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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-05-15

「私にとっての救いとは、浄土真宗のいう救いです。しかし、正確に真宗教義を理解しようと勉強しようという気持にまではなれません。」(せみまるさんのコメント)

せみまる 2016/05/10 18:59

そうです。私にとっての救いとは、浄土真宗のいう救いです。

しかし、正確に真宗教義を理解しようと勉強しようという気持にまではなれません。

ですが決して教義を否定するつもりも、謗るつもりもありません。

ただ、真剣に教えを追い求めよう、救われようという気持ちになれないのが自分の本心だったりします。

せみまるさんよりコメントを頂き有り難うございました。最近ブログエントリーができずすみませんでした。今日からまた、再開しますのでよろしくお願い致します。

せみまるさんのコメントから、せみまるさん御自身は「浄土真宗の救い」を求めておられるのだと思います。ただ、それを説明する真宗教義を勉強するのにハードルが高いということいわれているのだと思います。

ただ、浄土真宗の救いである、阿弥陀仏の本願によってただいま救われ、信心獲得の身となり、命終われば浄土に往生し仏となるには、「細かく」真宗教義を理解しなければならないのではありません。

むしろ「教義を理解出来なければ救われない」というのは間違いだと、歎異抄にも書かれています。

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。(歎異抄第12条)

現代文

本願他力の真実の教えを説き明かされている聖教にはすべて、本願を信じて念仏すれば必ず仏になるということが示されています。

浄土に往生するために、この他にどのような学問が必要だというのでしょうか。

本当に、このことがわからないで迷っている人は、どのようにしてでも学問をして、本願のおこころを知るべきです。経典や祖師方の書かれたものを読んで学ぶにしても、その聖教の本意がわからないのでは、何とも気の毒なことです。

お聖教や、真宗の本にいろいろ書いてあることは、一言で言えば「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」です。それ以外のことは書かれていません。

そうは言っても、せみまるさんがこのような質問をされるのは、「学問をしなければ」「正しく理解しなければ」救われないという風潮というのがあるからではないかと思います。もちろん学問も大事ですが、その結果が「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」以外のものが救いに必要であるかのような理解をもつようになるならば、そんな学問は間違いだということになります。


ただ、阿弥陀仏のただ今救うの本願を信じ念仏して救われて下さい。

2016-04-21

2016-04-06

念仏をしても、どうしても自力の念仏にしかなりません。「ただ念仏」といわれる他力の念仏とはどういうものでしょうか?(頂いた質問)

念仏をしても、どうしても自力の念仏にしかなりません。「ただ念仏」といわれる他力の念仏とはどういうものでしょうか?(頂いた質問)

念仏は、私を浄土に往生させるお働きそのものです。それを、念仏しながら「これで大丈夫かな?」とか「これで助かるのかな」「これで助かっているのかな」と種々確認したり、心配を付け加えるのが、自力の念仏と言います。また、心の有り様を問題にして「こういう心で称えたらOK」思いながら称えるのも自力の念仏です。

こう聞くと「これで大丈夫かな?と思うのが自力の念仏ならば、これで大丈夫と思わずに念仏しよう。それが他力の念仏だろう」と思う人もあるかもしれません。しかし、それは間違いです。それは、「○○と思う」「○○と思わない」という心の有り様によって、南無阿弥陀仏が成就したりしなかったりするように思っているからです。


別の言い方をすると、南無阿弥陀仏は私の方での手助けがなければそのお働きが発揮されないようなものではありません。「赤子のような素直な心」にならねば、救いの働きがあらわれないようなものではありません。

そのことを法然聖人は、以下のように言われていまず。

又いはく、本願の念仏には、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智慧をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。それに善人は善人ながら念仏し、悪人悪人ながら念仏して、ただむまれつきてのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとは申すなり。(諸人伝説の詞)

念仏は、それ一つで私を浄土に往生させるお働きがあるので、手助けは必要がないものです。また、念仏になにか手助けをしようという人は、報土往生はできません。手助けというのは、自らの智慧や戒律を守っていること、なんとしても浄土に往生したいという強い気持ちや、慈悲の心を助けにすることを言います。

しかし、そのような手助けは念仏には必要ありません。善人は善人のまま、悪人悪人のままで念仏して、生まれついてのままに念仏をする人を手助けを必要としないと言われています。

「こんな自分が称える念仏では」とか「こんな気持ちで称える念仏では」駄目だろうと考えたり、反対に「こんな強い気持ちで称えれば」「これだけ智慧を磨いて称えれば」南無阿弥陀仏がそのお働きを示して下さるだろうと思うのは、念仏に手を加え、手助けしようとの考えです。

そうではなく、今の自分のままで、どんな気持ちで称えても、南無阿弥陀仏はすでに本願が成就した相なので、そのお働きが変わるということはありません。私の気持ちくらいでどうこうなるような南無阿弥陀仏ではありません。「念仏にすけささぬ」とは、南無阿弥陀仏それ一つが私を救うということであり、私の手助けも心配も必要がないということです。

他力の念仏といっても、なにか特別な思いや才能をもって称えることではありません。そういうものが全く必要なく、ただ南無阿弥陀仏が私を救って下さるお働きであるということです。ただ今救う南無阿弥陀仏に、ただ今救われて下さい。

2016-03-31

「なぜ"信心決定"のことを信心"獲得"と言うのでしょうか?獲得の意味を調べると、"努力して自分のものにすること。"ということなので、言葉の意味自体、自力の意味合を含んでしまうので、本来の"信心決定"の意味と矛盾するのではないのでしょうか?」(せみまるさんのコメントより)

せみまる 2016/03/31 04:47

(略)

それから単純な疑問なのですが、なぜ"信心決定"のことを信心"獲得"と言うのでしょうか?

獲得の意味を調べると、"努力して自分のものにすること。"ということなので、言葉の意味自体、自力の意味合を含んでしまうので、本来の"信心決定"の意味と矛盾するのではないのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160324/1458821900#c1459367231

元々親鸞聖人が、そのように仰っているからというのが一番の理由です。

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。(教行信証信巻)

http://goo.gl/FJh293

もちろん信心決定という言い方もされています。意味はどちらも同じです。

そこで、獲得の意味ですが、国語辞書に出てくるものとは意味が違います。

国語辞書では、いわれるような意味になっています。

かくとく【獲得】

( 名 ) スル

(努力や苦心の末に)手に入れること。自分のものにすること。 「優勝杯を−する」 「 −した権利」(大辞林

それに対して、真宗新事典では、以下のように書かれています。

ぎゃくとく 獲得

うること、身につくこと、一般には不相応行の一で、まだえぬもの、すでに失ったものを今えること獲、えてから失わないものを得、成就とする[倶舎論]。真宗では、因位または現在えるのを獲、果位または将来えるのを得というが、獲と得を同じ意味にも用いる。(略)

元々、真実信心を私はもちあわせておりません。その私には本来ない真実信心をえて、またそれを一度えると失うことはありませんから獲得と言われています。

また、努力してえるものではありませんから、先に挙げた教行信証信巻のお言葉では、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」と言われています。阿弥陀如来の十八願の御心より起こされるのが、信心を獲得することです。自力でえられるものではありません。

2016-03-24

「生涯、自力の念仏しか唱えられなかった場合は後生どうなりますか?」(せみまるさんのコメントより)

せみまるさんからコメントを頂きました。有難うございました。また、それについてコメントを複数の方から頂き有り難うございました。

名無し 2016/03/23 17:16

生涯、自力の念仏しか唱えられなかった場合は後生どうなりますか?

私はとにかく助かろうと、念仏ばかり唱えておりますが、自力でしか唱えることが出来ません。

他力によって念仏を唱えることが出来ずに臨終が来たらと不安でいっぱいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160319/1458370398#c1458720984

自力の念仏では、浄土往生はできません。しかし、お尋ねの内容は「生涯、自力の念仏しか称えられなかった場合は」となっています。せみまるさんが、この先生涯自力念仏で終わるかどうかは、せみまるさんが決めることではありません。また、お尋ねの文面から、自力念仏しか称えられないなら、称えるだけ無駄ではないかとか、称えないほうがよいのではないかというお気持ちがあるのではないかと思います。

それについては、無駄かどうかという問題ではなく。念仏以外に、私を浄土往生させるお働きはありません。その意味では、「称えないほうがいい」という選択肢はありません。また、自力念仏か、他力念仏かの違いは、南無阿弥陀仏が私を助けるお働きであることを疑うか疑い無いかの違いです。念仏以外に、助かる道がないわけですから称える以外にはありません。ただ、それが、私が救われる行であることを受け入れるかどうかです。それは、生涯かかるものではなく、現在ただ今変わることがあります。なぜなら、南無阿弥陀仏が私を救う法であるということは、私の思いと関係なくすでにそうなっていることだからです。あとは、せみまるさんが、それを聞き入れるかどうかです。

名無し改めせみまる 2016/03/24 11:46

ありがとうございます。

申し訳ありません。

>大きな阿弥陀仏の慈悲を想いましょう。

ここがよく分かりません。どのようにしてお慈悲を想うことが出来るのでしょうか?

またこうして質問を重ねている事自体、獲心から遠ざかることなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160319/1458370398#c1458787617

質問を重ねること自体は、獲信から遠ざかることではありません。こうして阿弥陀仏について尋ねるのは、それだけ阿弥陀仏に心が向いているといういうことです。

阿弥陀仏のお慈悲を思うということですが、いま読まれているこの場でできることは、念仏申すことです。

すでに念仏の謂れは聞かれていると思いますが、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の慈悲心のあらわれそのものです。その南無阿弥陀仏を称えるということが、阿弥陀仏のお慈悲と直接接している姿です。阿弥陀仏と直に接していることが、獲信から遠ざかるはずはありません。

念仏は、「ただ念仏して」と言われるように、念仏になにか計算や予定を立てて称えるものではありません。私がどんな気持ちで称えても、南無阿弥陀仏の功徳そのものは成就したものなので、変化することはありません。つまり、私を助ける働きが強くなったり弱くなることはありません。

ただ、本来ある私を助けるお働きを疑い無く受け入れる(信じる)かどうかがで、浄土往生するかしないかは定まります。「こうしたら救われないか」「こう思ったら救われないか」という胸算用は、どこまでいっても胸算用なのであてにはなりません。

南無阿弥陀仏は、私を救うお働きであると聞いて、称えて、それをそのまま受け入れて下さい。南無阿弥陀仏をただ今聞いてただ今救われて下さい。

2016-03-19

「すでにこの道あり。必ず可度すべし。 とはどういう意味なのでしょうか?」(まつださんのコメントより)

まつださんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

まつだ 2016/03/19 03:53

初見ですいません。1つお尋ねしたいのですが、

すでにこの道あり。必ず可度すべし。 とはどういう意味なのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091207/1260192976#c1458327207

お尋ねの内容は、二河白道の譬えで、

すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。

(二河白道の譬え 教行証文類信巻より)

http://goo.gl/NFds0C

の「すでにこの道あり、かならず可度すべし」の意味についてです。

二河白道の譬えでは、火の河と水の河の間に四五寸のいわれた白い道があります。「この道」というのは、その白道のことです。その河岸に立った人に向かって、後ろから群賊悪獣がやってきます。後ろから迫ってくる群賊悪獣がいるので、そこから引き返すと死んでしまいます。また、留まっていても死んでしまいます。また、白い道を進もうにもとても渡れなさそうなので、死んでしまうだろうと、この人は思います。

しかし、そこでその人は、どの道死んでしまうなら、この道(白道)を行こう、きっと渡れるに違いないと考えました。これが「すでにこの道あり、かならず可度すべし」の意味です。

その後結果として、この人は白道に一歩足を踏み入れるのですが、それは、東の岸の方の勧める声と、西の岸から喚ぶ方の声に従ったからです。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(同上)

http://goo.gl/NFds0C

東の岸の方は、「そうだまっすぐこの道を行きなさい。決して死ぬことはないから。もし留まっていてたらそれこそ死ぬぞ」と勧めます。

西の岸の方は、「一心にためらうことなくこの道を来なさい、私が護るから恐れるな」と喚ばれます。

この世から、浄土へ渡す道が白道であり。これは、阿弥陀仏が護り、お釈迦さまが勧められる他力信心をたとえられたものです。私から見ると、煩悩に心を占められて、とてもか細く見える他力信心であっても、それが煩悩や他人の意見によって崩れるようなものではないということを譬えられたものです。

浄土へ来れと呼ぶ声の通りに従った相が、白道に乗ったことであり、信心獲得の相です。「ただちに来たれ」の仰せを聞いて、ただちに救われて下さい。

2016-03-13

「続けて仏法聴聞しておりますが、未だに後生が苦になるわけでもなく、こんなことでいいのだろうかと考えています。いつになったら真剣に聞こうという気持ちになれるのでしょうか?」(頂いた質問)

「続けて仏法聴聞しておりますが、未だに後生が苦になるわけでもなく、こんなことでいいのだろうかと考えています。いつになったら真剣に聞こうという気持ちになれるのでしょうか?」(頂いた質問)

中々後生が苦になりませんというお尋ねです。今迄も、同じような質問を頂いたこともありましたが、改めて自分自身を振り返って考えて見ました。

後生が苦になることがありますか?

私は以前、「後生が苦になって夜も眠れないくらいになったら、信心決定は近い」と聞かされていました。また、「仏法は後生の一大事を知るところから始まり、その解決に終わる」とも聞いていました。ここで言う「後生」とか「後生の一大事」というのは、「今晩死ぬかも知れないこと」であり「死んだ地獄に堕ちて苦しむ一大事」のことでした。

そこで当時の私は「そんな一大事があるのか!それならば真剣に聞かねば成らない」と本気で思っていたかといえば、決してそうではありません。むしろ「そんな後生といわれても、なんともピンとこない」という感じでした。あるいは「聞いて行けばそんな心境になるのか」「そうなるまで真剣に聞かねば」というのが正直なところでした。その意味から言えば、私にとっては「後生の一大事を知る」ことがないので、「君はまだ仏法が始まっていない」と言われれば、スタート地点に立つべく真剣になろうと思っていたのですから「その通りで御座います」というより他はない状態でした。


後生が苦になってない韋提希夫人

では、後生が苦にならない人は、本当に阿弥陀仏の本願が聞けないのでしょうか?また、「後生が苦になって」仏法を聞き始めた人ばかりでもないと思います。その一例として、観無量寿経に説かれている韋提希夫人は、「後生が苦になって」浄土を欣ったわけではありません。「今いるところが厭になって」浄土に往生したいという心を起こしたのです。




以下は、我が子阿闍世によって牢屋に入れられた韋提希夫人が、お釈迦さまに対して言った言葉です。

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。

 やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

現代文

「 世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。

 どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」 

http://goo.gl/rTbNpi

ここで韋提希夫人は「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し」と言っています。今自分が居るこの場所は、とても厭な処であるとして、そんな厭なところを離れて、清らかな世界を見せて下さいとお釈迦さまにお願いをしています。

つまり、「後生が苦になって」お釈迦さまに救いを求めたのではなく、「いまの世界が厭になって」救いを求めたのです。

振り返って見ると、自分が仏法を聞いてみようと思ったのは、特別死を意識したことがなかったものの、この世界にいることについてのなんとも言えない居心地の悪さからでした。「なぜ生きる」と考えたこともないものの、なんとなく拠り処のない感じはずっとありました。別の言い方をすると、世界と自分がうまくいっていなかったのです。それが人によっては、家族であったり、会社であったり、友人であったり、ご近所になるのでしょうが、それらと自分はうまくいっていないと感じる人は多いのではないかと思います。

後生が苦にならなくても聞けます。

もともと阿弥陀仏の本願は、自ら生死を離れることが出来ない私に対して、浄土を用意されそこに往生させるために建てられたものです。この世界とうまくいっていないからと言って、どこにも逃げ場のない私に「浄土に生まれさせる」と呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。そこには「後生が苦になったあなたに」という、「 」つきの条件はありません。

ただ今救うの本願にただ今救われて下さい。

2016-03-06

「私は信心決定した」といえるなにか証拠のようなものはないのでしょうか。私は阿弥陀仏の本願はそうだなと思っていますが、なんだかもやもやします。(頂いた質問)

「私は信心決定した」といえるなにか証拠のようなものはないのでしょうか。私は阿弥陀仏の本願はそうだなと思っていますが、なんだかもやもやします。(頂いた質問)

お尋ねの件は、阿弥陀仏の本願には疑いないのだけれど、これが無疑心と言ってよいのか、それともなにかこれ以上に証拠になるようなことがあるのではないかということだと思います。

一番大事なことは、「阿弥陀仏の本願はそうだなと思っている」という点が、どういうことなのかということです。お尋ねの方は、「阿弥陀仏の本願に疑いないのだけれど、なんだかもやもやする。何か証拠が欲しい」ということですが、何か確かな証拠とは何でしょうか。「このもやもやがすっきりした」という実感でしょうか。 もしそうなら、疑いがあるということです。

しかし、すっきりしたという「実感そのもの」は信心ではありません。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通)

http://goo.gl/0jUyLc

この御文章では、阿弥陀仏の本願が成就したすがたが、いまの南無阿弥陀仏であると言われています。つまり、南無阿弥陀仏から言えば、この南無阿弥陀仏に疑いないこと(確かなこと)が、阿弥陀仏の本願が確かな証拠であるということです。


また、阿弥陀仏の本願が確かということになれば、私が浄土に往生することも間違いがないということになります。

別の言い方をすると、阿弥陀仏という仏が本当におられるのか、浄土は本当にあるのかという証拠は、南無阿弥陀仏以外にはありません。


一般には、「証拠」というのは何かの数字や計測装置、あるいは「具体的なもの」のことを言います。例えば、アインシュタインによって示された重力波は、米国の研究施設「LIGO」によって検出されてその存在が証明されました。重力波というものがあっても、それを計測する機器やデータがなければ、その存在を証明できないのが科学の世界です。また、それ以外でも「言葉」が有っても、それを裏付ける「言葉以外の証拠」がないと、それは「不確かなもの」とされてしまいます。


そういう意味では、「お聖教にこう書かれている」というのは、証拠にはならないというのが、現代の普通の感覚です。しかし、御文章に書かれているのは「その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。」です。いまの南無阿弥陀仏が、助けるお働きであることに疑いなければ、それで私が往生することも、阿弥陀仏の本願があることも、阿弥陀仏がおられることも間違いないという証拠となります。また、信心決定というのは、それらに疑いないことですから、信心決定したかどうかの証拠は、いまの南無阿弥陀仏に疑いないかどうかです。いま南無阿弥陀仏と称えて念仏していること自体が、証拠となります。もちろん、南無阿弥陀仏と称えているけど、これで助かるのかどうなのか、また何回称えたら助けて下さるのだろうかと考えるのは、南無阿弥陀仏を疑っている状態ですから、信心決定しているとは言えません。

お尋ねの「もやもや」が「証拠がないことにもやもやしている」のか、「南無阿弥陀仏にもやもやしている」のかは分かりませんが、南無阿弥陀仏が私を救う働きであることに疑いないのが信心です。ただ今救う仰せを聞いて、ただ今救われて下さい。

2016-03-02

2016-02-19

「暇さえあれば念仏を称えていますが、未だに助かる気配が致しません。「そのまま聞く」意味がまだ分かりません。」(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2016/02/18 16:22

記事読ませて頂きました。

暇さえあれば念仏を唱えていますが、未だに助かる気配が致しません。

「そのまま聞く」意味がまだ分かりません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160213/1455349018#c1455780167

まず念仏についてですが、回数を重ねれば助かる気配がやってくるというものではありません。

念仏は、一度の念仏に無上の功徳があります。

また「無上の功徳」とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。(選択本願念仏集

一声一声の念仏に、無上の功徳があるわけですから、何回か称えて初めて無上の功徳が完成するのではありません。心がけて念仏されるのは大変有り難いことです。そこで、その念仏について、一声で無上の功徳のあるものであり、私を往生浄土させるお働きがあります。

そのまま聞くについては、上記の念仏について、「この南無阿弥陀仏が無上の功徳があり、私を浄土往生させるための本願力そのものの働き」と聞くことです。

念仏称えた結果として、無上の功徳が私に与えられるのではなく、一声一声の念仏そのものが無上の功徳です。それをそのまま聞いて救われて下さい。

2016-02-13

阿弥陀仏の本願は素直に聞いているつもりですが、信心決定したかといえばそうでもありません。また、疑いといわれても私には今一つよく解りません。疑いが出るように何かしたほうがいいのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は素直に聞いているつもりですが、信心決定したかといえばそうでもありません。また、疑いといわれても私には今一つよく解りません。疑いが出るように何かしたほうがいいのでしょうか?(頂いた質問)


疑いがなければ信心だと考えて、まず「疑い」から始めて見ようという御尋ねだと思いました。

確かに「疑心」と聞いても、なんとも実感がない時は自分の心の中に「疑心」を探し出して、それを駆除すればよいように考えてしまいます。しかし、そのような考えはしない方がよいです。


なぜなら、「疑心」といわれるのは「本願疑惑」のことなので、本願を横に置いて疑心だけを探そうとしても詮ないことです。


では、阿弥陀仏の本願とはどういう本願かと言えば、今回のお尋ねから言えば「論功行賞の救いではない」ということです。論功行賞とは、功績を論じその程度に応じて賞を与えることです。阿弥陀仏の救いは、そのような「私の頑張りに応じて、褒美として救ってくれる」ものではありません。


兎角、「命がけの求道」とか「真剣な聞法」をして救われようとしてきた人は、どうしても「これだけ頑張ったのだから、阿弥陀仏は救って下さる時に何か一言くらいあるだろう」と期待をしてしまい勝ちです。しかし、「よく求めぬいた」とか「よく聞き抜いた」「よく頑張ったね」と私の苦労を肯定し、その労をねぎらった上で救って下さるようなものなら、それは論功行賞の救いということになり間違いです。


元々私が苦労をしなくてもよいように、南無阿弥陀仏となって、南無阿弥陀仏一つで救って下さる本願です。ですから、よく阿弥陀仏の救いは「無条件の救い」といわれます。「無条件」ということは、私の側に要求される条件は一切ないということですが、言葉を変えれば「褒められること」もないということです。また、「叱られること」もない救いだということです。

確かに、妙好人とか、上上人とか希有人と、褒められると親鸞聖人は書かれています。


この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。(親鸞聖人御消息6浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P748)

http://goo.gl/YfwkNp


このように書かれているお言葉を読むと、褒められたいと期待する気持ちもよく解ります。しかし、それらは南無阿弥陀仏を讃嘆されているのであって、私の頑張りを褒められるのではありません。

しかし、一度褒められることを期待してしまうと、褒められない限りは本願を聞けないような心になってしまいます。この場合の褒められると期待している心は、本願を疑う心と同じ意味になります。

何も「本当だろうか」「今一つ解らない」というばかりが、疑いではありません。阿弥陀仏に褒めてもらえると、自分の努力を手放さず、なんとか認めて欲しいというのも疑いです。

ところが、阿弥陀仏の本願は私の努力は必要としない救いなので、私の努力を褒められこともなければ、懈怠を叱られることもありません。そのため、褒められることもありませんから、「自分で○○を頑張ったから助かった」と思うことはありません。また、叱られることもありませんから、「懺悔したから救われた」と思うこともありません。

ですから、褒めてくれないから聞かないぞという思いは、いつまで経っても叶わないことです。間違いですから、それは捨てて「ただ今救う」の南無阿弥陀仏を聞いて下さい。

2016-02-06

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「50 信者の地蔵供養(其二)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

50 信者の地蔵供養(其二)

実に心機一転ということや、宿善開発ということは、ふしぎのようなもので。鬼の心で参られた人が、一座の聴聞で、忽ち仏心になってしまわれたので。そのおかみさんは、尚も話をつづけられました。


「説教がすんで、私は泣き顔を人に隠して帰りました。旦那が炉端におらるるのに、ただ今帰りましたがモー言われず。胸が迫って、旦那の膝元へ亡き倒れ。悪かった、悪かった。堪忍して堪忍して下され……と私は叫びました。


その時旦那は驚いて。

『寺参りするはよけれども、訳も理屈もなんにもいわず。只堪忍してというたとて、私も何ともしようがない。何事も堪忍はしてやるから泣いてくれるな。』

といわれました。

言われて見れば、いよいよ私は、勿体ないやら、申し訳ないやら、とても泣かずにおれんので、泣き泣き是までの心得違いを御詫びして、その夜は夫れで過ごしましたが。その後というものは、苦しい夢の覚めた心地。気分もよくなる、食事も出来る、まるで心は入れ替わり。旦那がいよいよ尊くなり。幾日か泊まってこられても、恨みもつらみも更になく。にこにこ機嫌で、おあしらいが出来るようになり。妾のことまで可愛いくて、二人の子供もなつかしく。内証で品物を送ってやるようになりました。


ソコデ或る時、旦那の寝物語に。

『私も何時まで、こうしてもおられまい。妾のことも、きまりを付けたいと思えども。夫れより先に、二人の子供を始末せねばなるまい。』

といわれた時に、この私は旦那の話に飛びつく程の勢いで。

『旦那様、夫れは私に始末をさして下されませ。子供はどうぞ私にくれて下され』

といえば。

旦那は静かに。

『お前がその気になってくれたか、夫れでは私も喜ばしい』

と言われました。」


「おいおいおかみさん、夫婦仲良しの寝物語も有り難いが。地蔵の衣はどうなりました。」

「アハハ……松澤さん、つまらんことまでお喋りして、申し訳もありませんが。どうぞ、もう少し聞いて下さい。」

「御法礼も出さずに聞かれる話だから、少しなら辛抱しましょう。」

「御法礼は私から包んで差し上げても、聞いて貰いたいのでありますから。どうぞ辛抱して下されませ。その後旦那は妾にひまをやり、事情を明かして外へ縁付けてしまわれて。二人の子供は家へ引き取って下されたが。その時の私の喜びは、何に譬うるものもなく。是こそ真に地蔵様の御授け子。余所の御方は、同じ夫の子供を持つにも。死につ生きつの難儀をなさる習いじゃに。虫も病まねば難儀もせずに、現在旦那の子供をば、一度に私は二人まで。持たせて貰うた幸せは是も地蔵様の御方便。


夫れのみならず、夫が御縁で段々と、御寺参りに身を入れて。今は六字の主となり、無量永劫不足のない身になったのも。残らず地蔵様の御方便と思うて見れば。松澤さん。自分の困ったとき、御厄介になったものが。今は不足がないからというて、何で顔向けせずに居られましょう。私の迷うていたときは、五月蝿いほども毎晩々々御苦労かけた地蔵様。その時不具の子供でも、一人授けて下されたら。いよいよ鬼が鬼になりこの世も後生も阿鼻叫喚の、地獄で暮らすのであったろに。今は信心決定し、この世も安楽、未来も極楽。何一つ不足のない身になったのも、偏に地蔵様の御陰と思えば。顔向けせずにはおれんので、此頃旦那にお願いして、御礼のしるしに袈裟衣、寄進をさして貰いました。


何処の道でも、地蔵様を拝む度毎に。御陰で此の身にさして貰いましたと、尽きぬ御礼を申します。地蔵様ばかりではありません。この様に遠い所の初夜参り。下向が遅いと、旦那が寝て仕まうておられます。若し熟睡して御座るその時は枕元へ静かに座り。今夜は仏拝んで寝るよりは、旦那を拝んで寝ましょうと。


松澤さん、笑うて下さるな。ほんとに私は珠数をかけ、女は三界に家持たず。旦那の家より、外に居場所のないものが、なんぼ後生が大事でも。旦那の許しがなかったら、閾三寸は出れんのに。いつ御参りと願うても、行って来いよと機嫌よく。伴には誰をつれてゆけ、雨が降るから車でゆけと。親切こめて、出して下されたればこそ。万劫にも得難い信を得て、喜ぶこの身にさして貰うたも。そんな旦那の御陰様。こんな尊い御方をば、昔は恨んで粗末して。暮らしたことの残念やと。しみじみ懺悔の念仏で、いつも休まして貰います。


旦那ばかりではありません。二人の子供もよく育ち、下女や下男や番頭まで。店の仕事や勝手元よくも勤めてくれればこそ私が気楽に参らるる。そうして見れば家内中、総懸かりにてこの私を助けてくれるとは思われて。何方へ向いても、御恩尊や有り難や。使われておる犬猫や、馬や鶏までこの私の、後生の手伝い。しておるように喜ばれ、無理の扱い出来もせず。可愛い可愛いで日暮らしさして貰います。」


長々おかみさんの物語り、私は実に感心して聞きました。ここに皆さん、注意をして味わうて貰いたいのは。地蔵様に法衣の供養をしたといえば。事柄は、たしかに雑行雑修のようではあるが。信者の仕事は、決して雑修になっておらぬので。若しもこのおかみさんが。法衣の供養はしてみたいが、雑修になっては済まぬゆえ。地蔵様には顔向けせぬ、というような心なら。表面はいかにも一向専修のように見えても。心は不至心の雑修である。そこで私は。雑行ということを事相や形式の上では決められん。飽くまで信心の有無に依って、決着せねばならんことと思われます。


この大川という家は、かなり財産もあり、手広く商売もしてあるが。割合に御法義はなかったが。このおかみさん一人の喜びで。旦那を始め家内中、分家の末まで御法義を大切にするようになり。家政も益々繁昌し、随分信者の模範としては。数々の話もありますが、今は略しておきましょう。私も一二度此の家に立ち寄り、饗応を受けた事がありますが。夫婦二人であしらいに出て。

「松澤さま。この戸を開けてあの戸へ走り、座敷中から寝間廻り。私は逃げる旦那では追われる、月に幾度の修羅道であったのが。今は六字の御力で、要らぬ戸などは何年にも、開け閉てする用事がなくなりました。」

と、おかみさんが話せば。

「イヤ松澤さん。嬶が念仏申すので、家内が見事におさまって極楽のようになりました。浄土真宗の尊さは是で値打ちが有り余る。極楽参りは此の上の景物と思われます。」

と旦那が口を添えらるる。


アア座敷の狭いほど陳列された山海の珍味より。この御夫婦の御話しは、又と聞かれん御馳走と。私は味わうて参りました。是でこそ浄土真宗は、未来教にして現世教。現世教にして未来教。真俗二諦、現当二世、光輝く信仰の活躍は。此の上もないことと仰がれる次第であります。


以名摂物録 後編 終

亡父の常にいわれとことを  祐然跋


人毎に一つのくせはあるものを

  我には許せ念仏のくせ

くる珠数を百もおとして有難や

  から手で参る弥陀の浄土へ

目次

以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2016-02-05

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「49 信者の地蔵供養(其一)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

49 信者の地蔵供養(其一)

さて皆様。長々の御話しで雑行雑修を捨てるということが真から底まで解りましたか。何も有る品物を無くするのでもなく持ったものを離すというような物でもない。


六字一つの主となり大悲摂取の内住まいとなった上からは。夫れが絶対の現世祈祷であるゆえに、外に祈祷の用事もないが。用事がないとて諸神諸仏をかろしめるのではない。いよいよ諸仏菩薩を大切にして世間通途の仕事なら。物忌みするもよかろうししめ縄張るもかまやせん。私などは伊勢の大廟に参る度毎に。御神楽もあげ御酒も頂き柏手打って礼をなし。アラ日の本の大神と法衣のままで絶対の大祈祷を捧げて来ます。


私の檀中で今日は丑の日で葬式が出せぬといえば、そうであるかと挨拶し。この普請は鬼門に障ると聞かせれば、そういうものかと聞き流す。御本山でさえ鬼門を切ってあり、内事の方では従来の御稲荷様も祀ってあるということじゃ。こんな世間の問題を一々本気にかかっては、際限のあるものでなし。斯かる僅かの事柄で、間違い出すよな本願のか弱い訳はないゆえに。角菱取れてまめやかに、念仏する身になってこそ。真に雑行雑修を捨てた相というものである。


是について越後国西蒲原郡漆山というところに、大川清治という人がある。その御家内に、信心を頂いて見たれば、余り有り難くて、地蔵様に袈裟衣を寄進したという面白い美談が有る。


話は、多少前後して申し上げますが、大体の事実には決して相違のない話ですから、篤と聞いて頂きたい。去る大正二年の春のこと、私が同村大字河井の長善寺へ、婦人会に参りましたとき。漆山の入り口に立てられてある地蔵様が。えらい美しい袈裟衣を着て御座るので。

「何と有福の地蔵様じゃなぁ」

と驚いたれば、車夫の言葉に。

「貴方も御存知の大川さんの御家内が、寄進せられたのであります」

というので。私はいよいよ驚いた。


あの念仏の行者で御座るおかみさんが、地蔵様へこの寄進、妙なこともあるものじゃと思うていたが。その晩の初夜前に、大川のおかみさんが息子や女中を連れて参った来て、私の座敷へ出られたから。先ず一応の挨拶がすむと、私は聞かざるを得んことになって来た。素より物の解って遠慮の要らぬおかみさんのことであるから。私は有りの侭に話をして、地蔵様にあの寄進。どういう心でなされたかと尋ねたれば。


おかみさんは大笑いをしていわるるには。

「あの地蔵様には、私は申し訳の無いことがありますので。恥をいわねば訳も解りませんが。実はこの子は私の子ではないのであります。」

「オヤ私は、年来貴方の息子さんと計り思うていましたが。」

「ハイ私は子持たずで、是は旦那の子供です。」

「おかみさんの子でなくて、旦那さんの子じゃとは、おかしいね。」

「夫れは内の旦那が妾を持って、それに出来た子供を引き取ってあるので。何方の眼にも私の実子のように見て下され子供も私を真実の親より慕うてくれますが。実は私の子ではありません。」

「妾や子供の話はどうでもよいが。アノ地蔵様の法衣は、どういうのでありますか。」

「サァ是から御話しをせねば解りませんので。松澤さん聞いて下さい。私は昔はほんとうに鬼でありました。旦那が少し遅くでも帰られると、碌々挨拶もせず。お前が亭主の亭で我が儘するなら。私も嬶のカァで勝手にするわ、というので。御飯はいかがと尋ねもせず、寝巻きも出してやろうともせず、真に悪魔でありました。


その内に息子が一人、妾に出来ました。サァ私はいよいよ鬼が鬼になり。残念じゃやら口惜しいやら。妾なんどは詛うても殺してやりたい、息子なんどは噛みつぶしてやりかいような心地して。私も女だ、不具でも病身でもないものじゃ。何としても子供を産んで見せようと、薬やら温泉やら、まじないやら祈祷やら。種々と手を尽くしてかかっても、更にしるしが見えんので。


とどのつまりはあの地蔵様へ、子の出来るまで通いましょうと。毎晩毎晩人目を忍び、分家の嫁を供に連れ。どうぞお前も私の為に祈ってくれ。子供が出来れば、田地一反褒美にやるから、という約束で。南無大悲の地蔵様、どうぞ子供一人御授け下さるようと。一心こめて二人がかりで祈って見ましたが。幾月通うても験がないので、分家の嫁まで恨みました。


私ばかり本気にかかっておるけれど、お前が一向本気に祈ってくれぬ、ゆえききめがないよ、と愚痴をこぼせば。嫁じゃとて、子供より尊い田地一反になるものじゃもの。早く早く地蔵様、本家へ子供を授けて下されと。真から本気に祈って居りますのじゃ。夫れで験がないうえは、嫁も田地の約束が、お流れになるかと思えば、残念でありますよ、と嫁はいうので。何とも困り果てておるうちに。畜生め、妾がまた一人息子を産みました。


サァその時に私の心は七転八倒。頭は毎日火事場同様、ゴンゴンモンモン早鐘の声がする。願いは叶わず、憎い敵にまた勝ち旗を上げられた。身も心も置き場なく。女の瞋恚は恐ろしいものであります。遂には私はヒステリ性の半病人になってしまい。食事も出来ず、ふらふらと、色蒼ざめておるところへ。近隣の女房が誘い来て。

『おかみさん、何程心配なされても、体が痛むばっかりで。旦那のなさる事じゃもの、どうする道もありません。今夜は幸い村の御寺に説教がある。参って少しは心を御休めなされ』

といわるるので。遣り場のなかった胸の苦しみ、少しは気散じにもなろうかと。常に進まぬ寺参り、仕方なくなく連れ立って。人の後ろに身を隠し、説教を聞いていましたが。丁度その時松澤さん。貴方が御出であったので、忘れもしないその晩の御話に。過去の宿業ということを、詳しく説いて下された。


一座の説教で廓然大悟。アア過った過った。アア宿業よ宿業よ。宿業知らずのこの私が、無理の願いを持ち出して、地蔵様へ御苦労かけたは勿体なや。いくら心願かけたとて、前世の宿業が悪いもの、何で子供が出来ようか。内の旦那も宿業々々。馬鹿でも放埒でも御座らぬもの、村にも随分重んぜられておる人が。賎しい女に交わって、離れられんも過去の宿業。夫れを知らずに粗末にしたは申し訳ない。妾じゃとても其の通り。現在主のある人に、一時の花となぐさまれ、生涯日陰に暮らすのも。楽しい訳でもあるまいが、宿業なれば是非もない。それを今迄恨んだことの恥ずかしや。よくよくの業があればこそ、子供が二人も出来てある。子供に罪のないものを、宿業知らずのこの私は。噛み殺そうと思うたは、いよいよ鬼であったかと。思えば御堂の真ん中で、歯を噛みしめて泣き伏して。とても頭は上がりませなんだ。」


おかみさんの話が余り長いから一寸一服しましょうが。説教もたんだ一座で、是ほどのききめがあっては、尊いものでありますが。是も飲み慣れた事のない人が、薬を飲んで、忽ち瞑眩したようなものか。夫れも何かの因縁で、つまらん私の説教が、斯も厳しくきいたのか。但しは地蔵様の御利益か、且つは如来様の御方便、是も宿善開発、時節到来の事であったと思われます。

(50へ続きます)

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2016-02-03

2016-01-30

阿弥陀仏の本願を計らわないように、疑わないようにとしています。ところが、計らわないようにしているのも、自力と思うとどうにも成りません。本当に救われることがあるのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を計らわないように、疑わないようにとしています。ところが、計らわないようにしているのも、自力と思うとどうにも成りません。本当に救われることがあるのでしょうか?(頂いた質問)


お尋ねされている方は、疑いがいろいろと出てくることに悩まれていると思います。

こういう時には、「自分の心と向き合うべきだ」という人も有れば、「自分の心にこだわっているから分からなくなるのだ」と言う人もあります。

これについては、どちらが正しくどちらが間違いと言い切れないところがあります。ただ、自分の心の様子に一喜一憂して、どうしても自分の心の有り様が気になる場合は、視線を自分の心から阿弥陀仏の本願に変えるのがいいです。

なぜなら、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることない」のが信心だからです。阿弥陀仏の本願を聞かずに自分の心と向き合ってるのは、法を聞かずに救われようという話になってしまいますので、元々無理があります。

南無阿弥陀仏を称えても、阿弥陀仏の本願を聞いても、聞いた後から、「では自分の心はどうなっただろうか」という確認作業は本来余計なことです。余計なことを付け加えるので、南無阿弥陀仏を聞いてない状態になってしまいます。

南無阿弥陀仏は、ただ今救うという阿弥陀仏のお働きそのものですから、私がどう聞いたかという評価を付け加える必要は最初からありません。ただ今救うと、聞いて、ただ今救われて下さい。

2016-01-19

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「48 振り捨てれとは受け取れの反響」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

48 振り捨てれとは受け取れの反響

皆様に直接用事もないような真宗の勧め振りや、説教の語りようなどという話でいかにも迷惑をかけましたが。帰するところは、雑行雑修を捨てるということを、徹底的に聞いていただきたいばかりのことであります。


これは再三御話しを致した通り。当流において、雑行を捨てて正行に帰するといえばとて。剃刀を捨てて菓子をとるように、雑行と正行を交易するようなものでもなく。雑修を捨てねば、弥陀が助けぬというのでもない。弥陀は元より助ける一方、救うが専門。如来の作願の有りだけを隅から隅まで尋ねても。あれを捨てればこれをくれるというような、駆け引き勘定するのじゃない。苦悩の有情を捨てずして廻向を首とし給ひて大悲心をば成就せり。成就の出来た御助けが、南無阿弥陀仏の名号でその名号に万善万行封じ込め、諸神諸菩薩皆御座る。殊に動かぬ摂取の御手も、こめた不思議のお六字が。この機に届いた一念に、届いた六字が万善万行、届いた六字が諸神諸菩薩。届いた六字が離し給わぬ御手なれば、自力の出し場は更になく。捨てる捨てんの世話なしに、自余の諸善に用事無く。諸仏諸菩薩も守りづめ、現世祈りも未来の先も。一時に満足の出来たのが真に雑行の捨たったのじゃ。


捨ててから貰うのでもなく貰うてからすてるのでもない。貰うた六字に腹の膨れたその侭が自力の捨たったかたちなるが故に。雑行雑修を捨てるというも別に仕事があるのでない。帰する所は届いた六字が此の機の上に働く信心の相である。


ここに一つの不審の起こるは。六字の宝が此の機に届けば世話なしに雑修自力の見事に捨たるものならば。何故に善知識の御化導に、自力なんどいう悪き心を振り捨てれとか。ひが思いをもなげすててなどと。いかにも催促がましい、仕事のありそうな御言葉づかいをなされたものであろうか。全く差し引きも交易もないことなら、只名号を信ぜよ、弥陀をたのめよの仰せばかりで、よかろうと思われる。


これはどうした訳かというに。これが所謂御化導の五ヶ道たるところにして。自力なんどいう悪き心とあればとて、罪や障りの悪いとは違うので。木綿が悪いというたとて罪になるの刑法に触るというのではない。絹布に比べたときに、木綿が悪いといわれたのじゃ。雑行雑修は悪業ではない善根功徳の善いものであるが。名号六字の絹布に比べると、普通の善根は木綿同様に悪いといわれるので。そのつまらん善根に力を入れて、尊い六字を頂きかねておるものに。驚きたててこの名号を受け取らせてやりたい為に。雑行雑修自力なんどいう悪き心を振り捨てれと御化導下されたので。捨てねば与えぬというのではない。捨てよの御意は貰えよと御催促下さるる反響であると、心得て下されたい事であります。


不足のない親里を飛び出して、放蕩三昧に長々迷うていた息子があった。悪性の病にとりつかれ不具同様になってしまい動きのつかぬ借金で毎日攻められておるけれど、何と返済の道も無い。銭取り商売は出来もせず、我が身ながらも飢え死にするより外はないと困り果てておるところへ。親切の人が勧めるには。なんぼ不具で力仕事は出来ずとも手先で出来るマッチ箱。これなど張って命繋ぎにするがよいと、いわるるので。息子も一生懸命にこれで助かる工面をしようと、寝ずにかかってマッチ箱を張っておる。このマッチ箱は悪いことでもつまらん物でも更にない。然るに雑行雑修の悪い仕事と嫌われて、それを振り捨てよと催促せらるるは。如何なる場合にあることか皆様も注意を払って聞いて下さい。


この放蕩息子を昼夜忘るるひまのない真実親がある。何年経っても息子の便は更になし。老い先短い親の存命中にせめて身代有るだけを息子に渡してやりたいの親切より。財産残らず百万円の手形にして。親類の確かなものにこれを持たせ息子の行く末尋ねさせ。漸く見つかった菰垂れの、あやしき小屋が息子のありか。覗いて見れば相違ない窶れ果てたる息子どの、頻りとマッチを張って御座る。


そこで親類の人は「たのもうたのもう」と音なえど更に返事をしないので。これは聾になられたか遠慮はいらんと内へ入り。

「これはお久しや息子さん。私は親類の誰それじゃ。お前の親からこれこれで百万円を預かってきた。これを受け取って下され。」

と。話しを聞いて口先で息子は挨拶はしておれど。心はマッチに一心不乱。

「ウム親類か。ウム親が。ウム手形か。これを張らねば命にかかわる。」

見向きもせねば真実聞いてもくれんので。親類の人は大喝一声。

「そんなつまらん仕事をやめて是を受け取れよ。」

と怒鳴りつけた。

息子は驚き振り向く端的百万円は渡された頂かれた。

その一念に雑行雑修は捨たったのじゃ。


ここで皆様も味わうて下さい。マッチ箱は悪いものではなけれども。親の身代差し付けられて居りながら、マッチばかりに気を取られ。受け取る心の起こらんときに雑行と悪い名前がついたのじゃ。そんなつまらん仕事を止めて、これ受け取れというたのは。マッチ箱を捨ててしまえというのでもなく。やめねば折角の百万円渡さずに帰るというのでもない。やめよというたは。受け取らせたい真実の反響である。手形受け取ったその上は、今迄積んだマッチ箱。川へ流すも火に焼くも、そんな用事はありません。仕掛けた仕事も今日限り命繋ぎの雑行雑修にするじゃない。一つ張っては有り難や。僅かの銭をとるにさえ斯かる難儀が要るのじゃに。百万円の大金を下さる親の手元では何程の苦労であったろう。せめて御恩の思い出にマッチを張ってしまおうと。雑行雑修の品物がそのまま転じて御恩報謝の行となる。


今も丁度その如く。三界流浪の我々が後生の借金苦に病んで定散自力のマッチ箱。せめてはこれで未来の命繋がんと、かかり果てておるところへ。阿弥陀如来の親様は、千万無量の財産を六字の手形に封じ込め。諸仏菩薩の御使いで、煩悩具足のあばら屋へ、与えてやるぞ助けると。呼んで下さる御勧めの、声は聞かんじゃなけれども。ウム親様か、ウムお六字か。ウム無上甚深の功徳利益があるのかと。口先ばかりで挨拶して、耳へもしかじかといれもせず。心は定散のマッチ箱。この心でこの思いでと、自力ばかりを張りつめて。真実六字の御宝を受け取りかねておる私へ。大喝一声の御化導が。雑行雑修自力なんどいうわろき心を振り捨てよとの仰せである。仰せ一つに驚きたち、六字の宝が頂かれ満足出来たうえからは。後生に取って此の機なぶりはいらねども。せめてはせめてはの思いより、此の機なぶりを報謝に用い。我が身で邪見を起こさぬよう、人には無理に当たらぬよう。諸神諸仏は大切に世間の仁義は人並みに。慈悲もなさけも親切も欠け目のないよう張りつめて。この世一生過ごすのが御恩報謝の経営である。

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2016-01-17

阿弥陀仏の本願をどうしたら聞けるのかと、日々悩んでいます。それでもなかなか聞けず、最近はどうしたらいいのか分からなくなって来ました。(頂いた質問)


阿弥陀仏の本願をどうしたら聞けるのかと、日々悩んでいます。それでもなかなか聞けず、最近はどうしたらいいのか分からなくなって来ました。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を真剣に聞こう、聞いたら聞き開けることがあると思っていたけれどもなかなか聞けない。現在は、どうしたらいいか分からないという御尋ねです。

確かに、阿弥陀仏の本願を真剣に聞こうと思えば思うほど、なかなか聞けないものです。それはなぜかと言えば、「真剣に聞こう」と思う人は、「助かりたい」と思う一方で、自分の力をあてにしているからです。それでは、阿弥陀仏の「助ける」の仰せを聞いたことにはなりません。

昨日と、本日、大学入試センター試験が行われています。私も過去受験をしたので、受験生の心配はよくわかります。この受験生の心情と、質問された方の気持ちは似ている部分があります。

私の実例を紹介しますと、かつて私が受験生だったとき、近所の「勉強の神」に初詣でして、合格祈願をしていました。それまでの初詣でとは違い、少し真剣に手を合わせていた事を覚えています。日頃は、神社に手を合わせたところで、本気で何か御利益があるとは思っていませんでした。ところが、いざ受験となると、「なにかの手助けになることがひょっとしたらあるかも」という気持ちになり、その「何かの手助けがありますように」と思って手を合わせていました。


これは、受験をした方なら分かると思いますが、「受験は水物」とはいうものの、大半の受験生にとって、それまで勉強してきた学力以上の点数を受験でとることはほぼありません。例えば、模試でD判定の大学に合格すると人はあっても少数です。そこで「日頃の力が出れば」合格出来る大学を出願します。受験祈願も、そもそも「自分の力以上の成績を出させて下さい」ではなく「日頃の力を発揮できますように」という願いに成っています。その根底にあるのは、まず自分の力以外に受験の成功はありえないということで。次に、神頼みはあくまで、自分が力を発揮するための心理的安心を得るための補助に過ぎないということです。


そこで、先ほどの阿弥陀仏の本願を真剣に聞いたら助かると思っている人の話に戻りますと、前述の受験生とよく似ています。


真剣に聞いたら助かると思っている人は、あくまで『自分の力以上のものは結果として出ない」と思っている人です。言い換えると、それだけ自分に自信を持っている人です。これを自力をたのむともいいます。また、それだけ自分に自信を持っているから、阿弥陀仏の救いはあくまで補助的な扱いになっています。その補助的というのは、別の言い方をすると、「本来浄土に往生できる私」を、少し手伝ってくれるのが阿弥陀仏の本願だと思っているということです。

しかし、そのような人は、阿弥陀仏の救いを勘違いされています。なぜなら阿弥陀仏の本願はすでに成就しているからです。私の力を足す必要もなければ、私の力をサポートするという本願でもありません。


親鸞聖人は「大悲の弘誓をたのみ」と言われています。これは私の力は必要ないと言われていると同時に、「本来浄土に往生できる私」という可能性を一切認めておらない事で言われています。なぜなら、阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏となられたのは、私の力を使わなくても、私を浄土に往生させるためだからです。


「助かるはずの自分」という自信は捨てて、「自分の力では助からない」と聞き入れて、ただ今救うの法を聞き入れて下さい。

どれだけの聖人といわれる人も、自分の力で浄土往生はできないと、「自力の往生」の望みを捨てて、南無阿弥陀仏の光にあわれました。

それを親鸞聖人は、御和讃に言われています。

(72)

願力成就の報土には

 自力の心行いたらねば

 大小聖人みなながら

 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃

2016-01-09 脱会ブログを更新しました。 このエントリーを含むブックマーク

2016-01-08

1月10日(日)11日(月)玄照寺(真宗大谷派 滋賀県)で話をさせて頂きます。

瓜生崇住職の玄照寺で、1月10日(日)11日(月)行われるお七夜法要で話をさせていただきます。

詳しい情報は、以下を参照下さい。

玄照寺お七夜法要|宮田秀成|玄照寺|滋賀県|浄土真宗の法話案内

自身を振り返ると、10年前はこういうご縁にあうというのは想像もしてませんでした。

2016-01-06

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「47 現世祈祷の教策」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

47 現世祈祷の教策

古来より浄土真宗では、雑行雑修ということを、偏屈に執じこみ、現世祈祷を極端に嫌い過ぎて。有る善根も無くしてしまいの、したい祈祷もやめておれのというて。夫れが為却って信仰の本意を失い、布教の道も窮屈に陥ってあるかと思われます。


成る程第十八願の正意、出離解脱の大望を成就する、教義に於いては。現世の幸福を祈ることや、自力雑善の有る無しということは、毛頭用事のあるべき訳はなけれども。その信仰の奥の院まで、単刀直入に飛び込むことの出来る、御客は誠に不足にして。頓機は稀で、漸機の多いものなれば。その漸機を導くのが、布教上、最も肝要なので、而も骨の折れるところである。高い山に導くには、必ず低い所より運ばねばならず。奥座敷に座らせるには、必ず門口より導かねばならぬは、当たり前である。


これに依って御本願の当面より伺うて見ても。十八願へ弘願直入の出来ない漸機の為に、十九二十の要門真門の二願が、設けられてあることは。諸機誘引の方便たる、至極大切の本願である。然るに兎角真宗の勧め振りは。入り口も通さずに、奥座敷へ連れ込むか、ただしは、低い道を踏ませずに、高い山へ登らすような、傾きがありがちで。何ぞといえば、夫れは雑行じゃ捨ててしまえ。祈祷は雑修じゃ、してはならんと。意味も方角も解らんものを、厳しく戒めてしまうものゆえに。初心のものは逃げてしまい、聞きなれたものは間違うてしまい、表向きだけ、祈祷でもやめておれば、夫れで顔の立ったような考えを起こしておるは、甚だ残念のことである。


子供を育てるにも、子供は何の意味とも知らずにしておる事を。無闇に叱り飛ばしては、却って子供を偏屈にしてしまうようなもので。夫れでは教育とも言われず、御化導とも、御勧化とも、いわるるものではない。化導とか勧化とういう、化の字には、中々重大の意味のあることで。孵化、変化、転化、開化などというときの化の字。権化教化というときの化の字には。バカスとかダマスという、大いなる方便手だての要る訳のある文字で。法律や規則見たように、方便も手だても更にない教えなら。化導でも勧化でも何でもない。


仮に、説教の仕方にしても、化かして導くという上に於いては。或る程度までは、節談もよし、因縁談も必要である。私は真宗の某教団で、安心の話しなんどは微塵もなく。節と因縁ばっかりで、満堂の聴衆を泣かせて御座る布教者を見て、実に感心したことがある。とても我々では真似でも出来ぬ技術を以て、御講師様でも引き寄せるけとの出来ない、機類の聴衆を沢山に集めて。真宗の門に入らしめて御座る御手際は。これこそ一種の御化導を、十二分に発揮してあるものと、恐れ入りました。


然るに自身で真似の出来ないことを、負け惜しみでいうのでもあるまいが。節談は厳禁すべし、因縁談は野鄙である。神精なる信仰を伝えるには、如何にも森厳に説かねばならぬなどというて。乾燥無味の音調で、済まし切って御座る御方もある。夫れも一種の御化導に違いはないが。水清ければ魚住まずの譬えもある。そんな御品のよい説教ばっかりで、この平民教たる、在家教たる、無智教たる、真宗の大法が護持の出来るものであろうか。政府でせえ、民力涵養や芋飯を勧めるに付けては、浪花節活弁を利用することを知って御座る。まして出離の大事を導くべき大導師たるものは。偏屈の内輪争いは厳禁して、互いに戒め、互いに利用して。この大法を弘むる上にはあらゆる手段を採って、進まねばならぬ事と思います。


依って現世祈祷の如きも機類に依っては或る程度まで大いに許すべしという覚悟を以て進んだ方が、布教開拓上兄よりのことであろうと思われる。天理教や大本教が未来の話ばかりをしておる、教えであったなら。今日の繁昌はとても見ることは出来ないのじゃ。仏教の各派に於いても、信仰の奥の院はそれぞれ別として。まずその門に導くには必ず現世祈祷の看板を用いてある。


この現世祈祷の看板を、先としておるもの故に。丸で無教地へ押し出して、教線を張るときは。真宗より、遥かに長足の進歩を認めらるるようである。私の壇中に大病を患うて、祈祷はしたいが真宗では禁じられてあるから。日蓮宗から祈祷して貰うて、題目を唱えて全快した。それで自分一人は生涯題目を唱え通して、死んで日蓮宗から葬式を行うて貰うたものがある。


題目で治るなら、念仏で治るは請け合いじゃもの。なぜ念仏でこの人を繋ぐことが出来なかったであろうか。念仏で繋いでおけば、いつかは第十八願に導く方便ともなるのじゃに。題目へ走り込ませてしまっては、何とも導くようがない。これが真宗で祈祷を厳禁してある弊害で、アダラ御客を逃がしてしまうようになるのじゃ。貞信尼がこの念仏を現世祈りの方面より説き勧めて。無心のものを信仰に導いた事跡が沢山ある。


依って私は病気平癒の御経を頼まれたことがあったが、快諾して読んでやりました。多少功徳のあることは、確信しています。それで治らんときは本人が黙っておるし、治れば喜んで礼に来る。礼に来るほどになればそろそろと本願の大道へ引き込む、手づるがあるというものじゃ。


現世祈祷に来る程のものを、急に第十八願へ導こうとしても、駄目である。夫れを真宗では、祈祷の御経は読めないなどとはね付けてしまえば導く縁は切れてしまう。しかし公然と祈祷を許してしまったら。又夫れに傾いて大いなる弊害も起こるであろうから、禁じてもおかねばなるまいが。随分その辺の呼吸は難しいところで而もそこが御化導の御化導たる、大手練の要る所であろうと思われる。


依って私は飽くまで祈祷ということを嫌わずして信心を以て絶対の大祈祷であることを、大いに吹聴したいことである。その上は改めて祈祷をする必要もない代わりには。時と場合に依っては、何事をしても、信心決定の人ならば。雑行雑修になる気遣いは、決してないものと確信しておる次第である。

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2016-01-04

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「46 絶対の現世祈祷」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

46 絶対の現世祈祷

然らば汝自身は、現世祈祷をするかや、と御尋ねなさる御方もあろうが。「私は常に常に、絶対の現世祈祷をしておる。」と断然御答えを致します。目が悪いで御不動様、腹が痛いで地蔵様というような、小安い祈祷は致しません。夫れは観音様や地蔵様を、馬鹿にしておるのでもなく、嫌うておるというのでもない。みんな尊い御方にして、利益もましますに相違はない。しかし、私は、そのような神や仏に祈る用事は、ないというよりは、祈っても、私には効き目がないのには困っています。なぜなれば、諸神諸仏より百千万倍、より以上に功徳のある、南無阿弥陀仏を、常に信じ、常に行じておるこの身なれば。諸神諸仏の有りだけに、昼夜不断に護られてあるものなれば、この上に起こる病気災難は、何処へ祈るに場所もなく、何様頼んでも効き目がない。亭主一人の親切で、不足がないから、外の男に用事はない、というような、アダな話と違います。あらゆる仏や神様の、ご厄介になりづめにしておる身の上に。集まってくる災難は、とても逃れる道はないから、世間普通の小安い祈祷は御免蒙る次第であります。


そこで信心未決の人々は、常に諸仏菩薩に守られてない御方ゆえ。病気災難に遭うたときは、地蔵様でも観音様でも、手近いところで、ご祈祷なさるが結構です。多少御利益のあることは、請け合いであります。御利益が見えたら、自分は信心未定であると覚悟なされて、多分の誤りはありません。どうせ信心未定にして、祈祷をなさることならば。諸仏菩薩に祈るより、一心不乱に念仏で、ご祈祷なさるのが、結句御為になろうと思われます。地蔵様で十日もかかる病気なら、念仏で祈って御覧なさい。三日か四日で請け合い治ってしまいます。念仏で治らん病気なら、観音様で治る道理はないのです。日本一の名医にかかって治らぬものが、やぶ医者にかかって治る理屈はない如く。若し治ったら、やぶ医者や地蔵様の手柄でない、病気に治る時節の当来したのでありましょう。


兎も角も、信心決定した人は、現世祈祷の利益なし、信心未定の人ならば、時には祈祷の利益があるものと、決着して頂きたい。その故は、信心決定の人々は、今更別に祈らずとも、常に現世の利益ありづめにしてあるので。信心未定の人々は、時に祈ったその外に、常に利益を受けてないのじゃ。


私の家に富山のクスリが三軒から来ています。格別家のものは飲まぬようでも勘定の時には一円二円と取られるから。誰が飲んだのかと尋ねると、権や八の貧乏者が、時々貰いに来るというので。こんなクスリが、彼等に効くかといえば。権の嬶の大熱が、感応丸二粒で全快した。八の亭主は、妙振出一服で風邪が治ったという。家のものには効かん薬が、権や八には効くというては不思議のようじゃが、これは常に薬を用いぬものには、つまらん薬も効くものであるが、常に薬を飲みつけて、少し悪いと直ぐ医者から診てもらって。適薬ばかりを用いておるものには。富山の売薬位では、とんと効き目がないのである。


諸神諸仏は富山の売薬も同然のもの、南無阿弥陀仏は、中道府蔵の霊薬である。平生に府蔵の霊薬、南無阿弥陀仏を信ぜざる人には、地蔵様や観音様の売薬でも、祈祷すれば効き目もあるが。常住不断に六字の妙薬を、用いづめにしておる我々には。諸仏菩薩の売薬では、とても効き目はありません。そうして見れば、諸仏菩薩を嫌うて願わぬのでもなく。往生の邪魔になるから祈らぬという、未練の話でもありません。効き目がないとなって見りゃ、仕方なくなく諸仏菩薩に、祈る用事は尽きてしまうた次第であります。


然らば私が常に絶対の現世祈祷をしておる、というはそもそも何であるかというに。夫れは申す迄もない、頂き奉りたる信心一つであります。この信心は、長生不死の大祈祷転悪成善の大利益、その他現世に広大の利益のあることは。宗祖大師より懇ろに、御聞かせを蒙っておる次第であります。これは観音様や地蔵様へ、毎日百度参りするよりも効き目のある。世間に並びのない、絶対の大祈祷であることを、私は確信しております。独り此の世の祈祷になるのみでない。証大涅槃の真因、往生極楽の捷径は、この信心の外にないことであります。


しかしこれらは、信心当体の御利益であるから。現世のことに、祈り心を出してはすまぬの祈らずとても神や守るのと。そのような窮屈のことまで、詮議する必要はありません。私は現世に於いて祈り後頃は、毎日のように出しています。又出さずにはおれません。去りながら、利益が有るか無いかというような、不定の祈りでもなく。何卒利益あらしめたいという、ねだりがましい祈りでもありません。私の祈りは、作得生想の願心の如く、決定往生の願心の如く。決定の祈りであります。獲得の祈りであります。不断の祈り、不退の祈りであります。


孔子様が。「丘や祈ること久し。」と仰せられたも、この辺の消息と、同じ意味かと思われます。子路は、孔子の病気を天地の神祇に祈らんとした。孔子は、平生に於いて道徳仁義を行うておる。これが不断の大祈祷にして、この上の病気は天命であるから、あらためて祈る用事はないと仰せられた。


然らば今日の我々も、人間の道徳仁義位の祈祷ではない。如来回向の大信心を、獲得したるものなれば。不断の祈り心は信心である。決定の祈りの声は念仏である。この念仏の信心に依って、死んで未来は言うまでもなく、生きて此の世の幸福は、祈り得て余っています。父母を養い、妻子を育て、衣服飲食何一つ、自分の力として得かねるものが。不足もなく、寒暑を凌がして頂くのも。残らず如来様より決定して祈り得たる、現世の幸福と思うています。この上の病気災難は、自身の宿業。祈って逃れる道もなく、願うて転ずる策のないことと、覚悟しておりまする。古来の学者が、不祈祷にして無祈祷に非ずと仰せられたも、同様の意味かと思われます。


これは只。「祈祷」という文字や、言葉を非常に恐れて。不祈祷であるの、無祈祷でないのと。回り遠い講釈をしたまでのもので、無祈祷でなかったら、確かに祈祷である。その祈祷たるや、通常一般の祈祷でない。善導大師が、皇帝の為に祈らせられたも、宗祖大師が、朝家の為に念仏なされたも。必ずや絶対の祈祷、不断の祈祷、決定の祈祷にして。実は他力廻向の御信心、その体南無阿弥陀仏の妙用であると思われます。

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2016-01-03

2015-12-30

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「45 現世利益和讃」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

45 現世利益和讃

さて今日は、皆様から現世利益和讃の大体について、一応味わって頂きたい事であります。そもそもこの念仏に、現世利益のあることは。親鸞の臆説ではないぞというので、先ず初めに金光明経を以て、息災延命の利益を示させられ。次には、他宗の祖師の伝教大師を証拠に出して、七難消滅の利益あることを御述べなされ。其の次に、いよいよ。

「一切の功徳に勝れたる、南無阿弥陀仏を称うれば」と標榜して。而もその称え心の善し悪しは御詮議なく。自力他力はどちらでも、口に称うるものならば。三世の重障軽微なり、重い災難を軽くすまして貰わるる。又其の次に、此の世の利益きわもなく、たとい若死にするものも。できる限りの長命をさせて頂く利益がある。夫れのみならず、梵天帝釈諸天善神堅牢地祇や難陀跋難。閻魔法王や五道の冥官の尊敬をうけ。善い事ならば、何の邪魔でもしてやろと。かかって御座る第六天の魔王まで、念仏申す人だけは、守りましょうと誓うて御座る。

南無阿弥陀仏をとなふれば

 四天大王もろともに

 よるひるつねにまもりつつ

 よろづの悪鬼をちかづけず

この一首の御和讃だけでも、皆様は何程の御利益と思われます。世間の金満家の中には、随分寝ずの番爺というものを、雇うて御座るようじゃが。昼は寝たり起きたり、碌々仕事もさせずして。夜になると、寝ずにかかって屋敷の番をしておるのじゃ。仮にこの和讃を作りかえて。

「南無阿弥陀仏を称うれば、五十余りの爺さんが、昼は寝ていて夜護る、万の泥棒の番をする。」

として見ても、一年間給料から食費をかけて、二三百円の御利益が、念仏にあることになる。


 然るにこの念仏を称うれば、五十余りの爺出ない。四天大王諸共じゃ、広目天も、持国天も、増長天も、多聞天も。昼は寝ていて、夜護る、ソーでない。夜昼常に護りつつじゃ。外から入る、泥棒位の番ではない。奥の座敷に寝て御座る、旦那様や奥様の、心の中まで攻めかける。悪鬼羅刹や煩悩までの、番をして下さるる、尊い御念仏として見れば、何程の御利益とも、測り知られるものではない。


 こんな和讃が十五首もある。終わりの四首は、信心の得益となってある。信心というも念仏というも、その体六字の名号にして。信じた心や、称えた口の手柄でない。称えられたる名号に、こんな尊い御利益の。有りと知られた、うえからは、称えずにおるのは御損で御座る。極楽参りは抜きにして、此の世ばかりの利益でも、捨てておけない御念仏。幾ら利益があったとて、所得税がいるでなし。幾ら称うるとして見ても、手間ひまかかるのでもない。手足は此の世の用事に使い、隙のお口に称えさせ、儲けは山々ありますぞ。サァ皆様も一生懸命、称えて得とる工面をなされ。


「成る程その様に御利益のなる御念仏なら、是から称えても見ましょうが。余り称えては、自力になるような気遣いはありませんか。」

「称えて自力になる人なら、称えんでおればなお自力。自力他力の心の詮議じゃ、そんな詮議はあとにして、称えなさるが何よりじゃ。」

「現世利益の念仏では、雑行雑修になりませんか。」

「成るも成らぬもかまやせん、くよくよせずに御称えなされ。」

「そんな御心配があるならば、暫く極楽参りを見合わせて、御懸かりなさい。此の世の儲けをたっぷりして、死に場になってから御やめなされたらそれで善かろう。」

「夫れでは余り都合が良すぎて、危険のようでありますから。現世祈りの念仏はやめにして、御恩報謝の念仏を称えましょう。そうすれば雑修になる気遣いもなく、此の世の利益もあるに違いない。」

「夫れも中々都合の良すぎる話です。雑修にもならぬよう、現世利益もあるように。御恩報謝の看板掛けて祈らぬ振りして内緒で祈る曲者じゃ。人間同士は許しても、仏は御許しなさるまい。どうせ如実でないならば、一層のことに現世祈祷の看板掛けて、念仏なさるが結構である。」


 サァ皆様解りましたか、定めて御解りになりますまい。兎角皆様は、これ思うたら自力になろうか、これしたら雑修になろうか、祈りをしてはすむまいか、報謝というたら善かろうか。と機の扱いをなさるが、残らず雑修というもので、どちらにしても本願の正意に帰入して御座らぬのじゃ。


 全体阿弥陀如来は、我等凡夫を助けるに、何故現世祈祷を、御嫌いなさるるのであるか。我等平生の日暮らしは、金銭のことでも、家財のことでも、祖先のことでも、妻子のことでも。あらゆる貪着を起こしておる有りだけは、現世の幸福を祈ってする、仕事の外は更にないのじゃ。煩悩起こして現世の幸福を祈ることは、往生に差し支えはないが。念仏を称えて現世を祈ることは、差し支えになるというては、そもそも解らんことである。


 殊に念仏で現世を祈ることは、飴を盗みの道具に使うような、お門違いではないので。阿弥陀如来が態々この世へ来化して、息災延命の為にとて、御説きなされた寿量品があるうえは。現世祈りに念仏するは、却って如来様の思し召しに叶う事であろうと思われる、依って私は、不至心にして現世を祈る行者なら、これも雑修と名づけてぞ、千中無一と嫌わるる事なれど。至心信楽の行者なら、現世祈りは強ちに嫌うべきものでないゆえに。祖師聖人は、現世利益和讃を造って、かかる広大の利益あることを、我等に御示し下されたものと伺われることであります。

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2015-12-27

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「44 しめ縄と心霊治療」

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44 しめ縄と心霊治療

 次にしめ縄問題は、余り子供らしい騒ぎで、御話しにもならぬことなれど。一応私の考えを申して見ましょうが。神道に於いては、いかなる意味でこのしめ縄を、扱うておるか知りませんが、それは今の所論でないとして。先ず御大典の飾りに用いる位は、さほど費用もかからぬ随分神々しくて、面白い相談であったと思われます。


 まさか、しめ縄を信仰せよというのでもあるまい、又信仰する気遣いもない訳じゃ。そのしめ縄を張った位で傷つくような不甲斐ない御宗旨でもあるまいに。抑しめ縄がなんである、私の本堂をしめ縄で八重からぎにしても。真宗の光はそのしめ縄を通して十方に輝くに於いて、何の障りのあるものか。執達吏の、差し押さえの札を、箪笥に張られたよりも、恐ろしいことのないしめ縄を。張るの張らんの、と石動だは。何ぞの行き掛かりもあったであろうが。


 つづまるところ、見慣れぬことに驚いて、騒いだまでのもので。山中の馬が、初めて汽車を見て、飛び騒いだも同然のことである。加賀金沢では、毎年祭礼になると、各宗を問わず、町内残らずしめ縄を張っておるが。それで仏法の恥辱とも思えもせず、神官の名誉ともしてないので。慣れてしまえば、平気で過ごさるる事柄を。慣れぬおかげで、ワイワイと言い立てて、而もある一派では、この問題を以て、勧財にまで利用したなどという話が伝えられては。実に沙汰の限りというものであります。


 次に心霊治療の問題。これも聞きなれたことのない学者が、何ぞ変わったことのように思うて驚いたので。心霊の作用に依って身体の治療が出来るなどというとは、内典の中にも、外典の中にも、沢山ある御話しで、何の珍しいことではない。

 かの唯識宗にいうておる、四食の中に。思の心所を以て、身体を養う思食の説の如きは。名称こそ違うものの、事実心霊治療の確証である。然らば、心霊治療の如きは、仏者として当然心得おくべき筈のものである。

 今日のお医者さんなどが、重患のことを、病人に知らさずにおいたり。不治の病であることを、本人に聞かせてはならぬなどということは。是も一種の心霊治療に属することにして。既に心霊の作用に依って、病に進退のあることを、御存知のお医者様なら。一歩進んで、不治の病人には、その趣を説き聞かせて、これを安心立命の場所まで導いて、治療をしてやったら、一層好結果を得るものでもあろうが。宗教と没交渉のお医者様では、とてもその様な親切の出来るものでは無い。菩薩方の五明の中にも、医方明というのがある。その医方明の多分は、心霊より治療するのが、肝要となっているようである。その心霊を秩序的に、他動的に、考究治療するのだ、今日の心霊治療として見れば。何の驚くことはない、魔法でも手品でもないのである。夫れが雑修となるも、ならぬも、全く話し外というものじゃ。神や仏に病気病何を、祈祷しても効き目のあるのも。一つは神仏の御利益もあるに相違ないが、一つは祈るその人の心霊の作用に依って、よくなるのであろうと思われます。


 然るに、真宗の学者の中に。神仏に祈祷することを、一切迷信としてしまい、而も利益などは決してないように考えて御座る人もあるが。夫れは御自身が、偏屈の信仰かぶれをして御座る狐狸や草木に向かうて、勝手気儘の祈祷をするなら、迷信と言わねばなるまいが。釈迦の経文や、相伝の教義に依ってするものなら、決して迷信というものでもなく、且つ又相当に利益もあるに相違ないのじゃ。若し経説に依って、神仏に祈祷するのが、一切迷信で而も利益がないものなら。極楽参りも迷信となってしまい、名号六字も利益のないことにせねばなりません。


 門外漢ならいざしらず、かりそめにも、仏語に虚妄なしと信ずるうえは。たとい真宗で用いぬにせよ、地蔵様や観音様に、現世利益のあることは勿論にして。殊に金光明経の寿量品に説かせられた、息災延命の御利益の如きは、名号六字の上に。有って余るいわれあることは皆様からも確信して頂きたいことであります。この故に天台宗の伝教大師も、国土人民をあわれみて、七難消滅の呪文には。外の祈祷をするよりは、南無阿弥陀仏を称うべしと御勧め下され。吾が祖聖人も、現世利益和讃を造って、念仏の功徳の広大なることを御知らせ下された次第であります。

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2015-12-24

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「43 現世祈祷と雑修」

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43 現世祈祷と雑修

追い追いと御話しを進めて参りました、雑行雑修ということに付いて。雑行というのは、行体の上の品柄であるから、浄土の行、即ち五種の正行の外のものは、残らず雑行であるゆえに、いかにも解りやすいようであるが。サァ雑修となると、能修の不至心より詮議して来ねばならぬのであるから。雑行そのままが、雑修であるばかりでない。たとい正行を修してはいても、助正兼行したり、現世祈祷をするようなことでは。すべて不至心の雑修となるのであります。夫れに引き換えて、至心信楽の人ならば、事柄や形式の上に、何程のことがあるにしても。場合に依っては、現世祈祷をしておるような人でも。忽ち雑修であるとは、決められんので。その辺はなかなか難しいことであります。


日清日露戦役のころには、この現世祈祷の事について。随分種々の議論が、真宗の学者間に起こりました。断然祈祷をしてはならぬという説もあり。又現世の禍福を強いて神仏に求むるは祈祷になるから、悪い事であるが。希望位の軽いことなら、祈祷でないから善かろうという議論もあり。又は自分のために祈るのは、雑修の失となれども。公衆の為に祈るは、差し支えないと決着した学者もあった。殊に可笑しいのは、御大典のとき、山陽地方に起こったしめ縄問題であります。その当時は、全国に亙って、祝意を評する装飾に付いて、お互いに工夫を凝らしたことであったが。その地方では、全戸しめ縄を張る事に決めたそうな。サァそれが真宗の家に障るとか、信仰にもとるというので、大騒ぎを起したことがある。その後に於ては、心霊治療が雑修になるとか、成らぬとかというて。歴々の学者間に、論義あったこともある。これらの議論は、多く徹底した信仰の持たない人々が。只聖教の文句に拘泥して、事相や形式の上をのみ捉えて、争い出したまでのもので。いかにも臆病犬が、遠吠えするような、嫌いもあったように聞こえました。


そこで先ず、現世祈祷を断然してはならぬという話しは。深く研究もせず、注意も払わぬ不親切極まる概論にして。更に耳を傾ける、価値もない話しであるが。その次に、強いて願うは悪いけれど、希望くらいの軽いことなら、差し支えないという話しも、随分解らん話しである。強い願いと、軽い希望という事は、何処等あたりで区別するのか。事の大小でいうのか、願う心の強弱で差別するのか、更に明瞭せぬことである。千万の願いは悪いが、十百位までは善いというのか。大煩いの願いは祈祷になるが、軽症の願いは希望に属するというのか。ただしは遊び半分に願うておるは善いが、本気出して願うは悪いというのか。何れにしても、五十歩百歩の論ではあるまいか。私の考えにすれば、無理に願おうが、そっと希望しようが。苟も神仏に対して、この世の事を求むる心のあってするものなら、同一の祈祷であろうと思われる。


尚その次に、自分の為に祈るは悪いが、他人の為に祈るは善いという話しも矢張り判然せぬ話しである。たとい自分の為に祈っても、その自分が天下公衆の為に尽くしておる、軍人等の如きものならば。自己の健在を祈るのが、そのまま公衆の為になるのではあるまいか。而も国家の為に戦勝を祈るような事柄でも。一方には敵国の敗戦を祈る訳になってあるから。帰するところは、自己の為の祈りであろうと思われる。全体自分の為に祈って悪いことなら、他人の為に祈っても悪いことであろう。又他のために祈って善いことなら、自の為に祈って善い筈である。しかし善導大師の法事讃には、皇帝の為に祈りを捧げ、宗師大師は、朝家の御ため国民の為念仏せよと。他のために祈らせられた例は、聖教にあるゆえに、差し支えはないが。自分の為に祈ったことは、聖教にないから悪いというか。それが所謂聖教かぶれというもので。他のために祈ったことは、公衆に示す必要があるから、文書にも残しておくべきものの。自分の為に祈祷したのは他人に知らせる用事がないから、文字に書き残さぬまでのことで。他人の為にさえ祈っておるものが、自分の為には、祈らずにおるなどということは、理としてあるべき訳でないことは。皆様も明瞭に、御判断の出来ることであろうと思われます。


尚この外に報恩行と思うてすればよい。とか祈り心を出さずに祈れとか不祈祷にして無祈祷に非ずとか。種々姑息の話しも、沢山あったようじゃが。私は不幸にして、これら学者の御話しには、とても充分の満足が出来ないので。どうしても、信心の有無に依って、決めるより外はないと思われます。至心の行者なら、時と場合に依って。何をしたとて、雑修となる気遣いはなく、若し至心の人ならば。事のするせんに係わらず、雑修の失は免れぬものと思います。

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2015-12-23

信心決定したら、何か分かったというようなハッキリしたものがあるのでしょうか。(頂いた質問)

信心決定したら、何か分かったというようなハッキリしたものがあるのでしょうか。(頂いた質問)

信心決定したとは、阿弥陀仏の第十八の願をこころうることですから、阿弥陀仏の本願がまことであるとハッキリします。ただ、こう聞くと自分の中に「阿弥陀仏の本願がまことであると分かる基準が出来上がる」と思いますが、そうではありません。

例えば、「なにかさとりを開いて南無阿弥陀仏が分かるようになる」とか、「今迄見えなかったものが見えるようになる。聞こえなかったものが聞こえるようになる」というように思う人もいます。しかし、そんなものはありません。

それでも私たちは、ハッキリしないことがハッキリするときには、何か証拠がなければなりません。例えば、企業の不正疑惑などがあったときは、疑惑の段階では本当に不正があるかどうかはハッキリしません。その不正がハッキリするときは、不正の証拠がどこからか出てきたときです。

それを阿弥陀仏の本願にあてはめて、「阿弥陀仏の本願がまことである」という証拠をどこかに探してしまいます。その証拠をみつけたのが信心のように思ってしまう人もいます。


しかし、証拠は南無阿弥陀仏の外にはありません。南無阿弥陀仏を聞いて称えているままが、それ疑い無く聞き入れているのが、ハッキリしたということです。○○だから、ハッキリしたのではなく、南無阿弥陀仏が証拠です。外にはなにもありません。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり(御文章4帖目7通 六か条)

http://goo.gl/DRc4r

2015-12-07

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「42 何をしたとて専修は専修」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

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42 何をしたとて専修は専修

 全体祖師聖人の御信仰の、大精神より伺うて見たならば。現世祈祷は、絶対に御禁制になったものであろうか。私は決してそうではないと思わるる。


 なぜなれば、既に念仏の上にも、信心の上にも現世利益のあることを御示し下されて。現世利益和讃やら、現生十種の益まで御明かし下されてあるので明瞭である。若し絶対に、現世祈祷を御禁制の思し召しであるならば、斯かる御和讃などを、御造りなさるる筈はない。夫れでなくてさえ、現世祈りを捨て難いのは、御互いの人情じゃのに。念仏には斯の如き、現世利益のあることを、説いては聞かせるが。現世の祈りを、してはならぬぞということなら。祖師聖人ほど、無慈悲の御方はないことになる。


 夫れでは恰も赤子に剃刀を与えて、手を切ってはならぬぞ、というようなものか。又は猫の鼻先へ魚を出して、食うと叩きつけるぞ、というようなもので。今生にのみ耽っておる我々に対して、この世の利益きわもない、念仏をさしつけて。現世祈りをしてはならぬぞ、と仰せられよう道理はない。


 しかし是は、我等の方から祈らずとも念仏の中に現世の利益はあるのじゃから。念仏の外に、祈り心を出すのは悪いと申すか。夫れでは甚だ滑稽の話になる。お湯へ入れば、祈らずとも暖まる利益はあるから。暖かになりたいという、祈り心を出して入っては、ならんというような、馬鹿話になってしまう。死んで浄土へ参る利益のある、信心を頂いたものが。浄土へ参りたいという、願い心が必ず出るようなもので。現世の利益のある念仏を信じ称えておるものが。現世に利益あらしめたいという、祈り心の添うて出るのは、当たり前でしょう。その当たり前で出る心まで、出してはならぬというような教えでは。絶対他力が、丸で窮屈他力になってしまいます。


 尤も雑修ということは、聖教の上より調べて見ると、約六通り程もありますが。そのような講釈向きの話は御預かりとして、大体の上より考えて見たときに。若し事柄の上にも心の上にも、現世祈祷やまじないなどをしてはならぬということなら。


 先ず雑行の第一が、読誦雑行である。読誦雑行というは三部経以外の経を読むことである。然らば講者や学者が、法華経や維摩経を読んで御座るのは。事柄の上よりいえば確かに雑行である、学者となれば雑行しても差し支えないものか。


 イヤ学者の法華経を読むのは、後生菩提の為ではない。知識を研いて、布教伝道のためにするのじゃというか。その知識を研くというは、一身にとっては、必ず名誉や幸福を祈ってする仕事であろう。愚民が病気快復を、仏に祈るのはよくないが。学者が名誉幸福を祈って法華経を読むのは、邪魔にならんとしては、余り勝手過ぎる話しではあるまいか。研究や伝道の為に他経を読み、諸仏を拝んでも、雑行でないものならば。研究の為にまじないをやったり、伝道の方便に現世祈祷を御許しなされた御講師の行為も、敢えて雑修とはいわれぬ訳である。


 殊に朝夕の勤行の如きは、助業の礼拝讃嘆と、正定業の念仏と、助正ならべて修しておることなれば。事柄の上では確かに雑修である。しかし助正兼行の仕事でも報恩行とするならば、雑修の失を免るるとして見れば。祈祷やまじないも、或る場合に於いて、報恩の意味より行うたものならば。決して雑修とはならぬ訳である。


 斯の如く、話を推し詰めて来て見ると。何が事実雑行じゃやら、何が全く雑修じゃやら、事柄の上では画然と決めることは出来そうもない。


 ソコデ今度は皆様も、一分々々に我が心のうちへ、立ち入って考えて見てください。儀式作法を用いて迄の、現世祈りはせぬとしても。心の上で此の世の祈りをせずに御座る御方はあるであろうか、私は全くなかろうと思われます。子供にせよ、我が身にせよ、家内に病人が出るとするか、又は災難でもかかって来たとするか。


 その時には、まさか医者を止めて観音様へ走るの、神官を招いて祓いをするのという、手荒な祈祷は御互いに、する気遣いはなけれども。治る病気なら、如来様が必ず治して下さるる、逃れる災難なら、一時も早く軽くすまして下さるるから、念仏するより外にないと、覚悟をしてはおるものの。その覚悟の南面には、災難を逃るる病気の治るよう、確かに祈り願うておるではないか。その証拠には病気が治れば、是も仏の御陰様じゃと、自らも思い、人にも是をいうておる。是が正しく、仏号をむねと修すれども、現世祈りはやめもせず。申し訳して、現世祈りでないことにしておる、精神的のかたちである。


 是によって私は大体に於いて、雑行雑修ということは。事柄の上や、凡夫の心の上では、とても決めることは出来ぬので。飽くまで信心の有無に依って決めるより外はないことと思わるる。


 既に祖師聖人は、朝家の御為、国民の為、念仏せよ、と大いなる祈祷を提唱したまい。且つは公務の為なら、熊野参りも平太郎に御許しなされた。殊に曇鸞大師は、筋違いを患いなされたとき、木瓜の名を持って呪うて、我が身に其の効を得たりと、喜んで御座られた。


 この様なことを、広く調べれば何程もあるが。要するところ。

「迷情の四句は四句皆非なり、悟情の四句は四句皆是なり。」

 迷いの仕事は何事もわろし、証の仕事は何事もよいというようなもので。既に初果の聖者となると、睡眠懶惰の悪時をしても、二十九有の迷いの種とならぬ如く。信心決定の行者なら、正定不退の初果の位であるゆえに。時に祈祷や、まじないをしても、雑修となる気遣いはなく。信心未定の人ならば、たとい祈祷をやめてはいても、専修専念とは申されぬ。心が不至心であるならば、矢張り雑修の失となるべき次第である。

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以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2015-12-03

南無阿弥陀仏が私を救うお働きだとは聞きますが、今一つ実感として分かりません。(頂いた質問より)

南無阿弥陀仏が私を救うお働きだとは聞きますが、今一つ実感として分かりません。(頂いた質問より)

実感と言われる言葉からは、何かを実際手にしたときの重みや、火傷をしたときの熱さのようなものを想定していわれているのだと思います。

また、そんなものではないにしても「何か」あるだろうと思ってしまいます。それは、私もそう思っていましたのでよく分かります。


しかし、今聞いている南無阿弥陀仏に何かの「実感」が加わって、その通りと聞けるようになるのではありません。

なぜなら南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の本願が成就した相であり、阿弥陀仏が私を救うお働きだからです。。それをそのまま聞き入れることを、信心獲得(信心決定)といいます。何かを加えて聞いたことにより救う働きがやっと完成するというものではありません。そのことを蓮如上人はこのように言われています。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章五帖目五通)

http://goo.gl/VCNq4F

信心獲得するということは、阿弥陀仏の第十八願をこころうることであり、それは南無阿弥陀仏のいわれをこころうることだと言われています。

こころうるというのは、聞いたとおりに思うということです。聞いたことにあれこれこちらの評価や判断をもちこまないということです。なぜなら、南無阿弥陀仏が私に働きかけ、また私の口から称名念仏となってあらわれているのは、私が判断を挟む前にあることだからです。

また、聞いた通りに思うということは、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」と言われています。聞きなさい、聞いた通りに思いなさいというのが、「聞思して」ということです。聞く前からあれこれ計らったり、聞いたことにあれこれ付け加えてはならないというのが「遅慮することなかれ」です。

南無阿弥陀仏の念仏を称えても聞いても、今一つなんとも感じられないので、ついつい「何か」を加えないと味が分からないのではないかと思ってしまいます。しかし、ただ今救うのおはたらきは、聞いた通りのことだと聞くのが、こころうるということです。

南無阿弥陀仏に間違いないということは、間違いないと思ったから間違いなくなるのではありません。間違いない南無阿弥陀仏だから、間違いないのです。「間違いない!」と実感できたから、間違いなくなるのでもありません。

「必ず救う」の南無阿弥陀仏の仰せが間違いないから、必ず救われることになります。

南無阿弥陀仏と聞いたそのままが、救われたと言うことです。何かの実感を加えなくても、そのまま聞いて下さい。

2015-11-25

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「41 何をせんでも雑修は雑修」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

41 何をせんでも雑修は雑修

 黙って行ってしまえば、何の事もなかったに今のお婆さんは。御講師より現世祈祷の免許鑑札でも貰うたような心地して、近所の人々や、知り合いの同行に対し。いかにも手柄顔に披露を致し、

「私はこれより目の御祈祷に、大岩様へ行って来ますから。留守中は何分よろしく」

との口上じゃ。

 

 

 そこで心有る同行は驚いて、

「是はお婆さん何事ぞえ。念仏信ずる身の上が、現世祈祷に出掛けるとは。後生の大事を忘れたのか」

というてくれた人もあったが、婆さんは得意満々で。

「私は態々橋場の御講師様へ、御伺いをして来たのじゃ。御不動様へ目の療治に行ったとて、何の後生の邪魔にならぬから、行って来いよと御許しを受けたのじゃ。現世祈祷が雑行雑修になるなどということは、学問のない愚かなもののいうことじゃ。嘘と思うたら御講師様に、お聞きなされ。」

と力み散らして行ってしまった。

 

 

 暫くするうちに、是が町中の大評判となって、同行中にも種々様々の取り沙汰が始まった。御講師様が、現世祈祷を御許しになったとか。雑行雑修も差し支えないと、仰せられたとか。真宗の勧めに違うとか、聖教の所判に背くとか、聞き捨てになるとか、ならぬとか。中々の問題となってきたので、五三の世話同行は大いに心配し。


「まさか御講師が、その様のことを仰る訳は有るまい。是は何ぞの聞き違いか、若しくは無根の嘘話に相違有るまい。しかし此のままにしておいては、御法義が乱れてしまうから。兎も角も御講師様へ、事の実否を伺うて、此の騒ぎを取り鎮めにゃなるまい」

というので。同行打ち揃うて御講師を訪れたところ。幸いご在宅であったので左右なく御逢い下された。


 余り以外の事柄であるから、同行も何と口切って御尋ね申す言葉も出ず。暫くは互いに顔を見合わせて、いてあったが、その様子。御覧なされた、御講師は。

「何ぞ尋ねる用事でもあって来たのか。」

と仰せられた、そこで一人の同行進み出で。

「実は今日御伺い申したは、御法義のことに付いて、町方中に余りおかしい評判がありますので。万々嘘の事とは思いますものの、先ず一応は御尋ね申して見たがよかろうと、思うて参りましたが。先日何某のお婆さんが、尊師へ御伺いに、出ませんかったでしょうか。」

と申し上げたれば、御講師は。

「ウムその婆さんは来たぞ来たぞ。」

と仰せられた。そこで同行。

「左様で御座りますか。そしてその婆さん、は目を患うて居た筈でありますが、何ぞ目の事について、尊師に御尋ね申しませなんだか。」

「ウムその眼の用事のみで、婆さんは来たのじゃよ。」

と仰るから、同行はオヤまんざら無根の話でもなさそうじゃと思うて。

「実はそのお婆さんに付いて、いやな評判がたちましたので。どうやら尊師が、現世祈祷をしても、更に差し支えないから、大岩へ行ってこいと。御許し遊ばしたような取り沙汰を、致しておりますが。是は何ぞの聞き間違いで。」

と、いわせも果てず御講師は、何の容赦もなく。

「ウム、それは私がそう言うてやったのじゃよ。」

と仰せられたので、同行は吃驚して膝を進め。

「是は御講師様にもあるまいことか。仏号をむねと修すれども、現世を祈る行者をば、これも雑修となづけてぞ、千中無一ときらはるる、と有るからは。たとい念仏三昧にしていても、その念仏を現世祈祷に用いるようなことでは。往生は叶わぬぞ、と御誡めて下されてあるものを。御不動様へ心願祈願することを、御許しになるとは何事でありますか。」

と問い詰めれば、御講師は、ニッコと笑い。

「それは確かに現世祈祷をしてはならぬのじゃ。

 しかしあの婆はなぁ、不動様へ行ってはならぬぞ、と押さえて見ても。体は押さえておかるるが、心は毎日大岩へ。行きつ戻りつ通いづめにしておるのじゃ。どうせそのようなことでは、身体は祈祷に行かいでも、心は雑修自力じゃもの。一層のことにサッパリと、許してやってしもうたら。御不動様もまんざら他人では御座らぬゆえ。何ぞの御方便を以て、本願の正意に帰するよう、婆を導いて下さるであろうと思うて、オレは許してやったのじゃよ。」

と仰せられたので。同行は忽ち恐れ入り、かくばかり深き思し召しのあるとも知らず。浅はかにも、善しや悪しやと取り沙汰したことの勿体なやと懺悔して。講師の御前を引き下がったという話である。


 この話に就いて、私は深く感じたことであります。そもそも当流に於いて、雑行雑修を捨てるということは。有る善根を無くすることでもなく、したい祈祷を止めておれば、それでよいというのでもない。現世祈祷に行ってはすまんと、止めていたお婆さんも、行かぬまんまが、雑行雑修であると同時に。現世祈祷を御許しなされた御講師も、許したまんまが雑修自力ではなかったのじゃ。

 

 

 然るに世間の人々は、所作や形式の上にのみ迷いこみ、絶対の信仰を忘れて、小刀細工の理屈に流れ、祈祷やまじないを一概に嫌うて。是をすれば往生の邪魔になる、是を止めれば大丈夫のように、思うて御座る有り様は。いかにも淫婦が、貞女を立て抜くような体裁で。現世祈りをしては見たいが山々なれど、それでは阿弥陀様に、見捨てらるるが大変じゃで。地蔵様や観音様には、顔向けは致しませんと、済まして御座る御方もある。

 

 

 成る程この世の人間ごとなら、形の上ですむことゆえ、なんぼイタズラ女でも。夫に対して、我慢でも辛抱でも、外の男に肌身を触れぬということで、貞女の道も欠けまいが。後生の話はそうは参らぬ。何分心の上のことなれば、相形で地蔵様へ参らずとも、心が真実でなかったら、矢張り雑行雑修である。心が如実のものならば、相で諸仏を拝んでも、それで雑修の失とはならぬ。殊に阿弥陀如来の御心は、衆生が諸仏に向かうたら、弥陀も衆生に縁切るぞというような、悋気仏では御座るまい。而も現世祈祷をしたために、御助けの壊れるような、かよわい御本願ではあるまいと思われる、よって私は、雑行雑修になるとならんの境目は。形の上で、したのせんので決められはせん。必ず信心の有無によって決めねばならぬことと思わるる。

 

 

 若し信心決定せざる人ならば、何をしてもせんでも、雑行雑修の分際を離るるとはは出来ぬので。若し信心決定の行者なら。何をしたとて雑修自力になる気遣いはないものと断言をして見たいのであります。

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