覚え書:「憲法を考える 報道、これでいいのか 石橋学さん、林香里さん、山崎拓さん」、『朝日新聞』2017年05月23日(火)付。

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憲法を考える 報道、これでいいのか 石橋学さん、林香里さん、山崎拓さん
2017年5月23日

 憲法が保障する「言論の自由」。ネット空間にはフェイクの情報が飛び交い、報道への不信や抑圧も増している。いま、マスメディアに求められているものとは。

 ■信じるまま書き、世に問う 石橋学さん(神奈川新聞デジタル編集委員

 2013年9月に始めた1ページの論説・特報面に、デスクとして携わりました。安保法制への抗議やヘイトスピーチの問題などを書いた連載「時代の正体」はいまも、その面に掲載しています。

 デスクになり、パターン化した記事が多いと感じました。場面から入ってコメントで締めるとか、地方紙だから地元に絡めたものじゃなきゃだめだとか。定型文のような感じがとても嫌でした。

 記者を続けていると、取材内容を切り貼りする職人芸みたいなことが身についてきます。でも、誰もそういう風に書けとは言っているわけではない。読者にお金を払って頂きながら、読み物としては物足りない。それなら書きたいものを書こうと思いました。

 そうして始めた「時代の正体」に対して、「記事が偏っている」という批判を受けました。続報で「『ええ、偏っています』と答えるほかない」と書いたら、「開き直った」「偏向新聞」とさらに批判を浴びました。

 でも、やや乱暴な言い方かもしれませんが、記事への批判は「あなたの言っていることは気にくわない」という程度に過ぎない。私たち記者はとかく、批判が何件寄せられたかを気にし、部数減と結び付けたがる。でも、本当に部数減と結びついているかはわからない。私たちが耳を傾けるべき批判や指摘は、記事の視点が足りないとか、考えが浅いといったもののはずです。

 報道には公正中立、不偏不党が求められると言われます。ただ、多くの記事がそれを意識するあまり、視点がぼやけていないか。読者に判断を丸投げし、自分で判断して主張することをサボっていないか。そう問いたいのです。

 ヘイトスピーチの問題もそうです。他の新聞では、公正中立を意識するばかり、ヘイトをしている側の言い分を聞き、両論併記の原稿が載ることも多い。ヘイトしている彼らがいう「表現の自由」にくみし、面倒な抗議や衝突を避けようとする意識が透けている。妙な「バランス感覚」が働いて、結果的に事実をゆがめる形になっています。

 ヘイトスピーチについては司法判断も出ており、表現の自由として認められていないのです。報道への圧力という前に、メディア自身が萎縮していると感じます。私はヘイト側にネット上で顔写真をさらされ、「朝鮮人の手先」などと攻撃を受けています。でも、なんてことはない。彼らの言い分に理は一つもなく、私は差別を受けることのないマジョリティーだからです。

 メディアとは物事を発信し、よりよい社会に変えていく主体であるべきです。信じることを信じるままに書き、世に問うていく。私たちは決して傍観者ではないのですから。(聞き手・岡村夏樹)

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 いしばしがく 71年生まれ。94年に神奈川新聞に入社。2014年7月に始まった「時代の正体」シリーズを執筆。

 ■不信感に向き合わないと 林香里さん(東京大学大学院情報学環教授)

 メディアをめぐる構造は今、大きく変化しています。

 まず、ニュースを見る場面が変わりました。昔は朝、ポストに入った新聞を家族で順番に読んでいました。今はみんなスマホを持ち、仕事や勉強の合間にニュースをみる。米国では約6割の人がSNSでニュースを読んでおり、日本でも増えてきています。

 友だちがSNSで投稿した晩ご飯の話題も、政治のニュースも、同じ画面上で並列的に流れてくる。米国での研究では、友だちにうけそうなニュースはシェアされやすい半面、なじみのない硬いニュースは読まれなくなっている。関心があり、役立つと思えるニュースばかりを読むため、頭の中に「私の世界」をつくる傾向も強くなっています。

 日本のマスメディアは当初、ネットは娯楽やガセネタを流す場所とみて、ばかにしていたと思います。しかし、ネットは今やニュースの発信と情報交換に欠かせません。メディアは、真剣にオンライン化に取り組むべきです。

 マスメディアと読者の意識の差も広がっています。大都市在住の高学歴で「エリート化」した記者たちが、地方の人たちの共感を呼ぶ記事をどこまで書けるでしょうか。「メディアは私たちのことなんて考えていない」とメディアそのものに背を向ける人も増えています。米国ではそんな空気をメディア側がつかみきれないまま、メディア不信をあおったトランプ大統領が支持を得ました。日本でも同じような状況になることを懸念します。

 ネットの普及もあって、新聞がニュースの「価値」を決めることはできなくなった。でも記者たちが「どうせ読まれない」と考えて報道をあきらめれば、その時点で民主主義は終わると考えてほしい。

 例えば、表現や報道の自由に関わる「共謀罪」が、十分な情報も議論もないままあっさり法制化されるような社会が、現実味を帯びています。言論の自由の大切さが忘れられていけば、日本もあっという間に、政権に批判的な報道機関が抑圧されるトルコのようになりかねません。

 メディアが権力に批判的な精神を持ち続けることが大切です。国有地の売却をめぐる森友学園問題では、報道を機に世論の関心が一気に高まり、国会での議論にもつながりました。市民の目線から「これはちょっと違うのでは」という話題を提供すれば読者はついてくるのです。

 政府はやるべきことをやっているか。将来の暮らしは大丈夫か。時間をかけて調査と取材をし、情報を示す。マスメディアの役割は変わらないし、先行き不透明な現代社会では、これまで以上に重要です。メディアの相対化と多様化が進む今だからこそ、踏ん張りどころだと思います。(聞き手・井上裕一)

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 はやしかおり 63年生まれ。元ロイター通信記者。昨年、米国に滞在し、SNSとジャーナリズムの関わりを研究。

 ■政権の「ヒラメ」になるな 山崎拓さん(元自民党副総裁)

 政権のマスコミ対応は、2通りに大別できます。うまく政権運営に利用する手法と、情報を制限して批判を封じ込める手法です。今の安倍政権は後者に近いと思います。

 いま新聞は、政権を応援する社と、批判的な社に、かつてないほど極端に分かれています。それが総体として、健全な批判機能を発揮しにくくしている。新聞は以前は三権に次ぐ「第四の権力」とも呼ばれましたが、すでにそんな力は失ったのかもしれません。メディアの多様化で経営基盤が盤石ではなく、商業主義の加速も一因でしょう。

 1990年代前半、私と小泉純一郎氏、加藤紘一氏が「YKK」と呼ばれ、政界で影響力を増した時期がありました。新聞が主流だった政治報道にテレビが加わった時期と重なります。日曜午前の報道番組での発言が、政治に大きく影響し始めた時代です。

 当時、小選挙区制に反対した我々3人は「守旧派」と批判されました。でも、各党から1選挙区につき1人しか公認されない小選挙区制は結果的に、与党トップの力を強める一強政治を招き、政界や官界に「ヒラメ現象」を広げることにつながりました。

 与野党とも党首脳にもの申す中堅や若手がいなくなり、ナンバー2が育たなくなった。情報管理社会は、民主主義の衰退を招きます。有権者も、候補者より党トップの印象で投票先を決める傾向が強まりました。

 小泉首相は就任直後、党幹事長の私に「古代ローマの皇帝は人心収攬(しゅうらん)に『パンとサーカス』の手法を用いた」と教えました。彼の「サーカス」の代表例が、2002年の電撃的な訪朝と拉致被害者の帰国で、有権者の耳目を劇的に集めました。

 安倍首相はどうでしょう。地球儀を俯瞰(ふかん)する外交と称して外遊を繰り返しています。国会での答弁より効率よく「活躍ぶり」を報じてもらえる。わざわざ外国まで同行した記者は「訪問は不成功だった」とは書けますまい。各社とも見事に、首相の術中にはまっています。

 でも今の政治報道を見て、国民の皆さんはわくわくしているでしょうか。現政権には「報道とは政権や官邸の広報であるべきだ」という意識が強いようですが、危ういと言わざるを得ない。メディアまで、ヒラメになってしまってはだめですね。

 政権運営に当たる者はどうしても、おごりを身にまとってしまう。かつての自分もそうだったと、しみじみ思います。一方で、メディアの批判はきちんと受け止めるべきだとの意識は当時からあったつもりです。政治のあり方や行方をきちんと分析し、論評するメディアの存在は、議会制民主主義にとってやはり不可欠だと思うからです。(聞き手・編集委員 永井靖二)

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 やまさきたく 36年生まれ。72年に衆院初当選。防衛庁長官、建設相などを経て小泉内閣自民党幹事長、副総裁を務めた。
    −−「憲法を考える 報道、これでいいのか 石橋学さん、林香里さん、山崎拓さん」、『朝日新聞』2017年05月23日(火)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12950788.html


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