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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-07-24

念仏は往生の行とききますが、私が称える念仏はどうやっても自力の念仏になります。どうしたら、他力念仏(本当の念仏)になるのでしょうか?(頂いた質問)

念仏は往生の行とききますが、私が称える念仏はどうやっても自力の念仏になります。どうしたら、他力念仏(本当の念仏)になるのでしょうか?(頂いた質問)

自力の念仏とは、自分が念仏を称えることによって、今の念仏がまた違った念仏になると考えていることです。称えた念仏の結果として救われることを期待しているわけですから、私が今称えている念仏が往生の行であるということと、視点がそもそも異なります。

親鸞聖人は、念仏について「念仏成仏これ真宗」あるいは「大行」と言われています。

(71)

念仏成仏これ真宗

万行諸善これ仮門

権実真仮をわかずして

自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻)


「念仏成仏これ真宗」ですから、念仏が私を成仏させる働きそのものであると言われています。それに対して「万行諸善」は、その中の一つの行では私が成仏するような功徳はありません。また、万行諸善によってさとりをひらこうとすると、必ず行が現在または過去のことで、さとりは未来の話になります。


その仕組みを念仏に持ち込むのが、自力の念仏です。つまり、念仏一声では私を救う働きはないはずであるという前提があります。これがそもそもの間違いです。しかし、その前提があるから、念仏の回数を増やせばいいのかと考えて見たり、どんな心で称えたらいいのかと、念仏に自分の力、心を付け加えて、念仏に手助けをすることをもって何とか救われようとします。


また、その前提ではもう一つ大きな勘違いをしてしまいます。

それは、念仏はいま称えていても、救いは必ず未来のことになっている点です。

念仏を称えて、その結果として救いがやってくるという考えは、苦しい時の神頼みと同じ発想です。その考え方は、神に救いを祈る形ですから、苦しい現状に私が神に救いを祈り、その結果神が私を救うというものです。その状態では、「祈る」というのはあくまで「私の祈り」であり、「救い」は神からの救いであっても私の祈りの後にくるものです。


これはサイコロをふるようなもので、サイコロを「振る」ことと、サイコロで「何の目が出るか」は同時ではありません。ですから、サイコロを振る人は、どんな目が出るかどうかに一喜一憂しながら不安な状態で振ります。このように、未来の結果に目を向けてばかりいると、「祈る気持ち」や「不安」しかありません。

この話に譬えると、自力念仏の人は、念仏というサイコロを振って、いつかあたり(救い)「例えば1」がでるのを期待しているようなものです。しかし、サイコロで言えば一がでる確率は六分の一です。仮に100回サイコロを振って1がでないとして、「それでも次は1がでるかも」と思うのは間違いです。そんな時は、「このサイコロは1が出ないサイコロなのでは?」と疑ってみなければなりません。


阿弥陀仏が「念仏するものを救う」と本願を建てられているのですから、念仏する者が救われることは、サイコロを振って1が出る確率どころではありません。必ず救われることに成っています。

それなのに何回も念仏しながら救われない人がいるとすれば、貴方の称える念仏が間違っていると考えるのが適当です。サイコロで言えば、間違ったサイコロ、いわばイカサマのサイコロなのです。


では、「念仏成仏」といわれる念仏とはどんな念仏なのでしょうか?

それは「念仏」そのものが、「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり」とである念仏です。つまり、念仏は「阿弥陀仏に対する救いの祈り」ではなく「救いの働きそのもの」ということです。救いの働きそのものを、私が称えているということは、そんな念仏を称える私は救われるということです。

ただし、「そのように思えばいいんですね」と思うのは間違いです。なぜなら「そのように思って念仏すれば、救われるだろう」という気持ちは、「祈り」であって、サイコロを振って良い目がいつか出るだろうと期待している人と変わりません。未来の結果に目を向けて、今の南無阿弥陀仏に目が向いていません。


阿弥陀仏の救いの法(念仏)は、ただ今救う法です。ですから、救われる私も「ただ今救われる」と聞いて疑いないのが信心です。「ただ今救う法」を「ただ今救われる」と聞く人には、視点は常に現在です。「救い」を未来に置かないからそこで安心というものがあります。

念仏で未来に救われるとか、信心を決定すれば安心出来ると言う人は、常に未来の救いに祈るか、過去の自分の善根(または悪業)に囚われます。例えば、「これだけ疑いないのですから、早く安心させてください」と未来に心を向けたり「これまでの私の行為を振り返ればまだ救われないだろう」「これだけやって来たのだからもう救われてもいいはず」と過去に心を向けたりします。

お釈迦さまが言われるように、未来は文字通り未だ来ていないものです。過去は過ぎ去ったものです。阿弥陀仏がただ今救うと言われているのは、「未来に助けることを期待してね」でもなく「過去のあなたの功績によって救う」ということではありません。

ただ今救うという念仏を、過去にも未来にももっていかず、ただ今念仏し、聞いて救われてください。

阿弥陀仏の救いは、決してサイコロを振るような不確実なものではありません。どれだけ念仏しても自力念仏になるのは、サイコロを振るようなサイコロ念仏になっているからです。救いという結果は、すでにあることをただ今聞いて救われてください。

2016-07-18

2016-07-15

2016-07-13

「因果の道理(自因自果)からすれば、大したことをしていない私は、救われる事は無いのでしょうか?」 (頂いた質問)

「因果の道理(自因自果)からすれば、大したことをしていない私は、救われる事は無いのでしょうか?」 (頂いた質問)

何か善い事をしなければ、救われないという考え方は間違いです。なぜならば、阿弥陀仏が私を助けるに上で私が過去に何をやったかを考慮されないからです。

例えば、最近熊本県地震がありました。そこで自衛隊や消防隊によって多くの人が救助されました。その時に、救助する人が、救助される側の人の過去の行為を見て、助けるかどうかの判断をしたでしょうか?

具体的に言えば、この人は過去に「親に死んで欲しいと思ったから助けない」とか、この人は過去に「仏法を聞かないと思ったから救わない」という事はありません。


なぜならば、助ける側の人がなぜ助けようとするのかと言えば、助けられる側が現在困っているからです。先の熊本地震で言えば、家の下敷きになって自分の力で出ることができないとか、あるいは避難所にはきたけれども何も食べるものがないと言う状況を見て助けようと思うのです。


つまり、救助される側が過去にどのような行為をしたかとをみて、助けるかどうかの判断をするのではなく、現在の状況を見て助ようとするのです。

それと同じように、阿弥陀仏があなたを助けようと思うのも、あなたの過去の行為を見て良いところがあったから助けようと思われるのではありません。また、悪いところを見て助けるのはよそうと思いのでもありません。現在のあなたが自分の力ではどうしても救われることがないという状況を見られて、何とか助けたいと思われるのであります。


その意味から言えば、現在自分でどうしようもない状況にあるあなたは、阿弥陀仏の救済の対象です。 絶対に外れてはいません。

それにもかかわらず、なぜあなたが現在阿弥陀仏に救われていないのかと言えば、阿弥陀仏の仕事である「あなたの救済」を自分の仕事だと思っているからです。

本来ならば、助ける仕事は阿弥陀仏の仕事です。それにもかかわらず、助ける仕事を自分の仕事のように思っていられるのではないかと思います。

別のことで例えると、野球で延長戦11回まで投げて受けた先発投手が、どう考えても投げ続けられないのに救援投手にマウンド譲らないようなものです。

アメリカでは、100球ルールというのがあり、大体100球投げると投手は交代しなければなりません。

自分の力ではこれ以上の投げられなければ、普通は救援投手にマウンドを譲ります。

それにもかかわらず、マウンドを譲らない先発ピッチャーがいるとすれば、その後の試合の結果はどうでしょうか?その試合は確実に負けるでしょう。

この状況において先発ピッチャーが救われる道は、救援投手にマウンドを譲る事です。なぜならば、先発ピッチャーにとって大事な事は試合に勝つことであって、完投することではないからです。


この例えでいいますと、試合に勝つという事は救われることであり、完投する事は自力で救われる日を追求し続けるということになります。

そうなると、完投すること自体に何の意味があるでしょうか?

完投したいだけと言う気持ちを貫いて試合に負けるピッチャーがあるとするならば、目的違いと言われて当然です。

阿弥陀仏は、上記のような野球でいえば、もう先発ピッチャーに投げてもだめだから変われと言っている監督のようなものです。

監督がピッチャー交代を告げるのは、これ以上続けても試合に勝てないと判断したからです。


同じように、阿弥陀仏が「私にそのマウンドをまかせなさい」と言われるのは、過去の貴方の行為ではなく、現在の貴方の姿をみられてのことです。

救済に関しては、貴方は主役ではありません。マウンドを阿弥陀仏に譲ってただ今救われて下さい。

2016-07-04

「どうしても獲信にはそれだけの壮絶な苦労が必要なのだというイメージが拭えません。」(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

また、そのコメントに対して複数の方からコメントを頂きました。有り難うございました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467530927

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467557170

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467588587

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467589591


今回は、みそみそさんのコメントは長文になるため、このエントリーでは抜粋して紹介します。全文はリンク先を参照して下さい。

みそみそ 2016/07/03 13:42

しかしながら、獲信の体験をした人の話を聞いていると、

「一分一秒も欠かさず念仏した。」「生死の境をさまよった。」「自殺の一歩手前まで自力の心に苦しめられた。」

といった話が出てきて、どうしても獲信にはそれだけの壮絶な苦労が必要なのだというイメージが拭えません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160702/1467457247#c1467520972

これに関しては、あまり参考にしないほうがいいです。もっとハッキリ言えば、読まない方がいいです。なぜなら、阿弥陀仏に救われるというのは、文字通り救われることであって、病気の治療とはことなります。病気の治療ならば、病気によってはある程度決まった選択肢が存在します。

しかし、阿弥陀仏の救済というのは、私たちの日常生活で言えば、災害時に自衛隊や消防士に救助されるようなものだからです。

例えば、ある災害で建物の下に閉じこめられて丸一日動けず、もう駄目かと思っていたことろに、救助隊の人に助けられたと言う人もあれば、地震がおきた数時間後に救助されたと言う人もあります。また、事故や災害、遭難での救助のリミットは一般に72時間といわれています。なかには、72時間ギリギリで救助された人もあれば、72時間を経過して救助されて一命をとりとめる人もあります。

みそみそさんのいわれる体験談というのは、上記にあげた救助の体験談であって、個々人で異なるものです。遭難後72時間で救われた人がいるからといって、72時間飲まず食わずで苦しい目にあわなければ、救助されないということはありません。そのような災害救助でも、九死に一生を得た人は大々的に報道され、多くの人の耳目に触れることとなります。その一方、災害発生後、数時間で救助された人の話は殆ど知られることはありません。

しかし、救助する側から言えば、災害後数時間で救助した人の命も、72時間後に救助した人の命も同じです。また、72時間経たねば救助しないと言う人もいません。

また、助けられた側で言えば、「72時間飲まず食わずだったから助けられた」のではなく、救助隊が来たから助けられたのです。「生死の境をさまよったから助けられた」のでもなく、自分の力でどうにもならない状態だから助けに来てくれたのです。


同様に、救われた体験談というのは「私はこう言う状況で助けられた」と言っているに過ぎません。助ける側から言えば「こういう状況の人だから助けた」ということはありません。たまたま助けたときの状況が、「生死の境をさまよっていた」とか「一秒も欠かさず念仏していた」というだけのことです。

阿弥陀仏が私を助けようと思いたたれたのは、自分の力ではどうやっても生死を離れられないからです。「生死の境をさまよっていたから」ではありません。


「何があっても阿弥陀様だけは私について下さる」とだけ言い聞かせて、

いつの日にか救われる日を待ち望んで、ひたすら孤独と助かるまでの苦しみに耐え、独りで生きていくべきなのでしょうか?(みそみそさんのコメントより)

ハッキリ言えば、阿弥陀仏の救いとは、浄土に往生させ仏にして見せるという救いです。仏とは、「孤独が解消されたから仏」なのではありません。この世の苦しみは、確かにありますが、それだけを救ってみせるという本願ではありません。


みそみそさんが、生きて行く上での孤独や苦しみを解消されたいという思いは理解出来ます。ただ、その苦しみや孤独を解消しても、生死を離れることはできないということで、阿弥陀仏は本願を建てられました。


少なくとも、今の苦しみが続くような救いではありません。自分の要求に応える為の本願でもありません。生死を離れ、浄土に生まれさせるという本願は、みそみそさんに何も代償を要求されません。もっと南無阿弥陀仏を信用してみてはくれないでしょうか?

閉じた世界に信心はありません。開かれた信心が、浄土真宗の、阿弥陀仏の第十八願の信心です。

2016-07-02

「命を放り出してまで、南無阿弥陀仏に帰命出来ない私は仏様の救いに逢うことは終に出来ないのでしょうか?」みそみそさんのコメントより

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2016/07/01 20:13

ありがとうございます。

信心決定の為には南無阿弥陀仏のおいわれを聞くしか無いのですが、

聞けども聞けども聞くことが出来ません。

聞けば聞くほどお伽話や神話のように思えてきて現実味を失ってきてしまいます。

聞けども聞けども疑いの心が沸き起こり、聞くことの出来ない自分と言うものを突き付けられて、どうにもこうにも前に進めません。

仏書を読んでも法話を聞いても、右から左で何一つ自分の中に響いて来ません。

よく、仏法を聞くために法座に足を運べるの、は自分の意志によるものではなく、全て阿弥陀様のお計らいによるものだと聞かされていますが、せっかく阿弥陀様の縁で法座にまで向かったにも関わらず、仏法を聞けない私がここに向かい、ここに座っていることに何の意味があるのだろう?

阿弥陀様に申し訳ないやら、何も得ることが出来ないまま、法座を終えることに途方も無い虚しさを感じております。

また、「罪悪感や無常観」を感じないと救われないと聞きましたが、聞いても聞いてもそんなものはかけらも感じられません。「仏法でそう説かれているからそうなんだな。」と思うのがやっとで、「自分は今晩にも死ぬかもしれない」「地獄行きの種しか作れない悪人だ」とは毛頭思えません。悪を恐れる気持ちも、死を恐れる気持ちも毛頭沸き起こってきません。

そして、自分の中の自力を捨てるのが死ぬよりも辛いです。

自分の人生に夢も希望も持てなくて、阿弥陀仏様の救いに逢うことだけが人生の唯一の希望です。

ただ、その「助かりたい」という思いすら自力で、それを捨て去らねばならないというのならば、

それは私にとって「死と同義です。」阿弥陀如来様に命を投げ込めと言いますが、命を投げ込めません。南無阿弥陀仏に命ごと飛び込んで行けません。

信心決定出来るものは「国に一人、群に一人」「極難信」と言われているのですが、阿弥陀如来様の救いに逢うことはそこまで難しいことなのでしょうか?

つまりそれだけ私が助かる可能性は低いのでしょうか?

また命を放り出してまで、南無阿弥陀仏に帰命出来ない私は仏様の救いに逢うことは終に出来ないのでしょうか?

どこまでもどこまでも自分には自力壁が立ちふさがりどうしても阿弥陀如来様の御声を聞きひらく事ができません。

南無阿弥陀仏を心得る為にはまだまだ真剣で命懸けの聞法、求道が必要なのでしょうか?

そもそも私に南無阿弥陀仏を聞く縁手がかりがあるのでしょうか?

このまま阿弥陀様の救いに逢うことが出来ず、「生死の苦海辺りなし」の世の中で七転八倒し、のたうち回って苦しみながら死んでゆくのが私の今生での定めなのでしょうか?

果たしてどれだけ仏法を求め続ければ、阿弥陀如来様の救いに逢うことが出来るのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160622/1466596475#c1467371606

複数の質問を頂きました。一つ一つ答える前に、最初に全体としての結論をいうと、みそみそさんが「救われない」なんてことはありません。阿弥陀仏の本願力は、みそみそさんを救う力があります。

その前提の上で、一つ一つ回答を書きます。

信心決定の為には南無阿弥陀仏のおいわれを聞くしか無いのですが、

聞けども聞けども聞くことが出来ません。

聞けば聞くほどお伽話や神話のように思えてきて現実味を失ってきてしまいます。

これに関してはよくわかります。

ただ、みそみそさんは、南無阿弥陀仏のいわれを「話」として聞いているのではないでしょうか?

南無阿弥陀仏の言われは、神話のような「特定の宗教を信じる人にとっての真実」ではありません。信じようが信じまいが、私を助ける法なのです。人間の心臓が一つであることが、宗教的信条によって変わらないのと同じことです。

単なる「話」ならば、信じるか信じないかの二者択一になりますが、南無阿弥陀仏のいわれは、信じていない人にも働いています。

話として聞くのではなく、すでに現実にある救いのお働きだという前提で聞いて下さい。

阿弥陀様に申し訳ないやら、何も得ることが出来ないまま、法座を終えることに途方も無い虚しさを感じております。

そのように感じられるのであれば、何も感じないことはないと思います。



また、「罪悪感や無常観」を感じないと救われないと聞きましたが、聞いても聞いてもそんなものはかけらも感じられません。「仏法でそう説かれているからそうなんだな。」と思うのがやっとで、「自分は今晩にも死ぬかもしれない」「地獄行きの種しか作れない悪人だ」とは毛頭思えません。悪を恐れる気持ちも、死を恐れる気持ちも毛頭沸き起こってきません。

「罪悪観や無常観を感じないと救われない」という説は、間違いです。なぜなら、現にそれを感じないというみそみそさんが居られるからです。全ての人を救う阿弥陀仏の本願ですから、当然「罪悪観や無常観を感じない」人も救いの対象です。

そして、自分の中の自力を捨てるのが死ぬよりも辛いです。

自分の人生に夢も希望も持てなくて、阿弥陀仏様の救いに逢うことだけが人生の唯一の希望です。

ただ、その「助かりたい」という思いすら自力で、それを捨て去らねばならないというのならば、それは私にとって「死と同義です。」阿弥陀如来様に命を投げ込めと言いますが、命を投げ込めません。南無阿弥陀仏に命ごと飛び込んで行けません。

阿弥陀仏の救いは、私の何かの犠牲の代償として与えられるものではありません。漫画「鋼の錬金術師」の等価交換の法則はここではあてはまりません。(分かる人だけ分かって頂ければいいので、あまり詳しく説明はしません。)何かを獲るためには、何かを捧げなさいというようなものは、阿弥陀仏の本願ではありません。どうにもならない私を救う為に、私の願いに先立って救うと願われた本願ですから、私に要求されることはありません。

そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(御文章3帖目2通)

と御文章に言われている通りです。何か私からの犠牲を必要としない救いですから「なにもやうもなく」と言われています。

信心決定出来るものは「国に一人、郡に一人」「極難信」と言われているのですが、阿弥陀如来様の救いに逢うことはそこまで難しいことなのでしょうか?

つまりそれだけ私が助かる可能性は低いのでしょうか?

国に一人とか、郡に一人というのは、昔でいう「村」くらいの単位なので、今の行政単位でいう「日本国」に一人ということではありません。また、昔の「村」といっても、みそみそさんのように真面目に阿弥陀仏の救いについて悩む人が何人くらいあったでしょうか?5割いたでしょうか?熱心な在所でも、そんなにはいなかったと思います。その意味では、可能性が「一億人に一人」のような低さではありません。

また命を放り出してまで、南無阿弥陀仏に帰命出来ない私は仏様の救いに逢うことは終に出来ないのでしょうか?

前述しましたが、私の犠牲がなければ救わない本願ではありません。

どこまでもどこまでも自分には自力壁が立ちふさがりどうしても阿弥陀如来様の御声を聞きひらく事ができません。

南無阿弥陀仏を心得る為にはまだまだ真剣で命懸けの聞法、求道が必要なのでしょうか?

そもそも私に南無阿弥陀仏を聞く縁手がかりがあるのでしょうか?

私が何かを阿弥陀仏に差し出してから、初めて救いにあえるという前提を一先ず捨てて下さい。私が何かを出す前から、阿弥陀仏の救いは私に差し向けられています。

私の方に何か南無阿弥陀仏を聞く縁手掛かりはなくても、阿弥陀仏の方からは救いの働きは働いています。

このまま阿弥陀様の救いに逢うことが出来ず、「生死の苦海辺りなし」の世の中で七転八倒し、のたうち回って苦しみながら死んでゆくのが私の今生での定めなのでしょうか?

苦しみながら死んで行くことが、定まった事ではありません。救われるかどうかは、今のこの時です。ですから、今この時救われることがあります。そうなれば、苦しみながら死んで行くことが定まったことには成りません。

果たしてどれだけ仏法を求め続ければ、阿弥陀如来様の救いに逢うことが出来るのでしょうか?

どれだけ求めればいいのか?という思いを捨てて、ただ今救う本願を、ただ今救う本願と聞いて下さい。ただ今救われます。

2016-06-22

「南無阿弥陀仏」の節を付けた繰り返しが何度も出てきますが、節と繰り返しにどのような意味があるのですか。南無阿弥陀仏 を唱えればいいのなら、節を無くして、10倍多く唱えられます。(富付 歩さんのコメントより)

富付 歩さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

今回は、4つの質問を頂きました。

富付 歩  2016/06/21 22:22

今日、真宗大谷派での告別式がありました。

[質問1]

「南無阿弥陀仏」の節を付けた繰り返しが何度も出てきますが、節と繰り返しにどのような意味があるのですか。南無阿弥陀仏 を唱えればいいのなら、節を無くして、10倍多く唱えられます。


[質問2]

お坊さんは「なまんだぶ」「なむあみだぶつ」を混合して使っていました。私が小学校の夏休みに毎日通った大谷派のお寺では「なまんだぶ」は聞いたことがありません。親鸞様が「なまんだぶ」でいいと言ったのですか?阿弥陀如来に帰依しますという意味であれば、省略するのは阿弥陀さまにとても失礼な気がします。私はいつも「南無阿弥陀仏」と唱えています。

[質問3]

「・・・高僧説」で終わります。位の高い僧が説いた、とのことですが、この位の高い僧は誰ですか? この位の高い僧が書いたお経はあるのですか?

[質問4]

阿弥陀さまが、「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」

をしたとの記述は、正信偈以外のどのような経本にありますか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110806/1312578463#c1466515349

以上の4つについて、順番に書いて行きます。

質問1 「南無阿弥陀仏」の節を付けた繰り返しが何度も出てきますが、節と繰り返しにどのような意味があるのですか。南無阿弥陀仏を唱えればいいのなら、節を無くして、10倍多く唱えられます。

告別式で聞かれたとのことですから、何かの節がついた南無阿弥陀仏を聞かれたのだと思います。ただ、節そのものの音程やどれだけ音を伸ばすか、また何回繰り返すかという回数そのものに経典はじめお聖教の根拠があってのことではありません。

回数多く称えるために節をつけたのではありませんが、正信偈、ご和讃にはみな節がついています。そういう場で言われる南無阿弥陀仏にも節がつけられたのは、節がついたものを読み上げる上でつけられたものです。


質問2 お坊さんは「なまんだぶ」「なむあみだぶつ」を混合して使っていました。私が小学校の夏休みに毎日通った大谷派のお寺では「なまんだぶ」は聞いたことがありません。親鸞様が「なまんだぶ」でいいと言ったのですか?阿弥陀如来に帰依しますという意味であれば、省略するのは阿弥陀さまにとても失礼な気がします。私はいつも「南無阿弥陀仏」と唱えています。

「南無阿弥陀仏」を称える際に「なもあみだぶつ」という場合もあれば「なむあみだぶつ」という場合もあれば、「なまんだぶ」という人もあります。「南無阿弥陀仏」という字をどう読むかについては、こう読まねばならないという決まりはありません。「なまんだぶ」については、方言や何度も称えているうちにその人のくせで読まれたようなものだと思われたらいいと思います。

親鸞聖人は「念仏せよ」とはすすめられていますが、「なむあみだぶつ」と言わねばならないとまでは言われていません。

また、親鸞聖人において、「南無阿弥陀仏」は私から阿弥陀仏に向けて「阿弥陀仏に帰依します」という意思表明の言葉ではありません。親鸞聖人は「本願招喚の勅命」といわれて、阿弥陀仏から私に向けて「私がお前を助けます。その喚び声を聞きなさい」の喚び声なのだと言われています。その阿弥陀仏の喚び声が、私の口をついて出てきて下されるのが浄土真宗の念仏ですから、それが「なむあみだぶつ」でも「なまんだぶ」でも、称える私の声ではないので、阿弥陀仏に対して失礼にはなりません。


質問3 「・・・高僧説」で終わります。位の高い僧が説いた、とのことですが、この位の高い僧は誰ですか? この位の高い僧が書いたお経はあるのですか?

正信偈の最後は「唯可信斯高僧説」で終わります。「ただこの高僧の説を信ずべし」とありますから、正信偈のそれ以前に名前を挙げられた方のことです。全部で七名挙げてあるので「七高僧」と言われています。

その七名とは、「龍樹菩薩(正信偈では、龍樹大士)」「天親菩薩」「曇鸞大師(正信偈では、本師曇鸞)」「道綽禅師(正信偈では、道綽)」「善導大師(正信偈では、善導)」「源信僧都(正信偈では源信)」「法然聖人正信偈では、本師源空)」です。

これらの高僧の書かれたのもは、「経」とは違います。「経」とは、お釈迦さまの説法はこういうものであったという形で書かれたものです。七高僧の書かれたものは、それら経に書かれているお釈迦さまの教えはこういうことであるという形式で書かれたものです。


質問4 阿弥陀さまが、「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」をしたとの記述は、正信偈以外のどのような経本にありますか?

大無量寿経(仏説無量寿経)に、以下あります。

戒聞精進 三昧智慧

威徳無侶 殊勝希有

現代文

戒と聞と精進と三昧と智慧との威徳は、侶なくして、殊勝にして希有なり

http://goo.gl/adwIyg

ここの殊勝、希有を用いて書かれたものだと思います。

2016-06-20

2016-06-18

「それでは私は救われたことになるのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2016/06/17 22:23

ありがとうございます。それでは私は救われたことになるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160617/1466144194#c1466169829

YGM 2016/06/18 08:48

わけがわからないのは、理屈や論理がわからないという意味では何ら差し支えないですが、

弥陀のあなたを往生させるという願いを聞いて、疑いなく思えているかが問題です。

あなたの出離は大丈夫となっていますでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160617/1466144194#c1466207289

yamamoya 2016/06/18 14:36

みそみそさん

「私は救われたことになるのでしょうか?」という問いに対して、私の回答が「往生の保証」になると思われているのなら間違いです。

また、エントリーに書きます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160617/1466144194#c1466228187

上記について、ここからエントリーに書きます。


みそみそさんのコメントから考えたことは「私は南無阿弥陀仏のいわれをすでに聞いている」のだから、それで信心と言ってよいのではないか」ということかと思います。

しかし、そこは注意が必要なところです。なぜならば、「私は南無阿弥陀仏のいわれをすでに聞いているから、これが信心」となりますと、浄土真宗の法座に一度でも足を運んだ人は、または、浄土真宗のお聖教に一度でも目に触れたことのある人は全て往生浄土の身にすくわれていることになってしまいます。それならば、蓮如上人が

この信心を獲得せずは極楽には往生せず(御文章2帖目2通)

http://goo.gl/PwEzOQ

と浄土真宗の御門徒宛てに書かれた御文は意味不明な文章になってしまいます。


それは、現在、南無阿弥陀仏のいわれを聞いている人のなかでも

そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。(御文章5帖目11通)

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%A1%E6%96%87%E4%BA%94#P--1197

と言われている通りです。交通事情の悪いなか、本願寺の報恩講に参詣するような人のなかでも、信心を獲得した人もあれば、不信心の人もあるということです。


ここで大事なことは「私はこれで救われた」ということを「自分で」決めないことです。なぜならば、阿弥陀仏の本願は、「私が自分で決めた時」に成就したものではないからです。私が「その通り」と頷くより遥か前から成就しているものです。言い替えると、「私の認可があって」初めて成就する本願ではありません。


みそみそさんが、私に「これで救われたのでしょうか」と聞かれるのは「自分でも決められない」気持ちがあるからではないかと思います。「自分で決めたこと」もあてにはなりませんが、他人の言葉はなおあてに成りません。もし、みそみそさんが私の言葉をもって「往生浄土の証拠」として「何も疑い無い」と言われるのならば、その信心は甚だあてには成りません。なぜなら、あくまでも人間の言葉が前提となっており、阿弥陀仏の本願が前提となっていないからです。


第三者の言葉を基準とせず、「弥陀の本願まこと」と聞き入れるのは、やはり「弥陀の本願」以外には証拠はありません。人の言葉という補助を用いずに、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて下さい。ただ今救う本願を、ただ今救う本願と聞けば、ただ今救われます。

「それでは私は救われたことになるのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2016/06/17 22:23

ありがとうございます。それでは私は救われたことになるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160617/1466144194#c1466169829

YGM 2016/06/18 08:48

わけがわからないのは、理屈や論理がわからないという意味では何ら差し支えないですが、

弥陀のあなたを往生させるという願いを聞いて、疑いなく思えているかが問題です。

あなたの出離は大丈夫となっていますでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160617/1466144194#c1466207289

yamamoya 2016/06/18 14:36

みそみそさん

「私は救われたことになるのでしょうか?」という問いに対して、私の回答が「往生の保証」になると思われているのなら間違いです。

また、エントリーに書きます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160617/1466144194#c1466228187

上記について、ここからエントリーに書きます。


みそみそさんのコメントから考えたことは「私は南無阿弥陀仏のいわれをすでに聞いている」のだから、それで信心と言ってよいのではないか」ということかと思います。

しかし、そこは注意が必要なところです。なぜならば、「私は南無阿弥陀仏のいわれをすでに聞いているから、これが信心」となりますと、浄土真宗の法座に一度でも足を運んだ人は、または、浄土真宗のお聖教に一度でも目に触れたことのある人は全て往生浄土の身にすくわれていることになってしまいます。それならば、蓮如上人が

この信心を獲得せずは極楽には往生せず(御文章2帖目2通)

http://goo.gl/PwEzOQ

と浄土真宗の御門徒宛てに書かれた御文は意味不明な文章になってしまいます。


それは、現在、南無阿弥陀仏のいわれを聞いている人のなかでも

そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。(御文章5帖目11通)

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%A1%E6%96%87%E4%BA%94#P--1197

と言われている通りです。交通事情の悪いなか、本願寺の報恩講に参詣するような人のなかでも、信心を獲得した人もあれば、不信心の人もあるということです。


ここで大事なことは「私はこれで救われた」ということを「自分で」決めないことです。なぜならば、阿弥陀仏の本願は、「私が自分で決めた時」に成就したものではないからです。私が「その通り」と頷くより遥か前から成就しているものです。言い替えると、「私の認可があって」初めて成就する本願ではありません。


みそみそさんが、私に「これで救われたのでしょうか」と聞かれるのは「自分でも決められない」気持ちがあるからではないかと思います。「自分で決めたこと」もあてにはなりませんが、他人の言葉はなおあてに成りません。もし、みそみそさんが私の言葉をもって「往生浄土の証拠」として「何も疑い無い」と言われるのならば、その信心は甚だあてには成りません。なぜなら、あくまでも人間の言葉が前提となっており、阿弥陀仏の本願が前提となっていないからです。


第三者の言葉を基準とせず、「弥陀の本願まこと」と聞き入れるのは、やはり「弥陀の本願」以外には証拠はありません。人の言葉という補助を用いずに、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて下さい。ただ今救う本願を、ただ今救う本願と聞けば、ただ今救われます。

2016-06-17

「南無阿弥陀仏のいわれを聞こうとすればするほどわけが分からなくなります。」(みそみそさんのコメントより)

本願のいわれを聞くということについて、前回のエントリーのコメントに関連して書きます。

みそみそ 2016/06/10 23:07

YGM様

どこが分からないのかも分かりません。

南無阿弥陀仏のいわれを聞こうとすればするほどわけが分からなくなります。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160608/1465370588#c1465567622

ここで、南無阿弥陀仏のいわれを聞こうとするのは、「南無阿弥陀仏のいわれを聞いてどうにかなったのが信心」という意味でいわれているのだと思います。

もし「聞いてどうにかなったのが信心」だとすると、前と何も変わらない状態では助かっていないということになります。その一方で、「聞いているのが信心」「聞即信」という説明もあるので、分けが分からなくなっているかもしれません。

本当は、「南無阿弥陀仏のいわれを聞いているのが信心」です。これを「聞即信」ともいいます。しかし、そう聞いてみると「前から聞いておりますが?」「これが信心ですか?」という疑問が起きてきます。「聞き始めた頃となにも変わらないのが信心ではない」と考えると、やはり「聞いてどうにかなったのが信心」という考えに戻って来てしまいます。


そこから「南無阿弥陀仏のいわれを聞いている」に、なにかを足して「いつもと違う聞いた」になろうと以前の私は考えていました。

例えば、いつもの料理にちょっと別の調味料を足して一味違ったものにする「チョイ足し」というのがあります。具体的にはボテトサラダにわさびや、食べるラー油を足してみると、いつもと違いかつ、美味しくなるというものです。私も実際やってみましたが、ワサビのチョイ足しは確かに美味しく感じました。


みそみそさんは、「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」ことに「何か」をチョイ足しすると、分からない話が分かるように、有り難くない話が有り難く感じられるようになると思っておられるのではないでしょうか。私も、そう思っていました。

しかし、南無阿弥陀仏のいわれは、それそのものが救いであり、何かをチョイ足ししなくても有り難い話なのです。先ほどのポテトサラダでいえば、「ワサビをチョイ足ししたら美味しい」と言いましたが、これが毎回となると飽きてしまうものです。結局、そのままのポテトサラダが一番美味しいと今は感じています。しかし、チョイ足しならば、一時期美味しくなるようなものでも、このポテトサラダにワサビに加えてラー油やねり梅、イカの塩辛と、どんどん足して行けばそれこそ「わけの分からないもの」になってしまいます。

これは、食べ物にたとえたものですが、「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」ことに満足できず、次々と「よいらしい」と聞いたこと、思ったことを足して行くと最後は分けが分からなくなります。最初から、チョイ足しが必要ないのが南無阿弥陀仏です。その救いの法をそのまま聞いて救われて下さい。

参照:試してみたい人はどうぞ

screenshot

覚えておくといい!ポテサラにちょい足しするとめちゃ美味しくなるもの - NAVER まとめ

2016-06-08

「本願のいわれを聞いて、頭でそれを理解し、日々それを自分に言い聞かせ、念仏し、そこに疑いをなるべく挟まないようにしていますが、何故か救われません。」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2016/06/07 22:01

(略)

本願のいわれを聞いて、頭でそれを理解し、日々それを自分に言い聞かせ、

念仏し、そこに疑いをなるべく挟まないようにしていますが、何故か救われません。

どうしてでしょう?

それどころか疑いをなくそうなくそうとするほど、疑うことしか出来ない自分が出てきます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160515/1463265712#c1465304513

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

端的にいいますと、「念仏して、疑いをなるべく挟まないようにする」という準備をしていたら、阿弥陀仏が救いを差し向けて下さるという理解は間違いです。

親鸞聖人が信心とはこういうものだと言われているご文は、以下のものです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証信巻末 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P251)

http://goo.gl/l2gMpu

ここで「聞」は、「衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」であるといわれています。その「聞」が「信心」であると親鸞聖人は以下に言われています。


きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P677)

http://goo.gl/z58Z1O

ここで「衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」である「聞」は、「信心」のことであるといわれています。これが「聞即信」といわれることです。

このことからわかることは、いいかえると「法を聞いて疑い無いのが信心」であるといわれているのであって、「仏願の生起本末を聞いて疑心ないようにつとめていけば信心になる」といわれたものではありません。つまり、「疑心ない状態(結果)が信心」といわれているのであって、「疑心のないように努力した(手段)が信心になっていく」といわれてものではありません。


私が、疑い無いをなくす努力が実って信心となるのではありません。先に紹介した教行信証信巻末のお言葉でいえば、「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。ですから、あくまで阿弥陀仏の私を救おうと私に働きかけるお働きによって起こされる信心です。

なぜ、疑いをなくす努力が実って信心となることはないのかといえば、「疑いをなくす努力」もまた「疑い」だからです。

ここは親鸞聖人独特の言い方なので、少々難しいところです。といいますのも、親鸞聖人は、自力の信心のことを「疑」といわれています。つまり、「自ら信じようすること」が、「疑」だと言われたということです。一般には、「自ら信じよう」「疑いを晴らそう」とする努力は「信心」とか「信仰」といわれます。しかし、それは親鸞聖人がいわれる「他力の信心」ではありませんから、「自力の信心(疑)」と言われます。


つまり、「自力の信心(疑)」をもって「疑」を晴らそうと努力をしても、疑で疑を晴らそうとしているだけですから、「無疑心(他力信心)」には成りません。たとえていうと、血で血を洗うようなもので、いくら洗ってもきれいには成りません。解決は出来ません。そこが、「疑いを晴らそうとしても疑いが出てくる」と、コメントに書かれている状態です。そこは、みそみそさんの個人的資質や能力によるものではなく、構造的問題です。

では、どうしたらその「疑っている状態」から、「無疑心(他力信心)」の状態になるのかといえば、蓮如上人が「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。 」と言われる通りです。自らの努力も大事ですが、それよりも阿弥陀仏が「われらが今度の一大事の後生」を助けてみせるという仰せをそのまま聞いて下さい。ただ今救われます。

2016-05-28

2016-05-15

「私にとっての救いとは、浄土真宗のいう救いです。しかし、正確に真宗教義を理解しようと勉強しようという気持にまではなれません。」(せみまるさんのコメント)

せみまる 2016/05/10 18:59

そうです。私にとっての救いとは、浄土真宗のいう救いです。

しかし、正確に真宗教義を理解しようと勉強しようという気持にまではなれません。

ですが決して教義を否定するつもりも、謗るつもりもありません。

ただ、真剣に教えを追い求めよう、救われようという気持ちになれないのが自分の本心だったりします。

せみまるさんよりコメントを頂き有り難うございました。最近ブログエントリーができずすみませんでした。今日からまた、再開しますのでよろしくお願い致します。

せみまるさんのコメントから、せみまるさん御自身は「浄土真宗の救い」を求めておられるのだと思います。ただ、それを説明する真宗教義を勉強するのにハードルが高いということいわれているのだと思います。

ただ、浄土真宗の救いである、阿弥陀仏の本願によってただいま救われ、信心獲得の身となり、命終われば浄土に往生し仏となるには、「細かく」真宗教義を理解しなければならないのではありません。

むしろ「教義を理解出来なければ救われない」というのは間違いだと、歎異抄にも書かれています。

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。(歎異抄第12条)

現代文

本願他力の真実の教えを説き明かされている聖教にはすべて、本願を信じて念仏すれば必ず仏になるということが示されています。

浄土に往生するために、この他にどのような学問が必要だというのでしょうか。

本当に、このことがわからないで迷っている人は、どのようにしてでも学問をして、本願のおこころを知るべきです。経典や祖師方の書かれたものを読んで学ぶにしても、その聖教の本意がわからないのでは、何とも気の毒なことです。

お聖教や、真宗の本にいろいろ書いてあることは、一言で言えば「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」です。それ以外のことは書かれていません。

そうは言っても、せみまるさんがこのような質問をされるのは、「学問をしなければ」「正しく理解しなければ」救われないという風潮というのがあるからではないかと思います。もちろん学問も大事ですが、その結果が「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」以外のものが救いに必要であるかのような理解をもつようになるならば、そんな学問は間違いだということになります。


ただ、阿弥陀仏のただ今救うの本願を信じ念仏して救われて下さい。

2016-04-21

2016-04-06

念仏をしても、どうしても自力の念仏にしかなりません。「ただ念仏」といわれる他力の念仏とはどういうものでしょうか?(頂いた質問)

念仏をしても、どうしても自力の念仏にしかなりません。「ただ念仏」といわれる他力の念仏とはどういうものでしょうか?(頂いた質問)

念仏は、私を浄土に往生させるお働きそのものです。それを、念仏しながら「これで大丈夫かな?」とか「これで助かるのかな」「これで助かっているのかな」と種々確認したり、心配を付け加えるのが、自力の念仏と言います。また、心の有り様を問題にして「こういう心で称えたらOK」思いながら称えるのも自力の念仏です。

こう聞くと「これで大丈夫かな?と思うのが自力の念仏ならば、これで大丈夫と思わずに念仏しよう。それが他力の念仏だろう」と思う人もあるかもしれません。しかし、それは間違いです。それは、「○○と思う」「○○と思わない」という心の有り様によって、南無阿弥陀仏が成就したりしなかったりするように思っているからです。


別の言い方をすると、南無阿弥陀仏は私の方での手助けがなければそのお働きが発揮されないようなものではありません。「赤子のような素直な心」にならねば、救いの働きがあらわれないようなものではありません。

そのことを法然聖人は、以下のように言われていまず。

又いはく、本願の念仏には、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智慧をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。それに善人は善人ながら念仏し、悪人悪人ながら念仏して、ただむまれつきてのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとは申すなり。(諸人伝説の詞)

念仏は、それ一つで私を浄土に往生させるお働きがあるので、手助けは必要がないものです。また、念仏になにか手助けをしようという人は、報土往生はできません。手助けというのは、自らの智慧や戒律を守っていること、なんとしても浄土に往生したいという強い気持ちや、慈悲の心を助けにすることを言います。

しかし、そのような手助けは念仏には必要ありません。善人は善人のまま、悪人悪人のままで念仏して、生まれついてのままに念仏をする人を手助けを必要としないと言われています。

「こんな自分が称える念仏では」とか「こんな気持ちで称える念仏では」駄目だろうと考えたり、反対に「こんな強い気持ちで称えれば」「これだけ智慧を磨いて称えれば」南無阿弥陀仏がそのお働きを示して下さるだろうと思うのは、念仏に手を加え、手助けしようとの考えです。

そうではなく、今の自分のままで、どんな気持ちで称えても、南無阿弥陀仏はすでに本願が成就した相なので、そのお働きが変わるということはありません。私の気持ちくらいでどうこうなるような南無阿弥陀仏ではありません。「念仏にすけささぬ」とは、南無阿弥陀仏それ一つが私を救うということであり、私の手助けも心配も必要がないということです。

他力の念仏といっても、なにか特別な思いや才能をもって称えることではありません。そういうものが全く必要なく、ただ南無阿弥陀仏が私を救って下さるお働きであるということです。ただ今救う南無阿弥陀仏に、ただ今救われて下さい。

2016-03-31

「なぜ"信心決定"のことを信心"獲得"と言うのでしょうか?獲得の意味を調べると、"努力して自分のものにすること。"ということなので、言葉の意味自体、自力の意味合を含んでしまうので、本来の"信心決定"の意味と矛盾するのではないのでしょうか?」(せみまるさんのコメントより)

せみまる 2016/03/31 04:47

(略)

それから単純な疑問なのですが、なぜ"信心決定"のことを信心"獲得"と言うのでしょうか?

獲得の意味を調べると、"努力して自分のものにすること。"ということなので、言葉の意味自体、自力の意味合を含んでしまうので、本来の"信心決定"の意味と矛盾するのではないのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160324/1458821900#c1459367231

元々親鸞聖人が、そのように仰っているからというのが一番の理由です。

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。(教行信証信巻)

http://goo.gl/FJh293

もちろん信心決定という言い方もされています。意味はどちらも同じです。

そこで、獲得の意味ですが、国語辞書に出てくるものとは意味が違います。

国語辞書では、いわれるような意味になっています。

かくとく【獲得】

( 名 ) スル

(努力や苦心の末に)手に入れること。自分のものにすること。 「優勝杯を−する」 「 −した権利」(大辞林

それに対して、真宗新事典では、以下のように書かれています。

ぎゃくとく 獲得

うること、身につくこと、一般には不相応行の一で、まだえぬもの、すでに失ったものを今えること獲、えてから失わないものを得、成就とする[倶舎論]。真宗では、因位または現在えるのを獲、果位または将来えるのを得というが、獲と得を同じ意味にも用いる。(略)

元々、真実信心を私はもちあわせておりません。その私には本来ない真実信心をえて、またそれを一度えると失うことはありませんから獲得と言われています。

また、努力してえるものではありませんから、先に挙げた教行信証信巻のお言葉では、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」と言われています。阿弥陀如来の十八願の御心より起こされるのが、信心を獲得することです。自力でえられるものではありません。

2016-03-24

「生涯、自力の念仏しか唱えられなかった場合は後生どうなりますか?」(せみまるさんのコメントより)

せみまるさんからコメントを頂きました。有難うございました。また、それについてコメントを複数の方から頂き有り難うございました。

名無し 2016/03/23 17:16

生涯、自力の念仏しか唱えられなかった場合は後生どうなりますか?

私はとにかく助かろうと、念仏ばかり唱えておりますが、自力でしか唱えることが出来ません。

他力によって念仏を唱えることが出来ずに臨終が来たらと不安でいっぱいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160319/1458370398#c1458720984

自力の念仏では、浄土往生はできません。しかし、お尋ねの内容は「生涯、自力の念仏しか称えられなかった場合は」となっています。せみまるさんが、この先生涯自力念仏で終わるかどうかは、せみまるさんが決めることではありません。また、お尋ねの文面から、自力念仏しか称えられないなら、称えるだけ無駄ではないかとか、称えないほうがよいのではないかというお気持ちがあるのではないかと思います。

それについては、無駄かどうかという問題ではなく。念仏以外に、私を浄土往生させるお働きはありません。その意味では、「称えないほうがいい」という選択肢はありません。また、自力念仏か、他力念仏かの違いは、南無阿弥陀仏が私を助けるお働きであることを疑うか疑い無いかの違いです。念仏以外に、助かる道がないわけですから称える以外にはありません。ただ、それが、私が救われる行であることを受け入れるかどうかです。それは、生涯かかるものではなく、現在ただ今変わることがあります。なぜなら、南無阿弥陀仏が私を救う法であるということは、私の思いと関係なくすでにそうなっていることだからです。あとは、せみまるさんが、それを聞き入れるかどうかです。

名無し改めせみまる 2016/03/24 11:46

ありがとうございます。

申し訳ありません。

>大きな阿弥陀仏の慈悲を想いましょう。

ここがよく分かりません。どのようにしてお慈悲を想うことが出来るのでしょうか?

またこうして質問を重ねている事自体、獲心から遠ざかることなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160319/1458370398#c1458787617

質問を重ねること自体は、獲信から遠ざかることではありません。こうして阿弥陀仏について尋ねるのは、それだけ阿弥陀仏に心が向いているといういうことです。

阿弥陀仏のお慈悲を思うということですが、いま読まれているこの場でできることは、念仏申すことです。

すでに念仏の謂れは聞かれていると思いますが、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の慈悲心のあらわれそのものです。その南無阿弥陀仏を称えるということが、阿弥陀仏のお慈悲と直接接している姿です。阿弥陀仏と直に接していることが、獲信から遠ざかるはずはありません。

念仏は、「ただ念仏して」と言われるように、念仏になにか計算や予定を立てて称えるものではありません。私がどんな気持ちで称えても、南無阿弥陀仏の功徳そのものは成就したものなので、変化することはありません。つまり、私を助ける働きが強くなったり弱くなることはありません。

ただ、本来ある私を助けるお働きを疑い無く受け入れる(信じる)かどうかがで、浄土往生するかしないかは定まります。「こうしたら救われないか」「こう思ったら救われないか」という胸算用は、どこまでいっても胸算用なのであてにはなりません。

南無阿弥陀仏は、私を救うお働きであると聞いて、称えて、それをそのまま受け入れて下さい。南無阿弥陀仏をただ今聞いてただ今救われて下さい。

2016-03-19

「すでにこの道あり。必ず可度すべし。 とはどういう意味なのでしょうか?」(まつださんのコメントより)

まつださんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

まつだ 2016/03/19 03:53

初見ですいません。1つお尋ねしたいのですが、

すでにこの道あり。必ず可度すべし。 とはどういう意味なのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091207/1260192976#c1458327207

お尋ねの内容は、二河白道の譬えで、

すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。

(二河白道の譬え 教行証文類信巻より)

http://goo.gl/NFds0C

の「すでにこの道あり、かならず可度すべし」の意味についてです。

二河白道の譬えでは、火の河と水の河の間に四五寸のいわれた白い道があります。「この道」というのは、その白道のことです。その河岸に立った人に向かって、後ろから群賊悪獣がやってきます。後ろから迫ってくる群賊悪獣がいるので、そこから引き返すと死んでしまいます。また、留まっていても死んでしまいます。また、白い道を進もうにもとても渡れなさそうなので、死んでしまうだろうと、この人は思います。

しかし、そこでその人は、どの道死んでしまうなら、この道(白道)を行こう、きっと渡れるに違いないと考えました。これが「すでにこの道あり、かならず可度すべし」の意味です。

その後結果として、この人は白道に一歩足を踏み入れるのですが、それは、東の岸の方の勧める声と、西の岸から喚ぶ方の声に従ったからです。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(同上)

http://goo.gl/NFds0C

東の岸の方は、「そうだまっすぐこの道を行きなさい。決して死ぬことはないから。もし留まっていてたらそれこそ死ぬぞ」と勧めます。

西の岸の方は、「一心にためらうことなくこの道を来なさい、私が護るから恐れるな」と喚ばれます。

この世から、浄土へ渡す道が白道であり。これは、阿弥陀仏が護り、お釈迦さまが勧められる他力信心をたとえられたものです。私から見ると、煩悩に心を占められて、とてもか細く見える他力信心であっても、それが煩悩や他人の意見によって崩れるようなものではないということを譬えられたものです。

浄土へ来れと呼ぶ声の通りに従った相が、白道に乗ったことであり、信心獲得の相です。「ただちに来たれ」の仰せを聞いて、ただちに救われて下さい。

2016-03-13

「続けて仏法聴聞しておりますが、未だに後生が苦になるわけでもなく、こんなことでいいのだろうかと考えています。いつになったら真剣に聞こうという気持ちになれるのでしょうか?」(頂いた質問)

「続けて仏法聴聞しておりますが、未だに後生が苦になるわけでもなく、こんなことでいいのだろうかと考えています。いつになったら真剣に聞こうという気持ちになれるのでしょうか?」(頂いた質問)

中々後生が苦になりませんというお尋ねです。今迄も、同じような質問を頂いたこともありましたが、改めて自分自身を振り返って考えて見ました。

後生が苦になることがありますか?

私は以前、「後生が苦になって夜も眠れないくらいになったら、信心決定は近い」と聞かされていました。また、「仏法は後生の一大事を知るところから始まり、その解決に終わる」とも聞いていました。ここで言う「後生」とか「後生の一大事」というのは、「今晩死ぬかも知れないこと」であり「死んだ地獄に堕ちて苦しむ一大事」のことでした。

そこで当時の私は「そんな一大事があるのか!それならば真剣に聞かねば成らない」と本気で思っていたかといえば、決してそうではありません。むしろ「そんな後生といわれても、なんともピンとこない」という感じでした。あるいは「聞いて行けばそんな心境になるのか」「そうなるまで真剣に聞かねば」というのが正直なところでした。その意味から言えば、私にとっては「後生の一大事を知る」ことがないので、「君はまだ仏法が始まっていない」と言われれば、スタート地点に立つべく真剣になろうと思っていたのですから「その通りで御座います」というより他はない状態でした。


後生が苦になってない韋提希夫人

では、後生が苦にならない人は、本当に阿弥陀仏の本願が聞けないのでしょうか?また、「後生が苦になって」仏法を聞き始めた人ばかりでもないと思います。その一例として、観無量寿経に説かれている韋提希夫人は、「後生が苦になって」浄土を欣ったわけではありません。「今いるところが厭になって」浄土に往生したいという心を起こしたのです。




以下は、我が子阿闍世によって牢屋に入れられた韋提希夫人が、お釈迦さまに対して言った言葉です。

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。

 やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

現代文

「 世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。

 どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」 

http://goo.gl/rTbNpi

ここで韋提希夫人は「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し」と言っています。今自分が居るこの場所は、とても厭な処であるとして、そんな厭なところを離れて、清らかな世界を見せて下さいとお釈迦さまにお願いをしています。

つまり、「後生が苦になって」お釈迦さまに救いを求めたのではなく、「いまの世界が厭になって」救いを求めたのです。

振り返って見ると、自分が仏法を聞いてみようと思ったのは、特別死を意識したことがなかったものの、この世界にいることについてのなんとも言えない居心地の悪さからでした。「なぜ生きる」と考えたこともないものの、なんとなく拠り処のない感じはずっとありました。別の言い方をすると、世界と自分がうまくいっていなかったのです。それが人によっては、家族であったり、会社であったり、友人であったり、ご近所になるのでしょうが、それらと自分はうまくいっていないと感じる人は多いのではないかと思います。

後生が苦にならなくても聞けます。

もともと阿弥陀仏の本願は、自ら生死を離れることが出来ない私に対して、浄土を用意されそこに往生させるために建てられたものです。この世界とうまくいっていないからと言って、どこにも逃げ場のない私に「浄土に生まれさせる」と呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。そこには「後生が苦になったあなたに」という、「 」つきの条件はありません。

ただ今救うの本願にただ今救われて下さい。

2016-03-06

「私は信心決定した」といえるなにか証拠のようなものはないのでしょうか。私は阿弥陀仏の本願はそうだなと思っていますが、なんだかもやもやします。(頂いた質問)

「私は信心決定した」といえるなにか証拠のようなものはないのでしょうか。私は阿弥陀仏の本願はそうだなと思っていますが、なんだかもやもやします。(頂いた質問)

お尋ねの件は、阿弥陀仏の本願には疑いないのだけれど、これが無疑心と言ってよいのか、それともなにかこれ以上に証拠になるようなことがあるのではないかということだと思います。

一番大事なことは、「阿弥陀仏の本願はそうだなと思っている」という点が、どういうことなのかということです。お尋ねの方は、「阿弥陀仏の本願に疑いないのだけれど、なんだかもやもやする。何か証拠が欲しい」ということですが、何か確かな証拠とは何でしょうか。「このもやもやがすっきりした」という実感でしょうか。 もしそうなら、疑いがあるということです。

しかし、すっきりしたという「実感そのもの」は信心ではありません。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通)

http://goo.gl/0jUyLc

この御文章では、阿弥陀仏の本願が成就したすがたが、いまの南無阿弥陀仏であると言われています。つまり、南無阿弥陀仏から言えば、この南無阿弥陀仏に疑いないこと(確かなこと)が、阿弥陀仏の本願が確かな証拠であるということです。


また、阿弥陀仏の本願が確かということになれば、私が浄土に往生することも間違いがないということになります。

別の言い方をすると、阿弥陀仏という仏が本当におられるのか、浄土は本当にあるのかという証拠は、南無阿弥陀仏以外にはありません。


一般には、「証拠」というのは何かの数字や計測装置、あるいは「具体的なもの」のことを言います。例えば、アインシュタインによって示された重力波は、米国の研究施設「LIGO」によって検出されてその存在が証明されました。重力波というものがあっても、それを計測する機器やデータがなければ、その存在を証明できないのが科学の世界です。また、それ以外でも「言葉」が有っても、それを裏付ける「言葉以外の証拠」がないと、それは「不確かなもの」とされてしまいます。


そういう意味では、「お聖教にこう書かれている」というのは、証拠にはならないというのが、現代の普通の感覚です。しかし、御文章に書かれているのは「その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。」です。いまの南無阿弥陀仏が、助けるお働きであることに疑いなければ、それで私が往生することも、阿弥陀仏の本願があることも、阿弥陀仏がおられることも間違いないという証拠となります。また、信心決定というのは、それらに疑いないことですから、信心決定したかどうかの証拠は、いまの南無阿弥陀仏に疑いないかどうかです。いま南無阿弥陀仏と称えて念仏していること自体が、証拠となります。もちろん、南無阿弥陀仏と称えているけど、これで助かるのかどうなのか、また何回称えたら助けて下さるのだろうかと考えるのは、南無阿弥陀仏を疑っている状態ですから、信心決定しているとは言えません。

お尋ねの「もやもや」が「証拠がないことにもやもやしている」のか、「南無阿弥陀仏にもやもやしている」のかは分かりませんが、南無阿弥陀仏が私を救う働きであることに疑いないのが信心です。ただ今救う仰せを聞いて、ただ今救われて下さい。

2016-03-02

2016-02-19

「暇さえあれば念仏を称えていますが、未だに助かる気配が致しません。「そのまま聞く」意味がまだ分かりません。」(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2016/02/18 16:22

記事読ませて頂きました。

暇さえあれば念仏を唱えていますが、未だに助かる気配が致しません。

「そのまま聞く」意味がまだ分かりません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160213/1455349018#c1455780167

まず念仏についてですが、回数を重ねれば助かる気配がやってくるというものではありません。

念仏は、一度の念仏に無上の功徳があります。

また「無上の功徳」とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。(選択本願念仏集

一声一声の念仏に、無上の功徳があるわけですから、何回か称えて初めて無上の功徳が完成するのではありません。心がけて念仏されるのは大変有り難いことです。そこで、その念仏について、一声で無上の功徳のあるものであり、私を往生浄土させるお働きがあります。

そのまま聞くについては、上記の念仏について、「この南無阿弥陀仏が無上の功徳があり、私を浄土往生させるための本願力そのものの働き」と聞くことです。

念仏称えた結果として、無上の功徳が私に与えられるのではなく、一声一声の念仏そのものが無上の功徳です。それをそのまま聞いて救われて下さい。

2016-02-13

阿弥陀仏の本願は素直に聞いているつもりですが、信心決定したかといえばそうでもありません。また、疑いといわれても私には今一つよく解りません。疑いが出るように何かしたほうがいいのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は素直に聞いているつもりですが、信心決定したかといえばそうでもありません。また、疑いといわれても私には今一つよく解りません。疑いが出るように何かしたほうがいいのでしょうか?(頂いた質問)


疑いがなければ信心だと考えて、まず「疑い」から始めて見ようという御尋ねだと思いました。

確かに「疑心」と聞いても、なんとも実感がない時は自分の心の中に「疑心」を探し出して、それを駆除すればよいように考えてしまいます。しかし、そのような考えはしない方がよいです。


なぜなら、「疑心」といわれるのは「本願疑惑」のことなので、本願を横に置いて疑心だけを探そうとしても詮ないことです。


では、阿弥陀仏の本願とはどういう本願かと言えば、今回のお尋ねから言えば「論功行賞の救いではない」ということです。論功行賞とは、功績を論じその程度に応じて賞を与えることです。阿弥陀仏の救いは、そのような「私の頑張りに応じて、褒美として救ってくれる」ものではありません。


兎角、「命がけの求道」とか「真剣な聞法」をして救われようとしてきた人は、どうしても「これだけ頑張ったのだから、阿弥陀仏は救って下さる時に何か一言くらいあるだろう」と期待をしてしまい勝ちです。しかし、「よく求めぬいた」とか「よく聞き抜いた」「よく頑張ったね」と私の苦労を肯定し、その労をねぎらった上で救って下さるようなものなら、それは論功行賞の救いということになり間違いです。


元々私が苦労をしなくてもよいように、南無阿弥陀仏となって、南無阿弥陀仏一つで救って下さる本願です。ですから、よく阿弥陀仏の救いは「無条件の救い」といわれます。「無条件」ということは、私の側に要求される条件は一切ないということですが、言葉を変えれば「褒められること」もないということです。また、「叱られること」もない救いだということです。

確かに、妙好人とか、上上人とか希有人と、褒められると親鸞聖人は書かれています。


この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。(親鸞聖人御消息6浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P748)

http://goo.gl/YfwkNp


このように書かれているお言葉を読むと、褒められたいと期待する気持ちもよく解ります。しかし、それらは南無阿弥陀仏を讃嘆されているのであって、私の頑張りを褒められるのではありません。

しかし、一度褒められることを期待してしまうと、褒められない限りは本願を聞けないような心になってしまいます。この場合の褒められると期待している心は、本願を疑う心と同じ意味になります。

何も「本当だろうか」「今一つ解らない」というばかりが、疑いではありません。阿弥陀仏に褒めてもらえると、自分の努力を手放さず、なんとか認めて欲しいというのも疑いです。

ところが、阿弥陀仏の本願は私の努力は必要としない救いなので、私の努力を褒められこともなければ、懈怠を叱られることもありません。そのため、褒められることもありませんから、「自分で○○を頑張ったから助かった」と思うことはありません。また、叱られることもありませんから、「懺悔したから救われた」と思うこともありません。

ですから、褒めてくれないから聞かないぞという思いは、いつまで経っても叶わないことです。間違いですから、それは捨てて「ただ今救う」の南無阿弥陀仏を聞いて下さい。

2016-02-06

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「50 信者の地蔵供養(其二)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

50 信者の地蔵供養(其二)

実に心機一転ということや、宿善開発ということは、ふしぎのようなもので。鬼の心で参られた人が、一座の聴聞で、忽ち仏心になってしまわれたので。そのおかみさんは、尚も話をつづけられました。


「説教がすんで、私は泣き顔を人に隠して帰りました。旦那が炉端におらるるのに、ただ今帰りましたがモー言われず。胸が迫って、旦那の膝元へ亡き倒れ。悪かった、悪かった。堪忍して堪忍して下され……と私は叫びました。


その時旦那は驚いて。

『寺参りするはよけれども、訳も理屈もなんにもいわず。只堪忍してというたとて、私も何ともしようがない。何事も堪忍はしてやるから泣いてくれるな。』

といわれました。

言われて見れば、いよいよ私は、勿体ないやら、申し訳ないやら、とても泣かずにおれんので、泣き泣き是までの心得違いを御詫びして、その夜は夫れで過ごしましたが。その後というものは、苦しい夢の覚めた心地。気分もよくなる、食事も出来る、まるで心は入れ替わり。旦那がいよいよ尊くなり。幾日か泊まってこられても、恨みもつらみも更になく。にこにこ機嫌で、おあしらいが出来るようになり。妾のことまで可愛いくて、二人の子供もなつかしく。内証で品物を送ってやるようになりました。


ソコデ或る時、旦那の寝物語に。

『私も何時まで、こうしてもおられまい。妾のことも、きまりを付けたいと思えども。夫れより先に、二人の子供を始末せねばなるまい。』

といわれた時に、この私は旦那の話に飛びつく程の勢いで。

『旦那様、夫れは私に始末をさして下されませ。子供はどうぞ私にくれて下され』

といえば。

旦那は静かに。

『お前がその気になってくれたか、夫れでは私も喜ばしい』

と言われました。」


「おいおいおかみさん、夫婦仲良しの寝物語も有り難いが。地蔵の衣はどうなりました。」

「アハハ……松澤さん、つまらんことまでお喋りして、申し訳もありませんが。どうぞ、もう少し聞いて下さい。」

「御法礼も出さずに聞かれる話だから、少しなら辛抱しましょう。」

「御法礼は私から包んで差し上げても、聞いて貰いたいのでありますから。どうぞ辛抱して下されませ。その後旦那は妾にひまをやり、事情を明かして外へ縁付けてしまわれて。二人の子供は家へ引き取って下されたが。その時の私の喜びは、何に譬うるものもなく。是こそ真に地蔵様の御授け子。余所の御方は、同じ夫の子供を持つにも。死につ生きつの難儀をなさる習いじゃに。虫も病まねば難儀もせずに、現在旦那の子供をば、一度に私は二人まで。持たせて貰うた幸せは是も地蔵様の御方便。


夫れのみならず、夫が御縁で段々と、御寺参りに身を入れて。今は六字の主となり、無量永劫不足のない身になったのも。残らず地蔵様の御方便と思うて見れば。松澤さん。自分の困ったとき、御厄介になったものが。今は不足がないからというて、何で顔向けせずに居られましょう。私の迷うていたときは、五月蝿いほども毎晩々々御苦労かけた地蔵様。その時不具の子供でも、一人授けて下されたら。いよいよ鬼が鬼になりこの世も後生も阿鼻叫喚の、地獄で暮らすのであったろに。今は信心決定し、この世も安楽、未来も極楽。何一つ不足のない身になったのも、偏に地蔵様の御陰と思えば。顔向けせずにはおれんので、此頃旦那にお願いして、御礼のしるしに袈裟衣、寄進をさして貰いました。


何処の道でも、地蔵様を拝む度毎に。御陰で此の身にさして貰いましたと、尽きぬ御礼を申します。地蔵様ばかりではありません。この様に遠い所の初夜参り。下向が遅いと、旦那が寝て仕まうておられます。若し熟睡して御座るその時は枕元へ静かに座り。今夜は仏拝んで寝るよりは、旦那を拝んで寝ましょうと。


松澤さん、笑うて下さるな。ほんとに私は珠数をかけ、女は三界に家持たず。旦那の家より、外に居場所のないものが、なんぼ後生が大事でも。旦那の許しがなかったら、閾三寸は出れんのに。いつ御参りと願うても、行って来いよと機嫌よく。伴には誰をつれてゆけ、雨が降るから車でゆけと。親切こめて、出して下されたればこそ。万劫にも得難い信を得て、喜ぶこの身にさして貰うたも。そんな旦那の御陰様。こんな尊い御方をば、昔は恨んで粗末して。暮らしたことの残念やと。しみじみ懺悔の念仏で、いつも休まして貰います。


旦那ばかりではありません。二人の子供もよく育ち、下女や下男や番頭まで。店の仕事や勝手元よくも勤めてくれればこそ私が気楽に参らるる。そうして見れば家内中、総懸かりにてこの私を助けてくれるとは思われて。何方へ向いても、御恩尊や有り難や。使われておる犬猫や、馬や鶏までこの私の、後生の手伝い。しておるように喜ばれ、無理の扱い出来もせず。可愛い可愛いで日暮らしさして貰います。」


長々おかみさんの物語り、私は実に感心して聞きました。ここに皆さん、注意をして味わうて貰いたいのは。地蔵様に法衣の供養をしたといえば。事柄は、たしかに雑行雑修のようではあるが。信者の仕事は、決して雑修になっておらぬので。若しもこのおかみさんが。法衣の供養はしてみたいが、雑修になっては済まぬゆえ。地蔵様には顔向けせぬ、というような心なら。表面はいかにも一向専修のように見えても。心は不至心の雑修である。そこで私は。雑行ということを事相や形式の上では決められん。飽くまで信心の有無に依って、決着せねばならんことと思われます。


この大川という家は、かなり財産もあり、手広く商売もしてあるが。割合に御法義はなかったが。このおかみさん一人の喜びで。旦那を始め家内中、分家の末まで御法義を大切にするようになり。家政も益々繁昌し、随分信者の模範としては。数々の話もありますが、今は略しておきましょう。私も一二度此の家に立ち寄り、饗応を受けた事がありますが。夫婦二人であしらいに出て。

「松澤さま。この戸を開けてあの戸へ走り、座敷中から寝間廻り。私は逃げる旦那では追われる、月に幾度の修羅道であったのが。今は六字の御力で、要らぬ戸などは何年にも、開け閉てする用事がなくなりました。」

と、おかみさんが話せば。

「イヤ松澤さん。嬶が念仏申すので、家内が見事におさまって極楽のようになりました。浄土真宗の尊さは是で値打ちが有り余る。極楽参りは此の上の景物と思われます。」

と旦那が口を添えらるる。


アア座敷の狭いほど陳列された山海の珍味より。この御夫婦の御話しは、又と聞かれん御馳走と。私は味わうて参りました。是でこそ浄土真宗は、未来教にして現世教。現世教にして未来教。真俗二諦、現当二世、光輝く信仰の活躍は。此の上もないことと仰がれる次第であります。


以名摂物録 後編 終

亡父の常にいわれとことを  祐然跋


人毎に一つのくせはあるものを

  我には許せ念仏のくせ

くる珠数を百もおとして有難や

  から手で参る弥陀の浄土へ

目次

以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2016-02-05

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「49 信者の地蔵供養(其一)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

49 信者の地蔵供養(其一)

さて皆様。長々の御話しで雑行雑修を捨てるということが真から底まで解りましたか。何も有る品物を無くするのでもなく持ったものを離すというような物でもない。


六字一つの主となり大悲摂取の内住まいとなった上からは。夫れが絶対の現世祈祷であるゆえに、外に祈祷の用事もないが。用事がないとて諸神諸仏をかろしめるのではない。いよいよ諸仏菩薩を大切にして世間通途の仕事なら。物忌みするもよかろうししめ縄張るもかまやせん。私などは伊勢の大廟に参る度毎に。御神楽もあげ御酒も頂き柏手打って礼をなし。アラ日の本の大神と法衣のままで絶対の大祈祷を捧げて来ます。


私の檀中で今日は丑の日で葬式が出せぬといえば、そうであるかと挨拶し。この普請は鬼門に障ると聞かせれば、そういうものかと聞き流す。御本山でさえ鬼門を切ってあり、内事の方では従来の御稲荷様も祀ってあるということじゃ。こんな世間の問題を一々本気にかかっては、際限のあるものでなし。斯かる僅かの事柄で、間違い出すよな本願のか弱い訳はないゆえに。角菱取れてまめやかに、念仏する身になってこそ。真に雑行雑修を捨てた相というものである。


是について越後国西蒲原郡漆山というところに、大川清治という人がある。その御家内に、信心を頂いて見たれば、余り有り難くて、地蔵様に袈裟衣を寄進したという面白い美談が有る。


話は、多少前後して申し上げますが、大体の事実には決して相違のない話ですから、篤と聞いて頂きたい。去る大正二年の春のこと、私が同村大字河井の長善寺へ、婦人会に参りましたとき。漆山の入り口に立てられてある地蔵様が。えらい美しい袈裟衣を着て御座るので。

「何と有福の地蔵様じゃなぁ」

と驚いたれば、車夫の言葉に。

「貴方も御存知の大川さんの御家内が、寄進せられたのであります」

というので。私はいよいよ驚いた。


あの念仏の行者で御座るおかみさんが、地蔵様へこの寄進、妙なこともあるものじゃと思うていたが。その晩の初夜前に、大川のおかみさんが息子や女中を連れて参った来て、私の座敷へ出られたから。先ず一応の挨拶がすむと、私は聞かざるを得んことになって来た。素より物の解って遠慮の要らぬおかみさんのことであるから。私は有りの侭に話をして、地蔵様にあの寄進。どういう心でなされたかと尋ねたれば。


おかみさんは大笑いをしていわるるには。

「あの地蔵様には、私は申し訳の無いことがありますので。恥をいわねば訳も解りませんが。実はこの子は私の子ではないのであります。」

「オヤ私は、年来貴方の息子さんと計り思うていましたが。」

「ハイ私は子持たずで、是は旦那の子供です。」

「おかみさんの子でなくて、旦那さんの子じゃとは、おかしいね。」

「夫れは内の旦那が妾を持って、それに出来た子供を引き取ってあるので。何方の眼にも私の実子のように見て下され子供も私を真実の親より慕うてくれますが。実は私の子ではありません。」

「妾や子供の話はどうでもよいが。アノ地蔵様の法衣は、どういうのでありますか。」

「サァ是から御話しをせねば解りませんので。松澤さん聞いて下さい。私は昔はほんとうに鬼でありました。旦那が少し遅くでも帰られると、碌々挨拶もせず。お前が亭主の亭で我が儘するなら。私も嬶のカァで勝手にするわ、というので。御飯はいかがと尋ねもせず、寝巻きも出してやろうともせず、真に悪魔でありました。


その内に息子が一人、妾に出来ました。サァ私はいよいよ鬼が鬼になり。残念じゃやら口惜しいやら。妾なんどは詛うても殺してやりたい、息子なんどは噛みつぶしてやりかいような心地して。私も女だ、不具でも病身でもないものじゃ。何としても子供を産んで見せようと、薬やら温泉やら、まじないやら祈祷やら。種々と手を尽くしてかかっても、更にしるしが見えんので。


とどのつまりはあの地蔵様へ、子の出来るまで通いましょうと。毎晩毎晩人目を忍び、分家の嫁を供に連れ。どうぞお前も私の為に祈ってくれ。子供が出来れば、田地一反褒美にやるから、という約束で。南無大悲の地蔵様、どうぞ子供一人御授け下さるようと。一心こめて二人がかりで祈って見ましたが。幾月通うても験がないので、分家の嫁まで恨みました。


私ばかり本気にかかっておるけれど、お前が一向本気に祈ってくれぬ、ゆえききめがないよ、と愚痴をこぼせば。嫁じゃとて、子供より尊い田地一反になるものじゃもの。早く早く地蔵様、本家へ子供を授けて下されと。真から本気に祈って居りますのじゃ。夫れで験がないうえは、嫁も田地の約束が、お流れになるかと思えば、残念でありますよ、と嫁はいうので。何とも困り果てておるうちに。畜生め、妾がまた一人息子を産みました。


サァその時に私の心は七転八倒。頭は毎日火事場同様、ゴンゴンモンモン早鐘の声がする。願いは叶わず、憎い敵にまた勝ち旗を上げられた。身も心も置き場なく。女の瞋恚は恐ろしいものであります。遂には私はヒステリ性の半病人になってしまい。食事も出来ず、ふらふらと、色蒼ざめておるところへ。近隣の女房が誘い来て。

『おかみさん、何程心配なされても、体が痛むばっかりで。旦那のなさる事じゃもの、どうする道もありません。今夜は幸い村の御寺に説教がある。参って少しは心を御休めなされ』

といわるるので。遣り場のなかった胸の苦しみ、少しは気散じにもなろうかと。常に進まぬ寺参り、仕方なくなく連れ立って。人の後ろに身を隠し、説教を聞いていましたが。丁度その時松澤さん。貴方が御出であったので、忘れもしないその晩の御話に。過去の宿業ということを、詳しく説いて下された。


一座の説教で廓然大悟。アア過った過った。アア宿業よ宿業よ。宿業知らずのこの私が、無理の願いを持ち出して、地蔵様へ御苦労かけたは勿体なや。いくら心願かけたとて、前世の宿業が悪いもの、何で子供が出来ようか。内の旦那も宿業々々。馬鹿でも放埒でも御座らぬもの、村にも随分重んぜられておる人が。賎しい女に交わって、離れられんも過去の宿業。夫れを知らずに粗末にしたは申し訳ない。妾じゃとても其の通り。現在主のある人に、一時の花となぐさまれ、生涯日陰に暮らすのも。楽しい訳でもあるまいが、宿業なれば是非もない。それを今迄恨んだことの恥ずかしや。よくよくの業があればこそ、子供が二人も出来てある。子供に罪のないものを、宿業知らずのこの私は。噛み殺そうと思うたは、いよいよ鬼であったかと。思えば御堂の真ん中で、歯を噛みしめて泣き伏して。とても頭は上がりませなんだ。」


おかみさんの話が余り長いから一寸一服しましょうが。説教もたんだ一座で、是ほどのききめがあっては、尊いものでありますが。是も飲み慣れた事のない人が、薬を飲んで、忽ち瞑眩したようなものか。夫れも何かの因縁で、つまらん私の説教が、斯も厳しくきいたのか。但しは地蔵様の御利益か、且つは如来様の御方便、是も宿善開発、時節到来の事であったと思われます。

(50へ続きます)

目次

以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2016-02-03

2016-01-30

阿弥陀仏の本願を計らわないように、疑わないようにとしています。ところが、計らわないようにしているのも、自力と思うとどうにも成りません。本当に救われることがあるのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を計らわないように、疑わないようにとしています。ところが、計らわないようにしているのも、自力と思うとどうにも成りません。本当に救われることがあるのでしょうか?(頂いた質問)


お尋ねされている方は、疑いがいろいろと出てくることに悩まれていると思います。

こういう時には、「自分の心と向き合うべきだ」という人も有れば、「自分の心にこだわっているから分からなくなるのだ」と言う人もあります。

これについては、どちらが正しくどちらが間違いと言い切れないところがあります。ただ、自分の心の様子に一喜一憂して、どうしても自分の心の有り様が気になる場合は、視線を自分の心から阿弥陀仏の本願に変えるのがいいです。

なぜなら、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることない」のが信心だからです。阿弥陀仏の本願を聞かずに自分の心と向き合ってるのは、法を聞かずに救われようという話になってしまいますので、元々無理があります。

南無阿弥陀仏を称えても、阿弥陀仏の本願を聞いても、聞いた後から、「では自分の心はどうなっただろうか」という確認作業は本来余計なことです。余計なことを付け加えるので、南無阿弥陀仏を聞いてない状態になってしまいます。

南無阿弥陀仏は、ただ今救うという阿弥陀仏のお働きそのものですから、私がどう聞いたかという評価を付け加える必要は最初からありません。ただ今救うと、聞いて、ただ今救われて下さい。

2016-01-19

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「48 振り捨てれとは受け取れの反響」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ

のまま掲載しています。

48 振り捨てれとは受け取れの反響

皆様に直接用事もないような真宗の勧め振りや、説教の語りようなどという話でいかにも迷惑をかけましたが。帰するところは、雑行雑修を捨てるということを、徹底的に聞いていただきたいばかりのことであります。


これは再三御話しを致した通り。当流において、雑行を捨てて正行に帰するといえばとて。剃刀を捨てて菓子をとるように、雑行と正行を交易するようなものでもなく。雑修を捨てねば、弥陀が助けぬというのでもない。弥陀は元より助ける一方、救うが専門。如来の作願の有りだけを隅から隅まで尋ねても。あれを捨てればこれをくれるというような、駆け引き勘定するのじゃない。苦悩の有情を捨てずして廻向を首とし給ひて大悲心をば成就せり。成就の出来た御助けが、南無阿弥陀仏の名号でその名号に万善万行封じ込め、諸神諸菩薩皆御座る。殊に動かぬ摂取の御手も、こめた不思議のお六字が。この機に届いた一念に、届いた六字が万善万行、届いた六字が諸神諸菩薩。届いた六字が離し給わぬ御手なれば、自力の出し場は更になく。捨てる捨てんの世話なしに、自余の諸善に用事無く。諸仏諸菩薩も守りづめ、現世祈りも未来の先も。一時に満足の出来たのが真に雑行の捨たったのじゃ。


捨ててから貰うのでもなく貰うてからすてるのでもない。貰うた六字に腹の膨れたその侭が自力の捨たったかたちなるが故に。雑行雑修を捨てるというも別に仕事があるのでない。帰する所は届いた六字が此の機の上に働く信心の相である。


ここに一つの不審の起こるは。六字の宝が此の機に届けば世話なしに雑修自力の見事に捨たるものならば。何故に善知識の御化導に、自力なんどいう悪き心を振り捨てれとか。ひが思いをもなげすててなどと。いかにも催促がましい、仕事のありそうな御言葉づかいをなされたものであろうか。全く差し引きも交易もないことなら、只名号を信ぜよ、弥陀をたのめよの仰せばかりで、よかろうと思われる。


これはどうした訳かというに。これが所謂御化導の五ヶ道たるところにして。自力なんどいう悪き心とあればとて、罪や障りの悪いとは違うので。木綿が悪いというたとて罪になるの刑法に触るというのではない。絹布に比べたときに、木綿が悪いといわれたのじゃ。雑行雑修は悪業ではない善根功徳の善いものであるが。名号六字の絹布に比べると、普通の善根は木綿同様に悪いといわれるので。そのつまらん善根に力を入れて、尊い六字を頂きかねておるものに。驚きたててこの名号を受け取らせてやりたい為に。雑行雑修自力なんどいう悪き心を振り捨てれと御化導下されたので。捨てねば与えぬというのではない。捨てよの御意は貰えよと御催促下さるる反響であると、心得て下されたい事であります。


不足のない親里を飛び出して、放蕩三昧に長々迷うていた息子があった。悪性の病にとりつかれ不具同様になってしまい動きのつかぬ借金で毎日攻められておるけれど、何と返済の道も無い。銭取り商売は出来もせず、我が身ながらも飢え死にするより外はないと困り果てておるところへ。親切の人が勧めるには。なんぼ不具で力仕事は出来ずとも手先で出来るマッチ箱。これなど張って命繋ぎにするがよいと、いわるるので。息子も一生懸命にこれで助かる工面をしようと、寝ずにかかってマッチ箱を張っておる。このマッチ箱は悪いことでもつまらん物でも更にない。然るに雑行雑修の悪い仕事と嫌われて、それを振り捨てよと催促せらるるは。如何なる場合にあることか皆様も注意を払って聞いて下さい。


この放蕩息子を昼夜忘るるひまのない真実親がある。何年経っても息子の便は更になし。老い先短い親の存命中にせめて身代有るだけを息子に渡してやりたいの親切より。財産残らず百万円の手形にして。親類の確かなものにこれを持たせ息子の行く末尋ねさせ。漸く見つかった菰垂れの、あやしき小屋が息子のありか。覗いて見れば相違ない窶れ果てたる息子どの、頻りとマッチを張って御座る。


そこで親類の人は「たのもうたのもう」と音なえど更に返事をしないので。これは聾になられたか遠慮はいらんと内へ入り。

「これはお久しや息子さん。私は親類の誰それじゃ。お前の親からこれこれで百万円を預かってきた。これを受け取って下され。」

と。話しを聞いて口先で息子は挨拶はしておれど。心はマッチに一心不乱。

「ウム親類か。ウム親が。ウム手形か。これを張らねば命にかかわる。」

見向きもせねば真実聞いてもくれんので。親類の人は大喝一声。

「そんなつまらん仕事をやめて是を受け取れよ。」

と怒鳴りつけた。

息子は驚き振り向く端的百万円は渡された頂かれた。

その一念に雑行雑修は捨たったのじゃ。


ここで皆様も味わうて下さい。マッチ箱は悪いものではなけれども。親の身代差し付けられて居りながら、マッチばかりに気を取られ。受け取る心の起こらんときに雑行と悪い名前がついたのじゃ。そんなつまらん仕事を止めて、これ受け取れというたのは。マッチ箱を捨ててしまえというのでもなく。やめねば折角の百万円渡さずに帰るというのでもない。やめよというたは。受け取らせたい真実の反響である。手形受け取ったその上は、今迄積んだマッチ箱。川へ流すも火に焼くも、そんな用事はありません。仕掛けた仕事も今日限り命繋ぎの雑行雑修にするじゃない。一つ張っては有り難や。僅かの銭をとるにさえ斯かる難儀が要るのじゃに。百万円の大金を下さる親の手元では何程の苦労であったろう。せめて御恩の思い出にマッチを張ってしまおうと。雑行雑修の品物がそのまま転じて御恩報謝の行となる。


今も丁度その如く。三界流浪の我々が後生の借金苦に病んで定散自力のマッチ箱。せめてはこれで未来の命繋がんと、かかり果てておるところへ。阿弥陀如来の親様は、千万無量の財産を六字の手形に封じ込め。諸仏菩薩の御使いで、煩悩具足のあばら屋へ、与えてやるぞ助けると。呼んで下さる御勧めの、声は聞かんじゃなけれども。ウム親様か、ウムお六字か。ウム無上甚深の功徳利益があるのかと。口先ばかりで挨拶して、耳へもしかじかといれもせず。心は定散のマッチ箱。この心でこの思いでと、自力ばかりを張りつめて。真実六字の御宝を受け取りかねておる私へ。大喝一声の御化導が。雑行雑修自力なんどいうわろき心を振り捨てよとの仰せである。仰せ一つに驚きたち、六字の宝が頂かれ満足出来たうえからは。後生に取って此の機なぶりはいらねども。せめてはせめてはの思いより、此の機なぶりを報謝に用い。我が身で邪見を起こさぬよう、人には無理に当たらぬよう。諸神諸仏は大切に世間の仁義は人並みに。慈悲もなさけも親切も欠け目のないよう張りつめて。この世一生過ごすのが御恩報謝の経営である。

目次

以名摂物録後編(松澤祐然述) 目次 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

2016-01-17

阿弥陀仏の本願をどうしたら聞けるのかと、日々悩んでいます。それでもなかなか聞けず、最近はどうしたらいいのか分からなくなって来ました。(頂いた質問)


阿弥陀仏の本願をどうしたら聞けるのかと、日々悩んでいます。それでもなかなか聞けず、最近はどうしたらいいのか分からなくなって来ました。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を真剣に聞こう、聞いたら聞き開けることがあると思っていたけれどもなかなか聞けない。現在は、どうしたらいいか分からないという御尋ねです。

確かに、阿弥陀仏の本願を真剣に聞こうと思えば思うほど、なかなか聞けないものです。それはなぜかと言えば、「真剣に聞こう」と思う人は、「助かりたい」と思う一方で、自分の力をあてにしているからです。それでは、阿弥陀仏の「助ける」の仰せを聞いたことにはなりません。

昨日と、本日、大学入試センター試験が行われています。私も過去受験をしたので、受験生の心配はよくわかります。この受験生の心情と、質問された方の気持ちは似ている部分があります。

私の実例を紹介しますと、かつて私が受験生だったとき、近所の「勉強の神」に初詣でして、合格祈願をしていました。それまでの初詣でとは違い、少し真剣に手を合わせていた事を覚えています。日頃は、神社に手を合わせたところで、本気で何か御利益があるとは思っていませんでした。ところが、いざ受験となると、「なにかの手助けになることがひょっとしたらあるかも」という気持ちになり、その「何かの手助けがありますように」と思って手を合わせていました。


これは、受験をした方なら分かると思いますが、「受験は水物」とはいうものの、大半の受験生にとって、それまで勉強してきた学力以上の点数を受験でとることはほぼありません。例えば、模試でD判定の大学に合格すると人はあっても少数です。そこで「日頃の力が出れば」合格出来る大学を出願します。受験祈願も、そもそも「自分の力以上の成績を出させて下さい」ではなく「日頃の力を発揮できますように」という願いに成っています。その根底にあるのは、まず自分の力以外に受験の成功はありえないということで。次に、神頼みはあくまで、自分が力を発揮するための心理的安心を得るための補助に過ぎないということです。


そこで、先ほどの阿弥陀仏の本願を真剣に聞いたら助かると思っている人の話に戻りますと、前述の受験生とよく似ています。


真剣に聞いたら助かると思っている人は、あくまで『自分の力以上のものは結果として出ない」と思っている人です。言い換えると、それだけ自分に自信を持っている人です。これを自力をたのむともいいます。また、それだけ自分に自信を持っているから、阿弥陀仏の救いはあくまで補助的な扱いになっています。その補助的というのは、別の言い方をすると、「本来浄土に往生できる私」を、少し手伝ってくれるのが阿弥陀仏の本願だと思っているということです。

しかし、そのような人は、阿弥陀仏の救いを勘違いされています。なぜなら阿弥陀仏の本願はすでに成就しているからです。私の力を足す必要もなければ、私の力をサポートするという本願でもありません。


親鸞聖人は「大悲の弘誓をたのみ」と言われています。これは私の力は必要ないと言われていると同時に、「本来浄土に往生できる私」という可能性を一切認めておらない事で言われています。なぜなら、阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏となられたのは、私の力を使わなくても、私を浄土に往生させるためだからです。


「助かるはずの自分」という自信は捨てて、「自分の力では助からない」と聞き入れて、ただ今救うの法を聞き入れて下さい。

どれだけの聖人といわれる人も、自分の力で浄土往生はできないと、「自力の往生」の望みを捨てて、南無阿弥陀仏の光にあわれました。

それを親鸞聖人は、御和讃に言われています。

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願力成就の報土には

 自力の心行いたらねば

 大小聖人みなながら

 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃

2016-01-09 脱会ブログを更新しました。 このエントリーを含むブックマーク