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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-07-17

「阿弥陀仏の本願を聞いて、確かにそうだと思ってもなかなか『そうでございます』と受け取れません。どう聞いたらいいでしょうか?」という人に見ていただきたいNHKスペシャル「人工知能 天使か悪魔か 2017」

「阿弥陀仏の本願を聞いて、確かにそうだと思ってもなかなか「そうでございます」と受け取れません。どう聞いたらいいでしょうか?」(頂いた質問)

このように尋ねられる方は決して少数派ではありません。私も以前は「理屈ではそうだろうと思うけれども、なかなか納得はしきれない」と思っていました。このような考えの前提としてあるのは、「納得できないものは信じない」という態度です。確かに現代社会では情報が溢れ、またフェイクニュースなるものが出てくるご時世ですから、少ない情報を鵜呑みにするわけにはいかないという態度は日常生活では大事なことと思います。ただし、これはあくまで私たちの日常生活上のことならば当てはまることですが、阿弥陀仏の本願にはあてはまりません。なぜなら、とある政治に関するニュースを目にした時、それが正しいのかフェイクニュースなのかは、一次情報を探せばそれを確かめることができます。また、それを見て納得することもできます。それに対して、阿弥陀仏の本願は、いわゆる「五劫思惟の願」でありますから、私たちがちょっとやそっと考えたくらいで「納得」することは難しいものです。


こういう話は、私も人に尋ねられて説明もしてきましたが、それを聞いてすぐに「そうですか」と思って頂ける場合は決して多くはありませんでした。なぜなら、これまでの私たちの日常生活で「人間が納得(理解)できないけれども、それが正解」という場面はあまり出会うことはなかったからです。


しかし、今日その「人間が納得(理解)できないけれども、それが正解」いわゆる人智を越えたことを奇跡ではなく目の当たりにすることができるようになりました。それが人工知能の発達です。


それを分かりやすく解説したNHKスペシャル「人工知能 天使か悪魔か 2017」の録画を最近みました。その内容は、かなり衝撃的なものでした。

この番組では、近年の人工知能が実際の産業でどのように生かされているのかを紹介するとともに、日本の将棋佐藤天彦名人が、人工知能ボナンザと対戦する「電王戦」の様子と、それらを羽生善治三冠がコメントするという構成でした。


この番組で、実例としてあげられているのが以下のものです。

人間の知性を越える人工知能が、すでに現実社会に進出している。名古屋のタクシー会社では、客がいる場所を指示する人工知能を導入、客の数を大きく伸ばした。人工知能が、人間を評価するという事態も起こっている。シンガポールのバス会社では、事故を起こす危険性の高い運転手を人工知能が見つけ出す。アメリカでは、過去の膨大な裁判記録を学んだ人工知能が、被告の再犯リスクを予測し、刑期の決定などに関わっている。日本のある企業でも、退職の予兆がある人を、人工知能が事前に察知するというシステムを導入した。

NHKスペシャル | 人工知能 天使か悪魔か 2017

この番組ではなぜ人工知能将棋に強くなったのかについて、人工知能が過去のタイトル戦の棋譜5万局を読み込むことを挙げています。その上で、人工知能将棋ソフト同士が対局をしています。その対局数は700万、人間が仮に1年間に3000局打ったとしても2000年以上かかる数です。


初日では3八金を打ったボナンザに(普通は歩を動かす)、佐藤名人は頭を抱えます。しかし、結果は人工知能の勝利に終わりました。

二日目は更に、人工知能は先手でいきなり玉を動かします。それをみてまたしても佐藤名人は頭を抱えます。私は将棋は殆ど素人ですが、さすがにこの初手に玉を動かすというのはちょっとあり得ない手だと思いました。それでも結果を見ると、人工知能の勝利に終わりました。


この番組中で、人工知能プログラマーが「プログラムをしたのは自分だけれども、書いている本人にも(なぜ強いかは)実は完全には分かっていない」と述べていました。


また、番組で羽生善治三冠は、こう語っていました。

私たち棋士の直面している違和感は人工知能の思考がブラックボックスになっていることです。膨大な情報をどのように処理して、その結論に至ったのかは分かりません。

それと佐藤名人はこう語っています。

人間同士で打っていると気がつかないうちに、将棋の中のある一つの銀河系にしか住んでいないような感じになっていくんですね。ただもっと広い視点で見れば、いろんな惑星があるかもしれないですし、そうすると今まで気がついていなかった自分自身の持っている面も気がつかされてたのかなという気持ちもあります

いづれも人間で考えることには及ばないことが現実に起きていることに直面している方の発言です。


このように人間の知性を超えるものが出てきた現実をみると、阿弥陀仏の本願のいわれも、「お経の話でしょ」とか「方便なんですよね」とは言えなくなってきたといえます。


大無量寿経には、法蔵菩薩が浄土を建立するにあたって210億の諸仏の浄土を見られてそこから勝れたものを選び取られたと説かれています。

ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。(大無量寿経)

また、その浄土に往生する行として念仏を選び取られました。それも、あらゆる行を見られた上で念仏を選び取られたのですが、その詳細な経緯については、いろいろな経文上には根拠はあるものの、その根拠はなぜそういわれるのかといわれれば、とどのつまりは「ブラックボックス」になっています。

また、210億の浄土のを調べて見ろと私に言われた所で、一日

年に10の浄土を見ても21億年かかります。一年100の浄土でも2億1千万年かかります。こうなると、将棋人工知能どころではなく、どう考えても「理解出来ない」のが阿弥陀仏の本願です。こうなると「理解できないけれども、それが正解」ということは、阿弥陀仏の本願にそのままあてはまるのではないでしょうか?

将棋人工知能ソフトに勝てるくらいの人なら、阿弥陀仏の本願のいわれを納得するまで考えて見てもいいかもしれません。ただそれでも結果は変わらないのではないでしょうか?

一 思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと[云々]。

現代文

「思案のきわまりというべきは、五劫の間思いをめぐらしておたてになった阿弥陀如来の本願であり、これを超えるものはない。

弥陀如来のこのご思案のおもむきを心に受け取れば、どんな人でも必ず仏になるのである。

心に受け取るといっても他でもない。

「われにまかせよ、必ず救う」という機法一体の名号のいわれを疑いなく信じることである」と仰せになりました。

https://goo.gl/heTHP9

この思案の頂上である阿弥陀仏の本願に同心するかしないかです。どうか、阿弥陀仏の本願をただ今聞いてただ今救われて下さい。

参照

NHKオンデマンド | NHKスペシャル 「人工知能 天使か悪魔か 2017」

2017-07-15

「種々の罪悪を考えると、後生は地獄に間違いないと思いますが、私自身は地獄に堕ちないという信心があり全く崩れません。それでいいのでしょうか?」(頂いた質問)

「種々の罪悪を考えると、後生は地獄に間違いないと思いますが、私自身は地獄に堕ちないという信心があり全く崩れません。それでいいのでしょうか?」(頂いた質問)

ご自身が地獄に堕ちるか堕ちないかということを、自分の心で決めているのであれば、「自分は地獄へ堕ちない」とどれだけかたく信じていてもそれは後生とは関係がありません。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。

(略)

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)

と執持鈔にあります。

後生のことは、ただ阿弥陀如来にまかせるだけであって、自分の方から「私は浄土へ参れるだろう」「地獄へ堕ちるだろう」と決めることではありません。

ご自身の心の上では本来は「地獄へ堕ちると思う」のが普通であって、そう思えなくなったことに対する不審からではないかと思います。ここで大事なことは、自分の心がどうであるかということに拘り、その心の善し悪しで一喜一憂することはよいことではありません。


例えば九州行きの新幹線に乗った人は、「自分が九州に行けると思えるかどうか」を問題にしません。なぜなら、乗った人がどう思ったところで、九州に行けるかどうかは新幹線の力によるからです。もっと身近なことで言えば、最近は携帯電話にも入っている電卓ですが、それで 三桁のかけ算と割り算を実施してその結果が合っていると「思えるかどうか」を問題にする人はありません。なぜなら、その結果が「合っていると思えるかどうか」は、計算結果に関係がないからです。計算の結果は、計算機の力によるものであって、私の「思い」とは関係がありません。


後生のことは、阿弥陀仏にまかせるだけであって、その上で私がどう思ったところで結果が変わるわけではありません。「ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」です。自分の心が定まってから阿弥陀仏にまかせるのではなく、ただ阿弥陀仏の仰せのとおりに弥陀にまかせて下さい。

2017-07-11

「端的にお尋ねいたします。「有無の邪見」といいますが、有の見(常見)とは何ですか。その常見と浄土往生は同じように思われますが、違いをお教えください。(wmさんのコメントより)

wm 2017/07/11 08:09

端的にお尋ねいたします。「有無の邪見」といいますが、有の見(常見)とは何ですか。その常見と浄土往生は同じように思われますが、違いをお教えください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170425/1493108159#c1499728172

有の見(常見)については、浄土真宗辞典から引くと以下のように説明があります。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

じょうけん 常見

断見に対する語。有見ともいう。因縁によって生じるものは消滅変化して少しの間もとどまらないということをさとれず、自己と世界を常住不変と見て執着する見解。仏教において断見とともに、縁起の正理に背く邪見として退けられる。

常見というのは、上記にあるように、自分も世界も常に変わらないという考え方でそれは間違った考えであると仏教で言われているものです。


そこでお尋ねの、「常見と浄土往生は同じように思われます」について、以下書いていきます。

私が、このお尋ねの文章から考えたことは、「浄土は無常の世界ではないと聞いているから、それは常見ではないのか」と思われたのではないかということです。(間違っていたらご指摘下さい)


そこで、浄土は無常の世界ではない常住であるならば、それは常見ではないかということについて説明をしていきます。

まず、「常住」について、また浄土真宗辞典から引用します。

じょうじゅう 常住

無常に対する語。常ともいう。生滅変化なく、永久に存在すること。『涅槃経』では「如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相といふ」(真仏土巻引文・註348)、「有為涅槃は常楽我浄なし、無為涅槃は常楽我浄あり」(化身土巻引文・註408)などといい、如来や涅槃の異名ともされる。

この文章を見ると「生滅変化なく」とあるので、これから浄土(往生)は常見ではないのかと思われる人もあるかと思います。

結論からいいますと、そうはなりません。

なぜならば、まず浄土に「生滅変化がない」というのは、救われる対象によって変化したり、また無くなったりしないという意味です。正信偈に「如衆水入海一味」とありますが、救われた世界は一味であって救われる対象によって違いはありません。また、浄土往生も「救われた人によって異なる」ということはありません。例えば、極悪人なら低い浄土で、善人や戒律を守った人は高い浄土と言うことは有りません。

阿弥陀仏の浄土は、私が考えるようなものではありません。無くなるということはありませんが、常に衆生済度に働いておられるので「変化がない」ということはありません。たとえば、どこかの大仏や絵像の仏のように動かない(変化がない)仏ではありません。

常に「AでなければB、BでなければC」と常に私を救う為に変化し続けるのが、南無阿弥陀仏です。その目的は変わらないという意味で「生滅変化なし」であります。

仮に南無阿弥陀仏(救う法)や、浄土往生が「生滅変化なし」だとすれば、その「消滅変化なし」の基準に合わない人は救われないことになってしまいます。しかし、それでは全ての人を救う本願にはなりません。

あからさまにいえば、私たち凡夫は阿弥陀仏に救って頂くことに対して、それほど感謝の気持ちも持ち合わせていないものです。それでも、阿弥陀仏は私を救って下さいます。それはまさに「種々に善巧方便」された結果であって、帽子に合わせて頭を削れと言われたものではありません。実態は、私に応じて南無阿弥陀仏が「変化」をされています。




そういう意味で南無阿弥陀仏は「変化」をされているという意味では「常見」ではありません。しかし、「すべての人を救う」という意味では「常住」です。この「常見」ではないけれども「常住」であるのというのが、wmさんの回答になるかと思います。

2017-07-04

2017-06-29

2017-06-16

2017-06-14

信心獲たとした上での「名もなき感情問題」を考える。「私は他の方々と違い、そうだったのか!とはなりません。往生一定の身になったのですか?本当ですか?となっています。何故でしょうか。(コロンさんのコメントより)」

コロン2017/06/11 17:06

往生の身になる難事に取り組むぞー!と思ってきましたが、「往生一定の身にあなたはなりました」のおことば。驚きですし、何といいますか肩透かしな感じも受けました。肩の荷が下りた、かもしれません。

ですが私は他の方々と違い、そうだったのか!とはなりません。

往生一定の身になったのですか?本当ですか?となっています。何故でしょうか。(コロンさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170608/1496907784#c1497168360

なぜ「他の方々と違い、そうだったのか!とならない」のかについては、「そうだったのか」というのは、表現として使う方もありますが、本願を聞き入れた上での表現は人それぞれ異なるからです。親鸞聖人や、蓮如上人の書かれた言葉や、過去の妙好人の言ったとされる言葉、または自分の身近な信を獲たと言っている人の発言の中で、自分に当てはまりそうな表現を使っているに過ぎません。


その意味でコロンさんが、書かれている部分についてはご自身の言葉で書かれたものですから、私はそれは(信の有無は判定できませんが)とてもよい表現だと思ってよみました。どれだけ、喜びを語った人があっても借り物の言葉では、その信心の有無は分かりませんが、本当にその人の感じたことかどうか位は分かります。

そういう意味で、「他の人が使っているような表現が自分に当てはまらないから、自分は救われていない」というのは間違いです。もし、それが正しいとするならば、誰かが言っている通りの心になったから自分は大丈夫だということになってしまいます。そういうものではありません。


信心とはあくまでも、本願を聞いて疑心あることなしかどうかであって、「どういう表現で言ったか」はまた別の問題です。

また、今でも名前の残る妙好人と言われる人は、「それまで誰も言わなかった表現をした人」だから名前や発言が残っています。もし「誰も言わなかったことを言ったから間違いだ」ということになれば、それらの妙好人といわれる人はみな間違いだということになります。

そこで、本願を聞いて疑い無いというのは、信心という言葉の定義としてありますが、その上で「本願を聞いて疑い無い」状態での心の状態をどう言葉にするのかは、人によって異なっても不思議はありません。さらに、その上であれこれと心に浮かぶ喜びや人によっては懺悔の言葉も人によって異なります。

親鸞聖人が「慶喜いよいよいたり」と書かれたり「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」と書かれていることが、獲信した人がその刹那に全く同じ情感を心に浮かべるということはありません。


なぜなら、信心獲得したとは阿弥陀仏の本願に疑い無い状態ですから、私の心には「疑が無い」というだけで、何かあるとすれば南無阿弥陀仏があるだけだからです。

しかし、ここで話が終わってしまうとでは、「救われても何も思ったり、感じたりしないのでしょうか?」と疑問を起こされる方もあります。もちろん、獲信したその時から心がなくなってしまうわけではないので、いろいろと縁に触れて思うことはあります。ただそれを「こういう心になるのだよ」という人はあまり多くありません。それはなぜかと言えば、それまで本願に疑心しかなかった人からすれば、疑心がない状態というのは経験したことのないことです。その上でいろいろと感じることは、あっても人生経験上適当な言葉がないからです。私はそれを「名もなき感情問題」と最近呼んでいます。(この言葉はラジオ番組東京ポッド許可局2017年03月06日放送分で聞いた「名もなき感情論」から来ています。仮に同じラジオを聞いている人がおられたら私も許可局員です。)


「本願を聞いて疑い無いのですが、この感じはなんと言ったらいいのでしょうか?」というのは、本願を聞いて疑い無い人にはどこかで一度は感じることではないかと思います。何も感じない訳ではないですが、それをあらわす適当な言葉がありません。そこで、過去のお聖教の言葉や、妙好人の言葉の中で自分の感じているものと近いものを借りて使っています。

世の中のことならば、一応共通しているなんとなく伝わる表現はあります。「嬉しい」「楽しい」「悲しい」「美味しい」等々です。それらに必ずしも合致しないことが心に浮かぶ時、それは「名もなき感情」とでもいうしかありません。


個人的には、自分の信仰上感じた思いを適切に言語にできる人の方が少ないのではないかと思います。そのため、自分の所属する団体でよく使われている言葉を多用する人が多いのではないかと思います。私個人でいっても、このブログを初めて9年以上になりますが、「自分の感じたことを言語化できた」という感覚は年に一回もあったかどうかという感じです。


まとめ

コロンさんが、感じられる疑問をまとめると、「誰かが言った獲信の表現」に自分の気持ちが合わないことで「これで往生一定の身になったのだろうか?」ということで質問をされました。

それに対して、いろいろと書きましたが、まとめると「他人の発言と合致するかどうかで信心かどうかを決めるものではない」ということです。

なぜならば、本願を聞いて疑心あることないかどうかが、信心の定義です。

コロンさんが、本当に本願を聞いて疑心がないかどうかということであって、他人の発言と自分の心が同じか違うかは気にする必要はありません。

阿弥陀仏が私を救って下さる本願がすでに成就している。それに疑いないかどうかです。

最後に、コロンさんに限らず、信仰上のことは思ったことをそのまま言葉にされるのがいいことです。間違っていれば、誰かが必ず正してくれます。また、間違ってなくても、本当に感じたことを言葉にすることで阿弥陀仏の本願は多くの人により伝わることになります。

2017-06-10

聴聞していくと自力か他力かハッキリするのでしょうか?それとも自分で壊す、手放す、また手放そうとしなければいけないのでしょうか?(スナオさんからの質問)

聴聞していくと自力か他力かハッキリするのでしょうか?それとも自分で壊す、手放す、また手放そうとしなければいけないのでしょうか?(スナオさんからの質問)

スナオさんから質問を頂きました。有り難うございました。

この聴聞をしていくと自力か他力か「ハッキリする」に関しては、結論から言えばハッキリすると言えます。

なぜならば、自分で壊そうとして壊れるような自力ならば、自力とは言えません。また、自分で手放そうとして自力を手放せるのならば、阿弥陀仏のお働きはせいぜい「助力」程度であって、本願力一つの救いにはならないからです。


聴聞を重ねるというのは、別の言い方をすると「知らない言葉を聞く」ことによく似ています。スナオさんがどういう方かはよく存じ上げませんが、私たちは日々生活する上で使う言語によって考え方が規定されていきます。そのため、日本人でいえば、英語を学ぶ時に、全ての文章に「主語」があることに驚くと思います。なぜなら、日本が主語がなくても通じる言語だからです。例えば、ご近所の人に朝あった時に「お早うございます」と言います。しかし、英語では「Good morning」といいます。少し考えると「お早うございます」は、「Good morning」にはなりません。なぜなら、「Good morning」は正確にいうと「I wish you a good morning(あなたによい朝が訪れるように)という祈りの言葉です。それに対して、日本語の「お早うございます」は、単に「朝早いですねー」「そうですねー」と言っているにすぎません。それでも、日本語を話す人には通じる情感があります。


そこで、別の例を出すと、アマゾンのアモンダワ族は、時間の概念がありませんでした。そのため、時間を示す言葉は雨期と乾期くらいで、「週」「月」「年」という概念がありません。その部族が外部と接触し、ボルトガル語を学ぶと、一年、二年といった「年」の概念を習得していったそうです。

時間の概念がない!? アモンダワ族の人々の生き方が凄い - NAVER まとめ

それと同じように、私たちは、「阿弥陀仏が救って下さる」ということは知りません。それを「言葉」として教えられているのが、お釈迦さまであり、真宗で言えば親鸞聖人が示された七高僧方であり、親鸞聖人です。


「言葉」というのは、私たちは軽く考えがちですが、その「言葉」によって私たちの考えや行動は規定されているのは、先ほどのアマゾンのアモンダワ族の例でわかる通りです。

舎利弗、われいま阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎するがごとく、東方にまた、阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において、広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、〈なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし〉と。(阿弥陀経)

現代文

舎利弗よ、わたしが今、阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえているように、東方の世界にも、また阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏など、ガンジス河の砂の数ほどのさまざ まな仏がたがおられ、それぞれの国でひろく舌相を示して、世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、< そなたたち世の人々よ、この 《 阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏がたがお護りくださる経 》 を信じるがよい > と仰せになっている。

https://goo.gl/hLzYhg

そもそも概念として「私を救う方など存在しない」という世界に住んでいる私に、言葉をもって「お前を助けるぞ」と呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。

その意味では、南無阿弥陀仏は阿弥陀経でいう「誠実の言」です。お釈迦さまは、その誠実の言を信じなさいと勧めておられます。「なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし」といわれています。

私は、その「誠実の言」を聞き入れることで、私を救うという「誠実の言」があることを聞き入れます。それを信心と言います。

先にあげたアモンダワ族の人にとって「時間」というのは、存在しません。しかし、一度「時間」のある言葉を聞き入れると、「時間」はあるものとなります。それと同じように、「私を救って下さる阿弥陀仏がまします」ということは、「誠実の言」を聞かない人には、存在しません。しかし、一度「誠実の言」を聞き入れる人には、私を救う阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となっておられることは、全く不思議なことではありません。そのように、まことを、まことと聞き入れたことを信心といいます。

聴聞するとは、そのように、まことを聞かせていただくことです。自らの作為によってどうこうということではありません。

聴聞していくと自力か他力かハッキリするのでしょうか?それとも自分で壊す、手放す、また手放そうとしなければいけないのでしょうか?(スナオさんからの質問)

聴聞していくと自力か他力かハッキリするのでしょうか?それとも自分で壊す、手放す、また手放そうとしなければいけないのでしょうか?(スナオさんからの質問)

スナオさんから質問を頂きました。有り難うございました。

この聴聞をしていくと自力か他力か「ハッキリする」に関しては、結論から言えばハッキリすると言えます。

なぜならば、自分で壊そうとして壊れるような自力ならば、自力とは言えません。また、自分で手放そうとして自力を手放せるのならば、阿弥陀仏のお働きはせいぜい「助力」程度であって、本願力一つの救いにはならないからです。


聴聞を重ねるというのは、別の言い方をすると「知らない言葉を聞く」ことによく似ています。スナオさんがどういう方かはよく存じ上げませんが、私たちは日々生活する上で使う言語によって考え方が規定されていきます。そのため、日本人でいえば、英語を学ぶ時に、全ての文章に「主語」があることに驚くと思います。なぜなら、日本が主語がなくても通じる言語だからです。例えば、ご近所の人に朝あった時に「お早うございます」と言います。しかし、英語では「Good morning」といいます。少し考えると「お早うございます」は、「Good morning」にはなりません。なぜなら、「Good morning」は正確にいうと「I wish you a good morning(あなたによい朝が訪れるように)という祈りの言葉です。それに対して、日本語の「お早うございます」は、単に「朝早いですねー」「そうですねー」と言っているにすぎません。それでも、日本語を話す人には通じる情感があります。


そこで、別の例を出すと、アマゾンのアモンダワ族は、時間の概念がありませんでした。そのため、時間を示す言葉は雨期と乾期くらいで、「週」「月」「年」という概念がありません。その部族が外部と接触し、ボルトガル語を学ぶと、一年、二年といった「年」の概念を習得していったそうです。

時間の概念がない!? アモンダワ族の人々の生き方が凄い - NAVER まとめ

それと同じように、私たちは、「阿弥陀仏が救って下さる」ということは知りません。それを「言葉」として教えられているのが、お釈迦さまであり、真宗で言えば親鸞聖人が示された七高僧方であり、親鸞聖人です。


「言葉」というのは、私たちは軽く考えがちですが、その「言葉」によって私たちの考えや行動は規定されているのは、先ほどのアマゾンのアモンダワ族の例でわかる通りです。

舎利弗、われいま阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎するがごとく、東方にまた、阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において、広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、〈なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし〉と。(阿弥陀経)

現代文

舎利弗よ、わたしが今、阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえているように、東方の世界にも、また阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏など、ガンジス河の砂の数ほどのさまざ まな仏がたがおられ、それぞれの国でひろく舌相を示して、世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、< そなたたち世の人々よ、この 《 阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏がたがお護りくださる経 》 を信じるがよい > と仰せになっている。

https://goo.gl/hLzYhg

そもそも概念として「私を救う方など存在しない」という世界に住んでいる私に、言葉をもって「お前を助けるぞ」と呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。

その意味では、南無阿弥陀仏は阿弥陀経でいう「誠実の言」です。お釈迦さまは、その誠実の言を信じなさいと勧めておられます。「なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし」といわれています。

私は、その「誠実の言」を聞き入れることで、私を救うという「誠実の言」があることを聞き入れます。それを信心と言います。

先にあげたアモンダワ族の人にとって「時間」というのは、存在しません。しかし、一度「時間」のある言葉を聞き入れると、「時間」はあるものとなります。それと同じように、「私を救って下さる阿弥陀仏がまします」ということは、「誠実の言」を聞かない人には、存在しません。しかし、一度「誠実の言」を聞き入れる人には、私を救う阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となっておられることは、全く不思議なことではありません。そのように、まことを、まことと聞き入れたことを信心といいます。

聴聞するとは、そのように、まことを聞かせていただくことです。それは自らの作為によって、質問の言葉を借りると自分で壊す、手放す、また手放そうとすることではありません。他力を聞かせて頂くと、他力(阿弥陀仏が私を救う働き)を聞く訳ですから、他力は他力とわかります。他力を聞けば、自力も分かります。

2017-06-08

「「南無阿弥陀仏から逃げずに向き合いなさい」という言葉がありますが、南無阿弥陀仏から逃げるな、南無阿弥陀仏に向き合いなさい、というのは私のどのような心についてなのかな?と思いました。」(スナオさんからの質問)

南無阿弥陀仏に飛び込むには、どんな飛び込み方をしたらいいでしょうか?(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)を読みました。

「南無阿弥陀仏に飛び込めという言い方もありますが、それはあれこれ計らうその計らいを捨て去りなさいという意味です。また、南無阿弥陀仏から逃げずに向き合いなさいという意味で使われているものだと思います。阿弥陀仏がどれだけ喚びかけておられても、この私が疑ったり逃げていては聞いたことにはなりません。」(上記エントリーより)

〇上記の中で、「南無阿弥陀仏から逃げずに向き合いなさい」という言葉がありますが、南無阿弥陀仏から逃げるな、南無阿弥陀仏に向き合いなさい、というのは私のどのような心についてなのかな?と思いました。

  • 世間のことには本気になるが、(たとえば、もうけ話には目の色を変えて夢中になったり、夫婦ゲンカの時は本気で腹を立てたりする、など)

そして仏法のことも、世間の事と同じようにどうにかして解決したいと考える、計らう。計らうけど同じことの繰り返しでなかなか解決できず、また計らう。

一方で、阿弥陀仏の本願に対しては、ぼんやりしていて、そのうち何とかなれる、と思う。

  • そのうちなんとかなれる
  • 罪悪をつくっていることが分からない
  • 自分は死なないと思っている

こういう心に対して、南無阿弥陀仏から逃げるな、と書かれたのでしょうか?(スナオさんからの質問)

スナオさんより質問を頂きました。有り難うございました。

南無阿弥陀仏から逃げてはならないと以前書きましたが、「今日は救われないな。明日から本気を出そう」と考えてはならないということです。言い替えると、大事なことは、阿弥陀仏が現在助けようとされているということを抜きにしては自分の心のありさまをあれこれ詮索するのは意味のないことだということです。

例えば外出する際に、上着を着ていくべきかとか、傘を持っていくべきかなどと考えることがあります。

そういう時は、間違いなく「今の気温は暖かいけれど、夕方になったら冷えるかも知れない」とか「いまは曇っているけれども、帰る頃には雨が降るかもしれない」という場合です。どちらも共通しているのは、「ああするべきか」「こうするべきか」という悩みは、未だ見ぬ先のことにどう対策をしようとする点です。


同様に、阿弥陀仏の救いを「そのうち」と思うのは、朝出掛ける際の夕方の気候のように現在のことと考えないことから来ます。

ではなぜ阿弥陀仏の救いを現在のこととして考えないのかというと、それは「とても大変なことだ」と考えるからです。

確かに、煩悩具足の凡夫が浄土往生することは「とても大変なこと」に違いありません。加えて聖道仏教などでさとりを開くことの大変さを知ると、「とてもとても大変なことだ」と思ってしまいます。

また、蓮如上人から「一大事というはこれなり」と聞くと、さらに「これはえらいことになった」と考えます。その時から、私たちはついつい大きな問題に向かっていると感じるとその「傾向と対策」を考えてしまいます。

しかし、よくよく考えて見て下さい。阿弥陀仏の本願は、その「一大事」を「私にやれ」とは言われていません。そうではなくて、「往生一定の身にあなたはなりました」すなわち「ただ今救う」と呼びかけておられます。すでに「完結した」事に対して、傾向と対策を考えることは意味がありません。

阿弥陀仏の本願は決してぼんやりした、未来の話ではありません。現在ただ今、南無阿弥陀仏と呼びかけられている私にとっては間違いないことです。ただ今救うの仰せを聞いてただ今救われて下さい。

2017-05-29

「廻心・聞いたものとかが助かるのではなく、仏法を聞かない・信じない本当の闡提に対してのご回答が聞きたいです。」(名も無くさんのコメントより)

名も無く 2017/05/27 23:05

(略)廻心・聞いたものとかが助かるのではなく、仏法を聞かない・信じない本当の闡提に対してのご回答が聞きたいです。

18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますが、これもどんな人も助けるということであり罪を問題にせよという意味ではないだろうなと思います。(Kさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について) についてのコメントを頂きました。有り難うございました。

上記のエントリーでは、五逆・謗法の者について書きました。

確かに、阿弥陀仏の本願では、「唯除五逆誹謗正法」とありますから、闡提については書かれていません。

そこで、闡提について書いて見ます。

闡提とは、コメントに書かれているように「仏法を聞かない・信じない人」のことです。

浄土真宗辞典には、以下のように書かれています。

いっせんだい 一闡提

梵語イッチャンテイカ(icchantika)の音訳(略)略して闡提ともいう。また、断善根・信不具足と意訳する。世俗的な快楽を追求するのみで正法を信じず、さとりを求める心がなく成仏することのできない衆生のこと。浄土教では、これらのものも回心すれば往生することができると説く。『法事讃』には「謗法・闡提、回心すればみな往く」(信巻引文・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P303)

闡提も、阿弥陀仏の救いの対象です。ただ、仏法をそもそも聞こうという気も信じる気持ちもない状態のままでは、救われるということには成りません。そこで、上記にあるように「回心すればみな往く」といわれています。

ただ、一闡提といっても自分とまったく違った種類の人のことだとは思いません。たまたま今は法を聞いておりますが、かつては仏法というものを全く知らずに生きてきました。また、聞き始めたといってもその動機は世俗的な快楽よりももっとよいものが手に入るかのような気持ちはありました。

自分のような者でも、今は聞いているのですから、現時点で聞いていない人も、いろいろな縁によって聞かれるようになる人はいます。いつの日かはわかりませんが、必ず南無阿弥陀仏と申して救われます。

2017-05-21

2017-05-07

2017-04-27 脱会ブログを更新しました。 このエントリーを含むブックマーク

2017-04-25

「仏法を聞かせていただく身となって、この命終わったなら、お浄土と聞き開かせていただいております。ところが回りに人は、そんな死んでから先のことより、いま生きているうちに楽しまねばといいます。人がどういおうとかまいませんが、言い返せないもどかしさを感じます。どのようにいえばいいのでしょうか。」(wmさんのコメントより)

wm 2017/04/23 11:47

仏法を聞かせていただく身となって、この命終わったなら、お浄土と聞き開かせていただいております。ところが回りに人は、そんな死んでから先のことより、いま生きているうちに楽しまねばといいます。人がどういおうとかまいませんが、言い返せないもどかしさを感じます。どのようにいえばいいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170420/1492671055#c1492915667

wmさんのコメントで言われているようなことは、私も耳にしたことがあります。よいご縁だと思い、考えて見ます。


まず、「死んでから先のことより、いま生きているうちに楽しまねば」という人について考えて見ます。

このようにいう人の考えは、死ぬ時に「あれをやっておけばよかった」と後悔をしたくないという気持ちではないかと思います。


こういう人に直言するとすれば「私は人生においてやり残したことはありません。十分生を全うして、生ききったら、死に切りたいと思っています」というところでしょうか。


歎異抄第九条には、このように書かれています。

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。(歎異抄第九条 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P837)

https://goo.gl/1d27gq

この世を去る時には名残惜しいという心もあるものの、この世の縁が尽きたなら浄土に参らせて頂くだけです。急いで浄土に参りたいというこころもない私を、阿弥陀仏はとくにあわれに思って下さいます。だからこそ、阿弥陀仏の大慈悲はたのもしく、往生は定まっていると心得させて頂きます。


私にとって浄土往生というのは、生まれてきた時からすればはまさに想定外のことです。それを遂げさせていただくという救いにあったなら、人生において「あれをやっておけばよかった」ということはありません。そういう意味で、生きるとか死ぬということに、苦しいから駄目だとか楽しいから良いとかいう意味付けをしようとする心はありません。


阿弥陀仏に救われたからといって、私の環境ガラリと変わることはありません。また、自分自身も急に智慧が勝れたり、煩悩が減ったりすることもありません。そうなると、それまでと変わらない人間関係なども起きてきます。しかし、苦しみも楽しみも同じように有り難いことと受け入れる(即座にとはいいません。時には時間を於いてでも)のが、以前との違いかと思います。


「いま生きているうちに楽しまねば」という人には、「今が幸せです」とでも答えるのがいいのでは無いかと思います。ただそれは「貴方よりは幸せです」という意味ではなく、ただ有り難いという意味での幸せです。

2017-04-20

「(略)真実信心を得た人が「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことが果たしてあるのだろうかということです。(略)教えて頂けませんでしょうか。」(Aさんのコメントより)

「(略)真実信心を得た人が「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことが果たしてあるのだろうかということです。(略)教えて頂けませんでしょうか。」(Aさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170418/1492499465#c1492596776

結論からいいますと、「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことはあります。しかし、これには、多少言葉を加えたほうがいいと思います。

もう少し正確にいうと「信心を獲たのだろうかと疑問をもつ時期はあります」しかし、これは本願に疑いがあるからいうのではなく、「本願に疑心はないけれども、これが信心というものか?」と思うことはあるという意味です。


そのような事が起きる場合は、「信心とはこういうもの」「信心を獲たらこうなるはず」という事前に思い描いたものがある人は、「そう思い描いたものがない」ことに「これはどういうことだろうか?」と疑問を持っても不思議はありません。


言い替えると「信心を獲たと思ったれども、自分は本当に信心を獲たのだろうか?」という心境になる人はいると思います。


例えば「信心を獲たら地獄行きの自分の姿がハッキリと知らされる」と聞いて「どんな恐ろしい自分の罪悪が、あたかもパンドラの箱を開けた如く知らされるのだろうか?」と思っていれば、そんな体験が起こらない限りは本願に疑い晴れたとしても「これで信心を獲たのだろうか?」と思うのではないでしょうか?

D

(参考動画 レイダース失われたアーク後半より「アーク」と呼ばれる箱を開けるととんでもない怪物が出てくる場面です。)


先の例は、多少大げさに書きましたが、それでも私が以前思っていたことです。かつて話を聞いていたところでは「名利の冷血獣」とか「ゾッとする巨悪の本性」と聞かされてきたので、信心決定したらとんでもなく極悪人の自分が知らされるのだろうとか、とても人前に出られないような自分の姿が知らされるのだろうと思っていました。また、今まで経験したこともないような達成感や感激が沸き起こるのだろうと思っていました。しかし、少なくとも本願に疑い晴れると同時にそんなことはありませんでした。(そんな体験をする人もあるのかもしれませんが)


仮に、そんな自分の思い描いた通りの体験があったとしたら、「心得た」と思っていたことでしょう。例えば、こんな表情をするのではないでしょうか?

f:id:yamamoya:20170420154630p:image:w640

(参考 漫画「デスノート」より)

ちなみにこの画像は、漫画「DEATH NOTE コミック 全12巻完結+13巻セット (ジャンプ・コミックス)」の一コマです。自分が事前に思っていた通りに事態が進んだことを喜ぶ登場人物の表情です。(少なくとも阿弥陀様は、こんな表情はされません。念のため)


そのため蓮如上人は、「心得た」と思って「これで信心を獲たぞ!」ということは、危ないことだと御一代記聞書に言われています。

一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1300より御一代記聞書213)

https://goo.gl/djh3KR

体験もふくめて「心得た」(分かった!)というのは、信心ではないと蓮如上人は言われています。自分の側で分かった分からないと考えるよりも、阿弥陀仏の仰せの通りであると聞いて下さい。

2017-04-18

「今の私には阿弥陀仏の本願への疑いはありません。「本願を信じ念仏する者を浄土へ迎え取る」というお言葉を聞いて「さようでございますか。ありがとうございます。」と聞き受けているだけです。阿弥陀仏のことは何もわかりません。浄土のこともわかりません。念仏一つで助けると聞いても実感は湧きません。念仏一つで助けると仰っているから、そうか念仏一つで助かるんだなと受け入れているだけです。南無阿弥陀仏によって私が浄土往生出来るかという確信もなければ、南無阿弥陀仏に私を往生させる力や功徳があるかの実感もありません。ただただ、本願のお言葉を「そうでございますか」と受け止めているだけです。浄土真宗の信心とはそういうものなのでしょうか?(Aさんのコメントより)


Aさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

A  2017/04/17 19:53

いつも御教示頂きありがとうございます。質問がありますので教えて下さい。

今の私には阿弥陀仏の本願への疑いはありません。「本願を信じ念仏する者を浄土へ迎え取る」というお言葉を聞いて「さようでございますか。ありがとうございます。」と聞き受けているだけです。阿弥陀仏のことは何もわかりません。浄土のこともわかりません。念仏一つで助けると聞いても実感は湧きません。念仏一つで助けると仰っているから、そうか念仏一つで助かるんだなと受け入れているだけです。南無阿弥陀仏によって私が浄土往生出来るかという確信もなければ、南無阿弥陀仏に私を往生させる力や功徳があるかの実感もありません。ただただ、本願のお言葉を「そうでございますか」と受け止めているだけです。

 浄土真宗の信心とはそういうものなのでしょうか?

この先も聴聞を続けて確認しなければと思っているのですが。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170413/1492081569#c1492426418

文面だけではなんともお答えしづらい質問です。といいますのは、「今の私には阿弥陀仏の本願へ疑いはありません」というのが、どういう意味で言われているのかが、今一つ分からないからです。

確かに「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」が信心の相ですから、「疑いがない」ということが本当ならばそれは、信心だと言って差し支えはありません。

私からは、Aさんの文面を読んで「そうですよ」という事はできません。なぜなら、会ったこともない人の信心を(会っていたとしてもですが)認定することはできないからです。仮に私が「貴方の信心は間違いない」と言ったところで、私の言葉をたよりにする信心は非常に危ういものになってしまいます。といいますのは、仮に「さっき貴方の信心は間違いないと言ったけれど、あれは勘違いだった」と言ってしまうと、崩れてしまう信心だからです。

しかし、Aさんのコメントからすると、Aさんは信心について以前は以下のように思っておられたということは分かります。

  • 信心決定したら阿弥陀仏のことがいろいろと分かる。
  • 信心決定したら浄土のことがわかる。
  • 信心決定したら浄土往生の確信がある。
  • 信心決定したら南無阿弥陀仏の功徳を実感できる。

上記のようなことを以て「私は信心を獲た」というのは間違いです。なぜなら、「智慧の拡張」が信心の証明といっているようなものだからです。


考えて見ますと「阿弥陀仏のことが分かり」「浄土のことが分かる」のは、本当の意味で言えば仏様でなければあり得ないことです。親鸞聖人は、凡夫が凡夫のまま往生することを教えられました。凡夫があるとき、聖者や仏になってから浄土往生するとは言われていません。

これから聴聞され、確認されるということは、大変有り難いことだと思います。

少なくとも、当ブログの内容を読まれて引っかかるところがあれば、お知らせ下さい。

2017-04-16

2017-04-13

阿弥陀仏に救われるために最低これだけは知っていなければならないということはあるのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われるために最低これだけは知っていなければならないということはあるのでしょうか?(頂いた質問)

念仏(南無阿弥陀仏)が、私を救って下さるということは知っていなければならないです。しかし、それ以上に何か難しいことを知っていなければならないということはありません。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人の書かれた本は沢山有り、ご本典といわれる「教行信証(顕浄土真実教行証文類)」は現代文を読んでも大変長く難しく感じます。

では、それらを全て読んで理解出来なければ救われないのかと言えばそうではありません。実際に親鸞聖人は、平易な言葉で書かれた本やご和讃も沢山あります。

蓮如上人で言えば、御文章の一通にかかれた位の分量で、肝心なことは収まります。また、当時の真宗のお同行はその御文章を通して南無阿弥陀仏のいわれを聞いて救われていった人も多くおられた筈です。

御文章の5帖目1通にはこうあります。

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。

これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1189)

https://goo.gl/OFplU0

ここでは、「これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」と言われて、阿弥陀仏の第十八願のこころしか書かれていないといってもいい御文章です。特別な仏教の学問をしたこともない、一般の人に向けて「阿弥陀仏の第十八願のこころ」を書かれて、その通りに「かならず弥陀如来は救いましますなり」と聞いて疑い無いことを救われたといいます。

こう聞くとそんなことで救われるのかと思う人もあります。しかし、南無阿弥陀仏以外に往生の道はないというのが親鸞聖人の教えられた阿弥陀仏の救いです。

2017-04-05

自力を捨てろといわれても考えるほど無理ではないかと思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われるには自力を捨てよと聞きましたが、自力を捨てようとするのも自力だと聞くと、そもそも無理な話では無いかと思います。(頂いた質問)

自力を捨てよと聞きますと、どうしても自力とは何なのか?とか、何を捨てればいいのか?と考えてしまいます。

そこで、人によっては自力を探すことを求道のように思ってそれを追求しようとする人もあります。また、自力を「計らいだ」と聞くと、「考えること自体」が自力なのかと思い、そうすると「助かろうと思うこと」がそもそも自力なのだということになり行き詰まってしまう人もあります。

その結果「ただ聞け」とか「ただ念仏」という言い方を聞くと、「とにかく何も考えないようにして聞いていればいい」と考えてしまいます。しかし、それでは「何も考えないように」と考えているのでやはり自力は捨てたことになりません。

自力とはなにかについて、浄土真宗辞典から紹介します。

浄土真宗辞典

じりき 自力 他力に対する語。自ら修めた身・口・意の善根によって迷いを離れようとすること。『一多文意』には「自力といふは、わか身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)とある。→じりきしん(自力心)

じりきしん 自力心 行者自身のはからい。自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞は阿弥陀仏の本願を疑う心とした。

ですから、自力を捨てよとは、言い替えると「自分の善い行いで浄土に往生しようとすることをやめよ」ということです。善い行いというと、なにか修行めいたことを想像されるかもしれませんが、「自身の浄土往生によかれと思ってやること」は全部自力となります。


お尋ねの方は、「まず自分が自力を捨て」てから、その後阿弥陀仏が救って下さると考えられておられるかもしれませんが、そうではありません。阿弥陀仏のただ今救うの仰せに従うままが、自力を捨てた(自分の善い行いで浄土に往生しようとすることをやめた)状態です。


自力を捨てるとは、言い替えると阿弥陀仏に救われることです。ですから、自力を捨てよとは、阿弥陀仏に救われて下さいと同じことです。阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏一つで救って下さいます。ただ南無阿弥陀仏を称え、聞いて、ただ今救うの仰せを受け入れ救われて下さい。

2017-03-30

2017-03-22

「仏の加威力によらねば信心は生じないとのことですから、我々に早く本願を聞いて下さいと要求するのはおかしくないでしょうか? 」(ミウラさん)「お念仏は自然にでるのだが、これで本当に救われたのかどうだか、さっぱりわかりません。疑いしか無い。 」(振興ホームさん)

ミウラ 2017/03/20 22:00

仏の加威力によらねば信心は生じないとのことですから、我々に早く本願を聞いて下さいと要求するのはおかしくないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170320/1489998115#c1490014828

私が本願を聞いて下さいと書いているのは、「聞くという行為を要求」しているのではありません。本願を聞いて疑い無いのが信心ですから、信心決定の身になってくださいと、信心を勧めているだけです。


振興ホーム 2017/03/21 02:15

>ただ今本願を聞いて下さい。ただ今救われ、報土往生させて頂けます。

最後の一行だけがどうもよくわからない、お念仏は自然にでるのだが、これで本当に救われたのかどうだか、さっぱりわかりません。疑いしか無い。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170320/1489998115#c1490030103

これで救われたかどうかということは、本願を聞いて疑い無いということ以外には特段自分で決められるような基準はありません。

どちらかと言えば、「これで」私は救われたという「これ」が自分の心の善し悪しで意ッ要るのなら間違いです。例えば、嬉しいから救われた、楽しいから救われた、申し訳ないの気持ちが出たから救われたというのは、自分の感情が信心かどうかの基準になっています。

そのような自分の感情は、日々変わるものですからそれで信心が決まるのなら、いつどうなるか分からない信心となってしまいます。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。 (教行信証 総序)

ここで、聞思して遅慮することなかれと親鸞聖人はいわれています。聞思とは、「本願のいわれを如実に聞いて思いをめぐらすこと(浄土真宗辞典)」です。また、如実に聞くとは、「真実・真如のとおりに、あるがままに(同)」聞くということです。

つまり、「摂取不捨」と私を摂めとって捨てられないという阿弥陀仏のまことの言葉を、そのまま聞いて、聞いた通りに思うということです。そこに対して、遅慮することなかれと言われていますから、あれこれと疑いためらってはならないと疑いをいましめられています。


最初に誠なるかなと言われていますが、分からないことが分かったのではありません。アルキメデスが、アルキメデスの法則を発見して「ユーレカ!(分かった)」と風呂から飛び上がったような信心ではありません。知らないことを知ったのではなく、聞いたことを聞いた通りに聞いたのです。ただ今助ける南無阿弥陀仏と聞いて疑いないのが信心です。

ただ今助けるとそのまま聞いて見れば、ただ今助かるとなります。何かが分かったのではなく、聞いた通りに聞いただけです。さっぱりわからいのが現在でも、必ず聞いて疑い無いと聞くときがあります。ただ今聞いて救われて下さい。

「仏の加威力によらねば信心は生じないとのことですから、我々に早く本願を聞いて下さいと要求するのはおかしくないでしょうか? 」(ミウラさん)「お念仏は自然にでるのだが、これで本当に救われたのかどうだか、さっぱりわかりません。疑いしか無い。 」(振興ホームさん)

ミウラ 2017/03/20 22:00

仏の加威力によらねば信心は生じないとのことですから、我々に早く本願を聞いて下さいと要求するのはおかしくないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170320/1489998115#c1490014828

私が本願を聞いて下さいと書いているのは、「聞くという行為を要求」しているのではありません。本願を聞いて疑い無いのが信心ですから、信心決定の身になってくださいと、信心を勧めているだけです。


振興ホーム 2017/03/21 02:15

>ただ今本願を聞いて下さい。ただ今救われ、報土往生させて頂けます。

最後の一行だけがどうもよくわからない、お念仏は自然にでるのだが、これで本当に救われたのかどうだか、さっぱりわかりません。疑いしか無い。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170320/1489998115#c1490030103

これで救われたかどうかということは、本願を聞いて疑い無いということ以外には特段自分で決められるような基準はありません。

どちらかと言えば、「これで」私は救われたという「これ」が自分の心の善し悪しで意ッ要るのなら間違いです。例えば、嬉しいから救われた、楽しいから救われた、申し訳ないの気持ちが出たから救われたというのは、自分の感情が信心かどうかの基準になっています。

そのような自分の感情は、日々変わるものですからそれで信心が決まるのなら、いつどうなるか分からない信心となってしまいます。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。 (教行信証 総序)

ここで、聞思して遅慮することなかれと親鸞聖人はいわれています。聞思とは、「本願のいわれを如実に聞いて思いをめぐらすこと(浄土真宗辞典)」です。また、如実に聞くとは、「真実・真如のとおりに、あるがままに(同)」聞くということです。

つまり、「摂取不捨」と私を摂めとって捨てられないという阿弥陀仏のまことの言葉を、そのまま聞いて、聞いた通りに思うということです。そこに対して、遅慮することなかれと言われていますから、あれこれと疑いためらってはならないと疑いをいましめられています。


最初に誠なるかなと言われていますが、分からないことが分かったのではありません。アルキメデスが、アルキメデスの法則を発見して「ユーレカ!(分かった)」と風呂から飛び上がったような信心ではありません。知らないことを知ったのではなく、聞いたことを聞いた通りに聞いたのです。ただ今助ける南無阿弥陀仏と聞いて疑いないのが信心です。

ただ今助けるとそのまま聞いて見れば、ただ今助かるとなります。何かが分かったのではなく、聞いた通りに聞いただけです。さっぱりわからいのが現在でも、必ず聞いて疑い無いと聞くときがあります。ただ今聞いて救われて下さい。

2017-03-20

「報土に往生ができなくても、もう別に化土でいいじゃないか、という気持ちになることがあります。(略)最近は報土に往生ができなくても、地獄、餓鬼、畜生に堕ちるくらいなら、別に自力念仏で化土往生でもいいじゃないか、と思うようになってきました。」(さびしい人さんのコメント)

エントリーが遅くなり、すみません。

さびしい人   2017/03/18 17:22

いつも拝見させていただいております。

たくさんお聴聞させていただいておりますが、お恥ずかしながらまだご信心をいただくことはできておりません。

これはよくないこととはわかっているのですが、報土に往生ができなくても、もう別に化土でいいじゃないか、という気持ちになることがあります。

衆生の行先は3つしかないとよくご法話でもお聞きします。一つは真実報土、二つ目は方便化土、3つ目は三界六道(輪廻)。

実際、飛雲さんのサイトでもよく書かれています。

最近は報土に往生ができなくても、地獄、餓鬼、畜生に堕ちるくらいなら、別に自力念仏で化土往生でもいいじゃないか、と思うようになってきました。

もちろん、このような思いがよくないことは百も承知ですが、最近はそのように思うことも多々あります。

以下のサイトでも「浄土門の人の大半は化土往生」とあります。

http://blog.livedoor.jp/sutybi/archives/515697.html

よくないこととは思いながらも、悪道に堕ちるくらいなら化土往生で構わないという、化土往生に安心してしまう自分が恥ずかしいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170309/1489041231#c1489825344

最初に書きますと、コメント欄で紹介されていたエントリーは、「浄土門の人の大半は化土往生」とは書かれていません。

20願の自力念仏については、浄土門の人の大半がこれです。親鸞聖人が化土往生について仰っているのは、自力念仏についてばかりです。

(略)

23首で、化土往生を誡められています。誡める理由は、化土往生する人が多いからです。

http://blog.livedoor.jp/sutybi/archives/515697.html

化土往生する人が多いということと、自力念仏する人の大半が化土往生するということは意味がことなります。

親鸞聖人が化土往生する人が多いと言われたのは、それだけ十八願の報土往生を疑う人が多いのでそれを戒めらるためです。「それだけ疑う人が多いから間違えないで下さい」

という言い方です。

では、20願の自力念仏の人は、もれなく化土往生できるのでしょうか?

化土往生する人は、往生要集にあるような「臨終行儀」を行わねばならないというのが、親鸞聖人が誡疑讃を書かれた当時の認識です。

では、臨終に平静な心を保てる人はどれくらいあるでしょうか?決して多くはありません。

そのため、平生業成を勧められた親鸞聖人の教えからいえば、臨終来迎を期待する考えは厳しく戒められました。

そのことは、覚如上人の口伝鈔にも書かれています。

しかればわたくしにこれをもつてこれを案ずるに、真宗の肝要、安心の要須、これにあるものか。自力の称名をはげみて、臨終のときはじめて蓮台にあなうらを結ばんと期するともがら、前世の業因しりがたければ、いかなる死の縁かあらん。火にやけ、水におぼれ、刀剣にあたり、乃至寝死までも、みなこれ過去の宿因にあらずといふことなし。もしかくのごとくの死の縁、身にそなへたらば、さらにのがるることあるべからず。もし怨敵のために害せられば、その一刹那に凡夫としておもふところ、怨結のほかなんぞ他念あらん。また寝死においては、本心、息の絶ゆるきはをしらざるうへは、臨終を期する先途、すでにむなしくなりぬべし。いかんしてか念仏せん。またさきの殺害の機、怨念のほか他あるべからざるうへは、念仏するにいとまあるべからず、終焉を期する前途またこれもむなし。仮令かくのごときらの死の縁にあはん機、日ごろの所存に違せば、往生すべからずとみなおもへり。たとひ本願の正機たりといふとも、これらの失、難治不可得なり。いはんやもとより自力の称名は、臨終の所期おもひのごとくならん定、辺地の往生なり。いかにいはんや過去の業縁のがれがたきによりて、これらの障難にあはん機、涯分の所存も達せんことかたきがなかにかたし。そのうへは、また懈慢・辺地の往生だにもかなふべからず。これみな本願にそむくがゆゑなり。(口伝鈔)

https://goo.gl/7YRrFt

書かれていることをまとめていいますと、自力念仏で臨終になんとかなろう、化土往生をさせてもらおうと思っていても、死ぬ時にはどんな状況になるか分かりません。なので化土往生もできない(懈慢・辺地の往生だにもかなふべからず。これみな本願にそむくがゆゑなり。)と言われています。

平たく言えば、化土往生を目指している人の中で、いわゆる凡夫は化土にも往生出来ない(あえて断言)と厳しく戒められています。

ただこれは、覚如上人個人の意見ではありません。親鸞聖人も、同じことを言われています。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(教行信証 化土巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P412)

現代文

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

https://goo.gl/MSnCxh

ここで知っていただきたいのは「報土に入ることなきなり」です。なぜなら化土往生する人は、五百歳化土にいたあとやがて報土出来ます。それにもかかわらず「報土に入ることなきなり」といわれるのは、言い換えれば「化土往生できない」ということです。

全く報土往生を知らない人ならまだしも、報土往生(第十八願の往生)を法然聖人から聞きながら、化土往生を夢見る兄弟弟子に対して親鸞聖人は、このように仰っています。

さびしい人さんに言われている、親鸞聖人のお言葉だと思われないでしょうか?これは決して、さびしい人さんを謗って言われているのではありません。どうかどうか、報土往生をして下さいとのお勧めです。阿弥陀仏のお勧めを、手前勝手に曲げてはいけません。

貴方が、ただ今救われないのは、貴方の能力の問題でも、性格の問題でも、努力の問題でも、年齢の問題でもありません。ただ今本願を聞いて下さい。ただ今救われ、報土往生させて頂けます。

「『御文章』白骨章の最後に「後生の一大事をこころにかけて」とお示しでありますが、その「後生の一大事」とはどういうことでしょうか。なぜ後生が一大事なのでしょうか。」(wmさんのコメントより)

エントリーが遅くなり、すみませんでした。

wm    2017/03/18 21:36

端的におたずねいたします。たとえば『御文章』白骨章の最後に「後生の一大事をこころにかけて」とお示しでありますが、その「後生の一大事」とはどういうことでしょうか。なぜ後生が一大事なのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170309/1489041231#c1489840613

お尋ねの、後世の一大事について浄土真宗辞典から引用します。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

ごしょうのいちだいじ 後世の一大事

後生とは後に来るべき生涯、一大事とは最も重要なことの意。生死の問題を解決して後生に浄土に往生するという人生における最重要事をいう。

『御文章』5帖目16通には「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」等とある。

意味はこの通りです。

なぜ一大事なのかと言われれば、生死を離れて浄土に往生するということは、特に凡夫にとっては大変なことです。日々生死から離れられない私にとっては、ここから離れられるということは、ちょっと考えてもあり得ないことであり、これより大事なことはありません。

浄土に往生しないということは、生死の問題を解決できないということであり、苦しみから離れられられないということです。

その生死から離れさせるために、阿弥陀仏は本願を建てられているので、「阿弥陀仏をふかくたのみ」と御文章には続けて言われています。

別の言い方をしますと、生死といいますのは、迷いの凡夫の生み出したものだと言われます。凡夫にとってみては、生きることは「良い事」死ぬことは「悪いこと」と分けて考えます。また健康であることは「良い事」病気は「悪いこと」、若いことは「良い事」老いることは「悪いこと」と考えます。その考えからすると、人は生きて行けば、老いと病と死はさけられません。

そのように、死ぬことは悪いことと思い込む私に、「お前は死んで消えて行くものではない、浄土に生まれるものだ」と常に呼びかけ救って下さるのが阿弥陀仏です。一度浄土に往生すると定まった人にとっては、いたずらに終わる生も、消滅や先行き不明な死はもはやなくなってしまいます。

白骨の章でいわれいるのは、世の無常を切々と書かれていますが、最後に「後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をたのみ」と言われています。それは、「朝に紅顔、夕べに白骨」でそれで「お終い」なのが貴方ではありません。貴方は終わらないですよ、なぜなら阿弥陀仏が浄土に生まれさせると誓われています。浄土に生まれる人には、空しく終わる生も、暗黒の死もありませんから、阿弥陀仏をたのめと勧められています。

2017-03-09

「真宗は往生即成仏と説くのに、なぜ中陰があるのですか。」(wmさんのコメントより)

wmさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

wm 2017/03/09 10:47

このブログを偶然見つけ、質問させていただきます。

真宗は往生即成仏と説くのに、なぜ中陰があるのですか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170307/1488873220#c

まずお尋ねの中陰についての意味から紹介します。

ちゅう‐いん【中陰】

〖名〗仏語

(1)ちゅうう(中有)

→衆生が死んでから次の縁を得るまでの間。四有の一つ。無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、書状の生を受ける瞬間を生有、死の刹那を死有、生有と死有の中間を本有とし、死後次の生有までを中有とする。中陰。

(2)人の死後四十九日の間の称。人は死後七日を一期としてまた生を受けるという。極悪・極善の者は死後直ちに次の生を受けるが、それ以外の者は、もし七日の終わりにまだ生縁を得なければさらに七日、第二七日の終わりに生を受ける。このようにして最も長い者は第七期に至り、第七期の終わりには必ずどこかに生じるという。

小学館 精選版日本国語大辞典

そこでお尋ねの、「真宗では往生即成仏を説く」についてですが、あくまでも浄土往生したひとは速やかに成仏するということであって、真宗門徒に名前を連ねている人がもれなく全て浄土往生するわけではありません。


真宗の教えでは、阿弥陀仏の本願を信じ念仏する人は必ず浄土に生まれます。ですから、本願を信じない人は浄土に往生することがありません。そのため、そういう人には中陰ということがあります。


では、浄土真宗の葬儀はそのように、浄土往生していない人がいる前提で、その供養の為に行われているのかといえばそうではありません。本来、浄土真宗での葬式法事は、儀式伝道と定義されています。

それに付いては、中央仏教学院のテキスト「伝道要義」から紹介します。

真宗の儀式はすべて仏徳讃嘆の意味をもっている。葬儀式といえども仏徳讃嘆の儀式である。葬式仏教という言い方で批判されるのは、葬儀式を批判しているよりも、僧侶がその儀式の意味を忘れてただ儀式張る(わざと体裁をつくって堅固に形式ばる」からである。

(中略)

真宗における儀式は如来大悲を仰ぎ仏恩報謝の儀式であるからこそ、儀式伝道といえるのである。このサシガネを軽視すると、位牌や護符を認めてしまう宗門になってしまうであろう。

(中略)

また葬式についても「没後葬礼をもて本とすべきやうに衆議評定する、いはれなき事」と記されている。これとて葬式無用論者のそれではない。儀式の意義即ち往生の信心を忘れて、単なる行事にしてしまっていることへの批判である。我々は伝道を考える場合、もっと儀式で表現されている教義的内容を問わねばならないのである。

(中央仏教学院テキスト 伝道要義P79)

もともと中陰といって死後七日毎の法要は、浄土真宗に限らず日本の風習としても定着していたものでした。それらの葬儀式を縁として仏徳讃嘆し、また参加者に法を伝えて行こうという伝道の場が元々の目的でした。

もっとも、必ずしも全ての葬式や法事が上記のようになっていない場合もあるかと思います。私もそういう意見は耳にしたことがあります。本来の意義が伝われば、お尋ねの疑問も解消されるのではないかと思います。

2017-03-07

「阿弥陀仏の一方的お育てが完了してないと本願まことと信じる不思議な心(信楽)を得られないんではないですか?」(bibiさんのコメントより)

bibiさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

bibi 2017/03/06 12:29

この方のブログ拝見して気付きました

1?20.本願まことと信楽不思議 - なもあみだぶのつぶやき部屋


昔から信心決定された方が当たり前のように言うことが理解できず、どのようにそう感じるのだろうと不思議で、獲信できないことはそこが理解できないからと悶々と格闘していたんですが、

阿弥陀仏の一方的お育てが完了してないと本願まことと信じる不思議な心(信楽)を得られないんではないですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170302/1488455135#c1488770976

阿弥陀仏のお育てというのは、時間がかかるといえばかかりますが、少なくとも現在念仏する人はもうお育ては完了してるといっても問題ないと思います。

ですから、すでに念仏する人の中で、すでに信心獲得している人と、そうでない人の差は阿弥陀仏のお育て云々に関してはないに等しいです。

では何が違うのかといえば、本願を聞くか聞かないかということです。別の言葉でいえば、信ずるか疑うかの違いです。

こう書きますと、その「聞く」にもお育てが必要なのではないか?と思われるかもしれません。私も以前はそう思っていました。しかし、未だ聞いたことのない救いを聞くのであれば、「自分はまだだ」という理屈も成り立ちますが、すでに救いの法を聞くご縁にあっている人には、これ以上のお育ては必要ありません。

強いていうならば、「自分はまだ助かってはいけない」と自分で思っている心が、「まだお育てが終わってない」と考えさせるのではないでしょうか?私自身も含めて、いろんな人にお会いしてきました。また、いろいろとお話しもさせて頂きました。そこから感じたことは、「自分は助かるべき人間ではない」との思いをもっておられる(おられた)人が割と多くおられるのではないかということです。

そういう人には阿弥陀仏は、「お前を助ける」といいながら「お前はもう助かってもいいんだよ」と寄り添って下さいます。もう自分を傷つけたり、さげすんだりする必要は阿弥陀仏の救いには必要ありません。貴方は救われてもいい人なのだと、常に呼びかけ働いて下さっているのが南無阿弥陀仏です。

阿弥陀仏は、世の中の人がいうように「自信を持て」とか「自分を信じろ」とはいわれません。阿弥陀仏の仰せは「私(阿弥陀仏)が信じるお前(貴方)を信じろ」といわれているのです。阿弥陀仏から見れば、私は「必ず浄土往生し仏になるもの」なのです。その阿弥陀仏が信じられているように「私は、浄土往生し仏になるのだ」と聞いて信じたのが信心といいます。そこには、私の目から見た私の能力や人格や性格や性別や年齢も関係ありません。阿弥陀仏が見られたように、私は浄土に往生させて頂けるものと聞き入れるだげです。


獲信者が当たり前のように話す事柄もその信楽あっての前提で無自覚で話されている。

しかしその心は説明することが不可能とブログの方が言われてます。

素地が出来てないといくら頑張っても救いは得られないんだとおもいます。

素地の出来ている人には弥陀にお任せするだけだ簡単に助かると言えるが

それ以外の人にはどうにもならない言葉になるんでしょう。

ある種選民的なところがあるかもしれない。

おそらく全ての人を救うといっても現時点だけ考えると数的に限界があるんではないでしょうか?

環相が増えるとその数も増えるのかもしれない。

自分はまあお育てを待つしかないです。(bibiさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170302/1488455135#c1488770976

お育てを待つ必要はありません。なぜなら、もう十分に育っているからです。

そういう意味で、阿弥陀仏の救いをどうか遠くに置かないで下さい。貴方が救いはまだ先と思うのは、貴方がそう信じているからだと思います。ですが、阿弥陀仏の救いに関しては自分を信じないで下さい。繰り返しになりますが、自分が見る自分を信じるのではなく、阿弥陀仏が信じられている私を信じて下さい。 

(38)

如来の作願をたづぬれば

 苦悩の有情をすてずして

 回向を首としたまひて

  大悲心をば成就せり(正像末和讃)

https://goo.gl/4o6VPJ

阿弥陀仏は、「救って下さい」と思う人、待っている人にはすでに寄り添って下さっています。もう待つ必要はありません。ただ今救われて下さい。貴方に対して「まだだ」というのは、貴方以外には誰もありません。

2017-03-06

「凡夫は本願を一度でも信じなければ往生できない、という風に読めてしまうのですが、そうお考えなのですか?かりにそうだとしたら如来の本願はそんな限定的で狭いはたらきなのでしょうか?」(ototanさんのコメントより)

ototanさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

コメントが長文の為、引用するのは一部分になります。

ototan 2017/03/05 10:24

 今回の山も山さんのお言葉は、何度読み返しても、凡夫は本願を一度でも信じなければ往生できない、という風に読めてしまうのですが、そうお考えなのですか?

 かりにそうだとしたら如来の本願はそんな限定的で狭いはたらきなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170302/1488455135#c1488677090

本願を信じない人は、浄土に往生できないと私は書いています。

上記のコメントの文章にも書かれていますが、阿弥陀仏の御慈悲の対象に限定もありませんし、差別もありません。長い目で見れば、阿弥陀仏の本願で浄土往生しない人はありませんが、ただ浄土に往生するのは、本願を信じ念仏する人です。しかし、それも長い目で見れば今本願を信じない人も、本願力によって本願を信じるようにさせていただくときが来ます。念仏しない人も、何時かは念仏する時が来ます。その意味で狭いはたらきの本願ではありません。

御慈悲には分別はありませんが、ただ今本願を信じているかいないかについては私の側には時間差はあります。一個人でも、以前は本願を信じていなかった時はあります。

 極端な言い方をすれば、南無阿弥陀仏を知っていようと知っていまいと、信じるか信じないか、阿弥陀さんにはどっちでも良くて凡夫が他力によって救われることは揺るぎないのではないでしょうか。(ototanさんのコメント)

どっちでもいいとは思いません。念仏を勧め、信心を勧められた親鸞聖人の教えはそのためにあったと思います。


(1)
弥陀の名号となへつつ


 信心まことにうるひとは

 憶念の心つねにして

 仏恩報ずるおもひあり(浄土和讃 冠頭讃)


念仏するものでも、信心まことに獲る人は仏恩報ずるおもいありと親鸞聖人はいわれています。

第三者の往生はわかりませんが、念仏申している人の中でも、本願信ずる人と疑っている人では結果が違うと親鸞聖人はいわれています。

2017-03-02

「「今・ここ」の救いでなく、臨終における救いにおいても「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」が必要とされるのであれば、それこそせっかくの南無阿弥陀仏が救いの証拠ではなく条件に成り下がってしまうのではと思いはかったことです。 」(求道者Kさんのコメント)

今回は、コメントの文章が長いためコメントを紹介しつつエントリーを書きます。コメント全文をそのまま読まれた言い方は、下のコメント欄の文章をお読みください。

求道者K

(略)

「南無阿弥陀仏は救いの条件でなく救いの証拠である」

とは、本派のある僧侶様のお話しでお聞きしたお言葉でしたがなるほどなと聞かせていただきました。

こちら側の条件など一切問われず、つまりは「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」(一念多念文意)ことをせずとも、南無阿弥陀仏の名号において救いは完成しておる。我々の生き様や死に様を問うことなく、阿弥陀仏の方で十方衆生の往生を誓っておられるのだとお聞かせいただきました。

しかし言うならば、我々が救いを証明しなくとも救いが完成している事実には変わりないのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

この「救いが完成している」については、救いの手立てが完成していると言うことだと思います。

救いの手立ては既に完成しているのですが、後に紹介されているお聖教のご文からしても、阿弥陀仏の救いといいますのは雑行をしているものまで救うと言うお救いではありません。

証拠がなくとも救いが成就しているという事実には影響がない。なんの思いはからいもなく南無阿弥陀仏を称え・聞くことが救いが私に届いていた証拠ではありますが、私が証する以前に阿弥陀仏の方は常におはたらきになっているのですよね。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

救いの働き(願力)が私に届いているということと、私が救われる(信心を獲る・往生浄土が定まる)は同じことではありません。

しかし、宗祖はたとえば『尊号真像銘文』の観念法門の文を釈す箇所において、

「総不論照摂 余雑業行者」というは、総はすべてという、みなという。雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわずとなり。てらしまもりたまわずともうすは、摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者にあらざるゆえなりとしるべし。

と雑行雑修の人を嫌うどころか救いから漏れるとおっしゃっております。これはどういったお心でしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

「本願の行者にあらざるゆえなり」と書かれています。

本願の行者ではないというのは、本願を信じる行者ではないということで、念仏一つで救う本願を信じないで、雑行雑修をしている人のことです。そういう人は、最初から本願を信じ念仏していませんので、本願の救いからは現時点で洩れています。

同文については『一念多念文意』においても

「総不論照摂余雑業行者」というは、「総」は、みなというなり。「不論」は、いわずというこころなり。「照摂」は、てらしおさむと。「余の雑業」というは、もろもろの善業なり。雑行を修し、雑修をこのむものをば、すべてみな、てらしおさむといわずと、まもらずとのたまえるなり。これすなわち、本願の行者にあらざるゆえに、摂取の利益にあずからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり。

同様に解釈しておいでです。私としては「このよにてまもらず」という所がポイントであり、救いは完成しているのだが雑行雑修自力の心では「このよ」、つまりは「今・ここ」において救いを感得することができないので、自力を嫌い他力の信をすすめておられるようにお聞きしたのですが。

しかしたとえ自力の念仏であろうとも(あるいは称名すらなくとも?)、(本派さんは死後往生を説くと理解していますが)南無阿弥陀仏と称する人は死後往生、つまりは臨終来迎にあずかるという意味の救いからは漏れないのではないでしょうか。

それこそ生き様死に様を問わず、私の証明行為すらも問わずとも救いを完成させた南無阿弥陀仏のお心かと感じるのですが…。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

摂取不捨の利益に預かっていないのですから、臨終にだけは助けて下さるということはありません。親鸞聖人の教えられた阿弥陀仏の救いは、平生に摂取不捨の利益にあずかるのですから、それなしに浄土往生はありません。

平生に摂取不捨の利益にあずかれば、生き様死に様は関係なく浄土に往生させるというのが南無阿弥陀仏です。

いや「今・ここ」の救いでなく、臨終における救いにおいても「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」が必要とされるのであれば、それこそせっかくの南無阿弥陀仏が救いの証拠ではなく条件に成り下がってしまうのではと思いはかったことです。

これも宗祖の嫌う「私の思いはからい」ですので、どうぞお導きをいただければと存じます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

平生でも、臨終でも「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の救いが阿弥陀仏の本願です。

「本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせる」という本願において、「本願を信じなくても救って下さい」といわれれば、本願から洩れるのは文章を読まれても分かると思います。


ただ「本願を信じる」というのは、救いの「条件」とはいえません。

なぜかについて「条件」の意味を、以下のものから考えて見ます。

じょうけん【条件】

〖名〗

  1. 約束ごとや契約などの箇条。項目。くだり。また、物事について限定したり制約したりする事柄。
  2. 物事の成立・生起に欠くことのできない事情。物事が実現するのに必要な事柄。(小学館 精選版日本国語大辞典

まず(1)の意味で言うならば、「条件」というのはあてはまりません。

一般に約束事や契約などには、お互いの行為に付いての条件が出されるからです。私が○○したならば、あなたは××してください。という場合です。

阿弥陀仏の救いはこれにあたりません。なぜなら、「本願を信じる」というのは、「私の行為」ではないからです。求道者Kさんのコメント文脈からすると、本願を信じることがなにか私の行為のように読めてしまいます。しかし、聞其名号 信心歓喜するといっても、それは私の行為ではく、名号に手出しをせずそのまま聞き入れただけで私の作為は入っていません。


次に、(2)の意味でいうのならば、「条件」というのは当てはまりません。

なぜなら、上記に書かれているように、「本願を信じ念仏する人を必ず浄土に生まれさせる」ということは、「本願を信じない」人は浄土に生まれることはないからです。そういう限定の意味は出てきます。しかし、いま本願を信じていない人も、一度本願を信ずれば必ず浄土に生まれさせる本願です。

2017-02-25

2017-02-21

「名を呼ぶことは当然帰命の意を含んでいる、というのは話で聞いたことないです。(略)だったら無量光だけもでいいということです?」(七誌の権兵衛)


七誌の権兵衛 2017/02/19 07:20

名を呼ぶことは当然帰命の意を含んでいる、というのは話で聞いたことないです。
その和讃に関して浄土真宗ではその四十号でも念仏の代わりになると教えてますか?
だったら無量光だけもでいいということです?
通常浄土真宗といえば南無阿弥陀仏一辺倒で教えられています。
だから南無阿弥陀仏だけに特別な何かがあると思っていたんですが。

その辺のところ今の浄土真宗に説明不足があるんでしょうか?
ご開山が十字名号で布教したというのはこういう誤解を生じさせるから敢えてそうなされたんですかねえ?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170217/1487332503#c1487456430

名を呼ぶことは帰命の意味を含んでいるに関して言えば、根拠は、浄土論浄土論註、六字釈になります。

さんだん 讃嘆

仏や菩薩などの徳をほめたたえること。天親はこれを『浄土論』で五念門の一つに挙げて阿弥陀仏の名を称することとし、これをうけた曇鸞は『論註』に「称彼如来名といふは、いはく無碍光如来の名を称するなり」(信巻引文・註214)と示している(以下略)

浄土真宗辞典より)

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

そこで、親鸞聖人は、この「無碍光如来の名を称する」ことが「大行」であるとされました。また、親鸞聖人の教えでは、この大行とは南無阿弥陀仏であるとされています。

その南無阿弥陀仏について解釈されているのが六字釈です。ここでは、親鸞聖人の六字釈を紹介します。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻)

現代文

そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説と熟語した場合、説は「悦」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。

 また帰説と熟語した場合、説は「税」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。

 説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。

 こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び90続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。

https://goo.gl/zM68VI

南無阿弥陀仏の南無には、帰命の意味がありますから、南無阿弥陀仏と申すことは帰命するとの意味はあります。

名を呼ぶと言いますか、真宗では念仏のことを称名とも申します。称名とは文字通り「名」を「称する」ことです。そこで、称名との意味ですが、もともとただ名前を言うという意味だけではありません。

称名に関して言えば、阿弥陀仏の名前をただ口にしているということではなく、先述しましたように讃嘆の意味があります。そこで、阿弥陀仏の名を称すれば讃嘆となりますから、阿弥陀仏といっても無碍光如来といっても同じことです。

ただ、親鸞聖人は阿弥陀仏の四字ではなく南無阿弥陀仏の六字をよく用いられています。

それは、前述の六字釈にもかかれていますが、阿弥陀仏がどういう仏であるかということをより明らかにされる意味でも南無阿弥陀仏と言われています。

きみょう 帰命

梵語ナマス(na‐mas)の意訳。南無と音訳する。心から信じ敬うという意。浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀仏の勅命の意とする。「行巻」には「帰命は本願招喚の勅命なり」(註170)(以下略)。

浄土真宗辞典より)

阿弥陀仏とは、私に南無せよと呼び続けられている仏であるということです。また、南無せよとの仰せを受け入れるものは必ず救う仏であるということです。

ですから、親鸞聖人が阿弥陀仏と書かれているところでも、その意味から言えば「南無阿弥陀仏」と同じ意味として言われています。

最後に、浄土真宗で念仏としたときに南無阿弥陀仏と多く使われる根拠の一つを紹介します。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(教行信証行巻)

現代文

こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。

https://goo.gl/lnJyRy

2017-02-17

『帰命尽十方無碍光如来』は『南無阿弥陀仏』と同じで親鸞聖人はこちらの十字名号で布教していたと聞きましたが、救いは六字名号でなければならないということとの整合性はどう説明するのでしょうか?(七誌の権兵衛 さんのコメント)

七誌の権兵衛 2017/02/15 19:51

『帰命尽十方無碍光如来』は『南無阿弥陀仏』と同じで親鸞聖人はこちらの十字名号で布教していたと聞きましたが、救いは六字名号でなければならないということとの整合性はどう説明するのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487155862

お尋ねの件については、改邪鈔のご文を指して言われているのだと思います。

本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。いはんやその余の人形において、あにかきあがめましますべしや。末学自己の義すみやかにこれを停止すべし。 (改邪鈔)

https://goo.gl/C7dcck

親鸞聖人が、本尊として木像などを用いず、「帰命尽十方無礙光如来」を本尊とされたとのことです。

ただ、これに関しては親鸞聖人の六字名号もあれば、八字名号もあるので、十字名号しか用いられなかったということには成りません。

また、布教においてとのことですが、専ら「帰命尽十方無礙光如来」だけを勧めて、「南無阿弥陀仏」を勧められなかったとか、その反対ということはありません。

それについては、御消息に以下のようにあります。

念仏申し候ふ人々のなかに、南無阿弥陀仏ととなへ候ふひまには、無碍光如来ととなへまゐらせ候ふ人も候ふ。

これをききて、ある人の申し候ふなる、南無阿弥陀仏ととなへてのうへに、帰命尽十方無碍光如来ととなへまゐらせ候ふことは、おそれあることにてこそあれ、いまめがはしくと申し候ふなる、このやういかが候ふべき。

南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さんはあしきことなりと候ふなるこそ、きはまれる御ひがことときこえ候へ。

(中略)

あるいは阿弥陀といひ、あるいは無碍光と申し、御名異なりといへども心は一つなり。阿弥陀といふは梵語なり、これには無量寿ともいふ、無碍光とも申し候ふ。梵・漢異なりといへども、心おなじく候ふなり。(御消息)

https://goo.gl/uRg54a

意味を大まかに言いますと、念仏している人の中に、南無阿弥陀仏と称えている合間に、無碍光如来と称えている人もいました。それを、ある人がそのように南無阿弥陀仏と称えて、また帰命尽十方無碍光如来というのはよろしくないと批判しました。

それに対して、そのように批判するのが間違いであると書かれた手紙です。

阿弥陀といっても、無碍光如来と名前が違っても、心は一つで同じであるといわれたものです。

どちらかでなくてはならない、といわれたものではありません。

ただ、一般には南無阿弥陀仏と親鸞聖人が書かれたものの方が多いです。ご和讃などは、そのよい例だと思います。

また、親鸞聖人が、本師と仰がれる法然聖人選択本願念仏集の冒頭に書かれているのことを、親鸞聖人は以下のように教行信証に引文されています。

選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、

「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。 (教行信証行巻)

https://goo.gl/Fw9dyK

往生には、念仏を本とすといわれた、その念仏はここでは「南無阿弥陀仏」と書かれています。そこから、親鸞聖人の教えで「念仏」とか「念仏成仏」といったときは、多くの場合は南無阿弥陀仏を勧められたとものとされています。

でん 2017/02/16 12:11

整合性も何も、同じじゃないですか

南無阿弥陀仏の方が称えやすいからその様に称えてるだけであって

十字名号の方が意味が分かりやすいから

布教に適していたのではないかと思われますが

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487214663

七誌の権兵衛 2017/02/16 14:58

真宗においては六字名号を教えの要とするので救いの体は文字列なのかと思ってましたが意味として念仏するんですか?

ということは念仏は十字名号でも、または「お任せします、阿弥陀様」でもいいわけですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487224716

南無阿弥陀仏といっても、帰命尽十方無碍光如来といっても、御消息にあるようにその心から言えば同じですから限定するものではありません。ただ、称えるにしてもどちらが現在主になっているかといえば、先の選択集にあるようにやはり南無阿弥陀仏です。

御文章でいえば、弥陀をたのむということになりますから、それを現代語にすれば「お任せします、阿弥陀様」でも意味さえ間違わなければ特に問題はないと思います。

とはいえ、「親鸞聖人はこのように教えられました」または「法然聖人はこのように教えられたと親鸞聖人は言われています」と伝えるのが真宗における布教だと私は思っています。その意味では、親鸞聖人や法然聖人が勧められた「南無阿弥陀仏」をあえて使わないのはかえって不自然だと思います。

ご法座でも、合掌礼拝するときは、伝統的にみな「南無阿弥陀仏」と念仏もうしておりますので、その「南無阿弥陀仏とは」と伝えてこられたのが、念仏の教えです。また南無阿弥陀仏はただの文字列ではなく、阿弥陀仏の大行ですから、文字列ならば、データ量は六字で十数バイトしかありません。しかし、南無阿弥陀仏は私を浄土に往生させる大変なお働きがあり、阿弥陀仏の正覚そのものです。

その南無阿弥陀仏に救われるということですから、帰命尽十方無碍光如来でも問題はないのですが、伝統的に南無阿弥陀仏を称え聞いてきたのが現在まで続く浄土真宗です。繰り返しになりますが、個人として称えやすいほうでいいので「絶対こちらでないといけない」ことはありませんが、念仏申すことを抜きには浄土真宗の教えはありません。

2017-02-14

「南無阿弥陀仏とは一種の自己暗示なのではないのかと思っています。南無阿弥陀仏と唱えることによって阿弥陀如来に生死の問題を丸投げして単に思考停止している状態を仮に獲信と呼んでいるのかなと思います。」(名無しさんのコメント)

名無しさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。エントリーが遅くなりすみません。

名無し 2017/02/11 20:07

南無阿弥陀仏とは一種の自己暗示なのではないのかと思っています。

南無阿弥陀仏と唱えることによって阿弥陀如来に生死の問題を丸投げして

単に思考停止している状態を仮に獲信と呼んでいるのかなと思います。

そして実際に生死の問題されたかどうかは誰にも分からないし、確認のしようがない。

本当に自力では生死の問題をどうすることも出来ない者にこれ以上生死のことで悩み、迷う必要のないよう「釈尊が創作した単なるおまじない」でしかないのかも知れないなと思うのですがどうお考えですか?

本来地獄も、浄土もなくて、死ねば肉体は焼かれて自然の一部となり、魂だの自我と言ったものは最初からどこにも存在していなくて、あくまでこれは「私という漠然とした概念」を便宜的に定義する為だけのもので、死ねば霧散してしまうもの。

つまりもしかしたら、死後、悟りもなければ、浄土もない、死後に残るものなど何一つ存在せず、そもそも救いの対象たる「私」すら存在せず、ただ、生死の問題を解決できないもののために今生〜臨終まで南無阿弥陀仏の名のもとに助からないものに対しての自己暗示なのではないのかと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170129/1485637977#c1486811267

複数の質問を頂いておりますので、順番に書いて行きます。

最初の自己暗示についてです。

じこ−あんじ【自己暗示】

〖名〗一定の観念を繰り返すことによって自分自身に暗示を与え、通常と異なる心の状態をつくり出すこと。精神療法にも利用される。(精選版 日本国語大辞典より)

南無阿弥陀仏が自己暗示であるならば、自分自身に言い聞かせているだけとなりますから、その信心も崩れることもある信心となってしまいます。

また、生死の問題が解決されたかどうかは、仰るように第三者には観察することが出来ません。阿弥陀仏とその当事者の間でしか解りません。もちろん、いわゆる「思い込み」の信心もあるので、そういうものは自己暗示といって差し支えはありません。しかし、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無い信心は、自分の思いを挟む必要がないものなので、思い込みも必要ありません。


次に、南無阿弥陀仏は釈尊が創作したおまじないかどうかという点です。経典に説かれていることの真偽は、お訊ねの件については経典以外では証拠にならないので、回答はできません。ただ、その南無阿弥陀仏によって多くの方が生死を離れて、浄土に往生していかれたのが浄土真宗です。


最後に、いろいろと悩む私というものが存在しないのではないかという点です。固定的な自我というものは存在しないというのが、仏教でいう無我です。

南無阿弥陀仏については、親鸞聖人教行信証行巻で南無阿弥陀仏について、種々経典からその他の高僧方の著書から引文されたあと、最後にこう言われています。

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(教行信証

現代文)上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。

阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。

https://goo.gl/xuIBnI

繰り返しになりますが、南無阿弥陀仏は「凡聖自力の行にあらず」ですから、自己暗示ではありません。

親鸞聖人が「みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし」と仰るように、南無阿弥陀仏の救いは自己暗示や思い込みでも、釈尊の創作でもありません。南無阿弥陀仏でただ今救われて下さい。