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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-02-21

「名を呼ぶことは当然帰命の意を含んでいる、というのは話で聞いたことないです。(略)だったら無量光だけもでいいということです?」(七誌の権兵衛)


七誌の権兵衛 2017/02/19 07:20

名を呼ぶことは当然帰命の意を含んでいる、というのは話で聞いたことないです。
その和讃に関して浄土真宗ではその四十号でも念仏の代わりになると教えてますか?
だったら無量光だけもでいいということです?
通常浄土真宗といえば南無阿弥陀仏一辺倒で教えられています。
だから南無阿弥陀仏だけに特別な何かがあると思っていたんですが。

その辺のところ今の浄土真宗に説明不足があるんでしょうか?
ご開山が十字名号で布教したというのはこういう誤解を生じさせるから敢えてそうなされたんですかねえ?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170217/1487332503#c1487456430

名を呼ぶことは帰命の意味を含んでいるに関して言えば、根拠は、浄土論浄土論註、六字釈になります。

さんだん 讃嘆

仏や菩薩などの徳をほめたたえること。天親はこれを『浄土論』で五念門の一つに挙げて阿弥陀仏の名を称することとし、これをうけた曇鸞は『論註』に「称彼如来名といふは、いはく無碍光如来の名を称するなり」(信巻引文・註214)と示している(以下略)

浄土真宗辞典より)

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

そこで、親鸞聖人は、この「無碍光如来の名を称する」ことが「大行」であるとされました。また、親鸞聖人の教えでは、この大行とは南無阿弥陀仏であるとされています。

その南無阿弥陀仏について解釈されているのが六字釈です。ここでは、親鸞聖人の六字釈を紹介します。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻)

現代文

そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説と熟語した場合、説は「悦」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。

 また帰説と熟語した場合、説は「税」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。

 説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。

 こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び90続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。

https://goo.gl/zM68VI

南無阿弥陀仏の南無には、帰命の意味がありますから、南無阿弥陀仏と申すことは帰命するとの意味はあります。

名を呼ぶと言いますか、真宗では念仏のことを称名とも申します。称名とは文字通り「名」を「称する」ことです。そこで、称名との意味ですが、もともとただ名前を言うという意味だけではありません。

称名に関して言えば、阿弥陀仏の名前をただ口にしているということではなく、先述しましたように讃嘆の意味があります。そこで、阿弥陀仏の名を称すれば讃嘆となりますから、阿弥陀仏といっても無碍光如来といっても同じことです。

ただ、親鸞聖人は阿弥陀仏の四字ではなく南無阿弥陀仏の六字をよく用いられています。

それは、前述の六字釈にもかかれていますが、阿弥陀仏がどういう仏であるかということをより明らかにされる意味でも南無阿弥陀仏と言われています。

きみょう 帰命

梵語ナマス(na‐mas)の意訳。南無と音訳する。心から信じ敬うという意。浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀仏の勅命の意とする。「行巻」には「帰命は本願招喚の勅命なり」(註170)(以下略)。

浄土真宗辞典より)

阿弥陀仏とは、私に南無せよと呼び続けられている仏であるということです。また、南無せよとの仰せを受け入れるものは必ず救う仏であるということです。

ですから、親鸞聖人が阿弥陀仏と書かれているところでも、その意味から言えば「南無阿弥陀仏」と同じ意味として言われています。

最後に、浄土真宗で念仏としたときに南無阿弥陀仏と多く使われる根拠の一つを紹介します。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(教行信証行巻)

現代文

こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。

https://goo.gl/lnJyRy

「名を呼ぶことは当然帰命の意を含んでいる、というのは話で聞いたことないです。(略)だったら無量光だけもでいいということです?」(七誌の権兵衛)


七誌の権兵衛 2017/02/19 07:20

名を呼ぶことは当然帰命の意を含んでいる、というのは話で聞いたことないです。
その和讃に関して浄土真宗ではその四十号でも念仏の代わりになると教えてますか?
だったら無量光だけもでいいということです?
通常浄土真宗といえば南無阿弥陀仏一辺倒で教えられています。
だから南無阿弥陀仏だけに特別な何かがあると思っていたんですが。

その辺のところ今の浄土真宗に説明不足があるんでしょうか?
ご開山が十字名号で布教したというのはこういう誤解を生じさせるから敢えてそうなされたんですかねえ?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170217/1487332503#c1487456430

名を呼ぶことは帰命の意味を含んでいるに関して言えば、根拠は、浄土論浄土論註、六字釈になります。

さんだん 讃嘆

仏や菩薩などの徳をほめたたえること。天親はこれを『浄土論』で五念門の一つに挙げて阿弥陀仏の名を称することとし、これをうけた曇鸞は『論註』に「称彼如来名といふは、いはく無碍光如来の名を称するなり」(信巻引文・註214)と示している(以下略)

浄土真宗辞典より)

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

そこで、親鸞聖人は、この「無碍光如来の名を称する」ことが「大行」であるとされました。また、親鸞聖人の教えでは、この大行とは南無阿弥陀仏であるとされています。

その南無阿弥陀仏について解釈されているのが六字釈です。ここでは、親鸞聖人の六字釈を紹介します。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻)

現代文

そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説と熟語した場合、説は「悦」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。

 また帰説と熟語した場合、説は「税」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。

 説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。

 こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び90続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。

http://labo.wikidharma.org/index.php/顕浄土真実行文類#P--170]

南無阿弥陀仏の南無には、帰命の意味がありますから、南無阿弥陀仏と申すことは帰命するとの意味はあります。

名を呼ぶと言いますか、真宗では念仏のことを称名とも申します。称名とは文字通り「名」を「称する」ことです。そこで、称名との意味ですが、もともとただ名前を言うという意味だけではありません。

称名に関して言えば、阿弥陀仏の名前をただ口にしているということではなく、先述しましたように讃嘆の意味があります。そこで、阿弥陀仏の名を称すれば讃嘆となりますから、阿弥陀仏といっても無碍光如来といっても同じことです。

ただ、親鸞聖人は阿弥陀仏の四字ではなく南無阿弥陀仏の六字をよく用いられています。

それは、前述の六字釈にもかかれていますが、阿弥陀仏がどういう仏であるかということをより明らかにされる意味でも南無阿弥陀仏と言われています。

きみょう 帰命

梵語ナマス(na‐mas)の意訳。南無と音訳する。心から信じ敬うという意。浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀仏の勅命の意とする。「行巻」には「帰命は本願招喚の勅命なり」(註170)(以下略)。

浄土真宗辞典より)

阿弥陀仏とは、私に南無せよと呼び続けられている仏であるということです。また、南無せよとの仰せを受け入れるものは必ず救う仏であるということです。

ですから、親鸞聖人が阿弥陀仏と書かれているところでも、その意味から言えば「南無阿弥陀仏」と同じ意味として言われています。

最後に、浄土真宗で念仏としたときに南無阿弥陀仏と多く使われる根拠の一つを紹介します。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(教行信証行巻)

現代文

こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。

https://goo.gl/lnJyRy

2017-02-17

『帰命尽十方無碍光如来』は『南無阿弥陀仏』と同じで親鸞聖人はこちらの十字名号で布教していたと聞きましたが、救いは六字名号でなければならないということとの整合性はどう説明するのでしょうか?(七誌の権兵衛 さんのコメント)

七誌の権兵衛 2017/02/15 19:51

『帰命尽十方無碍光如来』は『南無阿弥陀仏』と同じで親鸞聖人はこちらの十字名号で布教していたと聞きましたが、救いは六字名号でなければならないということとの整合性はどう説明するのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487155862

お尋ねの件については、改邪鈔のご文を指して言われているのだと思います。

本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。いはんやその余の人形において、あにかきあがめましますべしや。末学自己の義すみやかにこれを停止すべし。 (改邪鈔)

https://goo.gl/C7dcck

親鸞聖人が、本尊として木像などを用いず、「帰命尽十方無礙光如来」を本尊とされたとのことです。

ただ、これに関しては親鸞聖人の六字名号もあれば、八字名号もあるので、十字名号しか用いられなかったということには成りません。

また、布教においてとのことですが、専ら「帰命尽十方無礙光如来」だけを勧めて、「南無阿弥陀仏」を勧められなかったとか、その反対ということはありません。

それについては、御消息に以下のようにあります。

念仏申し候ふ人々のなかに、南無阿弥陀仏ととなへ候ふひまには、無碍光如来ととなへまゐらせ候ふ人も候ふ。

これをききて、ある人の申し候ふなる、南無阿弥陀仏ととなへてのうへに、帰命尽十方無碍光如来ととなへまゐらせ候ふことは、おそれあることにてこそあれ、いまめがはしくと申し候ふなる、このやういかが候ふべき。

南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さんはあしきことなりと候ふなるこそ、きはまれる御ひがことときこえ候へ。

(中略)

あるいは阿弥陀といひ、あるいは無碍光と申し、御名異なりといへども心は一つなり。阿弥陀といふは梵語なり、これには無量寿ともいふ、無碍光とも申し候ふ。梵・漢異なりといへども、心おなじく候ふなり。(御消息)

https://goo.gl/uRg54a

意味を大まかに言いますと、念仏している人の中に、南無阿弥陀仏と称えている合間に、無碍光如来と称えている人もいました。それを、ある人がそのように南無阿弥陀仏と称えて、また帰命尽十方無碍光如来というのはよろしくないと批判しました。

それに対して、そのように批判するのが間違いであると書かれた手紙です。

阿弥陀といっても、無碍光如と名前が違っても、心は一つで同じであるといわれたものです。

どちらかでなくてはならない、といわれたものではありません。

ただ、一般には南無阿弥陀仏と親鸞聖人が書かれたものの方が多いです。ご和讃などは、そのよい例だと思います。

また、親鸞聖人が、本師と仰がれる法然聖人選択本願念仏集の冒頭に書かれているのことを、親鸞聖人は以下のように教行信証に引文されています。

選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、

「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。 (教行信証行巻)

https://goo.gl/Fw9dyK

往生には、念仏を本とすといわれた、その念仏はここでは「南無阿弥陀仏」と書かれています。そこから、親鸞聖人の教えで「念仏」とか「念仏成仏」といったときは、多くの場合は南無阿弥陀仏を勧められたとものとされています。

でん 2017/02/16 12:11

整合性も何も、同じじゃないですか

南無阿弥陀仏の方が称えやすいからその様に称えてるだけであって

十字名号の方が意味が分かりやすいから

布教に適していたのではないかと思われますが

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487214663

七誌の権兵衛 2017/02/16 14:58

真宗においては六字名号を教えの要とするので救いの体は文字列なのかと思ってましたが意味として念仏するんですか?

ということは念仏は十字名号でも、または「お任せします、阿弥陀様」でもいいわけですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487224716

南無阿弥陀仏といっても、帰命尽十方無碍光如来といっても、御消息にあるようにその心から言えば同じですから限定するものではありません。ただ、称えるにしてもどちらが現在主になっているかといえば、先の選択集にあるようにやはり南無阿弥陀仏です。

御文章でいえば、弥陀をたのむということになりますから、それを現代語にすれば「お任せします、阿弥陀様」でも意味さえ間違わなければ特に問題はないと思います。

とはいえ、「親鸞聖人はこのように教えられました」または「法然聖人はこのように教えられたと親鸞聖人は言われています」と伝えるのが真宗における布教だと私は思っています。その意味では、親鸞聖人や法然聖人が勧められた「南無阿弥陀仏」をあえて使わないのはかえって不自然だと思います。

ご法座でも、合掌礼拝するときは、伝統的にみな「南無阿弥陀仏」と念仏もうしておりますので、その「南無阿弥陀仏とは」と伝えてこられたのが、念仏の教えです。また南無阿弥陀仏はただの文字列ではなく、阿弥陀仏の大行ですから、文字列ならば、データ量は六字で十数バイトしかありません。しかし、南無阿弥陀仏は私を浄土に往生させる大変なお働きがあり、阿弥陀仏の正覚そのものです。

その南無阿弥陀仏に救われるということですから、帰命尽十方無碍光如来でも問題はないのですが、伝統的に南無阿弥陀仏を称え聞いてきたのが現在まで続く浄土真宗です。繰り返しになりますが、個人として称えやすいほうでいいので「絶対こちらでないといけない」ことはありませんが、念仏申すことを抜きには浄土真宗の教えはありません。

2017-02-14

「南無阿弥陀仏とは一種の自己暗示なのではないのかと思っています。南無阿弥陀仏と唱えることによって阿弥陀如来に生死の問題を丸投げして単に思考停止している状態を仮に獲信と呼んでいるのかなと思います。」(名無しさんのコメント)

名無しさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。エントリーが遅くなりすみません。

名無し 2017/02/11 20:07

南無阿弥陀仏とは一種の自己暗示なのではないのかと思っています。

南無阿弥陀仏と唱えることによって阿弥陀如来に生死の問題を丸投げして

単に思考停止している状態を仮に獲信と呼んでいるのかなと思います。

そして実際に生死の問題されたかどうかは誰にも分からないし、確認のしようがない。

本当に自力では生死の問題をどうすることも出来ない者にこれ以上生死のことで悩み、迷う必要のないよう「釈尊が創作した単なるおまじない」でしかないのかも知れないなと思うのですがどうお考えですか?

本来地獄も、浄土もなくて、死ねば肉体は焼かれて自然の一部となり、魂だの自我と言ったものは最初からどこにも存在していなくて、あくまでこれは「私という漠然とした概念」を便宜的に定義する為だけのもので、死ねば霧散してしまうもの。

つまりもしかしたら、死後、悟りもなければ、浄土もない、死後に残るものなど何一つ存在せず、そもそも救いの対象たる「私」すら存在せず、ただ、生死の問題を解決できないもののために今生〜臨終まで南無阿弥陀仏の名のもとに助からないものに対しての自己暗示なのではないのかと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170129/1485637977#c1486811267

複数の質問を頂いておりますので、順番に書いて行きます。

最初の自己暗示についてです。

じこ−あんじ【自己暗示】

〖名〗一定の観念を繰り返すことによって自分自身に暗示を与え、通常と異なる心の状態をつくり出すこと。精神療法にも利用される。(精選版 日本国語大辞典より)

南無阿弥陀仏が自己暗示であるならば、自分自身に言い聞かせているだけとなりますから、その信心も崩れることもある信心となってしまいます。

また、生死の問題が解決されたかどうかは、仰るように第三者には観察することが出来ません。阿弥陀仏とその当事者の間でしか解りません。もちろん、いわゆる「思い込み」の信心もあるので、そういうものは自己暗示といって差し支えはありません。しかし、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無い信心は、自分の思いを挟む必要がないものなので、思い込みも必要ありません。


次に、南無阿弥陀仏は釈尊が創作したおまじないかどうかという点です。経典に説かれていることの真偽は、お訊ねの件については経典以外では証拠にならないので、回答はできません。ただ、その南無阿弥陀仏によって多くの方が生死を離れて、浄土に往生していかれたのが浄土真宗です。


最後に、いろいろと悩む私というものが存在しないのではないかという点です。固定的な自我というものは存在しないというのが、仏教でいう無我です。

南無阿弥陀仏については、親鸞聖人教行信証行巻で南無阿弥陀仏について、種々経典からその他の高僧方の著書から引文されたあと、最後にこう言われています。

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(教行信証

現代文)上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。

阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。

https://goo.gl/xuIBnI

繰り返しになりますが、南無阿弥陀仏は「凡聖自力の行にあらず」ですから、自己暗示ではありません。

親鸞聖人が「みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし」と仰るように、南無阿弥陀仏の救いは自己暗示や思い込みでも、釈尊の創作でもありません。南無阿弥陀仏でただ今救われて下さい。

2017-02-05

2017-01-29

阿弥陀仏はただ今救うとか、南無阿弥陀仏が証拠といわれても、目の前に現れるわけでもないわけので、私にとっては遠くにおられるとしか思えません。(頂いた質問)

阿弥陀仏はただ今救うとか、南無阿弥陀仏が証拠といわれても、目の前に現れるわけでもないわけので、私にとっては遠くにおられるとしか思えません。(頂いた質問)

阿弥陀仏は、どこにおられるかといえば、私が称える南無阿弥陀仏がそうなのです。

質問される方が疑問に思われるのは、阿弥陀仏といえば経典上では

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。(阿弥陀経)

と遠く極楽というところにおられる仏として説かれています。

また、目の前に現れられても、途方もないお姿で説かれています。

この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。 (観無量寿経)

(現代語)無量寿仏が突然空中に姿を現してお立ちになり、その左右には観世音、大勢至の二菩薩がつきそっておられた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができない。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにくらべようもなかった。

https://goo.gl/WPU8he

このようなお姿の阿弥陀仏なら、私も拝見したことがありません。

しかし、この観無量寿経では、韋提希夫人がそのあと述べているように「われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり」とあるように、お釈迦さまのお力によって阿弥陀仏を拝見することができたのであって、今日の私たちには同じことは出来ません。

では、私たちには阿弥陀仏とあうことは出来ないのかといえば、そうではありません。

観無量寿経で、「仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし」とお釈迦さまが説かれたあと、阿弥陀仏があらわれて下さっているのは、阿弥陀仏が「苦悩を除く法」そのものだからです。


阿弥陀仏は、その本願で「全ての人の苦悩を除いて浄土に生まれさせる」と誓われています。その阿弥陀仏の本願が成就した姿が、南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏とは何かと言えば、名前であり声です。私の苦悩を除く法は、今日の私には南無阿弥陀仏という「名前」となってあらわれて下さっています。

その南無阿弥陀仏という「名前」が、阿弥陀仏のただの「名前」ではなく、阿弥陀仏そのものなのです。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。(安心決定鈔)

https://goo.gl/Py7lmC

南無阿弥陀仏の名号(名前)は、そのまま仏の覚り(正覚)の全てであるといわれています。


ですから、私が南無阿弥陀仏と申すこの念仏は、阿弥陀仏そのものです。そのように思えるかどうかは、私の側の問題です。阿弥陀仏はどこにおられるというよりは、南無阿弥陀仏と口にするときその声であり、名前が阿弥陀仏なのです。

阿弥陀仏を遠くにおいて眺めるのではなく、この南無阿弥陀仏が阿弥陀仏と聞いて救われて下さい。

2017-01-09

2017-01-03

「真剣さが足りないから、いま阿弥陀さまの呼び声が聞こえないのでしょうか?」(東堂の前さんのコメントより)

真剣に聴聞することは大切です。

南無阿弥陀仏は無条件の救いと聞かせて頂きますが、

聴聞がなくて救われることはないと教えて頂きます。

では、私が真剣に聞けば救われるのでしょうか?

言い換えれば、真剣さが足りないから

いま阿弥陀さまの呼び声が聞こえないのでしょうか?

たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、

そのなか押して南無阿弥陀仏のいわれを聞く人は、

永久に変わらぬ幸せに救われるのである。

と教えられます。

こう言われると、阿弥陀仏の救いは、

猛火に包まれた大宇宙の彼方にあるように聞こえます。

阿弥陀仏の救いは、そんな遠くにあるのでしょうか。

でも、私には猛火に包まれた大宇宙を超えて聞く、

そんな根性も求道心も真剣さもありません。

横着にあぐらをかき開き直て言うのではありません。

実際に弱い心で、それすら無いかもしれません。


私の救われる教えを聞かせて頂きたいと思っています。(東堂の前さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170101/1483225088#c1483247209

東堂の前さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「真剣さが足りないから、いま阿弥陀さまの呼び声が聞こえないのでしょうか?」とのことですが、それは違います。

コメントの文章をお借りすると「足りないのではなく、余分なものがあるから、阿弥陀さまの呼び声が聞こえない」のです。


東堂さんが料理をされる方かどうかは存じ上げませんが、料理に例えると「雑煮を作っている時、何か足りないなと思って醤油を足したり、辛すぎたといって砂糖を足したり、甘すぎたといってまた醤油や酢を入れた上で、勢いあまって冷蔵庫のオイスターソースを入れてみて、なんだかとても食べられなくなった状態」を想像してみて下さい。その雑煮を前にして「何が足りなかったのでしょうか?」と作った人に聞かれれば、「足りないものはなにもありません。むしろ余分なものが多いのです。」というしかありません。


同様に、「何故阿弥陀さまの喚び声が聞こえないのですか?」の問いについては、東堂の前さんが、すでにかなり自力の調味料を足している状態になっています。そうすれば、料理ではできないことですが「余分なものを捨てて下さい」というのが回答になります。蓮如上人が

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」(領解文)

https://goo.gl/GaoHg0

と言われるのはそのことです。


言い換えれば、今迄してきたことの何が悪かったのだろうか?何か足らなかったのだろうかといくら考えても、目の前のどうしようもなくなった雑煮は食べられるものにはなりません。ではどうすればいいでしょうか?料理でいえば、作り直すことです。状況でいえば、振り返らないことです。また、やってきたことを忘れることです。


なぜなら、いつでも南無阿弥陀仏は私に呼びかけられ、ここにおられるからです。そこに、足さずにそのまま聞きうけるより他はありません。ただ今救うと聞いたら、ただ今助けられるのです。

「たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも」について

次に、「たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、」について書きます。

これは、親鸞聖人のご和讃でいえば、以下のものを言われているのだと思います。

(31)

たとひ大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなふなり(浄土和讃

https://goo.gl/ey0NvW

これは大無量寿経に説かれたことを、親鸞聖人がご和讃に書かれたものです。


ここでよくよく思いだして頂きたいのは、大無量寿経もご和讃も、阿弥陀仏の本願の救いが書かれています。阿弥陀仏の本願は、「修行もできない、菩提心もない」ものを何とか救いたいということで建てられたものです。


「猛火に包まれた大宇宙の彼方」に進める人は、とんでもなく菩提心のある人であり、そこを進む修行ができる人です。「何も出来ないものを救う」本願なのに、「猛火に包まれた大宇宙の彼方|に行ける人しか救わないという条件がつけられる筈はありません。


これは、法の尊さをいわれたものです。本来は「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」行かねばえられないような大変な利益(ながく不退にかなう)なのだと示されたものであって、条件ではありません。阿弥陀仏が回向されるのは、「猛火に包まれた大宇宙の彼方」に行かねばえられないくらいのものなのです。それを、私に差し向けて下されるのですから、私は何も足さずに受けるより外はありません。


東堂の前さんは「実際に弱い心で、それすら無いかもしれません。」と言われるのは大変有り難いことだと思います。私には「根性も求道心も真剣さも」あると思って法を聞く人は多くあります。しかし、無い袖は振れませんし、ないものはどれだけ考えてもないのです。本来ないものを「出そう」として、「出さねば救われない」と考えても、最初の「出そう」とするものがないのですから、「『出さねば救われない』救い」が獲られるはずはありません。つまり、自分で作り上げた救いでも、すでに無理な状態なのです。そうではなく、何も出さなくてよいと建てられた南無阿弥陀仏を聞いて下さい。ただ今救うということは、条件がないのです。準備がいらないから「ただ今救う」の仰せなのですから、ただ今救われて下さい。

2017-01-01

2016-12-10

「「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。」(求道者Kさんのコメントより)

しばらくエントリーができず申し訳ございませんでした。また、その間コメント欄にコメントされた方々に御礼を申し上げます。

コメント欄に、求道者Kさんが続けて書かれていることもありますが、最初に書かれたコメントの文面からエントリーを書きます。

このような形で結果的に死後は「おまかせ」、現生は「いただき」のような境地に至ってる私ですが、入り口こそ「お念仏のいわれ」でありましたが、出口としては「縁起の道理」であり、そこに南無阿弥陀仏は必要ではないのではないか?と感じました。必要であったとしてもそれは「南無阿弥陀仏のいわれ」であり、「南無阿弥陀仏」ではありません。そうなるとこの救いには「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」という条件が必要となります。「南無阿弥陀仏」と称えるだけではこのような考えに至らなかったからです。(しかし私としてはきっかけは南無阿弥陀仏だったので感謝の意でお念仏は申します。他の人に絶対にコレとすすめるには至っておりません。)(求道者Kさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」ことが条件になるのではないでしょうか?とのことですが、大ざっぱにいえば条件になります。なぜなら、念仏一声も称えない人を、本願のほの字も知らない人まで浄土に往生させるという本願ではありませんから、「無条件の救い」という言葉の前提は、なんらかの形で念仏申したり、法を聞くご縁にあった人のことです。

しかし、そのように念仏するようになったのも、法を聞くご縁に恵まれたのも信心を獲るのも阿弥陀仏の回向のお働きであり、私が何かをしたからそうなったのではないと、親鸞聖人はいわれています。

(34)

弥陀の回向成就して

 往相・還相ふたつなり

 これらの回向によりてこそ

 心行ともにえしむなれ(高僧和讃)

そこで、法を聞くようなご縁にあった人に、このブログ上でいろいろと信心についてお尋ねを頂きます。私のブログは、「何をしたら助かるのでしょうか?」という方には、「何かをしたら助かるという条件はありません」と書いてきました。「まだまだ時間がかかりそう」という方には「今救われて下さい」と書いてきました。「為すことがないなら待っていればいいのですか?」と問われれば、「待つのではなく、今聞いて下さい」と書いてきました。

このように、人に対して何とか救われて下さいと勧める立場でいうと、「努力が必要で自分にはまだその努力が必要」という人には「努力せよ」とはいいません。「待てばいい」という人には、「待ってはいけません聞いて下さい」といいます。それは相手がこれが条件だと思い込んでいることを否定してるだけです。その意味で「無条件の救い」が阿弥陀仏の救いです。勧めるのは、一言で言えば南無阿弥陀仏となります。

また、南無阿弥陀仏と南無阿弥陀仏のいわれは分けることはできないものです。なぜなら南無阿弥陀仏のいわれの結果、南無阿弥陀仏となられているからで、南無阿弥陀仏のいわれと南無阿弥陀仏は別の二つのことではありません。

念仏を申す人は、「浄土往生の法」とか「阿弥陀仏の喚び声」などなどいい方はいろいろありますが、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて念仏されているからです。

一体、南無阿弥陀仏とは何なのでしょうか?また、往生浄土について私は「自然」のことと思っていますが、「では、無宗教(波阿弥陀仏と称えない人)やキリスト教(他宗)の人はどうなのか?極楽浄土はそこに生まれたいと願う人が皆もらさず生まれる処であり、極楽に強制連行されるわけではない」と言う人もいます。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

そこで南無阿弥陀仏とは何かについてコメント欄の他の方が安心決定鈔を紹介しておられましたので、そこから紹介します。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。 (安心決定鈔)

https://goo.gl/5j2j4W

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の仏のさとりの全体です。南無阿弥陀仏を離れて、阿弥陀仏の正覚はありません。だから、全ての人を浄土往生させるという本願が成就して阿弥陀仏となられたので、私たちの往生の体でもあります。私たちの往生の体であるから、阿弥陀仏の願と行がすべて私に具わるということです。

「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。(求道者Kさんのコメント)

これについて、南無阿弥陀仏は救いへの感謝ではありません。

救いの条件については、前述しましたが大きくいえば念仏申す、法を聞くご縁にあうことです。その意味で、今キリスト教を信じ、真宗の存在そのものを知らない人が突然浄土往生する身になるような無条件の救いではありません。先にも書きましたが、法を聞いたり念仏申すも阿弥陀仏のお働きによるものですから、私が○○したから法を聞くご縁にあえたということは本来はありません。その意味では私の側で「○○したら助かる」という条件はありません。ただ、それは救われてみれば頷けることで、何も知らない人が聞いて納得できるものではありません。

ですから、過去から多くの先達は、法を聞いて下さい、念仏申して下さいと有縁の人に勧めてきました。法を聞かれるようになった、念仏申されるようになってからは、また南無阿弥陀仏を疑い無く聞く以外になにもないのが真宗の救いです。それ以外は条件はありません。コメントの文脈上「救いを実感する」というのが、信を獲るということだと理解して上記のように書きました。

2016-12-04

「「いつか浄土というふるさとに帰れるのだから今は我慢しなさい」と、もっと言うなら「世界には貧困や飢えでくるんでいる人がいるのだからそれに比べてたらマシ」というような論理と変わらないのではないか?と感じ始めたからです。」(求道者Kさんのコメントより)

生もご縁、死もご縁です。私は母から生まれたがそれもご縁の一つに過ぎない。ガンジス河の砂の数ほどのご縁が私を成り立たせている。だから娑婆の縁尽きれば去っていくのみです。そういう意味でいのちは平等です。縁において生起し、縁において去る。生まれが平等なのにどうして生き様でや死に様で去ることに差が生まれましょうか。そういう縁のもとの世界が海なら、人のいのちは波にたとえられますね。海から生まれ海に還っていく。

よって浄土教ではその海を「浄土」と称しているだけであり、どんな方でも往生浄土は自然な事なのではないでしょうか。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

これに関しては、前回のエントリーに書きました。自然の浄土といわれる「自然」は無為自然のことなので、「どんな方でも往生浄土は自然な事」ではありません。

では仮にそれがそういうことだとすると、その「往生浄土」という救いと「今」がどう結びつくのかが問題です。「往生浄土」の確信が「今」だとしても、往生は未来のことであり、今目の前の悩み苦しみに向き合う力になるのかに疑問があります。それは今と往生浄土の比較論であり、まるで「いつか浄土というふるさとに帰れるのだから今は我慢しなさい」と、もっと言うなら「世界には貧困や飢えでくるんでいる人がいるのだからそれに比べてたらマシ」というような論理と変わらないのではないか?と感じ始めたからです。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

これに関して、未来の往生と、今の目の前の苦しみに向き合う力の関係についてのご意見だと受け取りました。求道者Kさんのいわれるような疑問は、私も以前ありました。確かに、往生浄土が定まっていても現実問題がなくなく訳ではありません。「未来に救いがあるから、今は耐えていけ」では、特に現代の人は納得できない人も多いです。

阿弥陀仏に救われる、信心決定、信心を賜るなどいろいろと言いかたはありますが、信心という言葉が持つイメージから、先のような疑問は起きていたのだと後で分かりました。それは、阿弥陀仏に救われたら「私は往生間違いないと私が信じられるようになる」と思っていました。しかし、本来は阿弥陀仏が私の往生は間違いないと信じられていることを受け入れることです。言い替えると、阿弥陀仏が私を信じられていることを聞き入れることで、私は始めて往生が定まると信じるようになります。


それについて親鸞聖人は阿弥陀仏の本願の三心(至心、心行、欲生)について以下のようにいわれています。

あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。

信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。

欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。

いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(教行信証信巻)

現代文明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。

いま、この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみると、みな、まことの心であって、いつわりの心がまじることはなく、正しい心であって、よこしまな心がまじることはないのである。まことに知ることができた。疑いのまじることがないから、この心を信楽というのである。

阿弥陀仏が本願で願われた三心とは、すべて真実の心であって、阿弥陀仏から回向される心です。往生間違いないというのも、阿弥陀仏が私の往生は間違いないと疑い無く信じられているから起きる心です。


私自身も自分が往生できるとは、本来思ってもいないですし、また、法を聞き始めてもなかなか信じられないものです。しかし、そこでいくら「自分で自分に私は必ず往生する」と信じようとしてもとても信じられるものではありません。仮に阿弥陀仏から「自分を信じろ」といわれても出来るものではありません。例えば、受験にしろなにかのスポーツの試合の前に、「自分は大丈夫だ」と自分に言い聞かせても、家族から「自分を信じろ」といわれても安心できないのと同じです。つまり、未来のことを自分で信じようとしても、他人から信じろと現実は何も変わりませんから、そこには安心もありません。


ですから、未来は大丈夫だと信じたとしても、あまり現実の安心とはつながらないのではないかと考えてしまいます。また、阿弥陀仏に「自分を信じろ」といわれても、なかなか信じられるものではありません。


そこで、阿弥陀仏は「貴方が浄土往生することを疑い無く信じています」という信心を私に差し向けて下さっています。言い替えると、「貴方は浄土往生できると信じています」と常に仰っているということです。「阿弥陀仏に私は信じられている、しかも疑い無く」ということです。それを聞き入れる人は、「阿弥陀仏に信じられている人」となるので、それを信心決定といいます。

未来の往生浄土のことではありますが、今日的な言い方をすれば、「私を疑い無く信じて下さる方がおられる」という信心は、現在のことですし、それが現実の問題に対して私を動かしたり、支えてくださることになります。


「往生浄土の確信」というよりは、「私の浄土往生を疑い無く信じて下さる阿弥陀仏がおられる」ところに信心も、安心もあります。どこどこまでも凡夫である私にしてみれば、どんなことより「私の浄土往生を疑い無く信じて下さっている」ことが、私を支えて下さいます。私が信じる以上に、それよりも遥かに強く疑い無く私の浄土往生を信じて下さるのが阿弥陀仏です。その阿弥陀仏の「私を信じる力」によって私もそれをその通りと受け取ります。もちろん、私に能力があって浄土往生するのではなく、全ては阿弥陀仏のお計らいによるものですが、その上で「貴方は浄土に往生しますと信じています」と言い切られるのです。


考えて見ると、この娑婆世界において私を疑い無く信じている人はほとんどありません。そんな人に会えた人は幸福な人でしょう。真宗では阿弥陀仏を親さまとよくいいますが、疑い無く信じるという意味では、赤ちゃんが親を信じるように、私の浄土往生を疑い無く信じて下さるのが阿弥陀仏です。それだけ信じられていることによって、私は「信じられている」という信心が決定します。

それが、現実の問題になにか影響があるのかといえば、少なくとも「誰かに疑い無く信じられている人」と「誰からも信じられていないと思っている人」は違います。現実の問題に影響があるかとすれば、その点です。

それ以降の求道者Kさんのお尋ねについては、次回に書きます。遅れ遅れになって申し訳ございません。

2016-12-01

「自分でなんとかしなきゃいけない問題をドラえもん(神仏)に何とかしてもらおうという考えで居る限り永遠に救いとやらには巡り合わないと思うのですが如何お考えでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

求道者Kさんのエントリーの続きの前に、こちらを書きます。

みそみそ 2016/11/30 11:52

最近、真宗の教えに縋って「助けてください阿弥陀様〜!」と言って行きていても不毛だなと思い、

一旦、真宗の教えから離れ、自分なりの解え(悟り)を求めて、色んな教えに触れ、いろんなことに挑戦し、自分の中の生死を離れられない迷いの心を打開しようと模索しています。

しかしなぜでしょう。そういったことをやればやるほど、辿り着く解えは何故か不思議なことに「本願成就文」にたどり着きます。

特別「南無阿弥陀仏」を求めよう、聞こうとせずとも、日常の中にふっと、自然に、「南無阿弥陀仏」の言葉が入ってきます。

これがいわゆる17願、12願と言うもの何かもしれません。

さて、そんなオカルトめいた怪奇現象の話は置いといて、そんなまどろっこしく私に逐一アピールするならさっさと救えよと思うのですがどうなのでしょう。

どれだけ立派な法であれ、それが現実と噛み合っていなければ机上の空論でしかないし、

一人ひとりが持つ迷いの心というものは誰かに何とかしてもらうと言うものではなく、

こればかりは自分と向き合いしっかりと地に足を付けて解決していくべきものではないのかなと思います。

自分でなんとかしなきゃいけない問題をドラえもん(神仏)に何とかしてもらおうという考えで居る限り永遠に救いとやらには巡り合わないと思うのですが如何お考えでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161129/1480424571#c1480474368

ふっと南無阿弥陀仏が入ってくるというのは、有り難いことだと思います。

お尋ねの件ですが、阿弥陀仏がうけもって下される問題と、自分でなんとかしなきゃいけない問題を分けることが必要だと思います。みそみそさんがいわれる「迷いの心」には、大きな意味では、生きてきたなかで一人一人が抱えてきた悩みや苦しみも含まれると思います。しかし、阿弥陀仏の本願は、生死を自らの力で離れられず迷いを重ねる凡夫を、浄土に必ず往生させ仏にしてみせるというものです。

阿弥陀仏の救いの部分はそこであって、私が抱えている様々な疑問や「これは自分で解決しなければ」と感じているものすべてをさすものではありません。

阿弥陀仏に救われた、信心を獲たというのは「これは自分でなんとかしなきゃいけない問題を解決した」ことではありません。

親鸞聖人は、信心について教行信証に以下のように書かれています。

大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。(教行信証信巻)

(現代語)

大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、如来の巧妙におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。

https://goo.gl/qsUZYs

どれも凡夫の力で解決できる内容ではありません。「世間難信の捷径(世間一般の考えでは信じがたい近道)」とあるように、自分で悟りを開く仏教からすればとても信じがたい近道です。「悟りは自分の力でなんとか」という考えもありますが、近道だからといってそれがよくないことではありません。阿弥陀仏は、私にはその道しかないということで与えられた道ですから、それをその通りと聞き入れて下さい。

阿弥陀仏の救いは文字通り「救済」「救助」であって「支援」ではありません。私が自分の力で悟れるまでサポートして下されるものでもありません。その意味で自分の力でなんとかしようとする間は永遠に救助されません。支援をしてもどうにもならない凡夫を目当てに本願を建てられたのですから、ドラえもんのような阿弥陀仏ではありません。なぜなら、ドラえもんは、のび太の支援者であって救済はしてくれません。

ドラえもんの道具で解決できる問題は、阿弥陀仏の本願には含まれていません。私を必ず浄土に往生させる、仏にするという本願をそのまま聞いて下さい。

2016-11-29

「阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。私はこれに深く頷くところがあります。つまり、釈尊の縁起の道理に照らせば往生浄土は当然の成り行きではないか?と感じるからです。」(求道者Kさんコメントより)

求道者さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

コメント欄にも一部書いたものに書き足してエントリーを書きます。ただし、質問も長文なので、何回かにわけていきます。よろしくお願い致します。

コメントより

>阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。

これについては、真宗では「称名」そのものも、阿弥陀仏の念仏申させるお働きという説明をします。ですから、念仏するという行為そのものは、「私の側の特定の行為の有無で救うか救わないかが別れるという条件」には成りません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480339098

上記はコメント欄に私が書いたものです。

それ以降の、求道者Kさんのコメントには

親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。私はこれに深く頷くところがあります。つまり、釈尊の縁起の道理に照らせば往生浄土は当然の成り行きではないか?と感じるからです。(求道者Kさんのコメントより)

自然の浄土親鸞聖人がいわれているところは、以下の部分です。

(71)

念仏成仏これ真宗

 万行諸善これ仮門

  権実真仮をわかずして

  自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)

(76)

五濁悪世のわれらこそ

 金剛の信心ばかりにて

 ながく生死をすてはてて

 自然の浄土にいたるなれ(高僧和讃)

どちらも同じ意味で「無為自然の浄土」という意味で使われています。

無為自然。さとりの世界は有無の分別を離れ、分別による限定を離れた絶対無限の境地であることをいう。親鸞はこの場合も「自ら然り」という静的なものではなく、「自ずから然らしむ」という動的な救済活動の根源としての意味をもつものとする。(浄土真宗辞典より)

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

または、自然とは涅槃の別名でもあります。

ですから、自然の浄土とは阿弥陀仏のさとりの領域をあらわされています。そこは、人間の計らいを離れた状態にあります。


「往生浄土は当然の成り行きではないか?」とのことですが、阿弥陀仏の本願力によって救われて行くので、その本願力によれば浄土往生は誰でもできます。ただ、阿弥陀仏の本願では、罪の大小や性別、年齢などによっての違いはありませんが、本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると誓われています。

その意味では、死ねば誰でも浄土に往生するという本願ではありません。「願力成就の報土には、自力の心行いたらねば」(高僧和讃)といわれるように、自力修行の人は浄土にいたることは出来ないといわれています。自然の成り行きで浄土往生はできません。

すみませんが、続きは次のエントリーに書きます。よろしくお願い致します。

2016-11-25

「南無阿弥陀仏の救いとはどういうもので、どう救われたのか。往生とはどういうことなのか、そのあたりをお聞かせください。(求道者Kさんのコメント)

求道者Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

求道者K 2016/11/23 21:24

興味深くよませていただきました。電子書籍のご著書も拝読している最中ですが質問させてください。(これまでと重複であればすいません)

浄土真宗は、南無阿弥陀仏の宗教ですから、南無阿弥陀仏一つです。南無阿弥陀仏一つで救われ、南無阿弥陀仏一つで往生します。

とのことですが、数々の法話等をお聞きしましても、「必ず救われます」というお話しはお聞きしましても、残念ながら「私は救われました」というお話をほとんど聞いたことがありません。

山も山様ご本人様は救われているのでしょうか?救われていることと思いますので、是非、南無阿弥陀仏の救いとはどういうもので、どう救われたのか。往生とはどういうことなのか、そのあたりをお聞かせください。

もちろんお聖教上の言葉による表現もお聞きしたいところではありますが、この現実生活における内容としてそれがどのようなものなのか、なるべく言葉を尽くして表現してくださると有難いことです。よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160929/1475150538#c1479903870

私は救われましたという法話がないのは、法話というのは基本的に阿弥陀仏のお働きを褒め称えるものだからです。なぜなら、阿弥陀仏に救われたと言っても、私は何もしていないので、自分のことで語ることはありません。例えば、九死に一生を得たような場面で、自分の機転や行動に関係なく救助隊の人に救助された人は、仮にその体験を語るにしても、「自分は何もしてないのですが」という前提で話をするしかありません。その上で話をするとすれば、「救助隊の方がどう苦労をされたのか」という話をするしかありません。

そこで私自身が救われているかというお尋ねですが。そういうことでしたら救われています。ただ、どう救われたかということを、ブログに書かないのは先に書いたような理由からです。往生については、阿弥陀仏が必ず浄土往生させるという仰せを聞き入れているだけで、私自身が浄土をこの身で見たことはありません。


お尋ねの趣旨からして、救われたら現実生活の内容としてどういうものなのかということなので、現時点での思うところを書いてみます。現時点で、といいますのは、救われたあとでも真宗では「お育て」という言い方をして、救われた後にまた阿弥陀仏のお育てによって信心についての味わいは成長または変化していくものだとされているからです。それ自身は、私も感じるところです。5年前と今、昨年と今では異なります。


救われたらどうなるかについては、それに該当することが一般に少ないので、私自身が感じることで例えますと、一度クリアしたゲームの二週目といった感じです。

私は、1973年生まれでファミコン世代の人間です。私が10才の時にファミコンが発売されました。それ以降、鬼ごっこや三角ベースをして遊んでいたのが、ファミコンを持っている友人の家に集まってゲームをするようになりました。そのうち私もファミコンを所有するようになり、ゲームに夢中になりました。


どのゲームも最初はエンディングを目指して頑張ります。では、一度クリアしたゲームはそれで二度とやらないかといえば、そうではありません。言い方はいろいろありますが、よくいう言い方では二週目という状態になります。つまり、一周回ってまた、最初からやり直すか、ゲームによってはそのあとも続けるというものです。

二周目になると、一旦クリアをしたので、ゲームをクリアする以外にゲーム内のいろいろなことを試してみたり、ゲームの世界そのものを楽しむようになります。クリアする前は、如何にこのゲームを早くクリアするかばかりを考えていたのが、一転してゲームの世界そのものを楽しめるようになります。

現在の私の感じることは、このゲームの二週目によく似ています。ゲームというのは、クリアしたからといってその瞬間に主人公が急に強くなったりはしないものです。クリアしたことによって出来ることが大きく増えることはありません。多くの人におなじみのスーパーマリオを例にとると、全部のステージをクリアしても、主人公のマリオが出来ることは全く変わりません。一度クリアした人は、クリア自体を目標とせず、それぞれの人が、その人にあったゲームの楽しみを見つけて遊んでいます。

私が救われたあとに、何が変わったかといえば、上記のようなものです。

以前は、現実生活に加えて、自分は救われるのか救われないのかという緊張感が常にある状態で生活をしていました。先が見えない不安は常にあったと思います。

しかし、救われてみると、「どうしたら救われるか」という心配はなくなりました。常に気にかかっていたことが、解消しました。ただゲームと違うのは、ゲームをクリアできるかどうかは、本人の努力次第ですが、阿弥陀仏に救われるには、私の努力は関係ありません。ただ、阿弥陀仏のお力によって救われます。

ゲームの二週目に例えたのは、クリアしたあとのゲームの内容がどんな内容であったとしても、一度終わったという事実は変わりないということです。別の言い方をすれば、私は生きている間に、人生が二周目になったようなものです。「救われるかどうか」の人生が一度終わり、「救われた後の人生」が始まりました。どういうことが起きるかということは、見通せるような智慧はありませんが、阿弥陀仏が私を浄土に往生させ、仏にしてみせると誓われた本願は、その通りと聞き入れています。どんな経路をたどったとしても、浄土往生に変わりがない人生にそれ以上望むものはありませんから、自分のできることはさせて頂こうという気持ちで生きています。

2016-11-23

2016-11-13

2016-10-30

例えば、自分の罪悪が知らされねば救われないというように考えていました。また、後生の一大事に驚きが建たねば救われないとわれないと思っていました。浄土真宗の救いは、そういうものではないと聞きましたがどういう事でしょうか?(頂いた質問)

例えば、自分の罪悪が知らされねば救われないというように考えていました。また、後生の一大事に驚きが建たねば救われないとわれないと思っていました。浄土真宗の救いは、そういうものではないと聞きましたがどういう事でしょうか?(頂いた質問)

お尋ねの通りで、浄土真宗の救いは○○をしなければ(知らされなければ)救われないというものではありません。

阿弥陀仏の救いは、社会保障のように自分で申請したり何かの基準をみたさないといけないものではありません。

浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。(安心決定鈔)

とありますように、阿弥陀仏の救いを知るには阿弥陀仏の本願がどういうことで起こされたのかを知って頂きたいと思います。

阿弥陀仏の本願は、私の要請に応じて建てられたものではありません。「助けて」と声をあげられない私を御覧になって「助ける」という本願を建てられたのです。学校のいじめ問題や、いろいろな社会の問題がありますが、本当に困っている人は「助けて下さい」ということも出来ない人がほとんどであるのが現実です。

海に溺れている人は、「誰か助けて!」と大声をあげる余裕もありません。

そういう私を御覧になって「助ける」と立ち上がられました。

そのことを善導大師は、このようにいわれています。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。 (観無量寿経疏

仏様の御慈悲は苦しむ人にかかるのであるから、常に苦しみに沈んでいるものにかかるのです。そういうものを浄土に往生させてくださいます。また、水に溺れている人はただちに救って下さいます。岸にいる人よりもそれは優先されるものです。


仮に溺れている人を助けに来た人が「あなたの名前は?」「年齢は?」「今迄どんなことしてきました?」「どんなこと思ってきました?」と質問するでしょうか?また、それに答えられなければ救いませんなどというはずはありません。そんなことをいうのは、保険会社の人であって医者や救助隊ではありません。

阿弥陀仏は、例えていえば医者や救助隊の人にあたります。私がどうにもならない状況にあるという点で救いに来られたのですから、実際に救いに来た上で身体検査をするようなことはありません。ただ今救われて下さい。

2016-10-11

「本当に任せるだけでいいのでしょうか?そもそも任せると言うことがどういうことなのか全く理解できません。生活のために仏法を置き去りにしてでもなりふりかまっていられない。でもその間に死んでしまったらゲームオーバー。私はこれでいいのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2016/10/09 00:26

いつも勉強させていただいております。

結論から言うと現在経済的な事情により、とてもではありませんが仏法に向き合っている余裕が持てません。

経済的に落ち着くまでは法話も念仏も唱えられそうにありません。と言うか、南無阿弥陀仏の心すら忘れかけつつあります。

もう自分から仏法を追い求めることなんて出来なくてもうひたすら本当に阿弥陀如来に任せるしかない状況です。

本当に任せるだけでいいのでしょうか?そもそも任せると言うことがどういうことなのか全く理解できません。

生活のために仏法を置き去りにしてでもなりふりかまっていられない。でもその間に死んでしまったらゲームオーバー

私はこれでいいのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160929/1475150538#c1475940374

エントリーを書くのが遅くなり申し訳ありませんでした。

経済的な事情により、仏法に向き合っている余裕は無いとの事ですが。何も法話に参詣するだけが仏法に向き合うことではありません。念仏については朝起きたときでも、夜寝る前でも気がついた時に称えてみてください。

みそみそさんの現状は、文面から伝わってきます。本当に大変な状況なのだと思います。

私も、日常の仕事なのに追われていると、心の余裕を無くすことは度々あります。そうはいっても、みそみそさんの方が大変だと思います。

そこで、「阿弥陀仏に本当に任せるだけでいいのでしょうか?」とのことですが、阿弥陀仏の本願に任せる以外に方法はありません。言い方を変えれば、南無阿弥陀仏以外にないというのが、阿弥陀仏が本願を建てられた御心です。それについて、法然聖人選択本願念仏集に以下のようにいわれています。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。

ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択本願念仏集

大意としては、阿弥陀仏は全ての人を救う為に、助かるのに難しい手段を捨てられて、優しい手段を取られました。もし、沢山お布施をしなければ助からないということになれば、貧しいものは助かりません。もし賢いものしか助からないとなれば、愚かなものは救われません。また、多く法座に参詣できる人でないと救われないならば、聞く機会の少ないものは救われません。戒律についても同様です。しかも、布施、多くの法座に参詣、戒律を守ることの出来る人は決して多くありません。そこで、阿弥陀仏は何かをしなければ救われない、こういう人でなければ救われないという本願は建てられませんでした。念仏一つで救われる本願を建てられました。

ですから、阿弥陀仏の本願は常に私にまかせよとおっしゃっています。

任せるということがどういうことなのか全く理解できません、との事ですが任せるというのは救われるということを自分の仕事であると思う気持ちを手放すことです。いろいろと忙しくなってきて、誰も手助けしてくれないと思うと、ますます全部自分でなければならないと思います。また、「こんな自分では…」と自分を見つめてしまいますが、そんな事はありません。

阿弥陀仏には、往生についてはすべてまかせれば良いのです。

また、みそみそさんは生活と仏法は両立できないように思っておられるようですが、それは間違いです。なぜなら、そんな気持ちに余裕のないなか、阿弥陀仏の救いを求められているのが何よりの証拠です。どうにもならない現状をなんとかしたい、ここから離れたいと思われているみそみそさんの願いに先立って建てられたのが阿弥陀仏の本願です。

生活を一旦止めてから仏法があるのではありません。もし生活を離れなければ仏法がないとすれば、生活のことをいろいろ止める余裕がある人でなければ聞けないことになってしまいますが、それは間違いです。


さしあたっては、朝起きるとき、家から出る時にでも念仏を申してください。私の気持ちは余裕がなくても、少なくともそのときは阿弥陀仏の本願と私が触れ合っている時間なのです。

最後に、私はこれで良いのでしょうか?と仰っていましたが、こんな状態では、救われないのではなかろうかと考えておられると思いますが、そんなものを救うと言うのが阿弥陀仏の本願です。必ずただ今救われます。

2016-10-06

2016-09-29

「「南無阿弥陀仏」という言葉の経典上、聖教上の根拠を教えてもらえませんでしょうか。」(あどうちさんのコメント)

あどうち 2016/09/28 07:05

私は教学関係は相当無知でございまして

今更ながら質問をさせて頂きます。

「南無阿弥陀仏」という言葉の経典上、聖教上の根拠を教えてもらえませんでしょうか。

宜しくお願い致します

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160917/1474054013#c1475013904

あどうちさん、コメントを頂き有り難うございました。エントリーが遅くなりすみませんでした。

南無阿弥陀仏という言葉が出てくる経典は、浄土三部経の中では観無量寿経です。

観無量寿経では2箇所ありますが、以下を紹介します。

かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P115)

この観無量寿経では、五逆罪・十悪をつくってきた悪人が、まさに臨終に善知識にあい、その教えをうけて念仏した結果、極楽に往生したと説かれています。これを元に、善導大師や法然聖人親鸞聖人はこの南無阿弥陀仏が、私を浄土に往生する働きであると教えられました。

以下、それについていくつか書いていきます。

曇鸞大師は以下のように言われています

かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。(浄土論註)

この無碍光如来の名号とは、阿弥陀仏の名号のことですから、南無阿弥陀仏と同じ意味です。その南無阿弥陀仏は、人々の無明を破り、往生の願いを満たして下されると言われています。

次に善導大師は、六字釈に以下のように言われています。

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。 「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。(観無量寿経疏

これは、最初にあげた観無量寿経の南無阿弥陀仏の称名について、解説されたものです。

南無阿弥陀仏は、願と行が具足しており、だからこそ必ず往生できるのだと言われています。

次に、法然聖人

南無阿弥陀仏[往生の業には、念仏を先となす。](選択本願念仏集

私が浄土に往生する働きは、南無阿弥陀仏一つであると言われています。

それらの高僧方の教えを受けられて、親鸞聖人は、以下のように言われています。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(教行信証行文類 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P146)

(現代語訳版より)

こういうわけで、ただ名号を称えるところに、衆生のすべての無明を破り、衆生のすべての願いを満たして下さるのである。称名はすなわちもっともすぐれた正しい行業である。正しい行業はすなわち念仏である。念仏はすなわち南無阿弥陀仏の名号である。南無阿弥陀仏の名号はすなわちしんじんである。よく知るがよい。

元は経典から、そこから七高僧方が、その解説をしていかれ、親鸞聖人がまた南無阿弥陀仏一つが救いの働きであり、信心であると教えて下さいました。

浄土真宗は、南無阿弥陀仏の宗教ですから、南無阿弥陀仏一つです。南無阿弥陀仏一つで救われ、南無阿弥陀仏一つで往生します。

2016-09-17

「いくら念仏を唱えても、いくら御法話を聞いても一向に救われません。もう救いに逢うことは諦めて、生きている内に仏法が聞けただけでも良しとして、残りの人生を閉じたほうが良いのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2016/09/13 19:42

(略)

いくら念仏を唱えても、いくら御法話を聞いても一向に救われません。

もう救いに逢うことは諦めて、生きている内に仏法が聞けただけでも良しとして、残りの人生を閉じたほうが良いのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160910/1473509206#c1473763379

よくありません。

阿弥陀仏が貴方を救うことをあきらめたのならば、救いにあうことをあきらめるのも理解出来ます。しかし、阿弥陀仏はあきらめておられません。言い換えれば、本願を建てられた時から、一度もあきらめたことがないからこそ、本願はすでに成就しているのです。

何とか助かりたいと念仏されたり、仏法聴聞されているとのことですが、そういうときは阿弥陀仏と私の間でなにかやりとりをしているように感じることがあります。

例えると、阿弥陀仏に私がボールを投げるのですが、なかなか阿弥陀仏からボールが返ってこないような感じでしょうか。これは、私の方から阿弥陀仏に働きかけるけれども一向に「助ける」と言って下さらないような感じです。念仏を称えるのも聴聞するのも、阿弥陀仏にボールを投げるようなつもりでされているのではないでしょうか?

しかし、実際は阿弥陀仏から私の方へとボールは投げられています。あとは私がそのボールをどうするかなのです。

南無阿弥陀仏は、私に投げられた「助ける」のボールです。私は、助けるの仰せを聞くか聞かないかです。どれだけ私がそのボールを無視したり、気がつかなくても、阿弥陀仏は投げ続けられます。

阿弥陀仏が、やめられない限り私があきらめることはありません。また、私があとらめるかどうかで、阿弥陀仏は救いを断念されることはありません。

今まで救いを求めて来た時間は決して短くはないでしょうが、ここでやめることはありません。ただ今救われてください。

2016-09-15

「私の心や行為に関係なくお救い下さるのが南無阿弥陀仏だと理解しております。
ただ、何かを思ってなくては、ただ声にするばかりで、聞く気になれない気がするのです。
何も思わなくとも、聞かせるのが南無阿弥陀仏なのでしょうか。」(でんさんのコメント)

でん 2016/09/12 10:41

はい、意識することで救われるとは思っておりません。
私の心や行為に関係なくお救い下さるのが南無阿弥陀仏だと理解しております。
ただ、何かを思ってなくては、ただ声にするばかりで、聞く気になれない気がするのです。
何も思わなくとも、聞かせるのが南無阿弥陀仏なのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160910/1473509206#c1473644470

エントリーが遅くなり、申し訳ございませんでした。

何かを思っていなければ、聞く気になれないと言うお気持ちはよくわかります。私もそのように思っていました。

また、「何も思わなくとも、聞かせるのが南無阿弥陀仏なのでしょうか。」についてはその通りです。しかし、誤解のないようにいいますと、それは阿弥陀仏の「あ」の字も考えたことがない人が、ある日救われるという話ではありません。何かといえば、私が助けてくださいと願ったから、それに応じて助けてくださる阿弥陀仏ではないと言う意味でのことです。考えてもみれば、私が救いを求めるのに先だって慈悲を起こされ、本願を成就された阿弥陀仏の本願です。その上でさらに、私の「助けて下さいの願い」がなければ救わないということはありません。たとえて言えば、大規模な自然災害がおきたときは、被害にあわれた地域からの要請がなくても、被害が大きければ救助隊は出動します。

困った人を助ける備えがすでにある救助隊が、「助けて下さいと連絡がなかったので出動しませんでした。」ということはありません。


同様に、阿弥陀仏が助けるのが先であり、助けていただく私のほうは後になります。助ける阿弥陀仏は、助ける準備が出来ているだけではなく、現在も助けようと働いて下さっています。それに対して、私は「助けて下さいと思う」のではなく、助けるの仰せを受けるだけです。

それにもかかわらず、「何か思わねば」というのは、「助けて下さいと思わねば助けて頂けない」との思いからではないかと思います。現実でも「助けて下さい」と声を上げたり、救難信号を発信するのは、現に救助隊がきていない場合のことです。救助隊が目の前に来ているのに、「助けて下さい!!」と大声をあげる人はありません。

でんさんが、何かを思わなければと考えられるのも、ただ今阿弥陀仏が助けに来て下さっていると思えないからだと思います。

しかし、すでに阿弥陀仏は救うと呼びかけられています。

和讃

如来の作願をたづぬれば

 苦悩の有情をすてずして

 回向を首としたまひて

 大悲心をば成就せり(正像末和讃

とあります。

でんさんにとって、読んで欲しいのは「苦悩の有情をすてずして」と「回向を首としたまひて」です。阿弥陀仏は、でんさんをすてられないのですから、回向をされるのです。「どうしても助けて欲しい人なら助けます」という阿弥陀仏なら「苦悩の有情をすてずして 回向を首と」されません。

その回向が南無阿弥陀仏ですから、それにでんさんが何か思っても思わなくても、救う働きはあります。それは、意識してもしなくても、太陽にてらされるとまわりに闇がないのと同じです。

あくまで、阿弥陀仏が先であって、私の思い心はあとまわしです。阿弥陀仏の願いを聞き入れて下さい。ただ今救われます。

2016-09-13

「私は「ああ生きててよかった、本当にすばらしいいのちだ」と思ったことがありません。(略)そんな度しがたいお前だからこそ、如来のお目当てなんだ、とおっしゃるが、そう言われても全く自我意識くんは喜んでくれません。」(おとたんさんのコメントより)

おとたん 2016/09/11 00:43

 いつも拝読しております。ありがとうございます。

 私は「ああ生きててよかった、本当にすばらしいいのちだ」と思ったことがありません。

 私は、親鸞聖人の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄)から、「人格や思考は脳神経細胞の科学反応、物理現象であり、その現象は縁起や八識の働きで説明がつく。一切が識より表象された幻想である」ことを学びました。だから「人間の思考、認識される表象世界すべてがそらごとたわごとの幻想である。念仏だけが真実なのだ」と言えると思っています。

(中略)

 そして私の胃がおかしくなりそうなジレンマ。

 縁起とか無我とか、自己やいのちのはたらきの真理を聞いても、「世界や自己はそらごとたわごとですよ、念仏だけが真実なのですよ」と教えてもらっても、この私のまやかしの自我意識くんは、まったくその真理のことを喜んでくれません。

 聖人はその理由を「煩悩の所以」とされ、自分も同じだと言う。そう言われてもやはり自我意識くんは喜んでくれません。

 そんな度しがたいお前だからこそ、如来のお目当てなんだ、とおっしゃるが、そう言われても全く自我意識くんは喜んでくれません。

(中略)

 「南無阿弥陀仏=救い」まさしくそうだなと思いました。でも自我意識くんが喜んでいないので、この学びをご門徒に問い放っても、自分と同じ苦しい問いを渡すような気がして、私の法話などではその辺の学びについて話したことがありません。「そんな自我意識でいいじゃないですか、必ず往生させますよ」と如来様から言われているような気もするんですが、救われた気もしないし、うれしくもありません。

 浄土に往生し、成仏させていただける、そう思ってもうれしくないんです。その原因は、今の自分に満足しているからなんだと思います。

 時事と仏法を仕入れてそれを興味を引くように面白く語って、ご門徒に共感してもらったような気になっています。そこに充足感と優越感と自己肯定感とお布施を得て、満足して有頂天になっている、そういう自分だなぁと、なんとも矮小で不純な動機で法を学んでいます。

(中略)

 乱筆乱文ですみません。質問にもなってませんね。恥ずかしいことですが、聞いてほしかったんだと思います。このような長文してすみません。どうかバッサリ切ってください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160910/1473509206#c1473522229

長文なので、全文を御覧になりたい方はコメント欄をご覧下さい。

コメントを読ませていただきますと、真実を知って本当は喜ばねばならないのに、喜ぶ心がないということを悩んでおられるだと思いました。

文章の中では「自意識」と言われていましたが、その自意識が喜ぶか喜ばないかということを問題にしておられるようです。

しかし、おとたんさんの言われる自意識が喜ぶとは、「あー生きててよかった、本当に素晴らしいいのちだ」と思うことでしょうか。阿弥陀仏に救われた人が喜ぶのは、自意識の満足ではなく「ああ阿弥陀仏が居られてよかった、本当に素晴らしい本願だ、お念仏だ」という点です。

阿弥陀仏が私を救う目的は、私の自意識が「あー生きててよかった、本当に素晴らしいいのちだ」と感じさせるためではありません。どうしても自分の力で生死をを離れることができない私を、そこから離れさせる為に本願を建てられたのです。世の中の「救助」する人も、要救助者の窮地を救う為に救助するのであって、その人がどう感じるかはまた別の問題です。

コメントにありましたが、縁起とか、無我とか自己のいのちのはたらきの真理を聞いて喜んでいる人はあっても少ないのではないでしょうか。もしそのことを、あなたの自意識が喜ぶことを目標とされているならば、悟りを開く以外にはありません。しかし、さとりを開くような人はそのような拘りはもっていないでしょうから、結果的に自意識が喜ぶことはないということに成ります。

おとたんさんが、真実を知っているのに喜ぶ心がないということについては、考えられる理由は二つあります。

一つは、おとたんさんが救われていない。

二つは、おとたんさんに煩悩があるから。

一つ目については、解決としては阿弥陀仏に救われることです。それ以外にはありません。よろこべないのは、煩悩があるからではなく、阿弥陀仏に救われていないからということになります。

二つ目については、喜ぶべきことを喜ばせないのは煩悩のためですから、煩悩をなくす以外にありません。

結論としては、阿弥陀仏に救われるか、煩悩を無くすかの二択になります。法を聞くか、煩悩をなくすための行に励むかと言うことです。

しかし、文面からするとおとたんさんも、自分自身が救われているのかどうかは分からない状態だと思います。

自意識が喜べるとか、喜べないことを問題にするのではなく、阿弥陀仏の本願は私に働いてくださっておられるということを聞いて下さい。自意識が喜ぶかどうかではなく、阿弥陀仏が喜ばれるところを私が喜ばせて頂くのです。

最後に一言、「充足感と優越感と自己肯定感とお布施を得て、満足して有頂天」な話を聞かされる人のことを考えて見て下さい。私が元いた団体の会長はそんな人でした。

2016-09-10

「これでみそれなりには、いつも「今」を意識してるんですがね^^;一向にただいま救われません^^;
なにがいけないのでしょうか。なにが思い違いなんでしょうか。」( ただいま救われたい者さんのコメントより)

ただいま救われたい者 2016/09/08 21:58

私は長年の安心問答読者ですから、視点を未来には置いていないつもりなんですがね^^;

これでみそれなりには、いつも「今」を意識してるんですがね^^;

一向にただいま救われません^^;

なにがいけないのでしょうか。
なにが思い違いなんでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160906/1473162301#c1473339536

でん 2016/09/09 08:43

上記は私も疑問に思うところであります。
私は、今を意識するというよりは、
称名のうちに、私を救う力が働いていると意識してますが、
これも未来に救いを求めてるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160906/1473162301#c1473378225

ただ今救われたい者さん、でんさんから同様な質問を頂きました。有り難うございました。

「今助かろう」とか、「ただ今救われません」と言うのは、救いがどこからかやって来るように考えで居られるのかと思いました。もちろんそういうつもりはないとのコメントを頂いていますので、そのつもりはないのだと思います。

それでも「ただ今救われません」と言うのは、私が「ただ今救われて下さい」と書いていることを受けてのことだと思います。南無阿弥陀仏を聞いて称えられていても、またそのいわれを聞かれていてもそれでも「ただ今救われません」となるのはなぜかと考えると、「ただ今救う」の仰せを聞いて、その上で何か気がついたことを救いだと思われているのが原因ではないかと思います。

仮にそうだとすると、南無阿弥陀仏+気付き=救いとなり、この「+気付き」の分だけ救いが未来になって仕舞います。聞即信といわれることからすると「南無阿弥陀仏=救い」です。この「南無阿弥陀仏=救い」ですから、聞いたままが救われたことと成ります。私が気がつくことや知らされることがあったとしても、それは救われたあとの話です。

その後に知らされることを、救いの時やその瞬間に持ってくるので話が合わなくなって来ます。そのことを、前回のエントリーでは未来に目が向いていると書きました。

また、でんさんのコメントについても「称名のうちに、私を救う力が働いていると意識している」とのことですが、そう意識しているとどうにかなるというように思われているのであれば、未来に目が向いていることになります。称名はそのまま救いの働きです、私が意識しないときもそう働いておられます。私の意識を通さなくても、南無阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いて救われて下さい。

2016-09-06

「そうであったのか」「はっ、そういうことであったのか。常にずっと届いていたのですね」といったようにこの先、本願力に気づかされることがあるのでしょうか。心配しなくても、そういう日、そういう時は、やってくるのでしょうか。(頂いた質問)

ただいま救われたたい者 2016/09/04 12:59

長年、いつも南無阿弥陀仏と称えたり、阿弥陀仏を念じているのですのですが、「ただいま救われる」ということには至っておりません。

「そうであったのか」「はっ、そういうことであったのか。常にずっと届いていたのですね」といったようにこの先、本願力に気づかされることがあるのでしょうか。

心配しなくても、そういう日、そういう時は、やってくるのでしょうか。

安心したいものです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160828/1472379264#c1472961569

阿弥陀仏の本願は私の能力によって救われるとか救われないが決まるようなではありません。とはいっても、私が安心してください、心配ありませんと言ったからといってそれで早く救われるものでもありません。

お尋ねのコメントからすると、「そうであったのか」と気がつくのであろうと思っておられるのだ感じますが、そのような先入観を持たれない方が良いです。そのような予想をつけると、どうしても救いが今ではない先の話しになってしまいます。

阿弥陀仏にただいま救われると言うのは、どこかにたどり着いたことではありません。今は救われていないけれど、どこかに救われる時があるとしますと、まだ救われていない人にとって「ただ今」はいつでも未来の話になります。

「ただいま救われる」は文字通り「ただいま」であり、未来の事ではありません。それには、ただ今救う働きが、ただ今働いていなければ成り立ちません。その「ただ今救いの働きが働いている」ことを抜きにして、「いつかは救いの働きが私に働くだろうか」と考えるのは間違いです。

蓮如上人が「弥陀をたのめ」と言われるのは、「ただ今助ける」の南無阿弥陀仏のお働きにまかせよということですから、ただ今の救いの働きがある前提で言われていることです。

「救う働き」がある時やって来るではありません、そういうものを待っても何もやっては来ません。なぜなら、ただ今南無阿弥陀仏と働いて下さっているからです。視点を未来に向けているところには、ただ今救うの喚び声はなかなか耳に入りません。なぜなら人間は、想定をしていないものは見えなかったり、聞こえないことが多いからです。授業中にちゃんと起きていれば、自分の名前を呼ばれてもすぐに「呼ばれた」ことは分かります。しかし、全く知り合いもいない初めての土地で、自分の名前を呼ばれても、「同じ名前の他人が呼ばれている」と思ってしまいます。

未来の救いを想定していると「ただ今救う」はなかなか耳に入りません。未来の私が救われると思っている人には「汝を救う」も耳には入りにくいものです。

ただ今救うの南無阿弥陀仏をただ今聞いてただ今救われて下さい。

2016-08-28

2016-08-17

お聖教や法話はスポーツ実況に似ている(リオオリンピックを見て)

今回のエントリーは、連日報道されるリオオリンピックを見て思ったことを書きます。結論は、タイトルに書いた通り、お聖教や法話はスポーツ実況に似ているということです。


私たちが、スポーツ観戦に触れる最初の機会は、テレビやラジオ、ネットでの中継だと言う人が多いと思います。まして、今回のリオオリンピックでは、その場で競技を観戦できる人は大変少ないです。その競技の中継に必要不可欠なものが、実況のアナウンサーと解説者です。


オリンピックの中継では、私たちが日ごろ目にする機会のない競技が放送されることがあります。今回で言えば、卓球バドミントン、体操などなどです。また、メダルが期待されたフェンシングもそうです。私は、たまたまフェンシングの男子フルーレメダルを期待された太田雄貴選手が負けた試合をテレビで観ました。正直言って、フェンシングの試合を観るのも初めてで、ルールも解らず見始めました。その時に、大変有り難かったのが、NHKの実況アナウンサーと解説者の音声でした。その音声は、「どういうことで勝敗が決まるのか」「どういうルールになっているのか」「選手の背景はどういうものなのか」「今回の試合結果の意義はどういうことなのか」「試合状況はどういう感じなのか」を逐一説明してくれたので、詳しいことは分からないなりに、フェンシングの試合を結果は残念でしたが、面白く見ることが出来ました。

もし、この実況中継のアナウンサーと解説者がいなかったら、私にはどう見えていたでしょうか。恐らく何が起きているかよく分からず、「なんとなく勝負はついたらしい」くらいにしか分からず、その競技の面白さも分かりません。


今回のオリンピック放送も、NHKスポーツでは、中継の見逃し配信というのをやっています。それを見ると、見逃し配信には実況の音声がなく、ただ試合のそのままの映像と音声が流れているだけのものです。


私は、男子体操に関心があったので、白井選手が跳馬で銅メダルを取ったとのニュースを知り、上記のサイトで見逃し中継をみようとして、実況なしの映像を見て驚きました。それは、「何が起きているかよく分からない」からです。新技「伸身ユルチェンコ3回半ひねり」で銅メダルを獲得したのですが、実況なしの映像では、そもそも「何回転したの?」「この技何?」くらいにしか、さほど体操に詳しくもない視聴者には理解出来ません。

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まして、自分が全く知らない競技で、実況なしに見たら何もわかりません。

ちなみに、馬術を知らない人がこれを御覧にになっても、何も分からないと思います。私もわかりません。

障害馬術団体予選

no title

そこで、浄土真宗において、お聖教や法話の役割は、今迄述べてきたスポーツ実況と解説によく似ていると感じました。浄土真宗は、南無阿弥陀仏(念仏)のいわれを聞いて救われる教えです。「南無阿弥陀仏(念仏)」だけは、長年聞いている人も、初めての人も、「南無阿弥陀仏」としか耳に聞こえません。

よくよく聞いている人にとっても、実況や解説はより楽しいものですし、全く聞いたことのない人にとっては、実況や解説は不可欠なものです。それなしでは、何が起きているかわからないからです。

とはいえ、スポーツの実況ならば、その競技あっての実況であって、何もなしに実況するということはありません。お聖教や法話も、現に眼の前で働いて下さる南無阿弥陀仏がなければ、只の一人語りになってしまいます。たとえ名実況といわれる中継があっても、それはその競技そのものが素晴らしかったからです。

名実況と言えば、私の世代ではアテネ五輪での男子団体で、これを決めれば金メダルという場面で、NHK刈谷アナウンサーの「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ」があります。

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これも、非常に素晴らしい競技を、素晴らしい実況が、視聴者に素晴らしいと伝えた一つの例だと思います。どれだけ素晴らしい競技も、伝わらなければ、視聴者にその素晴らしさは伝わりません。反対に、どんな名実況者でも、競技が素晴らしいものでなければ、視聴者は感動しません。

この私をただ今救って下さる南無阿弥陀仏は、掛け値なしに素晴らしいものなのですが、それが伝わらないのは、やはり伝えるものがよろしくないからだと感じました。

2016-08-10

「我々は何かを知ろうとしてはならない死を超越できぬ者は 何ものも知ろうとしてはならないのだ」というフレーズで、既に死を超越してしまった山も山様を始め妙好人の方たちはどのように感じられますか?そしてそんな方たちの目には何が見えているのでしょうか?(名無しさんのコメントより)

名無し 2016/08/09 23:35

ある有名な漫画の一節にこのような詩があります。

「我々は皆 生きながらにして死んでいる

終焉は常に 始まりの前から そこに在るのだ

生きることが 何かを知り続けることならば

我々が最後に知るものこそが終焉であり 終焉をついに見出し

完全に知ることこそが 即ち死なのだ

我々は何かを知ろうとしてはならない

死を超越できぬ者は 何ものも知ろうとしてはならないのだ」

とあります。真宗の立場ではこの一節をどのように味わわれているのでしょうか?

また、特に

「我々は何かを知ろうとしてはならない

死を超越できぬ者は 何ものも知ろうとしてはならないのだ」

というフレーズで、既に死を超越してしまった山も山様を始め妙好人の方たちはどのように感じられますか?

そしてそんな方たちの目には何が見えているのでしょうか?(名無しさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160806/1470470000#c1470753303

どんな言葉かと調べて見ると以下のコミックの扉に掲載されていました。

BLEACH モノクロ版 25 (ジャンプコミックスDIGITAL)

BLEACH モノクロ版 25 (ジャンプコミックスDIGITAL)

どんな漫画なのか知りたい方は、以下を参照下さい。

BLEACHとは (ブリーチとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

私自身は、BLEACHの最初のころは読んでいましたが、そろそろ連載終了するそうだというニュースを聞いて少し気になっているくらいの読者です。

そこで、今回コメントを頂いた詩を読んでどう思うか、自分なりに考えて見ました。そのことを以下に書いて行きます。

我々は皆 生きながらにして死んでいる

終焉は常に 始まりの前から そこに在るのだ

このあたりは、生まれたからには死なねばならないということを表現しているのだと思います。

生きることが 何かを知り続けることならば

我々が最後に知るものこそが終焉であり 終焉をついに見出し

完全に知ることこそが 即ち死なのだ

死に際して、何か特別なことを知るのではないかという、予想を書いておられるのだと思います。

しかし、私の立場といいますか、生活の実感として感じることは、死とは常に自分と隣り合わせにあるものでありますから、日ごろ感じないことが「死」というイベントによって感じられると思うのは幻想です。現在感じられないことが、死に際したら知られるようになるというのは、死によって私のあらゆる感覚が拡張ないし、向上しなければありえないことです。よって、死に際したら「終焉をついに見出し完全に知ることこそが 即ち死なのだ」ということはありません。そんな人はあるのかも知れませんが、多くの人にとって死とは、明日の朝刊を見るような連続したことであります。ある日の朝刊を読んだからと言って、何か今迄知らなかった事が知らされるということはありません。違うことは、今の私の生が終わってしまうことです。

最後にお尋ねの

我々は何かを知ろうとしてはならない

死を超越できぬ者は 何ものも知ろうとしてはならないのだ

については、一種の選民思想的なものを感じます。

なぜならは「死を超越してものは全てを知っている」「死を超越できぬ者は何も知りえない」という構図になるからです。浄土真宗は、「死を超越したものは偉い」とか「勝れている」とはいいません。親鸞聖人御自身が「煩悩具足の凡夫」とか「極重悪人」と言われているからです。


浄土真宗は「死とは何かを知れ」という教えではありません。生とは?死とは?何も分からない私を助ける法(南無阿弥陀仏)があることを聞いて下さいというものです。

ただ今救う本願にただ今救われて下さい。「死」を知るとか知らないではなく、「助ける法」を聞くのが信心です。

2016-08-06

阿弥陀仏が私を救おうという働きを本願力といい、しかも阿弥陀仏の方から差し向けられるので本願力回向と聞きました。しかし、そんな力が差し向けられているのならば、何かそれらしいものを感じてもよさそうなものですが何も感じません。念仏を称えて喜んでいる人は、何かを感じているのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏が私を救おうという働きを本願力といい、しかも阿弥陀仏の方から差し向けられるので本願力回向と聞きました。しかし、そんな力が差し向けられているのならば、何かそれらしいものを感じてもよさそうなものですが何も感じません。念仏を称えて喜んでいる人は、何かを感じているのでしょうか?(頂いた質問)

本願力とは、感じるものかというお尋ねです。


結論から言えば、感じるものですが、私たちが普通感じる火は熱いと感じる皮膚感覚や、塩辛いと感じる味覚、さらさらしていると感じる触覚、よい香りがすると感じる嗅覚ではありません。それなら、何か気配を感じるのでしょうか?そのようにいわれるいわゆる妙好人の言葉も残っています。あるいは、心で感じるという人もあります。しかし、それは全ての人がそうなるとは言えません。


阿弥陀仏が私を救おうというお働きは、本願力回向と言われて、阿弥陀仏の方から私へと常に働いて下さいます。それをまた、仏心とか大慈悲ともいわれます。

その仏心といわれたり、大慈悲といわれるようなものが、人のそれと同じなら私も自分の心で感じられます。人と人ならば、「この人は本当に怒っている」「この人は本当に私を心配してくれる」と感じられます。中には人ではないものの心を感じる人もあって「ガイアがもっと俺に輝けと囁いている」と感じる人もありましたが、そんな人はあっても少数かと思います。(分かる人だけ分かって頂ければいいです)


人の心とは違うものとすれば、本願力は、私たちの日常に譬えると空気のようなものです。空気はそれそのものを感じることはあまりありません。しかし、その空気が動く時に私たちは空気を感じます。例えば、呼吸をすればそこに空気があることを感じます。水中で呼吸をしても水しかありませんから苦しいばかりです。また、空気が動けば、風という形で感じることもできます。

空気には色も音もありませんが、動いて風となったときには風音や廻りのものを動かすことで、目にすることもあります。

空気と風に例えると、本願力という空気が回向されて念仏という風となって現れています。私を救う働きは、常に私のまわりにあっても、それを常に感じることはありません。私が空気を常に感じないのと同じです。しかし、空気はそれが動く時に風となって感じることができるように、本願力が念仏念仏となって私の口から現れる時には、口や耳で私は南無阿弥陀仏を聞くことができます。その意味で私は、耳と口で本願力を感じることが出来ます。

こういうと、「どうしてそれが本願力なのですか?私の声ではありませんか?」と思われる人もあるとあるでしょう。

念仏は、声ですが、声は空気がなければ発することができません。同様に、念仏も、本願力がないところでは出ません。それは、真空状態ではどれだけ扇風機を回しても風が起こらないのと同じことです。

また、吸う息、吐く息が「私のもの」と思う人はないでしょう。なぜなら、私は空気を生み出す事はできないからです。同じように、南無阿弥陀仏と私が称えていても、その南無阿弥陀仏は私が生み出したものではありません。阿弥陀仏の本願が成就したすがたであり、本願力が働いているかたちなのです。


その本願力にあうひとは、必ず救われます。

本願力にあひぬれば 

むなしくすぐるひとぞなき

功徳の宝海みちみちて 

煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃)

本願力にあうとはどういうことか、一念多念証文に親鸞聖人はこう言われています。

「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。

本願力にあうとは、本願力を信ずることです。信ずるとは、本願力が常に私に働いて南無阿弥陀仏となって下さっていることを聞いて疑い無いことです。空気のように、それなしでは私は生きて行くことが出来ないのが、本願力であり念仏です。ただ今救う為に、常に私に働いて下さいます。ただ今救うのお働きにただ今救われて下さい。

2016-07-29

「私は自力の念仏しか称えられません。もう何から手を施したら良いのか全く分かりません。私は今生で救いに逢うことは出来ないのではないか。ただせめて真宗の教えに会えただけでも良しとして今生の救いは諦めるべきなのか。そう最近では考えてしまいます。」(頂いた質問)

みそみそ 2016/07/27 19:22

(略)

それでも私は自力の念仏しか称えられません。

もう何から手を施したら良いのか全く分かりません。

私は今生で救いに逢うことは出来ないのではないか。

ただせめて真宗の教えに会えただけでも良しとして今生の救いは諦めるべきなのか。

そう最近では考えてしまいます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160724/1469311578#c1469614937

何から手を施したら良いか分からないとのことですが、自らの力による救い、または救いの手助けになることが思いつかなくなったということではないかと思います。

○○していれば大丈夫、自分もいつかは救われると思っている人は、ある意味迷いがありません。私が元いた宗教法人の人たちも、自力はあっても、迷いはない人が多かったです。それは、そこにいると○○しているから自分は正しい道を進んでいるという自信をもつからです。加えて、救いが完全に未来の話になってしまっているので、現在救われていない事実に関して何の迷いもありません。

そこで、みそみそさんは、あれこれと悩んで居られるのは、それらの人に比べると大変真面目に法を聞いておられるからです。

今迄自力の念仏しか称えられなかったということは、今後救われない理由にはなりません。それは、今迄泳げなかった人は今後絶対泳げないということがないのと同じです。貴方は、確かに今日まで救われなかったのかもしれませんが、それがただ今救われない理由にはなりません。

なぜなら、南無阿弥陀仏はただ今救うお働きだからです。自分の力で助かろう、あるいは自分の力では無理だったという思いはやめて、南無阿弥陀仏に救われてください。阿弥陀仏は、ただ今救うと働いて下さっています。