八月二十日


今日の昼は先日からクラスに入っていたモンゴル姉妹の送別会をした。
モンゴル姉妹はお姉さんはモンゴルの会社員で、妹さんは東京の高校の女子高生である。お姉さんは大人だが、妹さんからはたまにコギャル語のような言葉がもれるので非常に新鮮だった。
送別会ではウイグル料理のお店へ行き、羊料理を主に食べた。
今日はイスラム教徒はラマダン中なので、おなかを減らしているのか店員の態度がとても投げやりでぞんざいだった。飯を作っても自分たちは食べれないというのは気の毒な話だ。

夜は以前から気になっていた三姉妹の食堂というのに行った。
日本豆腐という料理を注文してみたが、豆腐をどろどろにしたものを油で揚げて、クランベリーソースをかけたものが出てきた。微塵も日本と関係がないが美味しかった。

八月十八日


今日はN同志と二人で中華門、夫子廟へ向かった。
当初の予定では同学みんなで行くはずだったが、予定が入ったので二人になった。タクシーで20分ほどひたすら南下し、中華門に到着。
中華門は明代に沈万三という南京の大富豪の援助で建てられた城壁であり、城壁の中には至るところに洞窟のような穴がある。これは蔵兵洞と言って、戦争の時に兵隊や食料を集めておくためのもので、実に三千人もの兵隊を蓄えることができたのだ、という。もっとも、実際に戦場になった常勝軍による太平天国攻撃や日中戦争の頃には大砲で城壁ごと破壊できるようになっていたのだから、どれだけ役に立ったかはわからない。なお中華門は明代には聚宝門と称されていたのを、蒋介石が改めた名前なのだそうだ。中国ではいまだに国民党時代の業績は批判の対象としてしか扱われないが、南京にいると何ともなしに蒋介石に対する敬意が感じられる。
城壁は非常によく保存されていて、大明建国当時の威勢が偲ばれる。
ちょうど先日玄武湖の城壁を見たときに同学から平田先生が「南京の城壁は米粒で固めて作ったんだよ」と仰っていたという話を聞いた。先生特有の冗談だろうと思っていたが、ここの城壁の説明には確かに「石を敷き詰めた上に米粒から造った糊で固めて造った」、と書かれていた。さすが中国。
城壁を歩くのはとても楽しく、支配者になって街を一望することや、戦争の際に城壁の上から投石器を発射する様子を妄想したりした。N氏も非常に気に入った様子で「城壁の無い国に帰るかと思うと憂鬱になる」と話していた。城壁から街を見下ろすと、すぐ近くに古そうな豪邸があるので、下りたときについでに見物に行ってみた。現在は何かの博物館になっているようだが、ちょうど閉めるところだったので、係員のおばちゃんに「ここはなんだ」と尋ねてみると、全く聞き取れない長い解説の末に、先ほどの沈万三の旧宅である、ということが判明し、中国語の会話力の向上を実感。
その後、夫子廟へ向かったのだが、近くの大変ごみごみした住宅街を寄っていった。狭い道の左右に、非常に狭い一繋がりの住宅が並んでいる。恐ろしいのは全ての部屋の壁に引越屋の電話番号や、「早く出て行け」という内容の恫喝めいたビラが当たり一面に張られていたことである。この辺りは都市の再開発のために、政府がここで暮らしている住人をまとめて立ち退かせようとしているようである。街の人間も何だか機嫌が悪そうで、しきりに我々をじろじろ見てくるので、早めに立ち去った。
夫子廟は昔は科挙の試験場があったところである、というのを聞いてやってきたのだが、来て見るととんでもないショッピング街だったので驚いた。
そしてここは初日にトランクを奪われたタクシーに誤って下ろされた因縁の場所であることに気付いた。あの頃は右も左もわからなかったものだ。
それにしてもすごい賑わいようである。孔子廟の周辺が歓楽街とは世も変わるものだ、と思ってしまいそうだが、後で調べてみるとこの辺りは科挙の試験場があった頃から既に歓楽街で、科挙に合格したものたちが遊郭で豪遊したのだそうだ。
夫子廟の孔子像の隣で記念撮影。

八月十五日(日)

今日は有志で玄武湖へ行った。
玄武湖は南京北部の大きな湖であり、有名な観光スポットであるが、
その中洲に動物園があり、これが意外な面白さだったので、特筆しておくことにする。動物園といっても非常に小さく、全部見るのに15分ほどで十分である。
入り口の看板には「チェルノブイリ事故によって大量の放射線を浴び、豚より大きくなってしまった鼠」というのがいる、と書かれており、「非常に獰猛な性格で、三台の車をなぎ倒し、四人の人間を食べた」と続いて、少年の心をときめかせる。もちろん大法螺だろう、と思ったが、「もしかしたら」と思わせるところがこの国の魔力であろうか。呆れる同学を説き伏せ入ってみることにした。
入り口のところに、いきなり、今年は寅年であるのに「子年の今年だけ大公開!」と書いてあったので躊躇した。不安になったので「最大鼠は本当にここにいるのか」と尋ねてみると、係員は「いるぞ!」と怪しげな笑みを浮かべながら言うので10元も払った。
入ってまず気付くことは、中は非常に暗ということである。お化け屋敷並みである。視覚的な演出で暗くしているのではなく、そもそもまともに点いている蛍光灯の数が少ない。そして次に気付くのが、展示の内容と説明書きが非常に投げやりなことである。入ってすぐのところに、亀やすっぽんの水槽が並んでいるが、これらはこの国ではそのへんのスーパーでも生きたまま売られているのでインパクトは全く無い。そして「すっぽん」や「亀」のような極めて大雑把な名前は書かれている(見ればわかる)が、詳しい種類は全くわからない。原産地が「ブラジル」やら「ボルネオ」と書かれているが、いかにも嘘らしい。「性質」の欄には決まって「獰猛」やら「凶暴」と書かれていて説明の体をなしていない。ガラスはところどころ割れており非常に危ない。そしてこのような展示態度が影響してか、ここの動物は皆極めて消極的でじっとしてほとんど動かないか奥に隠れて姿が見えない。
アルビノ種の鳥」という檻があり、説明書きには様々な動物のアルビノ種の写真が並んでいたが、肝心の檻の中には何の変哲も無い鳥が入っていた。ただしただでさえ暗いのにこの一角は明かりが届かないので暗くて色がほとんどわからない。しかも鳥の種類すら書いてない。
問題の「豚より大きい鼠」というのは一番大きな檻の中に入れられていた。一見なにもいないが、よく探すとガラスの真下の観客の死角になる所に毛の塊のような姿が見える。50cmくらいだろうか、夏バテなのかピクリとも動かずに床にうずくまっているその小動物が「豚より大きな鼠」なのだそうである。よく見ると髭だけ動いている。
観客は当然のように「これのどこが豚より大きな鼠なのだ、金を返せ!」と思うわけだが、檻の中に更に小さな檻があり、その中には「世界最小の豚」と書かれた小動物が鼻をてからせながら不安そうに観客の方を見つめているのである。最大鼠の三分の一ほどの大きさである。
「なるほど、確かに豚より大きな鼠である!」と納得するところなのだろうか。しかしながら農学部の同学の方の指摘に寄ると「最小の豚」の方は蹄ではなく、爪を持っているため、間違いなく豚ではなく鼠の仲間である、という。
つまりとんちとしても成立していない。
とんち話なら本物の最小豚を用意すればいいのに、肝心なところで手を抜くのが実に中国らしい。
ただしここの動物の性格が獰猛なのは事実であるらしく、日なたの小さな檻に閉じ込められた猿は明らかにストレスで頭がおかしくなっていて、子供が餌をやると檻がひっくり返りそうになるほど暴れて出して子供を怯えさせていた。また「最大鼠」ばかりいるエリアでは餌が少ないからなのかわからないが、五〜六匹の最大鼠が竹箒を一心不乱に群がりながら食べていて大変気持ち悪かった。
「子年の今だけ大公開!」の看板を寅年になってもでかでかと掲げ、「最小の豚」であるから成立するとんち話なのに豚でない生き物を入れ、アルビノ種の檻に何の変哲もない鳥を明かりを消して入れておく、この開き直ったいい加減さ、そしてこれを許容し当たり前のものと見做す社会、これも中国の雄大さの一つの表れであろう。すがすがしくさえあった。小さな動物園だったが実に面白かった。

八月十四日(土)

11時からは新街口へ向かった。朝鮮人の留学生の方と合流して一緒に行動した。彼女は我々の共同研究者であり、こちらでの活動で様々な便宜をして頂いた。
寺へ行く。近くの売店では死後の世界へ持っていくための紙幣や家のミニチュアが売っていた。(燃やすらしい)中国人は死後の世界を驚くほど現世と連続的に捉えているらしく、紙幣には人民元だけでなく安定的なドルやクレジットカードまでついており、家のミニチュアには外車が備え付けてあった。
寺の尼さんの中には暑いので机にへたり込んで携帯に没頭しているものもいた。
非常に暑く、完全にばててしまい、同行の方々に頼んで近くのケンタッキーで休憩した。そのあともう一人の協力者の方と合流して喫茶店へ向かった。彼は中田英俊似の好青年であり、僕より一つ年上だが、非常に人間的にしっかりされた方であり、おまけに何でも知っている博学家である。こういう方には一生かかっても勝てない気がする。僕のしどろもどろの英語と中国語を必死になって聞いてくださり、何度言われても聞き取れない相手に優しく噛み砕いて説明していただき、その心の広さといったら菩薩並みであった。ノートに記録した朱子学に関する僕の思いつきの走り書きに非常に関心を示してくれて、仲間の手を借りながらも、一生懸命コミュニケーションをとろうとして下さった。少々込み入った内容だったのに、最終的には完全に理解して頂けて、その通じ合えた時の喜びといったら何ともいえないものがあった。
寮に戻ると大きな停電が起こっており、別の階の同学の方によると階によっては全く電気が通じなくなっているようだった。僕の部屋は電気は大丈夫だったネットは繋がらなくなっていた。中国ではよくあることのようである。

八月九日

八月六〜八日にかけて研究室の中国人の友達の案内で余よう、寧波に
旅行へ行った。中国思想的にも観光的にも実に楽しい旅行であったが、
友達のご実家で非常に厚くもてなしていただいたのが何よりの思い出
であった。記録は紙の日記にあるので、また時間のあるときにまとめる
とする。
今朝は四時に起床。お腹がゆるい。よよう旅行のお土産でもらった桃と梨を食べる。どちらもとても甘くて美味しかった。
朝早速大学の大庁のATMへ行ってみると、お金を引き出せた。これで借金生活からさらばかと思うと、何だかとても気が大きくなった。
太極拳は非常にハードだった。お腹がゆるいので激しい運動はすべきではない。ぎこちなくやっていると先生に叱られる。太極拳が終了すると意識が朦朧としてきた。そのまま授業に出たが終了する頃には歩くのもだるいという有様だった。どうもお腹がゆるいだけでなく、体調が全般的に悪いようだ。昼飯を食べずに宿でひたすら寝る。
晩は皆さんと先日店員と客が殴りあいの喧嘩をやっていたお店へ行った。相変わらず店員の態度は投げやりだが、味はしっかりしている。控えめに食べた。菊葉蛋湯が美味しかった。同学の方に薬を頂いた。

八月二日

昨日早く休んだせいか、今日は朝六時に起きた。
パソコンを見ているとブログに何件かコメントが来ており、何だかとても嬉しかった。海外にいると身にしみる。感謝。
六時半に食堂に向かうと既に腹をすかせた韓国人小学生の一団が開始を待ってテーブルに着席していた。僕はその近くの席に一人で腰をかけていると、大きなメガネをかけた女の子が寄ってきて中国人ですか、と中国語で聞いてきた。いや日本人だ、近くに座るけど気にしないでね、とブロークン・チャイニーズで答えると、なにやら非常に喜んで東方神器は知ってるか、嵐はかっこいいな、と日本語でたたみかけてきた。残念ながら両者とも名前くらいしか知らないので、いい加減なことをしゃべっていると、それでも彼女は満足したのか、近くに座ってきて色々世間話をした。彼女はお姉さんが日本語を勉強していて、自分はまねをしているうちに日本語を覚えた、日本のマンガや音楽が大好きだが現実の日本人に会ったことがなく、話ができて嬉しい、と言っていた。小学生だと言っていたが、話すことが非常にしっかりしていて驚いた。そして寝惚けてだるそうにしている外人に外国語で話しかけてみる積極性に感心した。話し足りなそうだったから、とりあえずアドレスを交換しておいた。こういう小さな出会いが留学を有意義なものにするのだろう。
講義が始まる前にトイレに行った。水を流そうとすると押しボタンの隙間から勢いよく水が噴き出してきて顔にかかった。このようなことは中国では茶飯事でありくよくよしているうちは青二才である。
今日は中国語の試験があった。簡体字をいくつか書き間違った。クラスには新たにモンゴル人二人が加わった。
午後からは日中合同のコンサートがあった。
会場へ行く前に教室のある建物の1階のトイレを利用した。衝撃的なまでの臭気で、僕は生涯で初めて悪臭が目にしみるというのを経験した。
きりが悪いけれど今日はここまでにする。

七月三十日

午後はシャオ先生とコウ先生のガイドで総統府へ向かった。総統府は元々、清末の太平天国の天京府があったところに民国に孫文蒋介石が政府を作ったものであり、中には近代的な官庁はもとより、庭園や池、空中回廊、莫大な数の奇石、などもある。当時最高の近代建築と贅沢の粋を集めたものである。英語名に“President Palace”とあるように、皇帝制からの近代化の過渡期を形成する産物と言えるかも知れない。こんなケッタイなものを作っているから国民党は共産党に敗れたのだ。
ただ中はだだっ広いわりには大した展示物はなく、アメリカ華矯の集めた武器コレクションなど、総統府とは何の関係のないものを押し込んで辛うじて展示面積を消化している。恐らく故宮博物館同様、重要なものは国民党政府が台湾に持っていってしまったのだろう。
中国の歴史教科書では中華民国時代は未だに存在しないことになっていると聞いていたが、蒋介石宋美齢グッズが大量に売られていた。時代は変わるものである。
大した展示物はないが、中はだだっ広く、他の観光客も多かったのでゆっくり見ていると閉門時間が来てしまったらしく、警備のおっちゃんに追い立てられながら総統府を後にした。おっさんは一々大声で後ろからわれわれをどやしつけながらついてくるので皆怯えていた。牧羊犬と羊の群れのようであった。