き規律を復活させよう」と思っていても、いつの間にか「環境のエージェント」を体現してしまう(『未来世紀ブラジル』、というよりはやっぱり『マトリックス』か)。


「しつけのなってない幼児が多い!」「最近の若い母親はケシカラン!」という声をよく聞く*4。これは同時に、「注意できない自分の無力感」への苛立ちでもある(とすればその苛立ちは権力欲を潜めている)。人質へのバッシングや、「右傾化」と言われる流れにも同じ構造を感じる。
→ 個人が無力化すればするほど苛立ちが高まる、とすれば、課題は「いかに個人を無力化するか」ではなく、「いかに個人を有力化=権力化するか」だと思う*5。問題は、それが暴力的な形を取らずにいられるか、ということ。


家の外をうろつき回る若者が「危険」だとして、家に閉じこもりすぎる若者は「不気味」*6。「危険な若者」への反応が「セキュリティ強化」だとして、「不気味な若者」へのリアクションは「説教」か。(「甘えている」という理解には、「不気味だ」という直感への防衛反応という側面がないか。)


「引きこもりを非難するのは封建的な人たちで、近代的な個人主義者ならば当事者を擁護できるはずだ」というのは、理解図式として単純すぎるのかもしれない。「万人の、万人に対する監視」の体質が「規律訓練 → 環境管理」と変わってきているなら、「ヒキコモリ」への非難にも、「セキュリティ強化」という意味があるのかもしれない。(それとも、無能力な人間が社会の危険因子と見なされる、というのは、歴史的にも地理的にも当たり前な現象なんだろうか。)


「軍事的訓練で矯正しろ」という声(規律訓練の要請)が、「環境管理のため」というニュートラルな口実を得たときが、一番やっかいなのかもしれない。
いや、それとも単純に規律訓練への回帰(というか新たなる形での規律訓練の創造)が期待されているのだろうか。
職業訓練」と「規律訓練」は、いつの間にか重なっている。




とりあえずメモ。 また考えます。





*1:厳密にはこれはもはや「ヒキコモリ」とは言わない。まさに「ニート」との連続性において考えるべきところだと思う。

*2:僕は、「ひきこもり」と名指されている全てのケースについてこの批判が不当だと言うつもりはない。

*3:東浩紀×大澤真幸自由を考えるISBN:4140019670

*4:「電車の中を走り回る幼児を注意したら、その母親に逆ギレされた」など。

*5:≪empowerment≫の、「訓練」的側面と、「権力付与」的側面。

*6:この辺の指摘も、どこかで東浩紀さんがされていたのではなかったか。