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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-04-27 脱会ブログを更新しました。 このエントリーを含むブックマーク

2017-04-25

「仏法を聞かせていただく身となって、この命終わったなら、お浄土と聞き開かせていただいております。ところが回りに人は、そんな死んでから先のことより、いま生きているうちに楽しまねばといいます。人がどういおうとかまいませんが、言い返せないもどかしさを感じます。どのようにいえばいいのでしょうか。」(wmさんのコメントより)

wm 2017/04/23 11:47

仏法を聞かせていただく身となって、この命終わったなら、お浄土と聞き開かせていただいております。ところが回りに人は、そんな死んでから先のことより、いま生きているうちに楽しまねばといいます。人がどういおうとかまいませんが、言い返せないもどかしさを感じます。どのようにいえばいいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170420/1492671055#c1492915667

wmさんのコメントで言われているようなことは、私も耳にしたことがあります。よいご縁だと思い、考えて見ます。


まず、「死んでから先のことより、いま生きているうちに楽しまねば」という人について考えて見ます。

このようにいう人の考えは、死ぬ時に「あれをやっておけばよかった」と後悔をしたくないという気持ちではないかと思います。


こういう人に直言するとすれば「私は人生においてやり残したことはありません。十分生を全うして、生ききったら、死に切りたいと思っています」というところでしょうか。


歎異抄第九条には、このように書かれています。

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。(歎異抄第九条 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P837)

https://goo.gl/1d27gq

この世を去る時には名残惜しいという心もあるものの、この世の縁が尽きたなら浄土に参らせて頂くだけです。急いで浄土に参りたいというこころもない私を、阿弥陀仏はとくにあわれに思って下さいます。だからこそ、阿弥陀仏の大慈悲はたのもしく、往生は定まっていると心得させて頂きます。


私にとって浄土往生というのは、生まれてきた時からすればはまさに想定外のことです。それを遂げさせていただくという救いにあったなら、人生において「あれをやっておけばよかった」ということはありません。そういう意味で、生きるとか死ぬということに、苦しいから駄目だとか楽しいから良いとかいう意味付けをしようとする心はありません。


阿弥陀仏に救われたからといって、私の環境ガラリと変わることはありません。また、自分自身も急に智慧が勝れたり、煩悩が減ったりすることもありません。そうなると、それまでと変わらない人間関係なども起きてきます。しかし、苦しみも楽しみも同じように有り難いことと受け入れる(即座にとはいいません。時には時間を於いてでも)のが、以前との違いかと思います。


「いま生きているうちに楽しまねば」という人には、「今が幸せです」とでも答えるのがいいのでは無いかと思います。ただそれは「貴方よりは幸せです」という意味ではなく、ただ有り難いという意味での幸せです。

2017-04-20

「(略)真実信心を得た人が「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことが果たしてあるのだろうかということです。(略)教えて頂けませんでしょうか。」(Aさんのコメントより)

「(略)真実信心を得た人が「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことが果たしてあるのだろうかということです。(略)教えて頂けませんでしょうか。」(Aさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170418/1492499465#c1492596776

結論からいいますと、「自分は本当に信心を得たのだろうか?」と思うことはあります。しかし、これには、多少言葉を加えたほうがいいと思います。

もう少し正確にいうと「信心を獲たのだろうかと疑問をもつ時期はあります」しかし、これは本願に疑いがあるからいうのではなく、「本願に疑心はないけれども、これが信心というものか?」と思うことはあるという意味です。


そのような事が起きる場合は、「信心とはこういうもの」「信心を獲たらこうなるはず」という事前に思い描いたものがある人は、「そう思い描いたものがない」ことに「これはどういうことだろうか?」と疑問を持っても不思議はありません。


言い替えると「信心を獲たと思ったれども、自分は本当に信心を獲たのだろうか?」という心境になる人はいると思います。


例えば「信心を獲たら地獄行きの自分の姿がハッキリと知らされる」と聞いて「どんな恐ろしい自分の罪悪が、あたかもパンドラの箱を開けた如く知らされるのだろうか?」と思っていれば、そんな体験が起こらない限りは本願に疑い晴れたとしても「これで信心を獲たのだろうか?」と思うのではないでしょうか?

D

(参考動画 レイダース失われたアーク後半より「アーク」と呼ばれる箱を開けるととんでもない怪物が出てくる場面です。)


先の例は、多少大げさに書きましたが、それでも私が以前思っていたことです。かつて話を聞いていたところでは「名利の冷血獣」とか「ゾッとする巨悪の本性」と聞かされてきたので、信心決定したらとんでもなく極悪人の自分が知らされるのだろうとか、とても人前に出られないような自分の姿が知らされるのだろうと思っていました。また、今まで経験したこともないような達成感や感激が沸き起こるのだろうと思っていました。しかし、少なくとも本願に疑い晴れると同時にそんなことはありませんでした。(そんな体験をする人もあるのかもしれませんが)


仮に、そんな自分の思い描いた通りの体験があったとしたら、「心得た」と思っていたことでしょう。例えば、こんな表情をするのではないでしょうか?

f:id:yamamoya:20170420154630p:image:w640

(参考 漫画「デスノート」より)

ちなみにこの画像は、漫画「DEATH NOTE コミック 全12巻完結+13巻セット (ジャンプ・コミックス)」の一コマです。自分が事前に思っていた通りに事態が進んだことを喜ぶ登場人物の表情です。(少なくとも阿弥陀様は、こんな表情はされません。念のため)


そのため蓮如上人は、「心得た」と思って「これで信心を獲たぞ!」ということは、危ないことだと御一代記聞書に言われています。

一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1300より御一代記聞書213)

https://goo.gl/djh3KR

体験もふくめて「心得た」(分かった!)というのは、信心ではないと蓮如上人は言われています。自分の側で分かった分からないと考えるよりも、阿弥陀仏の仰せの通りであると聞いて下さい。

2017-04-18

「今の私には阿弥陀仏の本願への疑いはありません。「本願を信じ念仏する者を浄土へ迎え取る」というお言葉を聞いて「さようでございますか。ありがとうございます。」と聞き受けているだけです。阿弥陀仏のことは何もわかりません。浄土のこともわかりません。念仏一つで助けると聞いても実感は湧きません。念仏一つで助けると仰っているから、そうか念仏一つで助かるんだなと受け入れているだけです。南無阿弥陀仏によって私が浄土往生出来るかという確信もなければ、南無阿弥陀仏に私を往生させる力や功徳があるかの実感もありません。ただただ、本願のお言葉を「そうでございますか」と受け止めているだけです。浄土真宗の信心とはそういうものなのでしょうか?(Aさんのコメントより)


Aさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

A  2017/04/17 19:53

いつも御教示頂きありがとうございます。質問がありますので教えて下さい。

今の私には阿弥陀仏の本願への疑いはありません。「本願を信じ念仏する者を浄土へ迎え取る」というお言葉を聞いて「さようでございますか。ありがとうございます。」と聞き受けているだけです。阿弥陀仏のことは何もわかりません。浄土のこともわかりません。念仏一つで助けると聞いても実感は湧きません。念仏一つで助けると仰っているから、そうか念仏一つで助かるんだなと受け入れているだけです。南無阿弥陀仏によって私が浄土往生出来るかという確信もなければ、南無阿弥陀仏に私を往生させる力や功徳があるかの実感もありません。ただただ、本願のお言葉を「そうでございますか」と受け止めているだけです。

 浄土真宗の信心とはそういうものなのでしょうか?

この先も聴聞を続けて確認しなければと思っているのですが。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170413/1492081569#c1492426418

文面だけではなんともお答えしづらい質問です。といいますのは、「今の私には阿弥陀仏の本願へ疑いはありません」というのが、どういう意味で言われているのかが、今一つ分からないからです。

確かに「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」が信心の相ですから、「疑いがない」ということが本当ならばそれは、信心だと言って差し支えはありません。

私からは、Aさんの文面を読んで「そうですよ」という事はできません。なぜなら、会ったこともない人の信心を(会っていたとしてもですが)認定することはできないからです。仮に私が「貴方の信心は間違いない」と言ったところで、私の言葉をたよりにする信心は非常に危ういものになってしまいます。といいますのは、仮に「さっき貴方の信心は間違いないと言ったけれど、あれは勘違いだった」と言ってしまうと、崩れてしまう信心だからです。

しかし、Aさんのコメントからすると、Aさんは信心について以前は以下のように思っておられたということは分かります。

  • 信心決定したら阿弥陀仏のことがいろいろと分かる。
  • 信心決定したら浄土のことがわかる。
  • 信心決定したら浄土往生の確信がある。
  • 信心決定したら南無阿弥陀仏の功徳を実感できる。

上記のようなことを以て「私は信心を獲た」というのは間違いです。なぜなら、「智慧の拡張」が信心の証明といっているようなものだからです。


考えて見ますと「阿弥陀仏のことが分かり」「浄土のことが分かる」のは、本当の意味で言えば仏様でなければあり得ないことです。親鸞聖人は、凡夫が凡夫のまま往生することを教えられました。凡夫があるとき、聖者や仏になってから浄土往生するとは言われていません。

これから聴聞され、確認されるということは、大変有り難いことだと思います。

少なくとも、当ブログの内容を読まれて引っかかるところがあれば、お知らせ下さい。

2017-04-16

2017-04-13

阿弥陀仏に救われるために最低これだけは知っていなければならないということはあるのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われるために最低これだけは知っていなければならないということはあるのでしょうか?(頂いた質問)

念仏(南無阿弥陀仏)が、私を救って下さるということは知っていなければならないです。しかし、それ以上に何か難しいことを知っていなければならないということはありません。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人の書かれた本は沢山有り、ご本典といわれる「教行信証(顕浄土真実教行証文類)」は現代文を読んでも大変長く難しく感じます。

では、それらを全て読んで理解出来なければ救われないのかと言えばそうではありません。実際に親鸞聖人は、平易な言葉で書かれた本やご和讃も沢山あります。

蓮如上人で言えば、御文章の一通にかかれた位の分量で、肝心なことは収まります。また、当時の真宗のお同行はその御文章を通して南無阿弥陀仏のいわれを聞いて救われていった人も多くおられた筈です。

御文章の5帖目1通にはこうあります。

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。

これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1189)

https://goo.gl/OFplU0

ここでは、「これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり」と言われて、阿弥陀仏の第十八願のこころしか書かれていないといってもいい御文章です。特別な仏教の学問をしたこともない、一般の人に向けて「阿弥陀仏の第十八願のこころ」を書かれて、その通りに「かならず弥陀如来は救いましますなり」と聞いて疑い無いことを救われたといいます。

こう聞くとそんなことで救われるのかと思う人もあります。しかし、南無阿弥陀仏以外に往生の道はないというのが親鸞聖人の教えられた阿弥陀仏の救いです。

2017-04-05

自力を捨てろといわれても考えるほど無理ではないかと思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われるには自力を捨てよと聞きましたが、自力を捨てようとするのも自力だと聞くと、そもそも無理な話では無いかと思います。(頂いた質問)

自力を捨てよと聞きますと、どうしても自力とは何なのか?とか、何を捨てればいいのか?と考えてしまいます。

そこで、人によっては自力を探すことを求道のように思ってそれを追求しようとする人もあります。また、自力を「計らいだ」と聞くと、「考えること自体」が自力なのかと思い、そうすると「助かろうと思うこと」がそもそも自力なのだということになり行き詰まってしまう人もあります。

その結果「ただ聞け」とか「ただ念仏」という言い方を聞くと、「とにかく何も考えないようにして聞いていればいい」と考えてしまいます。しかし、それでは「何も考えないように」と考えているのでやはり自力は捨てたことになりません。

自力とはなにかについて、浄土真宗辞典から紹介します。

浄土真宗辞典

じりき 自力 他力に対する語。自ら修めた身・口・意の善根によって迷いを離れようとすること。『一多文意』には「自力といふは、わか身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)とある。→じりきしん(自力心)

じりきしん 自力心 行者自身のはからい。自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞は阿弥陀仏の本願を疑う心とした。

ですから、自力を捨てよとは、言い替えると「自分の善い行いで浄土に往生しようとすることをやめよ」ということです。善い行いというと、なにか修行めいたことを想像されるかもしれませんが、「自身の浄土往生によかれと思ってやること」は全部自力となります。


お尋ねの方は、「まず自分が自力を捨て」てから、その後阿弥陀仏が救って下さると考えられておられるかもしれませんが、そうではありません。阿弥陀仏のただ今救うの仰せに従うままが、自力を捨てた(自分の善い行いで浄土に往生しようとすることをやめた)状態です。


自力を捨てるとは、言い替えると阿弥陀仏に救われることです。ですから、自力を捨てよとは、阿弥陀仏に救われて下さいと同じことです。阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏一つで救って下さいます。ただ南無阿弥陀仏を称え、聞いて、ただ今救うの仰せを受け入れ救われて下さい。

2017-03-30

2017-03-22

「仏の加威力によらねば信心は生じないとのことですから、我々に早く本願を聞いて下さいと要求するのはおかしくないでしょうか? 」(ミウラさん)「お念仏は自然にでるのだが、これで本当に救われたのかどうだか、さっぱりわかりません。疑いしか無い。 」(振興ホームさん)

ミウラ 2017/03/20 22:00

仏の加威力によらねば信心は生じないとのことですから、我々に早く本願を聞いて下さいと要求するのはおかしくないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170320/1489998115#c1490014828

私が本願を聞いて下さいと書いているのは、「聞くという行為を要求」しているのではありません。本願を聞いて疑い無いのが信心ですから、信心決定の身になってくださいと、信心を勧めているだけです。


振興ホーム 2017/03/21 02:15

>ただ今本願を聞いて下さい。ただ今救われ、報土往生させて頂けます。

最後の一行だけがどうもよくわからない、お念仏は自然にでるのだが、これで本当に救われたのかどうだか、さっぱりわかりません。疑いしか無い。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170320/1489998115#c1490030103

これで救われたかどうかということは、本願を聞いて疑い無いということ以外には特段自分で決められるような基準はありません。

どちらかと言えば、「これで」私は救われたという「これ」が自分の心の善し悪しで意ッ要るのなら間違いです。例えば、嬉しいから救われた、楽しいから救われた、申し訳ないの気持ちが出たから救われたというのは、自分の感情が信心かどうかの基準になっています。

そのような自分の感情は、日々変わるものですからそれで信心が決まるのなら、いつどうなるか分からない信心となってしまいます。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。 (教行信証 総序)

ここで、聞思して遅慮することなかれと親鸞聖人はいわれています。聞思とは、「本願のいわれを如実に聞いて思いをめぐらすこと(浄土真宗辞典)」です。また、如実に聞くとは、「真実・真如のとおりに、あるがままに(同)」聞くということです。

つまり、「摂取不捨」と私を摂めとって捨てられないという阿弥陀仏のまことの言葉を、そのまま聞いて、聞いた通りに思うということです。そこに対して、遅慮することなかれと言われていますから、あれこれと疑いためらってはならないと疑いをいましめられています。


最初に誠なるかなと言われていますが、分からないことが分かったのではありません。アルキメデスが、アルキメデスの法則を発見して「ユーレカ!(分かった)」と風呂から飛び上がったような信心ではありません。知らないことを知ったのではなく、聞いたことを聞いた通りに聞いたのです。ただ今助ける南無阿弥陀仏と聞いて疑いないのが信心です。

ただ今助けるとそのまま聞いて見れば、ただ今助かるとなります。何かが分かったのではなく、聞いた通りに聞いただけです。さっぱりわからいのが現在でも、必ず聞いて疑い無いと聞くときがあります。ただ今聞いて救われて下さい。

「仏の加威力によらねば信心は生じないとのことですから、我々に早く本願を聞いて下さいと要求するのはおかしくないでしょうか? 」(ミウラさん)「お念仏は自然にでるのだが、これで本当に救われたのかどうだか、さっぱりわかりません。疑いしか無い。 」(振興ホームさん)

ミウラ 2017/03/20 22:00

仏の加威力によらねば信心は生じないとのことですから、我々に早く本願を聞いて下さいと要求するのはおかしくないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170320/1489998115#c1490014828

私が本願を聞いて下さいと書いているのは、「聞くという行為を要求」しているのではありません。本願を聞いて疑い無いのが信心ですから、信心決定の身になってくださいと、信心を勧めているだけです。


振興ホーム 2017/03/21 02:15

>ただ今本願を聞いて下さい。ただ今救われ、報土往生させて頂けます。

最後の一行だけがどうもよくわからない、お念仏は自然にでるのだが、これで本当に救われたのかどうだか、さっぱりわかりません。疑いしか無い。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170320/1489998115#c1490030103

これで救われたかどうかということは、本願を聞いて疑い無いということ以外には特段自分で決められるような基準はありません。

どちらかと言えば、「これで」私は救われたという「これ」が自分の心の善し悪しで意ッ要るのなら間違いです。例えば、嬉しいから救われた、楽しいから救われた、申し訳ないの気持ちが出たから救われたというのは、自分の感情が信心かどうかの基準になっています。

そのような自分の感情は、日々変わるものですからそれで信心が決まるのなら、いつどうなるか分からない信心となってしまいます。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。 (教行信証 総序)

ここで、聞思して遅慮することなかれと親鸞聖人はいわれています。聞思とは、「本願のいわれを如実に聞いて思いをめぐらすこと(浄土真宗辞典)」です。また、如実に聞くとは、「真実・真如のとおりに、あるがままに(同)」聞くということです。

つまり、「摂取不捨」と私を摂めとって捨てられないという阿弥陀仏のまことの言葉を、そのまま聞いて、聞いた通りに思うということです。そこに対して、遅慮することなかれと言われていますから、あれこれと疑いためらってはならないと疑いをいましめられています。


最初に誠なるかなと言われていますが、分からないことが分かったのではありません。アルキメデスが、アルキメデスの法則を発見して「ユーレカ!(分かった)」と風呂から飛び上がったような信心ではありません。知らないことを知ったのではなく、聞いたことを聞いた通りに聞いたのです。ただ今助ける南無阿弥陀仏と聞いて疑いないのが信心です。

ただ今助けるとそのまま聞いて見れば、ただ今助かるとなります。何かが分かったのではなく、聞いた通りに聞いただけです。さっぱりわからいのが現在でも、必ず聞いて疑い無いと聞くときがあります。ただ今聞いて救われて下さい。

2017-03-20

「報土に往生ができなくても、もう別に化土でいいじゃないか、という気持ちになることがあります。(略)最近は報土に往生ができなくても、地獄、餓鬼、畜生に堕ちるくらいなら、別に自力念仏で化土往生でもいいじゃないか、と思うようになってきました。」(さびしい人さんのコメント)

エントリーが遅くなり、すみません。

さびしい人   2017/03/18 17:22

いつも拝見させていただいております。

たくさんお聴聞させていただいておりますが、お恥ずかしながらまだご信心をいただくことはできておりません。

これはよくないこととはわかっているのですが、報土に往生ができなくても、もう別に化土でいいじゃないか、という気持ちになることがあります。

衆生の行先は3つしかないとよくご法話でもお聞きします。一つは真実報土、二つ目は方便化土、3つ目は三界六道(輪廻)。

実際、飛雲さんのサイトでもよく書かれています。

最近は報土に往生ができなくても、地獄、餓鬼、畜生に堕ちるくらいなら、別に自力念仏で化土往生でもいいじゃないか、と思うようになってきました。

もちろん、このような思いがよくないことは百も承知ですが、最近はそのように思うことも多々あります。

以下のサイトでも「浄土門の人の大半は化土往生」とあります。

http://blog.livedoor.jp/sutybi/archives/515697.html

よくないこととは思いながらも、悪道に堕ちるくらいなら化土往生で構わないという、化土往生に安心してしまう自分が恥ずかしいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170309/1489041231#c1489825344

最初に書きますと、コメント欄で紹介されていたエントリーは、「浄土門の人の大半は化土往生」とは書かれていません。

20願の自力念仏については、浄土門の人の大半がこれです。親鸞聖人が化土往生について仰っているのは、自力念仏についてばかりです。

(略)

23首で、化土往生を誡められています。誡める理由は、化土往生する人が多いからです。

http://blog.livedoor.jp/sutybi/archives/515697.html

化土往生する人が多いということと、自力念仏する人の大半が化土往生するということは意味がことなります。

親鸞聖人が化土往生する人が多いと言われたのは、それだけ十八願の報土往生を疑う人が多いのでそれを戒めらるためです。「それだけ疑う人が多いから間違えないで下さい」

という言い方です。

では、20願の自力念仏の人は、もれなく化土往生できるのでしょうか?

化土往生する人は、往生要集にあるような「臨終行儀」を行わねばならないというのが、親鸞聖人が誡疑讃を書かれた当時の認識です。

では、臨終に平静な心を保てる人はどれくらいあるでしょうか?決して多くはありません。

そのため、平生業成を勧められた親鸞聖人の教えからいえば、臨終来迎を期待する考えは厳しく戒められました。

そのことは、覚如上人の口伝鈔にも書かれています。

しかればわたくしにこれをもつてこれを案ずるに、真宗の肝要、安心の要須、これにあるものか。自力の称名をはげみて、臨終のときはじめて蓮台にあなうらを結ばんと期するともがら、前世の業因しりがたければ、いかなる死の縁かあらん。火にやけ、水におぼれ、刀剣にあたり、乃至寝死までも、みなこれ過去の宿因にあらずといふことなし。もしかくのごとくの死の縁、身にそなへたらば、さらにのがるることあるべからず。もし怨敵のために害せられば、その一刹那に凡夫としておもふところ、怨結のほかなんぞ他念あらん。また寝死においては、本心、息の絶ゆるきはをしらざるうへは、臨終を期する先途、すでにむなしくなりぬべし。いかんしてか念仏せん。またさきの殺害の機、怨念のほか他あるべからざるうへは、念仏するにいとまあるべからず、終焉を期する前途またこれもむなし。仮令かくのごときらの死の縁にあはん機、日ごろの所存に違せば、往生すべからずとみなおもへり。たとひ本願の正機たりといふとも、これらの失、難治不可得なり。いはんやもとより自力の称名は、臨終の所期おもひのごとくならん定、辺地の往生なり。いかにいはんや過去の業縁のがれがたきによりて、これらの障難にあはん機、涯分の所存も達せんことかたきがなかにかたし。そのうへは、また懈慢・辺地の往生だにもかなふべからず。これみな本願にそむくがゆゑなり。(口伝鈔)

https://goo.gl/7YRrFt

書かれていることをまとめていいますと、自力念仏で臨終になんとかなろう、化土往生をさせてもらおうと思っていても、死ぬ時にはどんな状況になるか分かりません。なので化土往生もできない(懈慢・辺地の往生だにもかなふべからず。これみな本願にそむくがゆゑなり。)と言われています。

平たく言えば、化土往生を目指している人の中で、いわゆる凡夫は化土にも往生出来ない(あえて断言)と厳しく戒められています。

ただこれは、覚如上人個人の意見ではありません。親鸞聖人も、同じことを言われています。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(教行信証 化土巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P412)

現代文

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

https://goo.gl/MSnCxh

ここで知っていただきたいのは「報土に入ることなきなり」です。なぜなら化土往生する人は、五百歳化土にいたあとやがて報土出来ます。それにもかかわらず「報土に入ることなきなり」といわれるのは、言い換えれば「化土往生できない」ということです。

全く報土往生を知らない人ならまだしも、報土往生(第十八願の往生)を法然聖人から聞きながら、化土往生を夢見る兄弟弟子に対して親鸞聖人は、このように仰っています。

さびしい人さんに言われている、親鸞聖人のお言葉だと思われないでしょうか?これは決して、さびしい人さんを謗って言われているのではありません。どうかどうか、報土往生をして下さいとのお勧めです。阿弥陀仏のお勧めを、手前勝手に曲げてはいけません。

貴方が、ただ今救われないのは、貴方の能力の問題でも、性格の問題でも、努力の問題でも、年齢の問題でもありません。ただ今本願を聞いて下さい。ただ今救われ、報土往生させて頂けます。

「『御文章』白骨章の最後に「後生の一大事をこころにかけて」とお示しでありますが、その「後生の一大事」とはどういうことでしょうか。なぜ後生が一大事なのでしょうか。」(wmさんのコメントより)

エントリーが遅くなり、すみませんでした。

wm    2017/03/18 21:36

端的におたずねいたします。たとえば『御文章』白骨章の最後に「後生の一大事をこころにかけて」とお示しでありますが、その「後生の一大事」とはどういうことでしょうか。なぜ後生が一大事なのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170309/1489041231#c1489840613

お尋ねの、後世の一大事について浄土真宗辞典から引用します。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

ごしょうのいちだいじ 後世の一大事

後生とは後に来るべき生涯、一大事とは最も重要なことの意。生死の問題を解決して後生に浄土に往生するという人生における最重要事をいう。

『御文章』5帖目16通には「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」等とある。

意味はこの通りです。

なぜ一大事なのかと言われれば、生死を離れて浄土に往生するということは、特に凡夫にとっては大変なことです。日々生死から離れられない私にとっては、ここから離れられるということは、ちょっと考えてもあり得ないことであり、これより大事なことはありません。

浄土に往生しないということは、生死の問題を解決できないということであり、苦しみから離れられられないということです。

その生死から離れさせるために、阿弥陀仏は本願を建てられているので、「阿弥陀仏をふかくたのみ」と御文章には続けて言われています。

別の言い方をしますと、生死といいますのは、迷いの凡夫の生み出したものだと言われます。凡夫にとってみては、生きることは「良い事」死ぬことは「悪いこと」と分けて考えます。また健康であることは「良い事」病気は「悪いこと」、若いことは「良い事」老いることは「悪いこと」と考えます。その考えからすると、人は生きて行けば、老いと病と死はさけられません。

そのように、死ぬことは悪いことと思い込む私に、「お前は死んで消えて行くものではない、浄土に生まれるものだ」と常に呼びかけ救って下さるのが阿弥陀仏です。一度浄土に往生すると定まった人にとっては、いたずらに終わる生も、消滅や先行き不明な死はもはやなくなってしまいます。

白骨の章でいわれいるのは、世の無常を切々と書かれていますが、最後に「後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をたのみ」と言われています。それは、「朝に紅顔、夕べに白骨」でそれで「お終い」なのが貴方ではありません。貴方は終わらないですよ、なぜなら阿弥陀仏が浄土に生まれさせると誓われています。浄土に生まれる人には、空しく終わる生も、暗黒の死もありませんから、阿弥陀仏をたのめと勧められています。

2017-03-09

「真宗は往生即成仏と説くのに、なぜ中陰があるのですか。」(wmさんのコメントより)

wmさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

wm 2017/03/09 10:47

このブログを偶然見つけ、質問させていただきます。

真宗は往生即成仏と説くのに、なぜ中陰があるのですか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170307/1488873220#c

まずお尋ねの中陰についての意味から紹介します。

ちゅう‐いん【中陰】

〖名〗仏語

(1)ちゅうう(中有)

→衆生が死んでから次の縁を得るまでの間。四有の一つ。無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、書状の生を受ける瞬間を生有、死の刹那を死有、生有と死有の中間を本有とし、死後次の生有までを中有とする。中陰。

(2)人の死後四十九日の間の称。人は死後七日を一期としてまた生を受けるという。極悪・極善の者は死後直ちに次の生を受けるが、それ以外の者は、もし七日の終わりにまだ生縁を得なければさらに七日、第二七日の終わりに生を受ける。このようにして最も長い者は第七期に至り、第七期の終わりには必ずどこかに生じるという。

小学館 精選版日本国語大辞典

そこでお尋ねの、「真宗では往生即成仏を説く」についてですが、あくまでも浄土往生したひとは速やかに成仏するということであって、真宗門徒に名前を連ねている人がもれなく全て浄土往生するわけではありません。


真宗の教えでは、阿弥陀仏の本願を信じ念仏する人は必ず浄土に生まれます。ですから、本願を信じない人は浄土に往生することがありません。そのため、そういう人には中陰ということがあります。


では、浄土真宗の葬儀はそのように、浄土往生していない人がいる前提で、その供養の為に行われているのかといえばそうではありません。本来、浄土真宗での葬式法事は、儀式伝道と定義されています。

それに付いては、中央仏教学院のテキスト「伝道要義」から紹介します。

真宗の儀式はすべて仏徳讃嘆の意味をもっている。葬儀式といえども仏徳讃嘆の儀式である。葬式仏教という言い方で批判されるのは、葬儀式を批判しているよりも、僧侶がその儀式の意味を忘れてただ儀式張る(わざと体裁をつくって堅固に形式ばる」からである。

(中略)

真宗における儀式は如来大悲を仰ぎ仏恩報謝の儀式であるからこそ、儀式伝道といえるのである。このサシガネを軽視すると、位牌や護符を認めてしまう宗門になってしまうであろう。

(中略)

また葬式についても「没後葬礼をもて本とすべきやうに衆議評定する、いはれなき事」と記されている。これとて葬式無用論者のそれではない。儀式の意義即ち往生の信心を忘れて、単なる行事にしてしまっていることへの批判である。我々は伝道を考える場合、もっと儀式で表現されている教義的内容を問わねばならないのである。

(中央仏教学院テキスト 伝道要義P79)

もともと中陰といって死後七日毎の法要は、浄土真宗に限らず日本の風習としても定着していたものでした。それらの葬儀式を縁として仏徳讃嘆し、また参加者に法を伝えて行こうという伝道の場が元々の目的でした。

もっとも、必ずしも全ての葬式や法事が上記のようになっていない場合もあるかと思います。私もそういう意見は耳にしたことがあります。本来の意義が伝われば、お尋ねの疑問も解消されるのではないかと思います。

2017-03-07

「阿弥陀仏の一方的お育てが完了してないと本願まことと信じる不思議な心(信楽)を得られないんではないですか?」(bibiさんのコメントより)

bibiさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

bibi 2017/03/06 12:29

この方のブログ拝見して気付きました

1?20.本願まことと信楽不思議 - なもあみだぶのつぶやき部屋


昔から信心決定された方が当たり前のように言うことが理解できず、どのようにそう感じるのだろうと不思議で、獲信できないことはそこが理解できないからと悶々と格闘していたんですが、

阿弥陀仏の一方的お育てが完了してないと本願まことと信じる不思議な心(信楽)を得られないんではないですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170302/1488455135#c1488770976

阿弥陀仏のお育てというのは、時間がかかるといえばかかりますが、少なくとも現在念仏する人はもうお育ては完了してるといっても問題ないと思います。

ですから、すでに念仏する人の中で、すでに信心獲得している人と、そうでない人の差は阿弥陀仏のお育て云々に関してはないに等しいです。

では何が違うのかといえば、本願を聞くか聞かないかということです。別の言葉でいえば、信ずるか疑うかの違いです。

こう書きますと、その「聞く」にもお育てが必要なのではないか?と思われるかもしれません。私も以前はそう思っていました。しかし、未だ聞いたことのない救いを聞くのであれば、「自分はまだだ」という理屈も成り立ちますが、すでに救いの法を聞くご縁にあっている人には、これ以上のお育ては必要ありません。

強いていうならば、「自分はまだ助かってはいけない」と自分で思っている心が、「まだお育てが終わってない」と考えさせるのではないでしょうか?私自身も含めて、いろんな人にお会いしてきました。また、いろいろとお話しもさせて頂きました。そこから感じたことは、「自分は助かるべき人間ではない」との思いをもっておられる(おられた)人が割と多くおられるのではないかということです。

そういう人には阿弥陀仏は、「お前を助ける」といいながら「お前はもう助かってもいいんだよ」と寄り添って下さいます。もう自分を傷つけたり、さげすんだりする必要は阿弥陀仏の救いには必要ありません。貴方は救われてもいい人なのだと、常に呼びかけ働いて下さっているのが南無阿弥陀仏です。

阿弥陀仏は、世の中の人がいうように「自信を持て」とか「自分を信じろ」とはいわれません。阿弥陀仏の仰せは「私(阿弥陀仏)が信じるお前(貴方)を信じろ」といわれているのです。阿弥陀仏から見れば、私は「必ず浄土往生し仏になるもの」なのです。その阿弥陀仏が信じられているように「私は、浄土往生し仏になるのだ」と聞いて信じたのが信心といいます。そこには、私の目から見た私の能力や人格や性格や性別や年齢も関係ありません。阿弥陀仏が見られたように、私は浄土に往生させて頂けるものと聞き入れるだげです。


獲信者が当たり前のように話す事柄もその信楽あっての前提で無自覚で話されている。

しかしその心は説明することが不可能とブログの方が言われてます。

素地が出来てないといくら頑張っても救いは得られないんだとおもいます。

素地の出来ている人には弥陀にお任せするだけだ簡単に助かると言えるが

それ以外の人にはどうにもならない言葉になるんでしょう。

ある種選民的なところがあるかもしれない。

おそらく全ての人を救うといっても現時点だけ考えると数的に限界があるんではないでしょうか?

環相が増えるとその数も増えるのかもしれない。

自分はまあお育てを待つしかないです。(bibiさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170302/1488455135#c1488770976

お育てを待つ必要はありません。なぜなら、もう十分に育っているからです。

そういう意味で、阿弥陀仏の救いをどうか遠くに置かないで下さい。貴方が救いはまだ先と思うのは、貴方がそう信じているからだと思います。ですが、阿弥陀仏の救いに関しては自分を信じないで下さい。繰り返しになりますが、自分が見る自分を信じるのではなく、阿弥陀仏が信じられている私を信じて下さい。 

(38)

如来の作願をたづぬれば

 苦悩の有情をすてずして

 回向を首としたまひて

  大悲心をば成就せり(正像末和讃)

https://goo.gl/4o6VPJ

阿弥陀仏は、「救って下さい」と思う人、待っている人にはすでに寄り添って下さっています。もう待つ必要はありません。ただ今救われて下さい。貴方に対して「まだだ」というのは、貴方以外には誰もありません。

2017-03-06

「凡夫は本願を一度でも信じなければ往生できない、という風に読めてしまうのですが、そうお考えなのですか?かりにそうだとしたら如来の本願はそんな限定的で狭いはたらきなのでしょうか?」(ototanさんのコメントより)

ototanさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

コメントが長文の為、引用するのは一部分になります。

ototan 2017/03/05 10:24

 今回の山も山さんのお言葉は、何度読み返しても、凡夫は本願を一度でも信じなければ往生できない、という風に読めてしまうのですが、そうお考えなのですか?

 かりにそうだとしたら如来の本願はそんな限定的で狭いはたらきなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170302/1488455135#c1488677090

本願を信じない人は、浄土に往生できないと私は書いています。

上記のコメントの文章にも書かれていますが、阿弥陀仏の御慈悲の対象に限定もありませんし、差別もありません。長い目で見れば、阿弥陀仏の本願で浄土往生しない人はありませんが、ただ浄土に往生するのは、本願を信じ念仏する人です。しかし、それも長い目で見れば今本願を信じない人も、本願力によって本願を信じるようにさせていただくときが来ます。念仏しない人も、何時かは念仏する時が来ます。その意味で狭いはたらきの本願ではありません。

御慈悲には分別はありませんが、ただ今本願を信じているかいないかについては私の側には時間差はあります。一個人でも、以前は本願を信じていなかった時はあります。

 極端な言い方をすれば、南無阿弥陀仏を知っていようと知っていまいと、信じるか信じないか、阿弥陀さんにはどっちでも良くて凡夫が他力によって救われることは揺るぎないのではないでしょうか。(ototanさんのコメント)

どっちでもいいとは思いません。念仏を勧め、信心を勧められた親鸞聖人の教えはそのためにあったと思います。


(1)
弥陀の名号となへつつ


 信心まことにうるひとは

 憶念の心つねにして

 仏恩報ずるおもひあり(浄土和讃 冠頭讃)


念仏するものでも、信心まことに獲る人は仏恩報ずるおもいありと親鸞聖人はいわれています。

第三者の往生はわかりませんが、念仏申している人の中でも、本願信ずる人と疑っている人では結果が違うと親鸞聖人はいわれています。

2017-03-02

「「今・ここ」の救いでなく、臨終における救いにおいても「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」が必要とされるのであれば、それこそせっかくの南無阿弥陀仏が救いの証拠ではなく条件に成り下がってしまうのではと思いはかったことです。 」(求道者Kさんのコメント)

今回は、コメントの文章が長いためコメントを紹介しつつエントリーを書きます。コメント全文をそのまま読まれた言い方は、下のコメント欄の文章をお読みください。

求道者K

(略)

「南無阿弥陀仏は救いの条件でなく救いの証拠である」

とは、本派のある僧侶様のお話しでお聞きしたお言葉でしたがなるほどなと聞かせていただきました。

こちら側の条件など一切問われず、つまりは「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」(一念多念文意)ことをせずとも、南無阿弥陀仏の名号において救いは完成しておる。我々の生き様や死に様を問うことなく、阿弥陀仏の方で十方衆生の往生を誓っておられるのだとお聞かせいただきました。

しかし言うならば、我々が救いを証明しなくとも救いが完成している事実には変わりないのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

この「救いが完成している」については、救いの手立てが完成していると言うことだと思います。

救いの手立ては既に完成しているのですが、後に紹介されているお聖教のご文からしても、阿弥陀仏の救いといいますのは雑行をしているものまで救うと言うお救いではありません。

証拠がなくとも救いが成就しているという事実には影響がない。なんの思いはからいもなく南無阿弥陀仏を称え・聞くことが救いが私に届いていた証拠ではありますが、私が証する以前に阿弥陀仏の方は常におはたらきになっているのですよね。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

救いの働き(願力)が私に届いているということと、私が救われる(信心を獲る・往生浄土が定まる)は同じことではありません。

しかし、宗祖はたとえば『尊号真像銘文』の観念法門の文を釈す箇所において、

「総不論照摂 余雑業行者」というは、総はすべてという、みなという。雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわずとなり。てらしまもりたまわずともうすは、摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者にあらざるゆえなりとしるべし。

と雑行雑修の人を嫌うどころか救いから漏れるとおっしゃっております。これはどういったお心でしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

「本願の行者にあらざるゆえなり」と書かれています。

本願の行者ではないというのは、本願を信じる行者ではないということで、念仏一つで救う本願を信じないで、雑行雑修をしている人のことです。そういう人は、最初から本願を信じ念仏していませんので、本願の救いからは現時点で洩れています。

同文については『一念多念文意』においても

「総不論照摂余雑業行者」というは、「総」は、みなというなり。「不論」は、いわずというこころなり。「照摂」は、てらしおさむと。「余の雑業」というは、もろもろの善業なり。雑行を修し、雑修をこのむものをば、すべてみな、てらしおさむといわずと、まもらずとのたまえるなり。これすなわち、本願の行者にあらざるゆえに、摂取の利益にあずからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり。

同様に解釈しておいでです。私としては「このよにてまもらず」という所がポイントであり、救いは完成しているのだが雑行雑修自力の心では「このよ」、つまりは「今・ここ」において救いを感得することができないので、自力を嫌い他力の信をすすめておられるようにお聞きしたのですが。

しかしたとえ自力の念仏であろうとも(あるいは称名すらなくとも?)、(本派さんは死後往生を説くと理解していますが)南無阿弥陀仏と称する人は死後往生、つまりは臨終来迎にあずかるという意味の救いからは漏れないのではないでしょうか。

それこそ生き様死に様を問わず、私の証明行為すらも問わずとも救いを完成させた南無阿弥陀仏のお心かと感じるのですが…。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

摂取不捨の利益に預かっていないのですから、臨終にだけは助けて下さるということはありません。親鸞聖人の教えられた阿弥陀仏の救いは、平生に摂取不捨の利益にあずかるのですから、それなしに浄土往生はありません。

平生に摂取不捨の利益にあずかれば、生き様死に様は関係なく浄土に往生させるというのが南無阿弥陀仏です。

いや「今・ここ」の救いでなく、臨終における救いにおいても「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」が必要とされるのであれば、それこそせっかくの南無阿弥陀仏が救いの証拠ではなく条件に成り下がってしまうのではと思いはかったことです。

これも宗祖の嫌う「私の思いはからい」ですので、どうぞお導きをいただければと存じます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

平生でも、臨終でも「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の救いが阿弥陀仏の本願です。

「本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせる」という本願において、「本願を信じなくても救って下さい」といわれれば、本願から洩れるのは文章を読まれても分かると思います。


ただ「本願を信じる」というのは、救いの「条件」とはいえません。

なぜかについて「条件」の意味を、以下のものから考えて見ます。

じょうけん【条件】

〖名〗

  1. 約束ごとや契約などの箇条。項目。くだり。また、物事について限定したり制約したりする事柄。
  2. 物事の成立・生起に欠くことのできない事情。物事が実現するのに必要な事柄。(小学館 精選版日本国語大辞典

まず(1)の意味で言うならば、「条件」というのはあてはまりません。

一般に約束事や契約などには、お互いの行為に付いての条件が出されるからです。私が○○したならば、あなたは××してください。という場合です。

阿弥陀仏の救いはこれにあたりません。なぜなら、「本願を信じる」というのは、「私の行為」ではないからです。求道者Kさんのコメント文脈からすると、本願を信じることがなにか私の行為のように読めてしまいます。しかし、聞其名号 信心歓喜するといっても、それは私の行為ではく、名号に手出しをせずそのまま聞き入れただけで私の作為は入っていません。


次に、(2)の意味でいうのならば、「条件」というのは当てはまりません。

なぜなら、上記に書かれているように、「本願を信じ念仏する人を必ず浄土に生まれさせる」ということは、「本願を信じない」人は浄土に生まれることはないからです。そういう限定の意味は出てきます。しかし、いま本願を信じていない人も、一度本願を信ずれば必ず浄土に生まれさせる本願です。

2017-02-25

2017-02-21

「名を呼ぶことは当然帰命の意を含んでいる、というのは話で聞いたことないです。(略)だったら無量光だけもでいいということです?」(七誌の権兵衛)


七誌の権兵衛 2017/02/19 07:20

名を呼ぶことは当然帰命の意を含んでいる、というのは話で聞いたことないです。
その和讃に関して浄土真宗ではその四十号でも念仏の代わりになると教えてますか?
だったら無量光だけもでいいということです?
通常浄土真宗といえば南無阿弥陀仏一辺倒で教えられています。
だから南無阿弥陀仏だけに特別な何かがあると思っていたんですが。

その辺のところ今の浄土真宗に説明不足があるんでしょうか?
ご開山が十字名号で布教したというのはこういう誤解を生じさせるから敢えてそうなされたんですかねえ?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170217/1487332503#c1487456430

名を呼ぶことは帰命の意味を含んでいるに関して言えば、根拠は、浄土論浄土論註、六字釈になります。

さんだん 讃嘆

仏や菩薩などの徳をほめたたえること。天親はこれを『浄土論』で五念門の一つに挙げて阿弥陀仏の名を称することとし、これをうけた曇鸞は『論註』に「称彼如来名といふは、いはく無碍光如来の名を称するなり」(信巻引文・註214)と示している(以下略)

浄土真宗辞典より)

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

そこで、親鸞聖人は、この「無碍光如来の名を称する」ことが「大行」であるとされました。また、親鸞聖人の教えでは、この大行とは南無阿弥陀仏であるとされています。

その南無阿弥陀仏について解釈されているのが六字釈です。ここでは、親鸞聖人の六字釈を紹介します。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻)

現代文

そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説と熟語した場合、説は「悦」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。

 また帰説と熟語した場合、説は「税」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。

 説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。

 こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び90続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。

https://goo.gl/zM68VI

南無阿弥陀仏の南無には、帰命の意味がありますから、南無阿弥陀仏と申すことは帰命するとの意味はあります。

名を呼ぶと言いますか、真宗では念仏のことを称名とも申します。称名とは文字通り「名」を「称する」ことです。そこで、称名との意味ですが、もともとただ名前を言うという意味だけではありません。

称名に関して言えば、阿弥陀仏の名前をただ口にしているということではなく、先述しましたように讃嘆の意味があります。そこで、阿弥陀仏の名を称すれば讃嘆となりますから、阿弥陀仏といっても無碍光如来といっても同じことです。

ただ、親鸞聖人は阿弥陀仏の四字ではなく南無阿弥陀仏の六字をよく用いられています。

それは、前述の六字釈にもかかれていますが、阿弥陀仏がどういう仏であるかということをより明らかにされる意味でも南無阿弥陀仏と言われています。

きみょう 帰命

梵語ナマス(na‐mas)の意訳。南無と音訳する。心から信じ敬うという意。浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀仏の勅命の意とする。「行巻」には「帰命は本願招喚の勅命なり」(註170)(以下略)。

浄土真宗辞典より)

阿弥陀仏とは、私に南無せよと呼び続けられている仏であるということです。また、南無せよとの仰せを受け入れるものは必ず救う仏であるということです。

ですから、親鸞聖人が阿弥陀仏と書かれているところでも、その意味から言えば「南無阿弥陀仏」と同じ意味として言われています。

最後に、浄土真宗で念仏としたときに南無阿弥陀仏と多く使われる根拠の一つを紹介します。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(教行信証行巻)

現代文

こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。

https://goo.gl/lnJyRy

2017-02-17

『帰命尽十方無碍光如来』は『南無阿弥陀仏』と同じで親鸞聖人はこちらの十字名号で布教していたと聞きましたが、救いは六字名号でなければならないということとの整合性はどう説明するのでしょうか?(七誌の権兵衛 さんのコメント)

七誌の権兵衛 2017/02/15 19:51

『帰命尽十方無碍光如来』は『南無阿弥陀仏』と同じで親鸞聖人はこちらの十字名号で布教していたと聞きましたが、救いは六字名号でなければならないということとの整合性はどう説明するのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487155862

お尋ねの件については、改邪鈔のご文を指して言われているのだと思います。

本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。いはんやその余の人形において、あにかきあがめましますべしや。末学自己の義すみやかにこれを停止すべし。 (改邪鈔)

https://goo.gl/C7dcck

親鸞聖人が、本尊として木像などを用いず、「帰命尽十方無礙光如来」を本尊とされたとのことです。

ただ、これに関しては親鸞聖人の六字名号もあれば、八字名号もあるので、十字名号しか用いられなかったということには成りません。

また、布教においてとのことですが、専ら「帰命尽十方無礙光如来」だけを勧めて、「南無阿弥陀仏」を勧められなかったとか、その反対ということはありません。

それについては、御消息に以下のようにあります。

念仏申し候ふ人々のなかに、南無阿弥陀仏ととなへ候ふひまには、無碍光如来ととなへまゐらせ候ふ人も候ふ。

これをききて、ある人の申し候ふなる、南無阿弥陀仏ととなへてのうへに、帰命尽十方無碍光如来ととなへまゐらせ候ふことは、おそれあることにてこそあれ、いまめがはしくと申し候ふなる、このやういかが候ふべき。

南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さんはあしきことなりと候ふなるこそ、きはまれる御ひがことときこえ候へ。

(中略)

あるいは阿弥陀といひ、あるいは無碍光と申し、御名異なりといへども心は一つなり。阿弥陀といふは梵語なり、これには無量寿ともいふ、無碍光とも申し候ふ。梵・漢異なりといへども、心おなじく候ふなり。(御消息)

https://goo.gl/uRg54a

意味を大まかに言いますと、念仏している人の中に、南無阿弥陀仏と称えている合間に、無碍光如来と称えている人もいました。それを、ある人がそのように南無阿弥陀仏と称えて、また帰命尽十方無碍光如来というのはよろしくないと批判しました。

それに対して、そのように批判するのが間違いであると書かれた手紙です。

阿弥陀といっても、無碍光如来と名前が違っても、心は一つで同じであるといわれたものです。

どちらかでなくてはならない、といわれたものではありません。

ただ、一般には南無阿弥陀仏と親鸞聖人が書かれたものの方が多いです。ご和讃などは、そのよい例だと思います。

また、親鸞聖人が、本師と仰がれる法然聖人選択本願念仏集の冒頭に書かれているのことを、親鸞聖人は以下のように教行信証に引文されています。

選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、

「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。 (教行信証行巻)

https://goo.gl/Fw9dyK

往生には、念仏を本とすといわれた、その念仏はここでは「南無阿弥陀仏」と書かれています。そこから、親鸞聖人の教えで「念仏」とか「念仏成仏」といったときは、多くの場合は南無阿弥陀仏を勧められたとものとされています。

でん 2017/02/16 12:11

整合性も何も、同じじゃないですか

南無阿弥陀仏の方が称えやすいからその様に称えてるだけであって

十字名号の方が意味が分かりやすいから

布教に適していたのではないかと思われますが

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487214663

七誌の権兵衛 2017/02/16 14:58

真宗においては六字名号を教えの要とするので救いの体は文字列なのかと思ってましたが意味として念仏するんですか?

ということは念仏は十字名号でも、または「お任せします、阿弥陀様」でもいいわけですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170214/1487070759#c1487224716

南無阿弥陀仏といっても、帰命尽十方無碍光如来といっても、御消息にあるようにその心から言えば同じですから限定するものではありません。ただ、称えるにしてもどちらが現在主になっているかといえば、先の選択集にあるようにやはり南無阿弥陀仏です。

御文章でいえば、弥陀をたのむということになりますから、それを現代語にすれば「お任せします、阿弥陀様」でも意味さえ間違わなければ特に問題はないと思います。

とはいえ、「親鸞聖人はこのように教えられました」または「法然聖人はこのように教えられたと親鸞聖人は言われています」と伝えるのが真宗における布教だと私は思っています。その意味では、親鸞聖人や法然聖人が勧められた「南無阿弥陀仏」をあえて使わないのはかえって不自然だと思います。

ご法座でも、合掌礼拝するときは、伝統的にみな「南無阿弥陀仏」と念仏もうしておりますので、その「南無阿弥陀仏とは」と伝えてこられたのが、念仏の教えです。また南無阿弥陀仏はただの文字列ではなく、阿弥陀仏の大行ですから、文字列ならば、データ量は六字で十数バイトしかありません。しかし、南無阿弥陀仏は私を浄土に往生させる大変なお働きがあり、阿弥陀仏の正覚そのものです。

その南無阿弥陀仏に救われるということですから、帰命尽十方無碍光如来でも問題はないのですが、伝統的に南無阿弥陀仏を称え聞いてきたのが現在まで続く浄土真宗です。繰り返しになりますが、個人として称えやすいほうでいいので「絶対こちらでないといけない」ことはありませんが、念仏申すことを抜きには浄土真宗の教えはありません。

2017-02-14

「南無阿弥陀仏とは一種の自己暗示なのではないのかと思っています。南無阿弥陀仏と唱えることによって阿弥陀如来に生死の問題を丸投げして単に思考停止している状態を仮に獲信と呼んでいるのかなと思います。」(名無しさんのコメント)

名無しさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。エントリーが遅くなりすみません。

名無し 2017/02/11 20:07

南無阿弥陀仏とは一種の自己暗示なのではないのかと思っています。

南無阿弥陀仏と唱えることによって阿弥陀如来に生死の問題を丸投げして

単に思考停止している状態を仮に獲信と呼んでいるのかなと思います。

そして実際に生死の問題されたかどうかは誰にも分からないし、確認のしようがない。

本当に自力では生死の問題をどうすることも出来ない者にこれ以上生死のことで悩み、迷う必要のないよう「釈尊が創作した単なるおまじない」でしかないのかも知れないなと思うのですがどうお考えですか?

本来地獄も、浄土もなくて、死ねば肉体は焼かれて自然の一部となり、魂だの自我と言ったものは最初からどこにも存在していなくて、あくまでこれは「私という漠然とした概念」を便宜的に定義する為だけのもので、死ねば霧散してしまうもの。

つまりもしかしたら、死後、悟りもなければ、浄土もない、死後に残るものなど何一つ存在せず、そもそも救いの対象たる「私」すら存在せず、ただ、生死の問題を解決できないもののために今生〜臨終まで南無阿弥陀仏の名のもとに助からないものに対しての自己暗示なのではないのかと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170129/1485637977#c1486811267

複数の質問を頂いておりますので、順番に書いて行きます。

最初の自己暗示についてです。

じこ−あんじ【自己暗示】

〖名〗一定の観念を繰り返すことによって自分自身に暗示を与え、通常と異なる心の状態をつくり出すこと。精神療法にも利用される。(精選版 日本国語大辞典より)

南無阿弥陀仏が自己暗示であるならば、自分自身に言い聞かせているだけとなりますから、その信心も崩れることもある信心となってしまいます。

また、生死の問題が解決されたかどうかは、仰るように第三者には観察することが出来ません。阿弥陀仏とその当事者の間でしか解りません。もちろん、いわゆる「思い込み」の信心もあるので、そういうものは自己暗示といって差し支えはありません。しかし、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無い信心は、自分の思いを挟む必要がないものなので、思い込みも必要ありません。


次に、南無阿弥陀仏は釈尊が創作したおまじないかどうかという点です。経典に説かれていることの真偽は、お訊ねの件については経典以外では証拠にならないので、回答はできません。ただ、その南無阿弥陀仏によって多くの方が生死を離れて、浄土に往生していかれたのが浄土真宗です。


最後に、いろいろと悩む私というものが存在しないのではないかという点です。固定的な自我というものは存在しないというのが、仏教でいう無我です。

南無阿弥陀仏については、親鸞聖人教行信証行巻で南無阿弥陀仏について、種々経典からその他の高僧方の著書から引文されたあと、最後にこう言われています。

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(教行信証

現代文)上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。

阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。

https://goo.gl/xuIBnI

繰り返しになりますが、南無阿弥陀仏は「凡聖自力の行にあらず」ですから、自己暗示ではありません。

親鸞聖人が「みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし」と仰るように、南無阿弥陀仏の救いは自己暗示や思い込みでも、釈尊の創作でもありません。南無阿弥陀仏でただ今救われて下さい。

2017-02-05

2017-01-29

阿弥陀仏はただ今救うとか、南無阿弥陀仏が証拠といわれても、目の前に現れるわけでもないわけので、私にとっては遠くにおられるとしか思えません。(頂いた質問)

阿弥陀仏はただ今救うとか、南無阿弥陀仏が証拠といわれても、目の前に現れるわけでもないわけので、私にとっては遠くにおられるとしか思えません。(頂いた質問)

阿弥陀仏は、どこにおられるかといえば、私が称える南無阿弥陀仏がそうなのです。

質問される方が疑問に思われるのは、阿弥陀仏といえば経典上では

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。(阿弥陀経)

と遠く極楽というところにおられる仏として説かれています。

また、目の前に現れられても、途方もないお姿で説かれています。

この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。 (観無量寿経)

(現代語)無量寿仏が突然空中に姿を現してお立ちになり、その左右には観世音、大勢至の二菩薩がつきそっておられた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができない。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにくらべようもなかった。

https://goo.gl/WPU8he

このようなお姿の阿弥陀仏なら、私も拝見したことがありません。

しかし、この観無量寿経では、韋提希夫人がそのあと述べているように「われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり」とあるように、お釈迦さまのお力によって阿弥陀仏を拝見することができたのであって、今日の私たちには同じことは出来ません。

では、私たちには阿弥陀仏とあうことは出来ないのかといえば、そうではありません。

観無量寿経で、「仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし」とお釈迦さまが説かれたあと、阿弥陀仏があらわれて下さっているのは、阿弥陀仏が「苦悩を除く法」そのものだからです。


阿弥陀仏は、その本願で「全ての人の苦悩を除いて浄土に生まれさせる」と誓われています。その阿弥陀仏の本願が成就した姿が、南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏とは何かと言えば、名前であり声です。私の苦悩を除く法は、今日の私には南無阿弥陀仏という「名前」となってあらわれて下さっています。

その南無阿弥陀仏という「名前」が、阿弥陀仏のただの「名前」ではなく、阿弥陀仏そのものなのです。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。(安心決定鈔)

https://goo.gl/Py7lmC

南無阿弥陀仏の名号(名前)は、そのまま仏の覚り(正覚)の全てであるといわれています。


ですから、私が南無阿弥陀仏と申すこの念仏は、阿弥陀仏そのものです。そのように思えるかどうかは、私の側の問題です。阿弥陀仏はどこにおられるというよりは、南無阿弥陀仏と口にするときその声であり、名前が阿弥陀仏なのです。

阿弥陀仏を遠くにおいて眺めるのではなく、この南無阿弥陀仏が阿弥陀仏と聞いて救われて下さい。

2017-01-09

2017-01-03

「真剣さが足りないから、いま阿弥陀さまの呼び声が聞こえないのでしょうか?」(東堂の前さんのコメントより)

真剣に聴聞することは大切です。

南無阿弥陀仏は無条件の救いと聞かせて頂きますが、

聴聞がなくて救われることはないと教えて頂きます。

では、私が真剣に聞けば救われるのでしょうか?

言い換えれば、真剣さが足りないから

いま阿弥陀さまの呼び声が聞こえないのでしょうか?

たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、

そのなか押して南無阿弥陀仏のいわれを聞く人は、

永久に変わらぬ幸せに救われるのである。

と教えられます。

こう言われると、阿弥陀仏の救いは、

猛火に包まれた大宇宙の彼方にあるように聞こえます。

阿弥陀仏の救いは、そんな遠くにあるのでしょうか。

でも、私には猛火に包まれた大宇宙を超えて聞く、

そんな根性も求道心も真剣さもありません。

横着にあぐらをかき開き直て言うのではありません。

実際に弱い心で、それすら無いかもしれません。


私の救われる教えを聞かせて頂きたいと思っています。(東堂の前さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170101/1483225088#c1483247209

東堂の前さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「真剣さが足りないから、いま阿弥陀さまの呼び声が聞こえないのでしょうか?」とのことですが、それは違います。

コメントの文章をお借りすると「足りないのではなく、余分なものがあるから、阿弥陀さまの呼び声が聞こえない」のです。


東堂さんが料理をされる方かどうかは存じ上げませんが、料理に例えると「雑煮を作っている時、何か足りないなと思って醤油を足したり、辛すぎたといって砂糖を足したり、甘すぎたといってまた醤油や酢を入れた上で、勢いあまって冷蔵庫のオイスターソースを入れてみて、なんだかとても食べられなくなった状態」を想像してみて下さい。その雑煮を前にして「何が足りなかったのでしょうか?」と作った人に聞かれれば、「足りないものはなにもありません。むしろ余分なものが多いのです。」というしかありません。


同様に、「何故阿弥陀さまの喚び声が聞こえないのですか?」の問いについては、東堂の前さんが、すでにかなり自力の調味料を足している状態になっています。そうすれば、料理ではできないことですが「余分なものを捨てて下さい」というのが回答になります。蓮如上人が

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」(領解文)

https://goo.gl/GaoHg0

と言われるのはそのことです。


言い換えれば、今迄してきたことの何が悪かったのだろうか?何か足らなかったのだろうかといくら考えても、目の前のどうしようもなくなった雑煮は食べられるものにはなりません。ではどうすればいいでしょうか?料理でいえば、作り直すことです。状況でいえば、振り返らないことです。また、やってきたことを忘れることです。


なぜなら、いつでも南無阿弥陀仏は私に呼びかけられ、ここにおられるからです。そこに、足さずにそのまま聞きうけるより他はありません。ただ今救うと聞いたら、ただ今助けられるのです。

「たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも」について

次に、「たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、」について書きます。

これは、親鸞聖人のご和讃でいえば、以下のものを言われているのだと思います。

(31)

たとひ大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなふなり(浄土和讃

https://goo.gl/ey0NvW

これは大無量寿経に説かれたことを、親鸞聖人がご和讃に書かれたものです。


ここでよくよく思いだして頂きたいのは、大無量寿経もご和讃も、阿弥陀仏の本願の救いが書かれています。阿弥陀仏の本願は、「修行もできない、菩提心もない」ものを何とか救いたいということで建てられたものです。


「猛火に包まれた大宇宙の彼方」に進める人は、とんでもなく菩提心のある人であり、そこを進む修行ができる人です。「何も出来ないものを救う」本願なのに、「猛火に包まれた大宇宙の彼方|に行ける人しか救わないという条件がつけられる筈はありません。


これは、法の尊さをいわれたものです。本来は「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」行かねばえられないような大変な利益(ながく不退にかなう)なのだと示されたものであって、条件ではありません。阿弥陀仏が回向されるのは、「猛火に包まれた大宇宙の彼方」に行かねばえられないくらいのものなのです。それを、私に差し向けて下されるのですから、私は何も足さずに受けるより外はありません。


東堂の前さんは「実際に弱い心で、それすら無いかもしれません。」と言われるのは大変有り難いことだと思います。私には「根性も求道心も真剣さも」あると思って法を聞く人は多くあります。しかし、無い袖は振れませんし、ないものはどれだけ考えてもないのです。本来ないものを「出そう」として、「出さねば救われない」と考えても、最初の「出そう」とするものがないのですから、「『出さねば救われない』救い」が獲られるはずはありません。つまり、自分で作り上げた救いでも、すでに無理な状態なのです。そうではなく、何も出さなくてよいと建てられた南無阿弥陀仏を聞いて下さい。ただ今救うということは、条件がないのです。準備がいらないから「ただ今救う」の仰せなのですから、ただ今救われて下さい。

2017-01-01

2016-12-10

「「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。」(求道者Kさんのコメントより)

しばらくエントリーができず申し訳ございませんでした。また、その間コメント欄にコメントされた方々に御礼を申し上げます。

コメント欄に、求道者Kさんが続けて書かれていることもありますが、最初に書かれたコメントの文面からエントリーを書きます。

このような形で結果的に死後は「おまかせ」、現生は「いただき」のような境地に至ってる私ですが、入り口こそ「お念仏のいわれ」でありましたが、出口としては「縁起の道理」であり、そこに南無阿弥陀仏は必要ではないのではないか?と感じました。必要であったとしてもそれは「南無阿弥陀仏のいわれ」であり、「南無阿弥陀仏」ではありません。そうなるとこの救いには「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」という条件が必要となります。「南無阿弥陀仏」と称えるだけではこのような考えに至らなかったからです。(しかし私としてはきっかけは南無阿弥陀仏だったので感謝の意でお念仏は申します。他の人に絶対にコレとすすめるには至っておりません。)(求道者Kさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」ことが条件になるのではないでしょうか?とのことですが、大ざっぱにいえば条件になります。なぜなら、念仏一声も称えない人を、本願のほの字も知らない人まで浄土に往生させるという本願ではありませんから、「無条件の救い」という言葉の前提は、なんらかの形で念仏申したり、法を聞くご縁にあった人のことです。

しかし、そのように念仏するようになったのも、法を聞くご縁に恵まれたのも信心を獲るのも阿弥陀仏の回向のお働きであり、私が何かをしたからそうなったのではないと、親鸞聖人はいわれています。

(34)

弥陀の回向成就して

 往相・還相ふたつなり

 これらの回向によりてこそ

 心行ともにえしむなれ(高僧和讃)

そこで、法を聞くようなご縁にあった人に、このブログ上でいろいろと信心についてお尋ねを頂きます。私のブログは、「何をしたら助かるのでしょうか?」という方には、「何かをしたら助かるという条件はありません」と書いてきました。「まだまだ時間がかかりそう」という方には「今救われて下さい」と書いてきました。「為すことがないなら待っていればいいのですか?」と問われれば、「待つのではなく、今聞いて下さい」と書いてきました。

このように、人に対して何とか救われて下さいと勧める立場でいうと、「努力が必要で自分にはまだその努力が必要」という人には「努力せよ」とはいいません。「待てばいい」という人には、「待ってはいけません聞いて下さい」といいます。それは相手がこれが条件だと思い込んでいることを否定してるだけです。その意味で「無条件の救い」が阿弥陀仏の救いです。勧めるのは、一言で言えば南無阿弥陀仏となります。

また、南無阿弥陀仏と南無阿弥陀仏のいわれは分けることはできないものです。なぜなら南無阿弥陀仏のいわれの結果、南無阿弥陀仏となられているからで、南無阿弥陀仏のいわれと南無阿弥陀仏は別の二つのことではありません。

念仏を申す人は、「浄土往生の法」とか「阿弥陀仏の喚び声」などなどいい方はいろいろありますが、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて念仏されているからです。

一体、南無阿弥陀仏とは何なのでしょうか?また、往生浄土について私は「自然」のことと思っていますが、「では、無宗教(波阿弥陀仏と称えない人)やキリスト教(他宗)の人はどうなのか?極楽浄土はそこに生まれたいと願う人が皆もらさず生まれる処であり、極楽に強制連行されるわけではない」と言う人もいます。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

そこで南無阿弥陀仏とは何かについてコメント欄の他の方が安心決定鈔を紹介しておられましたので、そこから紹介します。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。 (安心決定鈔)

https://goo.gl/5j2j4W

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の仏のさとりの全体です。南無阿弥陀仏を離れて、阿弥陀仏の正覚はありません。だから、全ての人を浄土往生させるという本願が成就して阿弥陀仏となられたので、私たちの往生の体でもあります。私たちの往生の体であるから、阿弥陀仏の願と行がすべて私に具わるということです。

「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。(求道者Kさんのコメント)

これについて、南無阿弥陀仏は救いへの感謝ではありません。

救いの条件については、前述しましたが大きくいえば念仏申す、法を聞くご縁にあうことです。その意味で、今キリスト教を信じ、真宗の存在そのものを知らない人が突然浄土往生する身になるような無条件の救いではありません。先にも書きましたが、法を聞いたり念仏申すも阿弥陀仏のお働きによるものですから、私が○○したから法を聞くご縁にあえたということは本来はありません。その意味では私の側で「○○したら助かる」という条件はありません。ただ、それは救われてみれば頷けることで、何も知らない人が聞いて納得できるものではありません。

ですから、過去から多くの先達は、法を聞いて下さい、念仏申して下さいと有縁の人に勧めてきました。法を聞かれるようになった、念仏申されるようになってからは、また南無阿弥陀仏を疑い無く聞く以外になにもないのが真宗の救いです。それ以外は条件はありません。コメントの文脈上「救いを実感する」というのが、信を獲るということだと理解して上記のように書きました。

2016-12-04

「「いつか浄土というふるさとに帰れるのだから今は我慢しなさい」と、もっと言うなら「世界には貧困や飢えでくるんでいる人がいるのだからそれに比べてたらマシ」というような論理と変わらないのではないか?と感じ始めたからです。」(求道者Kさんのコメントより)

生もご縁、死もご縁です。私は母から生まれたがそれもご縁の一つに過ぎない。ガンジス河の砂の数ほどのご縁が私を成り立たせている。だから娑婆の縁尽きれば去っていくのみです。そういう意味でいのちは平等です。縁において生起し、縁において去る。生まれが平等なのにどうして生き様でや死に様で去ることに差が生まれましょうか。そういう縁のもとの世界が海なら、人のいのちは波にたとえられますね。海から生まれ海に還っていく。

よって浄土教ではその海を「浄土」と称しているだけであり、どんな方でも往生浄土は自然な事なのではないでしょうか。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

これに関しては、前回のエントリーに書きました。自然の浄土といわれる「自然」は無為自然のことなので、「どんな方でも往生浄土は自然な事」ではありません。

では仮にそれがそういうことだとすると、その「往生浄土」という救いと「今」がどう結びつくのかが問題です。「往生浄土」の確信が「今」だとしても、往生は未来のことであり、今目の前の悩み苦しみに向き合う力になるのかに疑問があります。それは今と往生浄土の比較論であり、まるで「いつか浄土というふるさとに帰れるのだから今は我慢しなさい」と、もっと言うなら「世界には貧困や飢えでくるんでいる人がいるのだからそれに比べてたらマシ」というような論理と変わらないのではないか?と感じ始めたからです。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

これに関して、未来の往生と、今の目の前の苦しみに向き合う力の関係についてのご意見だと受け取りました。求道者Kさんのいわれるような疑問は、私も以前ありました。確かに、往生浄土が定まっていても現実問題がなくなく訳ではありません。「未来に救いがあるから、今は耐えていけ」では、特に現代の人は納得できない人も多いです。

阿弥陀仏に救われる、信心決定、信心を賜るなどいろいろと言いかたはありますが、信心という言葉が持つイメージから、先のような疑問は起きていたのだと後で分かりました。それは、阿弥陀仏に救われたら「私は往生間違いないと私が信じられるようになる」と思っていました。しかし、本来は阿弥陀仏が私の往生は間違いないと信じられていることを受け入れることです。言い替えると、阿弥陀仏が私を信じられていることを聞き入れることで、私は始めて往生が定まると信じるようになります。


それについて親鸞聖人は阿弥陀仏の本願の三心(至心、心行、欲生)について以下のようにいわれています。

あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。

信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。

欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。

いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(教行信証信巻)

現代文明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。

いま、この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみると、みな、まことの心であって、いつわりの心がまじることはなく、正しい心であって、よこしまな心がまじることはないのである。まことに知ることができた。疑いのまじることがないから、この心を信楽というのである。

阿弥陀仏が本願で願われた三心とは、すべて真実の心であって、阿弥陀仏から回向される心です。往生間違いないというのも、阿弥陀仏が私の往生は間違いないと疑い無く信じられているから起きる心です。


私自身も自分が往生できるとは、本来思ってもいないですし、また、法を聞き始めてもなかなか信じられないものです。しかし、そこでいくら「自分で自分に私は必ず往生する」と信じようとしてもとても信じられるものではありません。仮に阿弥陀仏から「自分を信じろ」といわれても出来るものではありません。例えば、受験にしろなにかのスポーツの試合の前に、「自分は大丈夫だ」と自分に言い聞かせても、家族から「自分を信じろ」といわれても安心できないのと同じです。つまり、未来のことを自分で信じようとしても、他人から信じろと現実は何も変わりませんから、そこには安心もありません。


ですから、未来は大丈夫だと信じたとしても、あまり現実の安心とはつながらないのではないかと考えてしまいます。また、阿弥陀仏に「自分を信じろ」といわれても、なかなか信じられるものではありません。


そこで、阿弥陀仏は「貴方が浄土往生することを疑い無く信じています」という信心を私に差し向けて下さっています。言い替えると、「貴方は浄土往生できると信じています」と常に仰っているということです。「阿弥陀仏に私は信じられている、しかも疑い無く」ということです。それを聞き入れる人は、「阿弥陀仏に信じられている人」となるので、それを信心決定といいます。

未来の往生浄土のことではありますが、今日的な言い方をすれば、「私を疑い無く信じて下さる方がおられる」という信心は、現在のことですし、それが現実の問題に対して私を動かしたり、支えてくださることになります。


「往生浄土の確信」というよりは、「私の浄土往生を疑い無く信じて下さる阿弥陀仏がおられる」ところに信心も、安心もあります。どこどこまでも凡夫である私にしてみれば、どんなことより「私の浄土往生を疑い無く信じて下さっている」ことが、私を支えて下さいます。私が信じる以上に、それよりも遥かに強く疑い無く私の浄土往生を信じて下さるのが阿弥陀仏です。その阿弥陀仏の「私を信じる力」によって私もそれをその通りと受け取ります。もちろん、私に能力があって浄土往生するのではなく、全ては阿弥陀仏のお計らいによるものですが、その上で「貴方は浄土に往生しますと信じています」と言い切られるのです。


考えて見ると、この娑婆世界において私を疑い無く信じている人はほとんどありません。そんな人に会えた人は幸福な人でしょう。真宗では阿弥陀仏を親さまとよくいいますが、疑い無く信じるという意味では、赤ちゃんが親を信じるように、私の浄土往生を疑い無く信じて下さるのが阿弥陀仏です。それだけ信じられていることによって、私は「信じられている」という信心が決定します。

それが、現実の問題になにか影響があるのかといえば、少なくとも「誰かに疑い無く信じられている人」と「誰からも信じられていないと思っている人」は違います。現実の問題に影響があるかとすれば、その点です。

それ以降の求道者Kさんのお尋ねについては、次回に書きます。遅れ遅れになって申し訳ございません。

2016-12-01

「自分でなんとかしなきゃいけない問題をドラえもん(神仏)に何とかしてもらおうという考えで居る限り永遠に救いとやらには巡り合わないと思うのですが如何お考えでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

求道者Kさんのエントリーの続きの前に、こちらを書きます。

みそみそ 2016/11/30 11:52

最近、真宗の教えに縋って「助けてください阿弥陀様〜!」と言って行きていても不毛だなと思い、

一旦、真宗の教えから離れ、自分なりの解え(悟り)を求めて、色んな教えに触れ、いろんなことに挑戦し、自分の中の生死を離れられない迷いの心を打開しようと模索しています。

しかしなぜでしょう。そういったことをやればやるほど、辿り着く解えは何故か不思議なことに「本願成就文」にたどり着きます。

特別「南無阿弥陀仏」を求めよう、聞こうとせずとも、日常の中にふっと、自然に、「南無阿弥陀仏」の言葉が入ってきます。

これがいわゆる17願、12願と言うもの何かもしれません。

さて、そんなオカルトめいた怪奇現象の話は置いといて、そんなまどろっこしく私に逐一アピールするならさっさと救えよと思うのですがどうなのでしょう。

どれだけ立派な法であれ、それが現実と噛み合っていなければ机上の空論でしかないし、

一人ひとりが持つ迷いの心というものは誰かに何とかしてもらうと言うものではなく、

こればかりは自分と向き合いしっかりと地に足を付けて解決していくべきものではないのかなと思います。

自分でなんとかしなきゃいけない問題をドラえもん(神仏)に何とかしてもらおうという考えで居る限り永遠に救いとやらには巡り合わないと思うのですが如何お考えでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161129/1480424571#c1480474368

ふっと南無阿弥陀仏が入ってくるというのは、有り難いことだと思います。

お尋ねの件ですが、阿弥陀仏がうけもって下される問題と、自分でなんとかしなきゃいけない問題を分けることが必要だと思います。みそみそさんがいわれる「迷いの心」には、大きな意味では、生きてきたなかで一人一人が抱えてきた悩みや苦しみも含まれると思います。しかし、阿弥陀仏の本願は、生死を自らの力で離れられず迷いを重ねる凡夫を、浄土に必ず往生させ仏にしてみせるというものです。

阿弥陀仏の救いの部分はそこであって、私が抱えている様々な疑問や「これは自分で解決しなければ」と感じているものすべてをさすものではありません。

阿弥陀仏に救われた、信心を獲たというのは「これは自分でなんとかしなきゃいけない問題を解決した」ことではありません。

親鸞聖人は、信心について教行信証に以下のように書かれています。

大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。(教行信証信巻)

(現代語)

大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、如来の巧妙におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。

https://goo.gl/qsUZYs

どれも凡夫の力で解決できる内容ではありません。「世間難信の捷径(世間一般の考えでは信じがたい近道)」とあるように、自分で悟りを開く仏教からすればとても信じがたい近道です。「悟りは自分の力でなんとか」という考えもありますが、近道だからといってそれがよくないことではありません。阿弥陀仏は、私にはその道しかないということで与えられた道ですから、それをその通りと聞き入れて下さい。

阿弥陀仏の救いは文字通り「救済」「救助」であって「支援」ではありません。私が自分の力で悟れるまでサポートして下されるものでもありません。その意味で自分の力でなんとかしようとする間は永遠に救助されません。支援をしてもどうにもならない凡夫を目当てに本願を建てられたのですから、ドラえもんのような阿弥陀仏ではありません。なぜなら、ドラえもんは、のび太の支援者であって救済はしてくれません。

ドラえもんの道具で解決できる問題は、阿弥陀仏の本願には含まれていません。私を必ず浄土に往生させる、仏にするという本願をそのまま聞いて下さい。

2016-11-29

「阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。私はこれに深く頷くところがあります。つまり、釈尊の縁起の道理に照らせば往生浄土は当然の成り行きではないか?と感じるからです。」(求道者Kさんコメントより)

求道者さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

コメント欄にも一部書いたものに書き足してエントリーを書きます。ただし、質問も長文なので、何回かにわけていきます。よろしくお願い致します。

コメントより

>阿弥陀仏の救い、つまり往生浄土にはなんの条件もいらないといいます。では「称 南無阿弥陀仏」すら条件ではないのでしょうか。

これについては、真宗では「称名」そのものも、阿弥陀仏の念仏申させるお働きという説明をします。ですから、念仏するという行為そのものは、「私の側の特定の行為の有無で救うか救わないかが別れるという条件」には成りません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480339098

上記はコメント欄に私が書いたものです。

それ以降の、求道者Kさんのコメントには

親鸞聖人は「自然の浄土」とおっしゃります。私はこれに深く頷くところがあります。つまり、釈尊の縁起の道理に照らせば往生浄土は当然の成り行きではないか?と感じるからです。(求道者Kさんのコメントより)

自然の浄土親鸞聖人がいわれているところは、以下の部分です。

(71)

念仏成仏これ真宗

 万行諸善これ仮門

  権実真仮をわかずして

  自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)

(76)

五濁悪世のわれらこそ

 金剛の信心ばかりにて

 ながく生死をすてはてて

 自然の浄土にいたるなれ(高僧和讃)

どちらも同じ意味で「無為自然の浄土」という意味で使われています。

無為自然。さとりの世界は有無の分別を離れ、分別による限定を離れた絶対無限の境地であることをいう。親鸞はこの場合も「自ら然り」という静的なものではなく、「自ずから然らしむ」という動的な救済活動の根源としての意味をもつものとする。(浄土真宗辞典より)

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

または、自然とは涅槃の別名でもあります。

ですから、自然の浄土とは阿弥陀仏のさとりの領域をあらわされています。そこは、人間の計らいを離れた状態にあります。


「往生浄土は当然の成り行きではないか?」とのことですが、阿弥陀仏の本願力によって救われて行くので、その本願力によれば浄土往生は誰でもできます。ただ、阿弥陀仏の本願では、罪の大小や性別、年齢などによっての違いはありませんが、本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせると誓われています。

その意味では、死ねば誰でも浄土に往生するという本願ではありません。「願力成就の報土には、自力の心行いたらねば」(高僧和讃)といわれるように、自力修行の人は浄土にいたることは出来ないといわれています。自然の成り行きで浄土往生はできません。

すみませんが、続きは次のエントリーに書きます。よろしくお願い致します。

2016-11-25

「南無阿弥陀仏の救いとはどういうもので、どう救われたのか。往生とはどういうことなのか、そのあたりをお聞かせください。(求道者Kさんのコメント)

求道者Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

求道者K 2016/11/23 21:24

興味深くよませていただきました。電子書籍のご著書も拝読している最中ですが質問させてください。(これまでと重複であればすいません)

浄土真宗は、南無阿弥陀仏の宗教ですから、南無阿弥陀仏一つです。南無阿弥陀仏一つで救われ、南無阿弥陀仏一つで往生します。

とのことですが、数々の法話等をお聞きしましても、「必ず救われます」というお話しはお聞きしましても、残念ながら「私は救われました」というお話をほとんど聞いたことがありません。

山も山様ご本人様は救われているのでしょうか?救われていることと思いますので、是非、南無阿弥陀仏の救いとはどういうもので、どう救われたのか。往生とはどういうことなのか、そのあたりをお聞かせください。

もちろんお聖教上の言葉による表現もお聞きしたいところではありますが、この現実生活における内容としてそれがどのようなものなのか、なるべく言葉を尽くして表現してくださると有難いことです。よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160929/1475150538#c1479903870

私は救われましたという法話がないのは、法話というのは基本的に阿弥陀仏のお働きを褒め称えるものだからです。なぜなら、阿弥陀仏に救われたと言っても、私は何もしていないので、自分のことで語ることはありません。例えば、九死に一生を得たような場面で、自分の機転や行動に関係なく救助隊の人に救助された人は、仮にその体験を語るにしても、「自分は何もしてないのですが」という前提で話をするしかありません。その上で話をするとすれば、「救助隊の方がどう苦労をされたのか」という話をするしかありません。

そこで私自身が救われているかというお尋ねですが。そういうことでしたら救われています。ただ、どう救われたかということを、ブログに書かないのは先に書いたような理由からです。往生については、阿弥陀仏が必ず浄土往生させるという仰せを聞き入れているだけで、私自身が浄土をこの身で見たことはありません。


お尋ねの趣旨からして、救われたら現実生活の内容としてどういうものなのかということなので、現時点での思うところを書いてみます。現時点で、といいますのは、救われたあとでも真宗では「お育て」という言い方をして、救われた後にまた阿弥陀仏のお育てによって信心についての味わいは成長または変化していくものだとされているからです。それ自身は、私も感じるところです。5年前と今、昨年と今では異なります。


救われたらどうなるかについては、それに該当することが一般に少ないので、私自身が感じることで例えますと、一度クリアしたゲームの二週目といった感じです。

私は、1973年生まれでファミコン世代の人間です。私が10才の時にファミコンが発売されました。それ以降、鬼ごっこや三角ベースをして遊んでいたのが、ファミコンを持っている友人の家に集まってゲームをするようになりました。そのうち私もファミコンを所有するようになり、ゲームに夢中になりました。


どのゲームも最初はエンディングを目指して頑張ります。では、一度クリアしたゲームはそれで二度とやらないかといえば、そうではありません。言い方はいろいろありますが、よくいう言い方では二週目という状態になります。つまり、一周回ってまた、最初からやり直すか、ゲームによってはそのあとも続けるというものです。

二周目になると、一旦クリアをしたので、ゲームをクリアする以外にゲーム内のいろいろなことを試してみたり、ゲームの世界そのものを楽しむようになります。クリアする前は、如何にこのゲームを早くクリアするかばかりを考えていたのが、一転してゲームの世界そのものを楽しめるようになります。

現在の私の感じることは、このゲームの二週目によく似ています。ゲームというのは、クリアしたからといってその瞬間に主人公が急に強くなったりはしないものです。クリアしたことによって出来ることが大きく増えることはありません。多くの人におなじみのスーパーマリオを例にとると、全部のステージをクリアしても、主人公のマリオが出来ることは全く変わりません。一度クリアした人は、クリア自体を目標とせず、それぞれの人が、その人にあったゲームの楽しみを見つけて遊んでいます。

私が救われたあとに、何が変わったかといえば、上記のようなものです。

以前は、現実生活に加えて、自分は救われるのか救われないのかという緊張感が常にある状態で生活をしていました。先が見えない不安は常にあったと思います。

しかし、救われてみると、「どうしたら救われるか」という心配はなくなりました。常に気にかかっていたことが、解消しました。ただゲームと違うのは、ゲームをクリアできるかどうかは、本人の努力次第ですが、阿弥陀仏に救われるには、私の努力は関係ありません。ただ、阿弥陀仏のお力によって救われます。

ゲームの二週目に例えたのは、クリアしたあとのゲームの内容がどんな内容であったとしても、一度終わったという事実は変わりないということです。別の言い方をすれば、私は生きている間に、人生が二周目になったようなものです。「救われるかどうか」の人生が一度終わり、「救われた後の人生」が始まりました。どういうことが起きるかということは、見通せるような智慧はありませんが、阿弥陀仏が私を浄土に往生させ、仏にしてみせると誓われた本願は、その通りと聞き入れています。どんな経路をたどったとしても、浄土往生に変わりがない人生にそれ以上望むものはありませんから、自分のできることはさせて頂こうという気持ちで生きています。

2016-11-23

2016-11-13