自分の背後になる公力を恃む、服従道徳の涵養に偏執…軍隊などでも新兵を虐使する下士は、とかく自分の新兵時代にひどく窘められた者に多いとやら、吉野作造「自警団暴行の心理」より。








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公立病院の小使が患者を叱り飛ばしたり、三等郵便局の窓口で人民どもが散々こづき廻されたり、田舎者が議員になつて俄に方で風を切つたりするのは、皆同類の現象と謂ていゝ。詰り彼等は俺れには之れ丈の権があるんだぞと見せびらかしたいのである。俺の意に反しては何事も出来ないぞと威勢を見せたいのである。一言にしていへば自分の背後になる公力を恃んで自らよろこぶに急なのである。従つて他人の迷惑の如きは更に之を顧みるに遑がないのである。自警団暴行の如き、畢竟斯う云ふ通癖のたまたま変に乗じて一部民衆の野生を駆り動せる類型的現象に過ぎない。従て之を一部民衆の過失なりとして我々と全然無関係の出来事と嘯くものあらば、そは余りに短見であると思ふ。
    −−吉野作造「巻頭言 自警団暴行の心理」、『中央公論』一九二三年一一月。

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1923(大正12)年の関東大震災下における不幸な事件の一つは、本来、自治の要となるべき自警団が……すべてが全てというわけではありませんが……お上の権力を傘にして、単なる暴力団になってしまったことではないかと思う。

中国・朝鮮半島の人々が撲殺されるだけでなく、聾唖者や地方出身者もその対象になったという。

この問題に関しては、「恐怖に煽られて……」という弁解が目立つが、それで全てを説明することはできない。

内務省警保局は各地方のトップに向けて「朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を」と警報を打電しているし、警視庁からも戒厳司令部宛に「鮮人中不逞の挙について……」などと通報じている。

実際のところ、そのほとんどはデマ・風聞にすぎないものだが、国家が発した「警報」はメディアにより「拡散」され、「自衛」という大義名分が成立する。

また、そのどさくさに紛れてアナーキスト大杉栄(1885−1923)らが殺されたり(甘粕事件)、労働運動の指導者が警察署内で軍に銃殺される事件も起きている(亀戸事件)。


被害者の数については議論が別れる部分があるが、その中間に位置する吉野作造(1878−1933)の調査によれば2613人余という。

さて……。
震災後、自警団の暴行に関しては、その問題を指摘するよりも、おおむね、「いたしかたがない」という世論が形成される。

しかし、吉野はその年11月の『中央公論』巻頭言にて、「聞くだに身の毛のよだつ様な暴行を数多き自警団が犯したと云ふは、仮令全体より見て其数の甚だ少なかつたとはいへ、国民的面目の上よりしても到底許す可からざる事態ではないか」と堂々と指摘した。

そしてその暴行へ「駆られる」原因は、一部の人間だけに限定されるものではない。

国民全体に共通する問題として警告するのである。それが冒頭の引用である。

「一言にしていへば自分の背後になる公力を恃んで自らよろこぶに急なのである」。

ではそうした通癖が生まれてくる背景には何が潜むのか。
吉野は次のようにいう。



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 茲に吾人は一言我国在来の教育が服従道徳の涵養に偏執して創意的奉仕精神の訓練を欠如せるの一事を絶叫して起きたい。上の指示する所に従へとは教へる。自己の創意に基いて世に仕うる真の機会は全く与へられない。政事に干ることが罪悪なるかの如く教へられた青年が、如何にして校門を出でゝ公民としての与へられた権利を正しく使ひ得やう。服従道徳の動もすれば陥り易き著しい弊害は、上の専横と下の不満とである。不満は時として羨望に変わる。……軍隊などでも新兵を虐使する下士は、とかく自分の新兵時代にひどく窘められた者に多いとやら。自己の深刻な経験が思ひ遣りの人情となりて将来の人格美を作る要素たるべき筈だのに、それが却つてつねに反対の結果となるのは、畢竟初めに於て創意的奉仕精神の涵養を怠つたからではないか。
    −−吉野作造、前掲書。

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それは「服従道徳の涵養に偏執」してきたこと、つまり他者への創意的奉仕精神を育まなかったことが原因だと吉野いう。

他者との関わり方を学ぶことなく「命令」として訓戒がつづくとどうなるのか。
上からの一方的垂れ流しは、古参兵にいびられた新兵が偉くなると同じように新兵いびりを繰り返すという「上の専横と下の不満」を拡大再生産してしまう。

尤も服従道徳が一慨に悪いというわけではないが、創意的奉仕精神の涵養を行わなかった結果は、他者の存在への想像力を欠いた暴力で矯正すればことたりるという短絡的な思考回路を生み、「公民」などを生み出すはずはないというわけだ。



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 肴屋の小僧ふだんは主人番頭にこき使はれる。一旦自警団に加つて竹槍棍棒を与へられて町内の警備に当ると、少し位人を擲つても誰からも咎められない所から、自ら平素の枉屈を伸ばす此時だと云ふ気になる。斯うした心理−−大小軽重の差こそあれ−−を我国青年の頭に深く植ゑつけたのが、在来の誤つた教育方針ではないか。
    −−吉野作造、前掲書。

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自分で考えること拒絶させ、ただただ命令に従う。
そして本当は厭なのだが唯々諾々と承知してしまう。
積み重なるのはルサンチマンだけだ。

そしてそれを今度は自分でやっていく。



社会の紐帯として「服従」や「命令」の機能を一方的に全否定するつもりは毛頭ない。しかしそれだけになってしまう場合、どうなってしまうのか、吉野の指摘は今なお輝きをうしなわない。

そして付け加えるならば、この吉野の文章は、現在の眼からするならば「手ぬるい」と瑕疵を指摘することはたやすい。

しかし、時代のコンテクストを踏まえる必要もある。
先に、大杉栄をはじめとする反政府的「主義者」がどさくさに紛れて殺された話に言及したが、実は吉野作造自身も、摘発対象者の一人であったということ。

運良く抹殺は免れたものの、震災から2ヵ月後にここまで丁寧に慎重に指摘するということは命がけであったということは想像するに難くない。











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覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『日本人の死生観を読む』=島薗進・著」、『毎日新聞』2012年3月18日(日)付。


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今週の本棚:沼野充義・評 『日本人の死生観を読む』=島薗進・著


 (朝日選書・1470円)

 ◇むき出しの「死」とまともに向き合うために
 文明はおぞましいものを人の目から隠す。その最たるものは死だろう。特に日本では報道でも死体を映しだすことを極力避けるので、いまの子供たちは人の死に直面することがほとんどない。ところが、昨年三月の大震災は突然、死をむき出しの形で私たちに突きつけた。一方、原発事故はまだ放射能による死者を出していないと指摘する人がいるとはいえ、多くの人々と広大な土地と自然を緩慢な死の潜在的な危険にさらした。

 そんな折に、ぜひ読むべき好著が出た。『日本人の死生観を読む』は、近代日本において「死生観」を表現した日本人の書物やテキストを読み解いていくことによって、人の生き死にとはいったい何であるのか、考える本である。著者は「死生学」という耳慣れない多分野的学術研究のリーダー格として尽力してきた宗教学者。「納棺師」、つまり死者を葬儀の前に棺に入れる儀式に携わる人を主人公とした映画「おくりびと」とその原作から説き起こし、「死生観」という言葉を確立した明治時代の宗教思想家、加藤咄堂(とつどう)にいったんさかのぼり、それから作家の志賀直哉民俗学者柳田国男とその業績を引き継いで独自の学問体系を展開した折口信夫戦艦大和に乗って沖縄特攻作戦をかろうじて生き延びた吉田満、そして最後には、がんと直面して生きた宗教学者の岸本英夫と作家の高見順へと、考察を進めていく。

 ここに登場する死生観はじつに多様であり、ここで簡単に要約することはできない。儒教・仏教・武士道を背景に「死生観」を打ち立てようとした加藤咄堂に対して、乃木大将殉死の報(しら)せを聞いて「馬鹿な奴(やつ)だ」と日記に書いた志賀直哉。日本の「常民」に見られる「円環的」(生まれ変わりを信ずるといった)死生観を理解しながら、それが近代社会においてどのように生かされうるのかについて考えた柳田と折口。戦争やがんといった、個人の力では対抗できないものに直面し、虚無を見てしまったところから、改めて生の意味をとらえ直した吉田満高見順

 ちなみに、ロシアの文豪トルストイは、若いころ、ある田舎町の宿で夜中にはっきりした訳もないのに、それまで体験したこともない激しい死の恐怖に襲われたという。ある意味では、その後の彼の生と巨大な作品の数々は、その恐怖を克服しようとする努力の軌跡だった。私たちはよりよく生きるためには、そして、生きることの喜びを感じるためには、死を見つめなければならない。それはまた本書から響いてくるメッセージでもある。島薗氏の書き方は学者的でつねに冷静、思いのたけを感情的に吐露するということはないが、それだけにここで取り上げられている事例の一つ一つが重く胸を打つ。

 本書の効用のもう一つは、優れた文学作品の力を改めて、死生観という角度から照らし出してくれることだ。冒頭に引用される宮沢賢治の「ひかりの素足」は、雪の中で死にゆく弟を必死に助けようとする兄の話だが、生と死を見つめる賢治の透徹したまなざしには、誰しも心を揺さぶられることだろう。学校で読まされたとき退屈だった志賀直哉の『城(き)の崎にて』も、見違えるようだ。

 私は根が軟弱なので、いまだに権益を守ることや保身に汲々(きゅうきゅう)としているように見える電力会社経営者や、役人や、御用学者たちに、「責任を取れ」などとは言わない。ただ、せめて死にまともに向き合いなさい、と言いたい。どうかこの本を読んで考えてください。
    −−「今週の本棚:沼野充義・評 『日本人の死生観を読む』=島薗進・著」、『毎日新聞』2012年3月18日(日)付。

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http://mainichi.jp/enta/book/news/20120318ddm015070013000c.html


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