今熊野観音寺
拝観時間ギリギリで参拝。
参拝者が少ない境内は、静寂で心静まる空間でした。
泉涌寺の塔頭で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。西国三十三ヵ所観音霊場第十五番目の札所になっている。
空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡年間(854〜857)左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したとも伝える。文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。
伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後、復興されて現在に至っている。本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置する。
寺域は幽静で、郭公鳥の名所として名高く、本堂背後の墓地には慈円僧正・藤原忠通・同長家の墓と称せられる見事な石造宝塔三基がある。「立て看板より」
稲荷社・熊野権現社
大師堂
御寺 泉涌寺
東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。広く「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが順徳天皇の御代(承久元年・1219)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師俊〓が時の宋の法式と取り入れて、この地に大伽藍を営む事を志し、寺地の一角より清泉が涌き出ていた祥瑞によって寺号を泉涌寺と改め、嘉禄2年(1226)には主要な伽藍が完成した。この泉は今も涌き続けている。
月輪大師は若くして仏門に入り、大きな志をもって中国の宋に渡り深く仏法の奥義を究められた。帰国後は泉涌寺を創建して戒律の復興を計り、律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として大いに隆盛させた。
時の皇室からも深く帰依せられ、仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、歴代天皇の山稜がここに営まれるようになり、爾来、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。当寺が御寺と称せられる所以である。境内には仏殿・舎利殿をはじめ、天智天皇以降の歴代天皇の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、春の新緑、秋の紅葉に一段とその美しい姿を映えさせている。「リーフレットより」
仏殿と舎利殿