2012-02-07
阿弥陀仏に救われたら喜ばずにおれないものだと思います。一念で大慶喜が起きなければ救われたとは言えないのでしょうか?(頂いた質問)
阿弥陀仏に救われたら喜ばずにおれないものだと思います。一念で大慶喜が起きなければ救われたとは言えないのでしょうか?(頂いた質問)
阿弥陀仏に救われたならば喜びの心は起きますが、天に踊り地に踊る喜びがどんな人にも救われた一念に起きるという考えは間違いです。
本願成就文には「聞其名号信心歓喜」とあります。この「歓喜」について、教行信証信巻では以下のように書かれています。
「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。(教行信証信巻末・浄土真宗聖典(註釈版)P251)
http://goo.gl/IATAh
また、一念多念証文には
「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P678)
http://goo.gl/vf6lf
と言われています。ここでは、歓を身、喜を心に分けておられますが、教行信証では両方にかけて「身心の悦予」と言われています。
「悦」は、教行信証信巻の三心字訓釈にで信楽の「楽」の説明で、
楽とはすなはちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。
と出ています。この「悦」は、漢字源によると「心のしこりがとれてうれしくなる」の意味とああります。
このことを、行巻の帰命の解釈の部分で「帰説(悦)【きえつ】なり*1」と言われています。ここで「帰説(悦)」は、「よりたのむなり」と左訓されています。
よって「悦」とは、よりたのむことであり本願力にうちまかせた相ということになります。
次の「悦予」の「予」は、あずかるとか与えるの意味です。行巻の六字釈で言うと「帰説(税)【きさい】なり」と同じ意味になります。安心して休める家を与えられたという意味になり、左訓にも「よりかかるなり」と書かれています。
悦予はどちらも本願力によりかかり、うちまかせた心を言われています。
そうなると、「歓喜」といわれるのは本願力にうちまかせた心であり相のことになります。それが心や体にあらわれてくることを「身心の悦予」と言われています。
聞即信の一念に本願力に打ちまかせたのが信心ですが、それが後に心や体に現れてくることを歓喜と言われています。ですから、一念=歓喜ではなく、一念→歓喜が正しいのです。
一念の信心という信心は、本願を聞いて疑いないことをいうのですから、その後喜びが心に浮かんだといえば、それは信後相続の話になります。
また「「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。」といわれているように、「形す」とは形容詞であるということです。
これは、一念多念証文に「歓喜踊躍乃至一念」を解説された箇所で
「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろこぶこころのきはまりなきかたちなり、慶楽するありさまをあらはすなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P684)
http://goo.gl/pXchM
と言われているところと同じことです。
踊躍は「天に踊る地に踊る」とあるからといって、南無阿弥陀仏を疑いなく聞いた一念に踊りだすのではありません。もし、そんなことがあったらそれは一念とは言えません。その「踊躍」を「よろこぶこころのきはまりなきかたちなり」と言われています。ここに「かたちなり」とありますから、形容詞ということです。仮に実際に踊るのであるなら、踊らない人は救われていないことになります。
本願力にまかせた状態の安心は、これ以上のものはほかにないということの形容詞として、教行信証では「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。」と言われています。
歓喜とあるから喜ぶのだろう、天に踊り地に踊るというからとんでもない喜びがわきおこるのだろうと思うのは間違いです。喜びがおきるとしても、それは救われた一念の後のことであり、また、「歓喜」とあるのは本願力にまかせた心であって、実際に天に踊り地に踊ることをいわれたものではありません。
2012-02-03
補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその6:異義「お釈迦様の発遣の言葉には「直ちに」という言葉がないのは、方便をあらわされているからである。西岸上の阿弥陀仏の喚び声に「直ちに来たれ」と言われているのは、釈迦の発遣に方便を捨てて、真実に入れと言われていることを示されているのである。そういう意味で言えば、お釈迦様の勧めによってすすむ白道は、要門(19願・廃悪修善)に通じるのだ。」
二河白道の喩えについては、今回で一旦終了します。
異義その6
愚禿鈔に阿弥陀仏の「直ちに来たれ」の「直」の言葉を「「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。」と言われている。そこから類推すると、お釈迦様の発遣の言葉には「直ちに」という言葉がないのは、方便をあらわされているからである。西岸上の阿弥陀仏の喚び声に「直ちに来たれ」と言われているのは、釈迦の発遣に方便を捨てて、真実に入れと言われていることを示されているのである。そういう意味で言えば、お釈迦様の勧めによってすすむ白道は、要門(19願・廃悪修善)に通じるのだ。
回答
異義にある愚禿鈔のお言葉は以下の箇所です。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P538)
http://goo.gl/K07c1
ここで「『直』の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり」とあるのは、釈迦の発遣と弥陀の招喚が一つであることをあらわされたものであって、釈迦の発遣が弥陀の招喚と別ものであることをいわれたものではありません。
そこで、愚禿鈔にはそのあとに
また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。(愚禿鈔下巻・同上)
と言われています。
そこから考えてみると、善導大師が二河白道の喩えの本文中で東の岸の勧める声に「ただちに」という言葉がないといっても、合法の文では、
〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉(教行信証信巻ー二河譬・浄土真宗聖典(註釈版)P226)
http://goo.gl/PmDdT
と書かれています。西岸上の招喚の声に呼応して、東の岸の声は全く同じことを言われます。そのため、発遣と招喚を聞いた行者は「ただちに西に進む」のです。そういう意味からすると、すでに西岸上の招喚の前にすでに「ただちに」の言葉があることになります。そのことを考えると、どうして釈迦と弥陀の二尊の勧めを分けて考える必要があるのか全く理解できません。まして、招喚と発遣は「二尊一致」をあらわしたもので、要門と弘願を分別する「二尊二教」とは同じであるはずがありません。
ーーーーー
ひと通り是山和上の本からまとめてみました。今思いますと、親鸞会の二河白道の喩えは「釈迦の発遣=要門」で一貫していたのだということがよく分かりました。
親鸞会の教義が三願転入を言い出した平成5年以降変わったという意見もありますが、この二河白道の喩えからすれば、平成5年以前も以後も親鸞会教義は全く変わっていません。いうなれば、「親鸞会的三願転入」は、「親鸞会的二河白道」の言い換えに過ぎないからです。
なぜなら、全てこの二河白道の譬えでの「弥陀の招喚(弘願)と、釈迦の発遣が別もの(要門)だ」が、親鸞会教義のベースになっているからです。
その間違いから以下の4つの「親鸞会教義」がでてきました。
- まず善知識の仰せに従わねば進めない。
- 善知識の勧めは要門(善のすすめ)だから、親鸞会に献金・人集めをしろ。
- 善知識の仰せに従って進んでいくと、不思議な声がする。
- それまではとにかく善知識の勧め(要門の勧め)に従うしか無い。
親鸞会でしか二河白道の喩えを聞いたことがない人に、特に知っていただきたいところは「二尊一致」というところです。
釈迦の発遣と、弥陀の招喚は全く同じです。お釈迦様の「教」は、「善の勧め」ではなく「弥陀に帰命せよ」「南無阿弥陀仏に救って頂きなさい」です。その仰せを聞いて疑いないのが、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」です。そのようなお釈迦様の仰せは、阿弥陀仏の招喚に応じてそのまま教えられたことだからです。お釈迦様の「教」は、阿弥陀仏の招喚に何か加工することなく、そのまま伝えられたものです。
順番を逆に言うと、お釈迦様の発遣以外に、弥陀の招喚はありません。そのまま聞いて、ただ今救われて下さい。
2012-02-02
補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその5:異義「愚禿鈔に白道を『白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。』と言われているから、白道は自力要門である」
異義その5
愚禿鈔に白道を「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。」と言われている。これは、白道が、その人によっては白路(自力)になるといわれているのではないでしょうか?
回答
愚禿鈔にあるご文は以下のものです。
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P537)
http://goo.gl/02td5
これは捨てるべき白路を出されたもので、選び取られた白道については
の釈に「能生清浄願往生心(=白道)」として書かれたものです。よって、最初の「白とは、すなわち」の部分は白路(自力)についていわれたもので、白道(能生清浄願往生心)について言われたものではありません。
そもそも白道の説明について、教行信証信巻と愚禿鈔を対照してみると、白道、白路、黒路、黒道の四句があります。
※参考までに、白道、白路、黒道、黒路について書かれた箇所
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P244)
http://goo.gl/U1nPx
「白道四五寸」といふは、
「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路(白路)なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道(黒道)なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。
「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P537)
http://goo.gl/02td5
愚禿鈔では、黒路を白路・黒道に収めてこれを捨てものとし、白道はその下の「能生清浄願往生心」の釈の部分で詳しく書かれています。そのように親鸞聖人が、ここに捨てものをあきらかされるのは、本願の白道は、その体は清浄真実の大道ですが、釈迦の発遣と弥陀の招喚を聞く前は、白道を見ながらなお定散の白路のように思えてしまうからです。とても大丈夫なようにも思えず、また、自分の力で歩んでいくように思ってしまいます。そのため、行者が白道を前に進もうか留まろうかと進退にまよっている相です。まったくこれは定散自力の人の欠点をあらわされたものです。この人が発遣と招喚の声を聞き得て初めて白道が本願一実の大道であることを知らされ、こんな細い道で大丈夫だろうかとの疑惑は一切なくなります。
どうしても白道が白路に見えるかもしれないが、真実の大道だからなんとか白道に出てもらいたいと親鸞聖人が苦心をされて解説されているのが、上記の白道、白路、黒路、黒道と分類されたところです。
決して「白道の途中までは白路だから、そこまで自分で進め」といわれたものではありません。
2012-02-01
補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその4:異義「解説の文では、釈迦が勧めて、阿弥陀仏が喚ばれる間に、それらを聞いてなお群賊によびかえされる者がいることを示されているから、白道は要門だ」
異義その4
群賊が旅人にむかって「帰ってこい」と呼び止めるのは、二河白道の喩えではお釈迦様が「この道を往け」と言った後に言っていることになっている。しかし、そのあとの解説の文では、釈迦が勧めて、阿弥陀仏が喚ばれる間に、それらを聞いてなお群賊によびかえされる者がいることを示されている。だから、これをいろんな意見で道を失うとか、自ら造った業で道を失うと言われている。これを要門の白道と言わずしてなんというのだろうか?
回答
異義で言っている部分は、以下のところです。
〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。(浄土真宗聖典(註釈版)P226)
http://goo.gl/PmDdT
二河白道の喩えの本文は、東の岸の発遣と、西の岸からの招喚の声を聞いて白道を進んでから、群賊らが呼び戻そうとします。それに対して、この合法の文(解説)では、東の岸のお釈迦様のお勧めの後に、群賊らが呼び返す部分の解説が入り、その後西岸上の喚び声となっています。
では、これは異義の通り、お釈迦様の勧めに従って進もうとする途中に群賊らに呼び戻される行者がいるのかというと違います。なぜなら、外からのいろいろな批難は主にお釈迦様の教えによって起きることを表しているからです。釈迦様の勧めが方便であって、群賊の呼び戻す声で転落するものがいるということを表したものではありません。
事実、例え話では群賊たちが帰って来いと呼びかけても行者は振り返ることなく白道を進んで行ったと書かれています。
東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。
解説の部分では、ただその群賊達がかえって来いと呼びかける内容を表しているだけです。
異義の「これをいろんな意見で道を失うとか、自ら造った業で道を失う」と言っているのはそのことです。これは、すでに白道に乗った念仏者に対する外からの批難の内容であって、行者が転落することではありません。
該当箇所に括弧を加えると以下のようになります。
別解・別行・悪見の人等(が、念仏の行者にむかって)「『(念仏を信じる者は、釈迦の本心を知らず)みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失す』と説く」に喩ふるなり。
異義は、「お前たちは道を失うぞ」と念仏者に言っている群賊の言葉を、念仏の行者が道を失うと考えているので完全な誤読です。
2012-01-31
補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその3:異義「すなはちもろもろの行業を回して」とあるから白道は要門だ。
元のエントリーには異義が一つ抜けていたので追加で書きます。
異義
合法の文に「〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。」とあるのは、これ定善散善を回向する自力の行の相である、これが白道が要門に通じるという証明である。
回答
二河白道の喩えの以下の文章
〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。(浄土真宗聖典(註釈版)P226)
http://goo.gl/PmDdT
これを、いわゆる「廻因向果」と読んで白道に乗っている行者の中に自力の人がいるという勘違いをする。そこでここはいわゆる「廻思向道」の心であると伺ったならば、行について心を示しているので、定散心を回転して(捨てて)願力の道に進んでいくことである。
上記のご文でも「人、道の上を行いて」とありすでに白道の上に乗っているのは、釈迦の発遣と弥陀の招喚を聞いた後のことです。それを聞く前は、白道に乗ろうか乗るまいかと心が定まっていないので、白道には乗っていません。
また、「ただちに西に向かふ」と言われるのは、「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。」の釈迦の発遣と、「ただちに来たれ」の弥陀の招喚に信順する如実修行の者であることを明らかにされたのであって、本願の白道を進行する念仏者でないわけがない。
ーー
もろもろの行業を回してとあるから、とにかく自力回向だといいたいのが異義者の意見です。しかし、ここの「回」は、回転の意味で捨てるという意味になります。
もともと白道=願力の白道であるという前提を無視して、どうにか白道を自力で進む道としたい人は上記のご文を見ると、やっぱり自力回向なのだと主張してきます。しかし、白道に乗ったということは阿弥陀仏の仰せに従い、お釈迦様のお勧めに従った相なので、これが要門ということには絶対になりません。
2012-01-27
補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその2:異義「水火の二河に焼かれる白道は自力ではないか?」について
前回のエントリーの続きです。
異義
2.二河白道の喩えの解説部分で「〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。」と言われている。すでに「愛心つねに起りてよく善心を染汚する」と言われている。煩悩に染まりまた、焼かれている白道は、要門(19願、廃悪修善、定散二善の勧め)でなければいったいなんだというのだ?煩悩しかない道を進めと言われるのは、結局のところ、煩悩を抑えて善をせよということではないのか?だから親鸞聖人は、浄土文類聚鈔の信楽釈の下にこの文を引いて、虚仮不実の行であると言われている。どうして、この白道が、18願だといえるのだろうか?
回答
「愛心つねに起りてよく善心を染汚する」とは、貪欲の水の河と瞋恚の火の河に、そのまま本願を聞こうとする際に障害になることを示されているだけです。それに対して、白道といわれる他力の信心は、貪欲の水の河、瞋恚の火の河の波にも汚されたり燃やされることがない大変固いものであることを示されています。
これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。(浄土文類聚鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P492)
http://goo.gl/MQOO4
と、この文を出されているのは、言葉をここに借りて、心は至誠心釈としていわれているのです。そこをよく読んで下さい。
ーーーーーー
要するに、異義者の主張は、水の波に潤され火炎に焼かれている白道がどうして金剛心・他力信心と言えるのだろうか?というものです。
それに対して「愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く」は、浄土文類聚鈔では、その前後がどういう文章で書かれているのかを知らなければなりません。
二つには信楽、すなはちこれ、真実心をもつて信楽の体とす。しかるに具縛の群萌、穢濁の凡愚、清浄の信心なし、真実の信心なし。このゆゑに真実の功徳値ひがたく、清浄の信楽獲得しがたし。これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して、頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもつてかの浄土に回向する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの如来、菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心中に作したまひしによるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。如来、清浄真実の信楽をもつて、諸有の衆生に回向したまへり。(浄土文類聚鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P492)
私のような凡夫は元から清浄な信心、真実の信心をもちあわせていないので、信楽を獲得することができません。そこで、善導大師のお言葉を伺うと、「愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く」と言われ、どれだけ真剣に善に励んでも浄土往生は絶対にできないと言われています。そこで、阿弥陀如来は、法蔵菩薩であったときの願行はすべて真実・清浄なものでしたが、それを私に差し向けてくださるのです。
ご文の意味は大体上記のようなものです。
「愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く」から、阿弥陀如来は真実信心を廻向してくださるのだと言われているのであって、白道が水の波に潤され火炎に焼かれているからこれは自力の信心だというのは間違いです。
2012-01-26
補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその1
前回のエントリーの続きです。
二河白道の譬えの東の岸の声は「要門」という異義については、是山和上の本で否定されているのですが、6つ全部書くと長くなるので、今回は最初の異義について書きます。回答の内容は、是山和上の書かれたものを私が親鸞会教義を加味して現代文にしたものです。
(異義)
回答
東の岸の人のすすめる声が、旅人の「この白道を進んで大丈夫なのだろうかという思い」を考慮して、「この道を尋ねて行け」と解釈するのは大変な間違いです。なぜなら旅人は「われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん」と言っているからです。またこの旅人は、必ず浄土往生できる(西岸に辿りつける)というハッキリとしたものはないものの、東の岸で勧める声は「ただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん」です。これは、明らかに第十八願の「直ちに来たれ(ただ今救う)」を教えられたものです。
お釈迦様の発遣の「ただ決定してこの道を尋ねて行け」は、西岸上の阿弥陀仏が「一心に正念にしてただちに来れ」と喚ばれる声と一致します。そのため、お釈迦様の発遣と、阿弥陀仏の招喚に従うことを指して、旅人は「決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜず」して白道を進んでいきます。
よって、お釈迦様の発遣の「ただ決定してこの道を尋ねて行け」とは、「本願成就文」の「聞其名号信心歓喜乃至一念」の意を仰ったものであります。
二河白道の譬えで、旅人が「道を尋ねて去かん」というのと、お釈迦様が「道を尋ねて行け」と言うのは、文字で見ると同じように見えますが、旅人は「われ寧く(むしろ、どうせ死ぬならば)」と言っているのに対して、お釈迦様は「ただ決定して(そんな賭けに出るような心ではなく、間違いなく西岸に渡れる)」と言っています。その言っている意は、二つを比べると大いに違います。
なぜなら、二河白道の喩えを解説された部分には、東岸の勧める声について「道を尋ねてただちに西に進む」と解説されているからです。「ただちに」というのは、廃立をしめされた言葉です。
ーーーーーーー
この異義は、要するに三定死の旅人が「どうせ死ぬなら前に行こう」(信前)というのと、お釈迦様の「前へ進め」が同じだから、釈迦の発遣は要門だという意見です。
しかし、二河白道の喩えで、善導大師が解説されている東の岸の勧めは「ただちに西に進む」ですから、「善をしてから進む」でもなければ「極悪人と知らされてから進む」のでもなく、「ただ今進め」と言われ、○○してからという考えは捨てなさいという廃立の教えからいわれていることです。
よって、東岸の釈迦の発遣は要門であるというのは、間違いです。
2012-01-25
二河白道の喩えの釈迦の発遣(東の岸の勧める声)が要門(19願・廃悪修善)であるという人の根拠6つ(前回の追記)
前回のエントリーの補足です。
二河白道の譬えで、東の岸でのお釈迦様のお勧めを「要門・19願・廃悪修善」と言った人は過去にもあります。
今回のエントリーは、二河白道の釈迦の発遣を要門だという人の根拠を紹介します。以下に書くものは、是山恵覚和上の二河白道講話の後半に、異義としてまとめて書いてあったものを、親鸞会の主張を加味して私が現代文にしたものです。
- 二河白道の譬え話の中で、東の岸の人は「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。」と言っている。これは、その前に旅人が四五寸の白道を見て「われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。」と言っている。その旅人の心には、この白道を進んで大丈夫なのだろうかという思いがある。それをそのまま察知して東の岸の人は「この道を尋ねて行け」と言っているのだ。この旅人のどうしようかと定まらない心が、西岸上の人の喚び声を聞いて、直ちに白道を進もうという気持ちになる。だから、東の岸での釈迦の発遣は要門(19願、廃悪修善)になるべきである。
- 二河白道の喩えの解説部分で「〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。」と言われている。すでに「愛心つねに起りてよく善心を染汚する」と言われている。煩悩に染まりまた、焼かれている白道は、要門(19願、廃悪修善、定散二善の勧め)でなければいったいなんだというのだ?煩悩しかない道を進めと言われるのは、結局のところ、煩悩を抑えて善をせよということではないのか?だから親鸞聖人は、浄土文類聚鈔の信楽釈の下にこの文を引いて、虚仮不実の行であると言われている。どうして、この白道が、18願だといえるのだろうか?
- 合法の文に「〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。」とあるのは、これ定善散善を回向する自力の行の相である、これが白道が要門に通じるという証明である。
- 群賊が旅人にむかって「帰ってこい」と呼び止めるのは、二河白道の喩えではお釈迦様が「この道を往け」と言った後に言っていることになっている。しかし、そのあとの解説の文では、釈迦が勧めて、阿弥陀仏が喚ばれる間に、それらを聞いてなお群賊によびかえされる者がいることを示されている。だから、これをいろんな意見で道を失うとか、自ら造った業で道を失うと言われている。これを要門の白道と言わずしてなんというのだろうか?
- 愚禿鈔に白道を「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。」と言われている。これは、白道が、その人によっては白路(自力)になるといわれているのではないでしょうか?
- 愚禿鈔に阿弥陀仏の「直ちに来たれ」の「直」の言葉を「「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。」と言われている。そこから類推すると、お釈迦様の発遣の言葉には「直ちに」という言葉がないのは、方便をあらわされているからである。西岸上の阿弥陀仏の喚び声に「直ちに来たれ」と言われているのは、釈迦の発遣に方便を捨てて、真実に入れと言われていることを示されているのである。そういう意味で言えば、お釈迦様の勧めによってすすむ白道は、要門(19願・廃悪修善)に通じるのだ。
これらに対する反論は、次回のエントリーで書きます。
中にはいかにももっともらしいと思われる意見もありますが、全部間違いです。ただ、親鸞会の高森顕徹会長が、こんなことを考えて話ししていたとは全く思えません。しかし、過去に、釈迦の発遣を「要門だ」と考えた人の根拠を知っていただきたいと思って、ここに書きました。
2012-01-24
「親鸞会・高森顕徹会長の二河白道の喩えはおかしいと思います。どこがおかしいのでしょうか?」(頂いた質問)
富山県射水市にある浄土真宗親鸞会で高森顕徹会長が話をしている二河白道の譬えは、本来のものと全く変わっています。
今回は、そもそも譬え話からして違うという点について書きます。
親鸞会の二河白道の喩え
- 旅人が無人の荒野を旅していました。
- 尊い人が西へ行けと教えます。
- 西に向かうと、水の河、火の河が突然として現れます。
- 東岸の人は、その中の白道を往けと勧めます。
- それでも旅人は、中間の白道(四五寸)を進みます。
- 白道を進む旅人に、群賊悪獣悪知識が「帰ってこい」と誘惑、妨害してきます。
- それでも白道を進むと、往くも死、帰るも死、とどまるも死の三定死の状態になります。
- その時に、西岸から喚び声が聞こえる。
- 声が聞こえると同時に行く先がなくなった白道が再び開け、旅人は白道を進んで、西の岸に着きました。
善導大師の二河白道の喩え
- 旅人が、無人の荒野を旅していました。
- 群賊悪獣に追われて、死を畏れて西に向かいました。
- 西に向かうと、水の河、火の河が突然として現れます。
- 群賊悪獣に追われて、帰るも死、とどまるも死、先にゆけばまた水火の二河に落ちて死んでしまう。
- 旅人は、そこで、どのみち行き場がないのなら、むしろ前に進んで行こうと決心をします。
- 東の岸に、この道を進めと勧める声と、同時に西の岸にいる人が「直ちに来たれ」と喚ぶ声をたちまちに聞きます。
- その声を聞いた旅人は、疑いや恐れる心がなくなり、白道を進んでいきます。
- 白道を進み始めると、群賊悪獣が「帰ってこい」と誘惑します。
- それらの声に惑わされることなく、旅人は白道を進み、西の岸に着きました。
このように並べて書くと分かりやすいですが、時系列で話の流れがそもそも違います。
しかし、一番の根本的な間違いは、東の岸の勧める声の内容が異なる点です。
釈迦の発遣と言われる、お釈迦様のおすすめは、親鸞会の解説では「要門・19願・廃悪修善」になっています。しかし、本来はこのお釈迦様の発遣は「本願成就文」です。
譬え話でもこの、阿弥陀仏の招喚の声と、釈迦の発遣は同時に出されています。同時に出るということは、阿弥陀仏の本願によって、それに応じてお釈迦様が仰ったことですから、内容は同じです。
観無量寿経で言えば、「苦悩を除く法」とお釈迦様が仰ると同時に、阿弥陀仏が空中に現れられたのと同じことを表しておられます。親鸞会でも、観経で「苦悩を除く法」は定散二善とは説明していません。
同じように、二河白道の譬えでお釈迦様が「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。」と言われるのは、苦悩を除く法であり、本願成就文をあらわされたものです。ですから、釈迦の発遣と、阿弥陀仏の招喚の声を聞いて疑いや恐れがなくなった旅人は、本願の白道に乗り、信心獲得の身となり、白道を一歩二歩と進みやがて浄土往生を遂げます。
親鸞会教義の善の勧めや、求道しなければ救われないの根っこにあるのは、この二河白道の譬えでの釈迦の発遣を要門の教えと間違っているところから起きています。
二河白道の譬えでのお釈迦様の勧めは、本願成就文にあるように「聞其名号」です。南無阿弥陀仏を疑いなく聞けとのお勧めですから、ただ今聞いて救われて下さい。
参照:二河白道の喩えの原文(教行信証信巻に引文されたもの)
また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。
この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。
http://goo.gl/gP9Jm
2012-01-19
「私は、自分を含めて人間には善人がいるようには思えないのです。」(SSSさんのコメントより)
SSSさんよりコメントを頂きました。有難うございました。
SSS 2012/01/18 00:02
(略)
私は、自分を含めて人間には善人がいるようには思えないのです。
もちろん親切な人はいますし、自分も親切の真似事をしますが、全て利害、打算が介入するのです。
これは深層心の話なので、大半の人は無意識的です。
ただ私は仏法を求めていることもあり、自己の心を掘り下げる程にそんな心しかないことに気付いたのです。
こんな者は悪人だ。来世に良いところなどにいけるはずがない。と
ただこれは、私個人の実感にしか過ぎません。
だから他の方々には善人もいるのかもしれませんね。
羨ましい限りです。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120117/1326791517#c1326812555
SSSさんが、自分は悪人だと思われたことそのものを否定しているわけではありません。しかし、自分が悪人だからみんな悪人だと思うのは間違いです。こういうことを書いている私も、別に自分は善人だと思って書いているわけではありません。
親鸞会を辞めてからより感じることですが、もちろん完全な善人というのは仏でない末代の凡夫にはありえないこととしても、利害・打算を抜きに行動する人が実際にあるということです。そんな人を「極悪人」とは私はとても思えません。
本当に全人類が悪しか造ることができないのであれば、法然上人や親鸞聖人が悪を戒められたお言葉がなぜあるのかという道理が通りません。親鸞聖人の御消息は有名ですから、今回は法然上人のお言葉を紹介します。
つみをは十惡五逆のものなをむまると信して。小罪をもをかさしとおもふへし。罪人なをむまるいかにいはんや善人をや。上人の給はく罪は十惡五逆の者も生すと信して、少罪をも犯さじと思へし罪人なほ生る况や善人をや(浄土宗全書第9巻P566 -和語灯録 )
※原文を読みたい方は宗祖法然上人800年大遠忌記念 浄土宗全書(JODOSYU ZENSYO) 検索システムで「小罪をもをかさし」で検索して下さい。
罪は十悪五逆の者を阿弥陀仏は救ってくださると信じて、小さな罪も犯してはならないと思いなさい。罪人が往生できるのだから、善人はなお往生できる。法然上人の仰せには、罪は十悪五逆のものも救うを信じて、小さな罪も造らないと思う悪人はなお救われるのだから、善人は尚更である、と言われています。
これは有名な歎異抄3章の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや*1」と逆のことを言われているように思える文章です。
しかし、この法然上人のお言葉は、悪を慎んだら救われるといわれたものではありません。「十悪五逆のものでも救われるのだから悪をしても大丈夫」と本願にほこり、造悪無碍に陥った人を戒めるために言われたものです。言い換えますと、本願を「悪人を救うといわれているから悪をしたほうがよい」と聞き間違える、いわゆる邪見を戒められたものです。
往生のために善をする必要はないとはいえ、悪いことをしたほうがよいとか、悪の自覚が有る方が良いと思うのは本願を誤って見る邪見です。それを戒められたお言葉をもってきて、また親鸞聖人の御消息も含めて、廃悪修善(止悪作善)が往生の道と説くのも聞くのも全く間違いです。
前回のエントリーで、涅槃経の七子の喩えを紹介しましたが、病に苦しむ子供に親の慈悲はひとえにかかるといっても、子供が悪を造ることを好む親はありません。同じように阿弥陀仏も悪を造るものを哀れに思われても、悪を許されたわけでも、悪を好まれたのでもありません。そういう意味で法然上人も親鸞聖人も悪を造ってはならないと戒められました。阿弥陀仏を親とし、私を子供とすれば、「親を泣かせるな」と教えてくださっているのです。
しかし、一番親を泣かせているのは罪を造ることではなく、阿弥陀仏の仰せを聞かないことです。「ただ今救う」の本願に背を向けて、自分の罪悪に向きあおうとする相こそ阿弥陀仏が最も哀れに思われるところです。それは曇鸞大師が、「蚕繭の自縛するがごとし」と言われているとおりで、蚕が自分の口から吐いた糸で造った繭から出られないように、自分で自分を出離させなくしているのです。
SSSさんのように、自己の罪悪に向きあおうとしたり、それに苦しんでいる人に阿弥陀仏は「もういいんだ。もういいからそのまま来い」とよびかけられています。ただ今救う本願をただ今聞いて救われて下さい。悪を許されたのではありませんが、もうそれ以上あなたが苦しむことを阿弥陀仏はとても静観してはおられないのです。その願心を聞いて下さい。
2012-01-18
「本願は、「悪人正機」と言われますが、どういった意味なのでしょうか。」(ジャギさんのコメント)
ジャギさんよりコメントを頂きました。そのジャギさんのコメントに複数コメントを頂き有難うございました。
ジャギ 2012/01/16 22:00
本願は、「悪人正機」と言われますが、どういった意味なのでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120116/1326701511#c1326718857
悪人正機とは、悪人が阿弥陀仏の本願の目当てであるという意味です。以前のエントリーで書いたように、「阿弥陀仏が全ての人を五逆罪の悪人と見ぬかれた」いう意味ではありません。
幹部会員歴数十年さんのコメントにあるように、口伝鈔には以下のように書かれています。
悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし(口伝鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P908)
http://goo.gl/bMzpN
凡夫目当ての本願といいましても、ここでは悪凡夫、善凡夫と分けた上で、悪凡夫こそ本願で目当てに建てられた相手であって(正機)であって、善凡夫は傍機と言われています。ですから、悪人正機の「正機」は、「傍機」に対する言葉です。
教行信証では、以下のように書かれています。
願海は二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。(教行信証行巻・一乗海釈・浄土真宗聖典(註釈版)P197)
http://goo.gl/dkVA6
ここで、本願は二乗の者を救うと言われています。「二乗雑善の中・下」と言われているのは、声聞や縁覚といわれる自力で修行をしてさとりを開こうとしている人のことです。それらの人を救うのだから、まして人間や天人もなおさら救ってくださるのだと言われています。
ですから、阿弥陀仏の本願は悪人正機だから、十方衆生は悪人だということにはなりません。十方衆生の中には声聞、縁覚も人間も天人いて、それら全てを救ってくださるけれども、中でも悪凡夫を目当てに本願を建てられたのだということです。
では、なぜ悪凡夫(悪人)を目当てに本願を建てられたのかといえば、仏の慈悲は罪の重い者になお重くかかるからです。
たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。(教行信証信巻末-涅槃経より引文・浄土真宗聖典(註釈版)P279)
一人の親に七人の子供があった場合、親の慈悲に差別はないけれども病気にかかった子供にひとえに親の慈悲は重くかかります。そのように、如来の慈悲も同じです。あらゆる衆生が世の中にあります。善人悪人、声聞縁覚菩薩、または、虫や魚にいたるまで、仏の慈悲は平等なのですが、罪のある者にひとえに重くかかります。
声聞縁覚よりも、凡夫に、凡夫の中でも悪凡夫(悪人)により重く仏の慈悲はかかっているのですから、悪人を目当てに本願を建てられたというのが悪人正機です。
ただここで「悪人」と言われるのは、
仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば(歎異抄9章・浄土真宗聖典(註釈版)P837)
http://goo.gl/Ul53s
というように、「仏かねてしろしめして」といわれるものです。
私が、自己を深く見つめて初めて「私は悪人だったのだ」と気がつく悪人ではありません。そんな私より先に、阿弥陀仏の方ですでに問題にされている私の相です。その相とは、阿弥陀仏が、私のことを自らの力では絶対に仏になることがない者、輪転の相の者であると見てとられた相です。仏願の生起本末の生起でいわれる私の相です。
よって、「阿弥陀仏の本願は悪人正機」を自分のこととしていう時は、「阿弥陀仏が見られたように私は自力で出離のできない者だった。それを正客として本願を建てられたのだ」ということになります。
これは、コメント欄にいろいろ書かれているような、「私はよくよく考えて自己を見つめたら悪人であったと分かりました。だから全人類は悪人です。それを阿弥陀仏が救ってくださるのです」とは違います。それは以前も書きましたが、信罪福心をもって本願を聞こうとする考えかたです。自らの力で、自分を見つめた罪悪を通して阿弥陀仏の本願を聞こうというのは間違いです。加えて、自分がそうだからみんなそうだというのはその人の思いに過ぎません。人の心の全てを人間同士知ることはできないのですから。
また「悪人正機だから私は悪人だ」という場合でも、それは「自分で自分を見た相」ではなく、「阿弥陀仏が私をみた相」です。阿弥陀仏は、自力無功のものだからこそ慈悲をおこされ本願を建てられたのです。自分で自分を見つめるより先に、阿弥陀仏がすでに見ぬいておられた相を本願から聞かせて頂いたことを言います。阿弥陀仏の本願を聞いてさらに自己を追求することではありません。
2012-01-17
「信心決定したら自力無功が知らされるだけでなく、一生造悪の自己もはっきりするのでしょうか。一生造悪の自己が知らされるなら、この世を生きていくのが恐ろしくなって、もうこれ以上の悪を造らないために直ぐに阿弥陀仏の浄土に旅立つことを考えませんか。」(親とは?さんのコメント)
親とは?さんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。また、複数の方よりコメントを頂き有難うございました。
親とは? 2012/01/16 18:08
(略)
真実の善は私達にはできないと言う一方で、真実の善ができない自己がわかるまで献金(善)をせよと言います。また親鸞会に献金すれば、善因善果で必ずよい報いがあるとも言います。ところが阿弥陀仏の救いには私達の善は役に立たないともいいます。
親鸞会に献金することが果たして善なのかということも疑問ですが、信心決定したら自力無功が知らされるだけでなく、一生造悪の自己もはっきりするのでしょうか。一生造悪の自己が知らされるなら、この世を生きていくのが恐ろしくなって、もうこれ以上の悪を造らないために直ぐに阿弥陀仏の浄土に旅立つことを考えませんか。
また、私のする善が役立たないと言いながら、真実の自己が判るまで「親鸞会が勧める善」せよとは、論理的におかしくないですか。
よろしくお願いします。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120116/1326701511#c1326704922
お尋ねの「信心決定したら自力無功が知らされるだけでなく、一生造悪の自己もはっきりするのでしょうか。」の答えは、「一生造悪の自己はハッキリしません」です。実感としては、救われた途端に罪悪観が非常に強くなったということはありません。
こういうことを書くと「それは個人の体験談ではないか」と、親鸞会の人はすぐに言ってきますが、仮に、信心決定=一生造悪の自己の自覚とすれば、それは地獄秘事です。
なぜ、親鸞会の人がそのような考えになるのかといえば、それは高森顕徹会長が、機の深信(自力無功)と罪悪観をイコールだと話をしているからです。事実高森会長の著書「なぜ生きる」を読むとそのまま機の深信=罪悪観の内容で書いています。
目次だけ一部紹介しますと
(14)親鸞聖人と刀葉林地獄ー機の深信
(以下、機の深信の説明として章が続く)
(15)「邪魔者は消せ」心底にうごめく“名利の冷血獣”
(16)ゾッとする巨悪の本性
(17)善いことをすると腹が立つ
(18)「地獄は一定すみか」の自己との対面
標題だけ拾ってみますと、高森会長のいうところの機の深信とは、以下のようなものです。
「機の深信」=「邪魔者は消せ」の自覚=「巨悪の本性」の自覚=「善いことすると腹が立つ」の自覚=「地獄は一定すみかの自己」の自覚
この本を持っておられなかったら全く買う必要はありませんが、もし持っておられたら開いて読まれたらいいと思います。確かに、信心決定した途端にこんなたくさんの悪が自覚されたら自殺したくなると思います。
仮に、「信心決定したら一生造悪の自己が知らされる」という高森会長の説が本当だとするならば、高森会長は信心決定していないし、講師のだれも信心決定していないということになります。なぜなら一生造悪の自覚がある人なら、あれほど上から人にものをいうはずはないからです。
反対に、「一生造悪の自己が知らされる」のがウソとすれば、高森会長は信心決定していることになるのかもしれませんが、60年近く親鸞聖人の言われないことを、これが親鸞聖人の教えだと偽って、名利のために不浄説法をしてきたということになります。
どちらにしろ「信心決定したら一生造悪の自己が知らされる」という高森会長は、ウソを付いていることになります。
機の深信については、前回も書いたとおりですが
深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P218)
http://goo.gl/Pz1UD
この二種深信のご文は、信心について書かれたもので、その説明の順番として、「一つには」「二つには」と書かれているだけであって、「二つの別のものが同時にハッキリする」というものではありません。
機の深信の部分は、「出離の縁あることなし」という自力無功を言われ、それは阿弥陀仏がご覧になった私の相です。そういう自力無功の私が、「願力に乗じて、さだめて往生を得」というのが法の深信です。
上記のことを一文で言い換えますと、「自力ではとても出離のできない私が、本願力によって往生する身になりました」というのが二種深信の内容です。
次の「私のする善が役立たないと言いながら、真実の自己が判るまで「親鸞会が勧める善」せよとは、論理的におかしくないですか。」については、論理的におかしいですし、教義としてもおかしいです。
論理的な面は、読んだ通りなので、教義面からおかしいところを書きます。教義として、このように親鸞会が主張する理由は、「真実の自己(一生造悪)が知らされたら救われる」または「真実の自己が知らされる過程が信仰が進む道程」という考えからです。この考えは全く間違いです。また「教義として」というのは、「実地の体験として、一生造悪が知らされた」という人に、私は親鸞会で会ったことがないからです。
最初の、「真実の自己(一生造悪)が知らされたら救われる」については、真実の自己を知るために善をしているのですから、結果として「私の善に功があった」となり、自力無功ではなく自力有功となります。そうなれば、自力が間に合って救われるという話になります。
次の、「真実の自己が知らされる過程が信仰が進む道程」というのは、阿弥陀仏の救いにそんな「過程」も「道程」もありません。阿弥陀仏の直ちに来たれとよびかけられる南無阿弥陀仏を聞く一つだからです。
また、親鸞会の上記の二つの説は、要するに「自己を追い込み罪悪に苦しむものにこそ仏の慈悲は注がれる」というものです。しかし、それは仏の慈悲を間違って聞いています。自己の善悪に囚われて、信罪福心をもって本願をそのまま聞こうとしない相こそ、仏の慈悲から遠ざかっている相です。もちろん阿弥陀仏は、そんなものにも慈悲をかけられているのですが、自分自身の思い込みでその如来の慈悲をはねつけているのです。そのように、阿弥陀仏の本願から遠ざかるように勧めているのが高森会長です。
では、阿弥陀仏の本願から遠ざけて、何を勧めているのかといえば、親とは?さんに言われるとおり一つは献金です。もうひとつは、高森会長および親鸞会組織への服従です。
私が親鸞会講師部にいたころ、「罪悪」として問題にされたのは、五逆罪のなかの「和合僧を破る」でした。親殺しの五逆罪を問題にされた記憶は一度もありません。
親殺しを問題にしないにも関わらず、ひたすら問題にするのは「和合僧を破る」と「謗法罪」でした。そのどちらも親鸞会内部での定義は、「高森会長の指示に反する言動」でした。「高森会長の指示に反する言動」には、とにかく厳しい指摘が浴びせられました。
一例を上げると、「行事の参詣目標未達成」「献金目標未達成」など「会長の機嫌を損ねる言動」です。
要するに「人や金が集まらないと会長先生の機嫌を損ねる」から、「会長先生の機嫌がよくなるように人や金を会長がいうだけ集めよう」というのが、親鸞会という組織です。それを望んで親鸞会という組織を作り上げてきたのは高森顕徹会長です。
親鸞会の主張に従って、仮に献金や活動に命をかけたら、講師部員や会員は真実の自己(和合僧を破る自己、謗法罪の自己)が知らされて、「私は会長の指示に従う気持ちがありませんでした」となるのでしょうか?
仮にそうだとしたら、私も「親鸞会的機の深信」がたったのかもしれません。そうなると退会者はみんな信心決定した人になってしまいます。しかし、そんなものは機の深信とは言いません。
いずれにしろ、親鸞会で主張するところの善(献金)の勧めは、高森会長の要求であって、阿弥陀仏の救いとは無関係です。
阿弥陀仏は、ただ今救うとしか言われていません。本願をただ今聞いてただ今救われて下さい。
2012-01-16
「五逆罪を造らざるを得ない、どうしようもない業を背負っているのです。阿弥陀仏は人間をそんな者と見抜かれて、本願を建てられました。私などが全人類を一律に規定できるはずがありません。全人類を一律に諦観されたのが阿弥陀仏なのです。」(ギゼンさんのコメントより)
ギゼン 2012/01/16
ギゼンは人でなしさんへ
あなたの気持ちはよく分かります。私自身も心からそんなことは思えないところはありますが、果たして人間は、それほど善良な存在でしょうか。
もしそうなら、歴史的に繰り返された悲劇、今もなお続く、戦争、殺戮が起こるはずがありません。
しかしここで、それは一部の非情な人間だけで、私ではない、と思われるでしょう。
よく自身の心を反省していただきたいのですが、今までに誰か他人に不快を感じたとき、その人がいなくなればよい、と思われたことがあるはずです。
これは誰もが思うことですが、この思いが何かのきっかけで増幅されたとき、戦争や殺人に発展するのです。邪魔者は消せ、という戦争などは全てその思いが温床といえるのです。
そして、その思いが自分の親に向いたときは、五逆罪になります。
・親をそしるものをば五逆のものと申すなり。
親鸞聖人のお言葉ですが、実際に手にかけるだけが、罪ではありません。
親を疎んじる心がそうさせるのですから、悪口を言うだけ、思うだけでも同罪なのです。
そしてこの罪は我々が造ろうとして造っているのではなく、そんな罪を造らざるを得ない、どうしようもない業を背負っているのです。
阿弥陀仏は人間をそんな者と見抜かれて、本願を建てられました。
私などが全人類を一律に規定できるはずがありません。全人類を一律に諦観されたのが阿弥陀仏なのです。
ですから、出産に関しても、その造らざるを得ない罪の一つなのです。
しかしだからこそ、そんな罪を、親の苦しみを感じるからこそ、その親の恩に報おうと思えるのです。
親が子を産むのは当然と思うから、感謝もできず、果ては、親が子を、子が親を殺してしまうような、今日にも起きている悲劇が繰り返さてしまうのではないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120112/1326354470#c1326688886
末灯鈔のお言葉については、幹部会員歴数十年さんのコメントを御覧ください。
阿弥陀仏が私をどのようにご覧になって本願を建てられたのかについて書きます。
ギゼンさんは、「私などが全人類を一律に規定できるはずがありません。全人類を一律に諦観されたのが阿弥陀仏なのです。」と言われる一方で、その一律の基準を「人間が悪を造らざるをえない重い業を造っているから本願を建てられた」という部分に設定されたと言われているのだと思います。
その理由は、ギゼンさんのコメントの「果たして人間は、それほど善良な存在でしょうか。」「そんな罪を造らざるを得ない、どうしようもない業を背負っている」という部分から私が感じたことです。
全人類に共通して言えるという部分は「五逆罪」ではありません。また、どれだけの善が出来るかという点でもありません。共通しているのは「自力では浄土往生できない」という点です。
例えば、罪悪という点で言えば、より重い罪悪を造っている人もいれば、そうでない人もいます。また、同一の人間にしても、生まれたばかりのころと、現在、また未来では造る業もそれぞれ異なっています。「自分がそう思うからみんなそうなんだ」と考えるのは間違いです。本願によらねば浄土往生できないという点以外は、みんな違います。
人間という種または存在=悪というくくりで、阿弥陀仏が本願を建てられたのではありません。
それは、前回のエントリーにも紹介した、浄土論註のご文でいうと、以下のものです。
仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。 このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。(浄土論註・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P57)
http://goo.gl/5qCqe
阿弥陀仏が本願を建てられたゆえんは、すべての人をご覧になったとき「虚偽の相」「輪転の相」であったからだと言われています。尺取虫が同じところをいつまでも出られないように、蚕が、自分でまゆを造って出られないようようなものだと言われています。
つまり、いつまでも流転を重ねてそこから離れることができないという点が、ギゼンさんのコメントでいう「全人類一律の基準」です。
善導大師のお言葉で言えば、
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(教行信証信巻・機の深信・浄土真宗聖典(註釈版)P218)
http://goo.gl/DqVem
「出離の縁あることなし」という点です。いわゆる自力無功の私に対して本願を建てられたのです。
基準を「極悪人」に設けるか、「自力無功」に設けるかでは、話が全く変わってきます。
基準を「極悪人」に設けると、阿弥陀仏は「全人類=極悪人」と見て取られたということになり、どんな人も自覚がないだけで全く同一の業を共有しているということになります。ギゼンさんのように、何が何でも全ての人を悪人にしなければならない世界ができあがってしまいます。加えて、そのためにより信罪福心に囚われてしまい、そこから抜け出せなくなってしまいます。
それに対して、基準が「自力無功」の場合は、五逆罪を造っている人もあれば、そうでない人もあります。反対に、世の中で言う善人もあれば、定善や散善を実行出来る人もあるということになります。しかし、それら善人も悪人もいろいろあるなかで、共通しているのは「自力では浄土往生できない」ということです。阿弥陀仏は、そういう私を救うために、私の行を一切必要としない本願を建てられて、南無阿弥陀仏一つで浄土往生させると働いておられます。
(72)
願力成就の報土には
自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら
http://goo.gl/4OhtR
そのことを、ご和讃ではこのように言われています。阿弥陀仏の浄土は本願力によって成就したところだから、自力の心行では絶対に行くことはできません。そこで、大乗仏教、小乗仏教の聖人といわれる方も、自力を捨てて本願力に乗じられたのです。
ですから、次のご和讃も、続きで書かれているので
(73)
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ(高僧和讃)
大小聖人でさえ自力の心行を捨てられたのだから、まして煩悩具足の者は本願力に乗ずるべきだと勧めておられるところです。ここで煩悩具足と言われるのは、「=五逆の者」ではありません、何をやっても真実の行ができない(自力無功)者という意味です。
そのように何をどうやっても浄土往生できるような行ができない私という点に、阿弥陀仏の本願を建てられた大慈悲があります。ギゼンさんがいうような「罪悪を造っているから」という言い方は私一人のこととして語る場合ならそれでもいいかもしれませんが、「全人類」でいう話ではありません。
2012-01-13
「全人類が無間業かどうかは、自身の心を深く反省すれば分かると思います。」(ギゼンさんのコメント)
ギゼンさんからコメントを頂きました。ありがとうございました。
ギゼン 2012/01/13 02:26
陣痛とは、兵士が命懸けで戦に挑むぐらいの苦痛ということから言われています。
産みの苦しみを親に与えたことは、罪にはならないですか?
それはやはり不可抗力という見解でしょうか。
あと全人類が無間業かどうかは、自身の心を深く反省すれば分かると思います。
普段どんなことを思い、考えているか。
自分は、来世に地獄に堕ちるような悪人なのか、或いは来世によい所へ行けるような善人様なのかと。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120112/1326354470#c1326389197
幹部会員歴数十年さんからもコメントをされていることで、言いたいことをは書かれています。
それ以外のことで、私が思ったことをエントリーとして書きます。
自分の側から何が罪であるとか、その自分の定義した罪で地獄へ堕ちるとか堕ちないを問題にするのは、阿弥陀仏の救いに反します。
理由は、信罪福心でいう罪と機の深信の違いを混同しているからです。
罪悪という言葉は、おそらくギゼンさんが覚えているお聖教のご文にも幾つかあると思います。それを、いくつか列記します。
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(教行信証信巻・機の深信・浄土真宗聖典(註釈版)P218)
http://goo.gl/DqVem
ここで、「罪悪生死の凡夫」と言われています。
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。(歎異抄1章・浄土真宗聖典(註釈版)P831)
http://goo.gl/rFiov
ここで「善悪のひと」と言われています。
さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。(歎異抄後序・浄土真宗聖典(註釈版)P853)
http://goo.gl/8zk38
歎異抄後序では、「我が身の罪悪のふかきほどをもしらず」と言われています。
ここでいわれる「罪悪」について、「罪」と「悪」は結果と原因の関係にあります。悪によって、結果として罪を造るという関係です。このような我が身の悪によって罪が生ずるという考え方を、信罪福心と言います。この「罪福」は、結果の上でいうことで、結果としての「罪福」を信ずるということは、その原因となる「悪・善」を信じるということになります。
ギゼンさんが、「それは罪ではないのか?」といわれるのは、機の深信とは異なった意味でのいわゆる自力の罪悪観のことを言われていると思います。「罪悪生死の凡夫」とか「罪悪のふかき」といわれる罪悪は、自分自身が反省して見出すものです。
それは、ギゼンさんが「自身の心を深く反省すれば分かると思います。」と言われているそのものです。いわゆる人間の良心の働きによって、自分の罪悪を自覚しているということです。
また、そのように自分の良心によって罪悪を問題にするのが、一般的に考えられる罪悪観というものです。そのため、自分自身の良心が無限に働いていくと、自分が感じる罪悪も底なしに深くなっていきます。そのような、自分の良心によって分かる罪悪観の上に立って阿弥陀仏の救いを求めるのが、信罪福心で救いを求めると言われる、第二十願・真門の立場の人です。
それに対して、機の深信であらわされるところの罪悪観は、自分の良心が問題にするのではなく阿弥陀仏の側から、私に先立って問題にされているところの罪悪観です。
それを歎異抄9章には以下のように言われています。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 (歎異抄9章・浄土真宗聖典(註釈版)P837)
http://goo.gl/Ul53s
ここでは「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫」と言われています。私の良心で罪に気づくのではなく、仏の側からすでに私に先立って問題にされているのが煩悩具足の凡夫であるという罪悪観です。
このような、自分の良心で気がつく罪悪観ではなく、阿弥陀仏の方から問題にされた罪悪観が機の深信ですが、そのことは、曇鸞大師の浄土論註に書かれています。浄土論註の中の、いわゆる仏願の生起本末を書かれている部分です。
仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。 このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。(浄土論註・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P57)
http://goo.gl/5qCqe
ここで曇鸞大師がいわれる「虚偽の相」「輪転の相」「無窮の相」といわれるのが、善導大師の「機の深信」に当たります。自らの力では、浄土に往生できない、自力無功のことを言われています。
ここでは、「仏本」「三界を見そなはすに」と言われています。先の歎異抄9章にいわれているように、阿弥陀如来の方から、私に先立って問題にされているということです。その阿弥陀如来が私に先立って問題にされていることが罪悪生死の凡夫ということです。
これは「自身の心を深く反省すれば分かる」ものとは、質的に違うものです。
「自身の心を深く反省すれば分かる」は、信罪福心の立場でものを言っているに過ぎません。「仏かねてしろしめして」というのは、機の深信であって、信罪福心を否定する立場で言われたものです。
また、何が罪か、どうかを問題にするのは、罪の沙汰とも言われます。それは全く意味が無いことだと、御一代記聞書にあります。
(39)
一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。(御一代記聞書)
罪を問題にして意味があるのは「罪消して助けたまはん」という場合に限ります。しかし、「罪の沙汰無益なり」といわれるのは、阿弥陀仏は「たのむ衆生を本とたすけたまう」からです。
自分の良心で判断した罪がどれほど重いかと問題にするのは、何が目的なのかといえば、そういう「悪人の自覚」がなければ救われないとの思いではないでしょうか?それこそ信罪福心そのものです。
また、自分自身反省して「自分は五逆の者だ」と思われたり、「お前は五逆の者だ」と言われるのは分かるとしても、「だから全人類は五逆の者だ」というのは、論理の飛躍があります。「自分がそうなのだから、みんなそう思っているはずだ」というのは、一般的に通らない理屈です。
2012-01-12
「この世に生まれて、先天性の合併症などで直ぐに亡くなった新生児も無間地獄に堕ちるのでしょうか。」(親とは?さんのコメントより)
親とは? 2012/01/11 19:31
五逆罪での「親」とは「生みの親」、「育ての親」、またはその両方が該当するのでしょうか。
何故、そんなことを質問するのかといいますと、
そもそも生まれて間もないときの新生児には、親の概念/認識はないと、私は考えているからです。
それからもう一つ、
この世に生まれて、先天性の合併症などで直ぐに亡くなった新生児も無間地獄に堕ちるのでしょうか。
私や、私の身近な人の後生を心配するのは人として普通の感情であると思いますが、赤の他人からあの世のことを決めつけられるのは納得いきません。どこかで、お釈迦様は「覚者以外のものが人の後生を予言してはならない」といわれたと聞いたこともあります。
私のこの考えについて、ご意見ください。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120110/1326182303#c
五逆罪とはどういう罪かについて、教行信証信巻には、以下のように書かれています。
五逆といふは(往生十因)、「もし淄州によるに五逆に二つあり。一つには三乗の五逆なり。いはく、一つにはことさらに思うて父を殺す、二つにはことさらに思うて母を殺す、三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもつて仏身より血を出す。恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。(教行信証信巻末・浄土真宗聖典(註釈版)P303)
http://goo.gl/jfgDr
五逆罪で「親」(父母)と言われているのは、生みの親に該当するのが一般的かと思います。ただ、生まれたときに両親と別れてそれから、育ててもらった親があればその親も入ることになります。なぜなら、「恩田に背き…のゆえに、これを名づけて逆とす」と言われているからです。父を殺し、母を殺すのが五逆罪と言われるのは、恩を受けた相手を殺すからです。そういう意味では、育ての親でも殺せば五逆罪になります。
ただ、お尋ねの新生児の場合についてですが、父殺し、母殺しは身業の罪ですから、新生児に親を手にかけて殺すということは事実上不可能なので、五逆罪は造れません。よって、この世に生まれてすぐ亡くなった新生児が五逆罪を造り、間違いなく無間地獄に堕ちるなどということは言えません。
親鸞聖人が教行信証に、五逆罪を造ったものとして例に挙げられているのが阿闍世太子です。阿闍世太子が、なぜ五逆罪のものといわれたかといえば、実際に手にかけて父を殺したからです。
調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。(教行信証総序・浄土真宗聖典(註釈版)P131)
http://goo.gl/Vem2Q
しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪着するがゆゑに、父の王辜なきに、横に逆害を加す。(教行信証信巻末・浄土真宗聖典(註釈版)P267)
http://goo.gl/hbJRd
もし、生まれた時から五逆罪を造っているとすれば、上記のような「逆害を興ぜしむ」「逆害を加す」とわざわざ書かれる意味がありません。阿闍世太子(王)は、父親を実際に殺したがゆえに、五逆の者として教行信証に書かれ、そんなものでも救って下される阿弥陀仏の本願を明らかにされたのです。
コメントに書かれている通り、赤の他人から「お前は五逆罪を造っているから、無間地獄だ」と断言するのは、まさに大きなお世話です。大きなお世話どころか、言われた人を苦しめる呪いの言葉以外のなにものでもありません。
阿弥陀仏は、「自力では出離の縁あることない者」と見ぬいて本願を建てられました。全ての人に共通しているのは、無間地獄に堕ちる業ではなく、自力無功です。自力では浄土往生できないという点で、阿弥陀仏は全ての人を救うと本願を建てられました。
地獄へ行くぞと脅すものは、別の目的があって言っているに過ぎませんので気にする必要はありません。大事なことは、阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われることです。
参考リンク
2012-01-10
幹部会員歴数十年さんと、S会会員わりとからむなwさんの議論まとめ
幹部会員歴数十年さんと、S会会員わりとからむなwさんの議論を、エントリーにまとめて欲しいという要望がありましたので、コメント欄のものを転載します。読みやすくするために、根拠は太字にしています。
もとのコメントは、こちらです。
S会会員わりとからむなw 2012/01/08 11:09
善を実行して初めて、善のできない自己を知らされこそのそのままの救いではありませんか?
善をしない前は、自分には善ができると自惚れている故、「そのまま」と仰せられても計らいを為してしまうというのが自力の実態だと思いますが。
幹部会員歴数十年 2012/01/08 12:28
S会会員わりとからむなwさんへ
高森邪義に毒されているからそのような考え方しかできないのでしょうが、親鸞聖人も蓮如上人も、あなたのようなことを仰ったお言葉はありません。
親鸞会では善人悪人の定義が根本的に間違っていますが、悪人とは「仏法世俗の善根有ること無し」のことです。善導大師が観無量寿経疏で定義されています。
「仏法世俗の善根が有ること無し」なのですから、過去世において善をしてこなかったのですし、今後もすることがない、できるとも思っていない人のことを悪人というのです。善ができると自惚れている人は、悪人ではありません。
親鸞聖人・蓮如上人が仰っていることは、雑行(定散二善・19願)を捨てよだけです。一度雑行をしてみよ、と仰ったところはただの1か所もありません。
「捨てよ」を「せよ」と理解するのを秘事法門というのです。
お聖教を読んで、どのように教えられているかを知らずに、教義について語るのが高森会長と会員です。
S会会員わりとからむなw 2012/01/08 14:22
こういうことを言うと、T会長に毒されているからだ。と言われるのは目に見えてますが、たとえば貴方が「捨てよ」とは、どんな人に言われますか?
もちろん、何かモノを持っている人に限ってですよね。
同じように雑行を捨てよ、やめよ、というのも雑行をやっている人にこそ相応しい言葉ではないでしょうか。
そもそも行を為してない人にそう言っているとしたらあまりにも不自然過ぎます。
だから、「せよ」とは言われていないから「しない」というのはヘリクツのような理屈ではないでしょうか。
善いことは、言われずともやるから善いことなのであり、これは仏教に限らず常識的な考えですよね。
「一日一善」
是非、今日からでも実践してください
幹部会員歴数十年 2012/01/08 15:08
S会会員わりとからむなwさんへ
あなたの言われることは、予想できますので、何も驚きません。
捨てよと言われるときに、持っている人に限るというのが、決定的におかしいです。
高森会長がよく出す譬えでいえば、
「たばこをのむな」
は、たばこをのんでいない人に対してもいいますよ。中学生高校生の頃、たばこをのんでいない学生に対してよくいわれましたよね。
「酒を飲むな」
は、酒を飲んでいない人にももちろんいいます。仏教で五戒の中に、不飲酒戒がありますが、これは酒を飲んでいる人に対してだけ言われたものと考える仏教徒はいません。
「自殺するな」
といいますが、自殺した人に自殺をするなといっていると思ってたら、おもしろい考えですね。自殺していない人に対して、言われていますね。当たり前です。
世間の常識でもあなたの考えは、間違いです。
次に、真宗の常識でいいます。
雑行をしていない、雑行を持っていない人は、親鸞聖人・蓮如上人当時はいなかったのでしょうか?
当然いましたよね。では、その雑行をしていない人に対して、雑行をせよと仰ったお言葉が、1つでもありますか?
皆無ですね。雑行をしていない人は、見捨てられたのでしょうか?
そんなことはないですね。雑行をしていない人にも、「たばこをのむな」「酒を飲むな」「自殺をするな」と同じように、雑行を捨てよ、するなよ、迷うなよ、と教えられているのです。
「捨てよ」を「せよ」というのは、ヘリクツのような理屈です。
蓮如上人のお言葉を示しておきます。
『御文章』3帖目第13通
当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。
http://goo.gl/jDrqC
簡単にいえば、
信前の人も信後の人も、国の法律を守り、仁義(倫理道徳の善)に心がけなさい。
信心決定のためには、雑行・雑善をすてなさい。
ですね。雑行とは定散二善・19願のことといいましたが、倫理道徳の善は信心決定と関連付けませんので、雑行ではありません。
真宗では「一日一善」とは、倫理道徳の善をしましょうですね。一方で、定散二善を捨てましょうですね。
是非、今日からでも実践してください。
S会会員わりとからむなw 2012/01/08 17:02
貴方のような頭のよい人とからむのはおもしろい。何を言っても反命題を挙げるのだから。だからこそ、破邪顕正の甲斐があるというもの。
ただ残念なのは、私が「モノを持っている人」の話をしたのは、あくまで「例え」であることをご理解頂きたかったです。例え自体は論旨そのものではないので、合わないところがあって当然。その当然ところを当然の如く批判していますが、揚げ足をとったことにさえならないですよ。
私が言ったのはあくまで「モノを持っている人に限り」です。
「酒、タバコをのんでいる人に限り」ではありません。
それにしても、貴殿方は余ほど善がしたくないのですね。
なぜ倫理道徳でさえ勧められているのだから、とは考えられないのでしょうか?
真宗は倫理道徳以下ですか?
だから、悪人製造の宗教と同一視されるのです。
貴殿方を見ていると、そんな者だからこそ救うと建立された本願がいよいよ偲ばれてくる思いです。
「定散二善を捨てましょう」とありますが、心配ご無用です。
未だかつて、それができている人を知りませんから。
むしろ「定散二散のできない自己を知るために」
せめて「一日一善」からでもお始めください。
幹部会員歴数十年 2012/01/08 17:18
S会会員わりとからむなwさんへ
私もあなたのような、偏屈な人とからむのはおもしろいです。
例えであろうがなかろうが、「捨てよ」としか教えられていないのは事実ですね。
信心決定のために「せよ」と教えられた個所は皆無です。
私は倫理道徳の善に努めていますよ。言いがかりはやめましょう。
倫理道徳の善はできる人もできない人も、心がけねばなりません。当然なことです。
しかし親鸞会で強力に勧める布施(法施と財施)は雑行ですから、当然ながら「捨てよ」です。
この違いがわからないから、屁理屈を捏ね繰り回すのですが、親鸞聖人も蓮如上人も雑行である「定散二善は捨てよ」としか仰っていませんね。
あなたは御存知ないようですので、再度書いておきます。
信巻に
禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。
http://goo.gl/a4anO
とあります。智覚禅師・高玉禅師は、ともに上品の方であったということです。つまり、散善のできた方ですね。
善導大師は定善について観経疏で
ただ万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。
http://goo.gl/uqY7a
と仰っていますね。善導大師にとっては定善は「得やすし」だったのです。
定散二善ができる人がいないなどという妄想を抱いている限り、少し前に書いた、『浄土和讃』に
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
http://goo.gl/19uWs
とあります。観無量寿経でお釈迦さまが誰に対して諸善を勧められたかの答えが、「定散諸機をすすめけり」です。
「逆悪の機」に対する「定散諸機」です。「定散諸機」を親鸞会では「定散二善」と解釈していますが、基本的な知識が欠落しています。
が理解できる訳もないでしょう。
あなたも含めて親鸞会では、肝心なところでは根拠を出しませんね。正しくは出せませんね。
親鸞聖人・蓮如上人と真逆のことを平気で無根拠で主張するのですからね。
「一日一善」の前に、「一日無謗法」を心がけるようにされては如何でしょうか。
私は善知識方の根拠に基づいてしか意見を述べることができません。あなたのように、根拠を無視した謗法罪を怖れるからです。
S会会員わりとからむなw 2012/01/08 18:29
根拠を無視した謗法罪を恐れるなら、根拠と違った解釈を弘める謗法罪も同様に恐れるべきではありませんか。
たくさんの根拠を挙げられて、よく勉強しておられると関心はしますが、それが親鸞聖人の御心であり釈迦の御心、即ち阿弥陀仏の御心に沿った解釈であると、どうして分かるのですか?判断基準は何ですか?
それは自分の判断力だ、と言われるならそんな仏にも劣らない方とは知らず、これまでのご無礼をお詫びします。
あと「一日無謗法」を心がけるように、とありますが、これまたご心配なく。
未だかつて、一つの謗法罪をつくったことのない人を私は知りません。
むしろ「謗法罪をつくるようなものだからこそ救う」と建立せられた本願の大慈悲に感泣せられる日のはやいことを願っております。
幹部会員歴数十年 2012/01/08 19:06
S会会員わりとからむなwさんへ
あなたの回答は予想通りですので、実に楽しいです。
「根拠と違った解釈」というあなたの判断基準は、何でしょうか?
私の判断基準はお聖教のお言葉そのものです。「捨てよ」=「するな」です。
「捨てよ」=「せよ」という判断基準は、世間の常識でも仏教の常識でも考えられません。判断基準とかいう以前の問題です。
阿弥陀仏の御心に沿った解釈云々は、お釈迦様、善知識方のお言葉に従うことです。言葉をもって伝えられた御心が言葉によって理解できないとは、これは如何なものでしょうか?
ちなみに、仏語、善知識方のお言葉と明らかに反することを平気でいう高森会長は、仏を超える存在だとでも思われているのでしょうか?
それでしたら、すでに仏教ではありません。完全な謗法罪です。
次に「謗法罪をつくったことのない人を私は知りません」とは、親鸞会の模範回答でそれを言ってくれるのを待っていました。
信巻に浄土論註を引かれて
問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。
問うていはく、かくのごときらの計はただこれおのれが事なり。衆生においてなんの苦悩あればか、五逆の重罪に踰えんやと。
http://goo.gl/ivhMt
(現代語訳)
問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。
とあります。この後も謗法罪の説明を曇鸞大師はなされていますが、仏教を信じている人を謗法罪の人と仰っていないことは自明です。謗法罪の基本的な定義です。
親鸞会お得意の『末灯鈔』
善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり
http://goo.gl/HXEw1
ですが、この後には、
同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。
http://goo.gl/HXEw1
と続きます。後の文を読めば、親鸞聖人が手紙を宛てられた関東の同行に対して、
「お前達は、五逆謗法の者だ」
と仰ったのではなく、その逆で、
「善証房のような五逆謗法の者に近づいてはならない」
と多くの関東の同行が五逆謗法の者でないことを仰った根拠になっていることが解ります。
全人類が謗法罪を造っているのではないと親鸞聖人がはっきり仰っていますが、仏を超える高森会長は自分の判断で、親鸞聖人が全人類は謗法の者だと仰っていると主張しているのですが、これは、国語の問題です。中学生にでも尋ねられては如何でしょうか?
それと今まで私が問うてきたことに関しては、認められたのですね。
・「そもそも行を為してない人にそう言っているとしたらあまりにも不自然過ぎます」は、たとえで出した世間の常識からも不自然ではない。
・親鸞聖人、蓮如上人が信心決定のために雑行を勧められたお言葉は皆無である。
・定散二善のできる人がいる。
もう一度言いますが、根拠に基づいてしか私は意見を述べることができません。
国語の常識、仏教の歴史的な常識から逸脱した意見を、無根拠に弘めることは、善証房や善鸞同様、謗法罪です。
S会会員わりとからむなw 2012/01/08 20:33
予想通り?
貴方の想い程度でしか私の発言が理解できていないだけでしょう?
「根拠と違った解釈」の判断基準は、「根拠に沿った解釈」の判断基準を貴方が挙げられないことです。
「善証房のような五逆謗法の者に近づいて はならない」ということだけでなぜ他の同行がそうでないと断定できるのでしょう。
「善証房のようではない五逆謗法の者」もいるかもしれないではないですか。
つまり善証房や善鸞のように積極的に罪を造るような者は悪縁だから近づくな、ということであって、教えの無知によって不可抗力的につくってしまう謗法罪は他の同行たちにもあったと十分考えられます。
それを人間のつくった国語力程度で仏の御心をはかろうとするから問題なのです。
≫「そもそも行を為してない人にそう言っ ているとしたらあまりにも不自然過ぎま す」は、たとえで出した世間の常識からも 不自然ではない。
等々、認めたのですね。と満足されるのはそちらの勝手ですが、前述したことをよく読んでくだされば頭のよろしい貴方なら分かると思います。
あと、どうやらやはり私がS会のまわし者か何かと思っているようですが、そうではありません。
きっとT会長の言に似ているということだけで判断されたのでしょうが、会長の論理に妥当性と一貫性があると私個人が判断し、発言しているだけです。
私の名前に何の疑問も感じませんでしたか?会長を仏と崇め、S会に敬意を払っている者がどうしてこんなふざけた名前を名乗りますか?
ですから私の正体が見抜けていなかった時点で貴方の予想は外れていたのです。
そして同時に名前に疑問を抱かなかった貴方は、仏語を判断しているという国語力さえ乏しかったと言わなければなりません。
果たして中学生からやり直さなければいけないのはどちらでなんでしょうね。
幹部会員歴数十年 2012/01/08 21:05
S会会員わりとからむなwさんへ
私はあなたのことを親鸞会の会員だろうが非会員だろうが同じで、あまり興味のないことです。
ただ高森会長の邪義を支持する人物として、許しておけず、同じ穴の狢として扱っているだけです。
それと、あなたの主張にはいつも根拠がない。根拠なくして破邪顕正はできないと、あなたの尊敬する高森会長は言っていました。
その根拠は、人間の作った国語で判断できるように、善知識方は言葉をもって書かれたものです。
国語とか判断能力以前に、人間として教えを伝えようとなされたからです。それを逆さまにしか読めないところが、最初から仏教を語る資格がないのです。
>「善証房のようではない五逆謗法の者」もいるかもしれないではないですか。
ということは、五逆謗法の者でない者もいることを認められた訳ですね。
あなたは
>私が「モノを持っている人」の話をしたのは、あくまで「例え」であることをご理解頂きたかったです。
と言われていますが、私が挙げた世間の「例え」では、不自然でないことがあることを認められたのですね、と言っているのですが、御理解いただけましたか?
それと
・親鸞聖人、蓮如上人が信心決定のために雑行を勧められたお言葉は皆無である。
・定散二善のできる人がいる。
は認められたということでよろしいですね。
追加で、
・「未だかつて、一つの謗法罪をつくったことのない人を私は知りません」は、訂正された
でよろしいですね。
根拠の1つも挙げられないで、解釈云々という仏教も始まっていない、国語にも疎いあなたには、負け犬の遠吠え以上のことはいえないですね。
真宗の教えを語りたいのであれば、私が挙げた根拠の解釈のどこがどのように間違っているのかも、はっきり言われるべきでしょう。
あれま 2012/01/08 21:05
1/8の11時9分「善をしない前」って言い方は
親鸞会の講師しか言いませんよ。
S会会員わりとからむなw 2012/01/09 00:59
≫高森会長の邪義を支持する人物とし て、許しておけず、同じ穴の狢として扱っ ているだけです。
だから私は特別に支持をしていないという話を一回前にしたそばからこれですから国語力を疑うのですよ…
≫「善証房のようではない五逆謗法の者」 もいるかもしれないではないですか。 ということは、五逆謗法の者でない者もい ることを認められた訳ですね。
貴方の「善証房のような~」という主張に対して「善証房のようではない~」という裏も考えるべきでは?と言っただけで、なぜ「五逆謗法の者」だけ取り出すのですか
?
「善証房のような五逆謗法の者はある」
「善証房のようではない五逆謗法の者はある」
「善証房のような五逆謗法の者はない」
「善証房のようではない五逆謗法の者はない」
このように文章全体で捉えれば、いくら言葉を裏返しても、五逆謗法の者自体がいないという意味だけにはならないのです。
ここまできたら少々高等な論理学の領域ですので、国語力だけに頼っている貴方には難しいのは当然ですかね。ですからこれに関してはご理解いただかなくても結構です。
また、そうやって文章の一部だけを取り出して自分の都合に持っていこうとする態度がよく出ていた一件だったと思いますね。
≫あなたの主張にはいつも根拠がな い。根拠なくして破邪顕正はできないと、 あなたの尊敬する高森会長は言っていまし た。
「根拠、根拠」とうるさく言われると思ったら、そういうことでしたか。
かつての師の説かれ方を守っておられるとは健気ですね。
さすが「幹部会員歴数十年」と名乗られるだけのことはある。
なんともはや、最終的には自己矛盾に陥っていることにも気づかない。
貴殿方の阿弥陀様は、そのままの救いなのでしょ?
まるで根拠の正しい解釈ができなければ、救われないかのように言われますね。
「一文不知の尼入道なりとも、後世を知るを智者とす」
http://goo.gl/BKAJg
です。解釈できようがまいが、臨終に自分の信心が動揺するしないが一大事です。
「聖人一流の御勧化の趣は信心をもって本とする」
http://goo.gl/iXAUZ
ということですね。
とは言いながら教学は必要ないと、誰かのように都合よく解釈する訳ではないですよ。
最後にあれまさんに返答して終わりましょう。
1/8の20:33 の書き込みをよく読んでもらえればS会講師かどうかなどすぐにお分かりになると思います。
では、長らくのおつきあい有り難うごさいました。
幹部会員歴数十年 2012/01/09 08:14
S会会員わりとからむなwさんへ
あなたが一番解っているでしょうが、どれだけ一生懸命誤魔化そうとしても、無理です。あなたの誤魔化しに納得する人はいないでしょう。
このように言えば、あなたなら次のことを言うでしょう。
私の誤魔化しに納得する人もいるかもしれないではないですか。
これが、昨晩のあなたの言葉遣いです。「かもしれない」は「全員」ということにはなりません。
あなたの主張
全人類=[五逆・謗法罪の者]
に対して、私は
全人類=[五逆・謗法罪の者]+[五逆・謗法罪の者でない者]
と主張したわけです。それに対してあなたは、
「善証房のようではない五逆謗法の者」もいるかもしれないではないですか
と言われただけですので、
全人類=[五逆・謗法罪の者]+[五逆・謗法罪の者でない者]
を肯定したことになるのです。国語と論理学の問題です。
根拠を以って、教義を説明するのが仏教です。善知識方は、皆それをされてきました。それを否定するのですから、あなたが謗法の者であることは、よく解りました。
私がよく勉強しているのではなく、あなたと高森会長が不勉強なだけですよ。
2012-01-09
「善を実行して初めて、善のできない自己を知らされこそのそのままの救いではありませんか?」と信罪福心について
S会会員わりとからむなwさんからコメントを頂きました。有難うございました。
S会会員わりとからむなw 2012/01/08 11:09
善を実行して初めて、善のできない自己を知らされこそのそのままの救いではありませんか?
善をしない前は、自分には善ができると自惚れている故、「そのまま」と仰せられても計らいを為してしまうというのが自力の実態だと思いますが。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120107/1325879904#c1325988595
すでに幹部会員歴数十年さんがコメントに書かれていることで、S会会員わりとからむなwさんも議論を打ち切られたようですが、最初のコメントの内容はよく質問される内容なのでここに書きます。
最初の「善を実行して初めて、善のできない自己を知らされこそのそのままの救いではありませんか?」については、そういうものは「そのままの救い」と言いません。条件付きのそのままになるので、そのままの救いになりません。
また「善を実行して初めて、善のできない自己を知らされ」たことが、自力の心が晴れたこととイコールという前提で書かれているので、その前提もまた間違いです。
次の「善をしない前は、自分には善ができると自惚れている故、「そのまま」と仰せられても計らいを為してしまうというのが自力の実態だと思いますが。」についてですが、善ができるできない以前に、「人間の善」は往生の役に立たないと教えられたのが親鸞聖人です。
「自分に善ができるかできないか」「善のできる自己と知らされているか知らされていないか」「自惚れているか自惚れていないか」は、どれも自らの救いを、自らの問題として考えているからでてくる言葉だと思います。
そのような考えを自力の心ともいいますが、信罪福心とも言われます。
定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(教行信証化土巻・浄土真宗聖典(註釈版)P399)
http://goo.gl/jVyTt
この「罪福を信ずる心」が、信罪福心です。罪福とは、結果の上からいったことで、因からいえば罪は悪、福は善になります。自らの善悪の行為の結果が福や罪を生ずると信じる心です。
別の言葉でいえば、自分が救われないのはなぜかということを自己の中で問題にするのが「信罪」の心です。どうすれば自分は救われるのかということを自己の中にあると考えるのが「信福」の心です。
この信罪福心をもったまま本願を聞こうとする人は浄土往生できないと、誡疑讃に度々親鸞聖人は書かれています。
なぜ、信罪福心をもったままではいけないのかといえば、仏願の生起本末と合わないからです。
仏願の「生起」とは、なぜ阿弥陀仏が本願を建てられたのかということです。それについて歎異抄9章から、引用します。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。( 歎異抄9章・浄土真宗聖典(註釈版)P837)
http://goo.gl/Ul53s
阿弥陀仏がすでに煩悩具足の私だとご覧になって、大慈悲をもって本願を建てられました。私がなぜ救われないのか(信罪の心)であれこれ考えていることは、阿弥陀仏が本願を建てるさいにすでにご存知のことです。「善のできない自己としらされていないからではないか」「自惚れているからではないか」とあれこれ考えることは、すでに本願の上に阿弥陀仏が私より先手をうって考えられたことです。
次に仏願の「本末」は、阿弥陀仏が煩悩具足の私を救おうと五劫思惟の願と兆載永劫の行をなされた、その願行とその結果成就した南無阿弥陀仏を言われます。ですから、「どうすれば私は救われるか(信罪の心)」という問題も、すでに阿弥陀仏が私より先手を打って解決されているのです。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P170)
http://goo.gl/zaUwW
私が浄土往生するための行は、阿弥陀如来がすでに願いをおこされて私に与えてくださるものです。ここで「如来すでに発願して」と仰っているように、阿弥陀仏の本願はすでに「衆生の行を廻施したまふ」ことになっております。
このように阿弥陀仏の本願の上ですでに、「なぜ私が助からないのか」とか「どうすれば浄土往生できるのか」という問題は解決が済んでいます。その本願の上での問題を、自分の問題として一生懸命取り組んでいるのが信罪福心です。結果として、阿弥陀仏の本願をはねつけていることになるので、自力の心と言われます。
「こうしなければ救われない」とか、「こうすれば救われるだろう」という問題は、私の問題ではありません。阿弥陀仏の本願の上ですでに先手を打ってあることですから、ただ今救うの本願を、そのままただ今聞いて下さい。
2012-01-08
「なぜ一切世間甚難の法と言われるのでしょうか」(東京の名無しさんのコメントより)
東京の名無しさんよりコメントを頂きました。有難うございました。また、それについて複数の方からコメントを頂き有難うございました。
東京の名無し 2012/01/07 13:03
大聖易往と説きたもう浄土をうたがう衆生をば
無眼人とぞ名づけたる無耳人とぞ述べたもう
真実の信心は易往無人、難信易行と言われます。
ただ今の弥陀の救いに値うには、永久に流転する自己を知らねばなりません。
弥陀釈迦善知識の善巧方便に従い、三願転入の道を進ませて頂きましょう。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120107/1325879904#c1325909002
東京の名無し 2012/01/07 22:58
幹部会員歴数十年さんへ
では、なぜ人無しと言われるのでしょうか。
なぜ一切世間甚難の法と言われるのでしょうか。
長八さんへ
仏様の善巧方便が我々に分かるのかという指摘には、反省させられるところがあります。しかし、「ただ今の救い」だけを説いて「ただ今の救い」が分かるのならば、なぜ釈迦はイダイケ夫人に定散二善を勧めたのでしょうか。
逃げる訳ではないのですが、あんまり書き込むと上から怒られるような気がするので、もうこの辺で止めておきます。失礼しました。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120107/1325879904#c1325944733
これらについての根拠は、幹部会員歴数十年さんが出されていますので、そちらを読んで下さい。長八さん、nowhereさんからもコメントを頂き有難うございました。
無眼人、無耳人について、出ていないご文を紹介します。教行信証行巻に、安楽集を引文されているところです。
このゆゑにわれ説かく、“無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道に事ふ”と。われこの人を説きて眼なき人と名づく、耳なき人と名づく》〉と。経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらん」と。{以上}(行文類_浄土真宗聖典(註釈版)P163)
http://goo.gl/WTTOJ
(現代語訳)
そこで、わたしは“無量寿仏の国は往生しやすくさとりやすいのに、人々は念仏の行を修めて往生するということができない。逆に、九十五種の外道に仕えている”と説くのである。わたしはこういう人を、真実を見る目がない人といい、真実を聞く耳がない人という»と仰せになった>と説かれている通りである。
経典にはすでにこのように説かれている。どうして、難行道を捨てて易行道によらないのであろうか
http://goo.gl/pyRDr
東京の名無しさんの意見で一貫しているのは、「信心獲得は難しい。難しいから時間がかかる」ということです。末代の凡夫である私にとっては、定散二善をしなければ助からないという意見は間違いなく「難」です。南無阿弥陀仏一つでただ今救うと言われる阿弥陀仏の第十八願は、「易行道」です。コメント欄にもたくさんのご文が挙げられていますが、「経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらん」と親鸞聖人が仰っていることを、自分に向けて仰ったことだと思って読んで下さい。
親鸞会教義によって、本来の浄土真宗の教えを聞いても信じられない人は、まさに「無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道に事ふ」と表現されている人です。親鸞会教義で言う「定散二善をしなければ助からない」は、このご文の「九十五種の邪道」です。
また、難信については、自力の心を持ったままでは絶対に他力の信とはならない、また、疑情をもったままでは、絶対に浄土往生できないという意味です。
難と易については、愚禿鈔に以下のようにあります。
難易に二とは、
一には難は疑情なり。 二には易は信心なり。(愚禿鈔上巻・浄土真宗聖典(註釈版)P504)
http://goo.gl/Ln9uu
また、愚禿鈔下巻には、
難易対
難とは三業修善不真実の心なり、
易とは如来願力回向の心なり(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P539)
http://goo.gl/wEjUL
とあります。
これらの意味から、疑情、三業修善不真実の心を持っては浄土往生ができないことを「難」といわれ、信心・如来願力回向の心で浄土往生することを「易」と言われています。
そのことを仰った教行信証のお言葉を紹介します。
しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P211)
http://goo.gl/yz0jj
このご文を、親鸞会では前半のみ出して「信心を獲得すれば浄土往生はたやすいが、信楽をうることが難しいのだ」と強調して、信楽をうることがいかに難しいかの話をします。しかし、それは、その直後の「なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり」を全く無視している説明です。
なぜ「真実の信楽まことに獲ること難し」かについて、「如来の加威力によるがゆえ」と説明されています。「疑情・三業修善不真実の心」をどれだけひねっても、真実の信楽にはならない、阿弥陀如来のお力によらねば絶対に信楽とはならないという意味です。
上記のご文と対照するとよくわかるのが、以下の化土巻のご文です。
大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。(教行信証化土巻・本・浄土真宗聖典(註釈版)P399)
http://goo.gl/Y1RSu
ここでは「大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑ」と言われています。「自分で疑情をなんとかしよう」、「定散二善を実行して、親鸞会的三願転入の道を進もう」では、確かに難しい信心です。例えれば「親鸞会で言うとおりの道を通って」信心決定するのは、箱根駅伝往路5区で東洋大学柏原選手に勝つよりも更に難しいです。難しいと言うより絶対にできません。しかし、「仏力より発起する」他力廻向の信心は、「大信海ははなはだもつて入りがたし」です。
そのため自力を捨てよと厳しく戒められ、本願力回向の信心を勧められたのが親鸞聖人です。ただ今救うとよびかけられる南無阿弥陀仏を、ただ今聞いて救われて下さい。
2012-01-07
追記:「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」(おさびしやまさんのコメント)
2012-01-05のエントリーについて、追記です。
おさびしやまさんのコメントの意図を取り違えて書いておりました。申し訳ございませんでした。そこで、複数の方からコメントを頂いて、改めてエントリーを書きます。コメントを書かれたみなさん有難うございました。
広島の名無し 2012/01/05 23:33
たぶん、おさびしやまさんは、長八さんの言われるように「無耳人」、「真実を聞く耳を持たぬ者」という意味で「耳のない者」と言われていると思います。「聞即信」の「聞」は、自分の力ではできない、という意味で「耳のない者」と言われていると思います。「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」といった素朴な疑問を上げておられるのだと思いますがどうでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120105/1325753027#c1325773981
おさびしやま 2012/01/06 11:20
広島の名無しさんの言われるように「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」という素朴な疑問です。世間ではそういったことはしませんし、している人が居たら、まわりにいる人が注意します。山も山さんは、それを敢えてなさっているので、何か深い意味があるのだろうと思ったのです。それを知りたかったのです。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120105/1325753027#c1325816423
おさびしやまさんの言われる通り、聞即信の「聞」は、自力で聞いたという聞ではありません。そこで、「聞く力がないものに、聞いてくださいとは酷なのでは?」とのことですが、「自分の力で聞くことができないから、阿弥陀仏の仰せに救われてください」という意味で今まで書いてきました。自力の「聞」(疑いのまじった聞)では救われないので、他力の「聞」(疑いない聞)で救われて下さいという意味です。
聞即信の聞は、「本願を聞いて疑心あることなし」の無疑心のことですから、おさびしやまさんの問いは、「自分の力で無疑心になれないものに、無疑心になれとは酷なのでは?」と言われているのと同じことになると思います。
しかし、無疑心とは何によっておこされるかといえば、名号です。
この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P231)
http://2jq.pp.sl.pt
無疑心といっても、自分で頑張って「無疑心になった」ということはありません。無疑心の体は名号ですから、南無阿弥陀仏によって無疑心となります。
なぜ南無阿弥陀仏によって無疑心となるのかといえば、私には自らの力で清浄、真実の心になることができないからであり、そのため阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を回向してくださるのだと、上記のご文の前に親鸞聖人は書かれています。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。
ゆゑに疑蓋雑はることなし。(同上)
※現代語訳はこちら
「如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。」と書かれています。阿弥陀如来が私に南無阿弥陀仏を差し向けて施してくださっています。その南無阿弥陀仏の回向を、喚び声ともいわれるので「聞其名号」とお釈迦様は言われました。
また、親鸞聖人は、「聞思して遅慮することなかれ」と言われました。
自分の心で無疑心とはならない私だから、「聞思して」と親鸞聖人がいわれるの「聞」は、名号のお働きによって無疑心となったことを言います。
お尋ねのことについて、もう一度書きますと「自分で聞く力がないから、南無阿弥陀仏によって聞(無疑心)いて下さい。」それ以外にはないので、日頃そう書いています。特別に深い意味はありません。
2012-01-06
高森顕徹会長「正信偈には大変なことが書かれているから、心して勤行しましょう」「メディア布教に大金を使ったらから布施してください」と勧める。(1月3日親鸞会館法話参加者より頂いた情報)
2012年1月3日親鸞会館(富山県射水市)で、高森顕徹会長の法話が行われました。参加された方から頂いた情報で気になったところを紹介します。
演題は、正信偈「本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 梵焼仙経帰楽邦 天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 往還廻向由他力 正定之因唯信心」についてでした。
「往還廻向由他力」について時間をとって話をしていましたが、二種の回向については750回忌の時と同様に内容は殆どありませんでした。一日話した結論は、標題の通りで「心して勤行しましょう」でした。
高森顕徹会長「あくまでも還相回向は死んでからですけれども、その真似事でもせずにおれなくなってくる。こういうことが、二種の回向ですよ。こういうことが正信偈のこの曇鸞大師の教えなんです。これが信心一つでですね、二つとも阿弥陀仏からいただいて、頂くことができる、正定の因はただ信心なり。唯信独達の教えはこの曇鸞大師の浄土論註にですね、もうすでに書かれておったんですが、これを親鸞聖人は教行信証でハッキリと教えて下されておるわけなんですね。正信偈、短いお言葉ですけれども、開けば教行信証になりますので、大変なことが書かれていますから心して読ませていただきたいと思います。じゃあ、今日はこれまでといたします。」(2012年1月3日親鸞会館法話より)
根拠として
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教行信証教巻・浄土真宗聖典(註釈版)P135)
http://2j5.pz.sl.pt
を上げますが、具体的な説明としてはほとんど何もありません。
まとめますと「二種の回向をいただくと往生浄土の身になり、衆生済度の活躍をせずにおれなくなる」です。上記の教行信証のご文でいえば「真実の教行信証あり」には、ほとんど言及しないので、「往相回向」が一体なんなのかは、聞いた人には全く分かりません。いわゆる「決勝点で阿弥陀仏から頂ける何か」のようです。
寒い中富山県まで新春早々でかけて行き、2日の新春大会に参加した人はさらに3万円の参加費を出した上での話が「正信偈には深い教えがあるのだ、開けば教行信証なんだ。こころして勤行しましょう」では、何を聞きに行ったのか分かりません。
新春早々富山に出かけていった人には、加えて「メディア布教」のお布施の案内があったそうです。
具体的な使途が不明な「メディア布教」には大金がかかっているようで、「高森先生はこのメディア布教に命をかけておられる。この二千畳を売ってでもやり遂げると仰っている。」と現場の担当講師や幹部は会員に話をしているそうです。
これはとんでもない話です。高森会長自身が建てたいがために、会員から大金を出させて建てた二千畳の建物を、今度はそれを売ってでも金が必要だとのことです。「二千畳を売ってもいいのか?嫌なら金を出しなさい」と会員に向かって会館の売却をちらつかせて「お布施」を強要しているのと同じです。
そもそもあの建物は、会員の出したお金で建てたものであって会長の私物ではありません。会員に相談もなく勝手に会長が売却できるものではありません。しかし、現状は会館が満堂になることはほとんどなく、以前の会館で十分の現状を考えると二千畳の建物はないほうがよいのも現実です。会員の本音として、実際会館を売るとなったら誰も止めないと思います。
2012-01-05
「耳のない者に聞いて下さいというのは違和感があります。歩けない身体障害者に向かって歩いて下さいというのは残酷です。」(おさびしやまさんのコメント)
おさびしやまさんよりコメントを頂きました。有難うございました。
おさびしやま 2012/01/04 11:25
「釈迦弥陀は慈悲の父母」と和讃にありますが、耳のない者に聞いて下さいというのは違和感があります。歩けない身体障害者に向かって歩いて下さいというのは残酷です。キリスト教では神に向かってこの罪人を救い給えと祈るので納得します。おそらく耳の無いものに聞いて下さいとしか言いようがないのかもしれませんが、この違和感をうまく説いてくださる善知識はおられないものだろうかと思います。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120104/1325629348#c1325643915
耳の聞こえない者はどうするのか?というお尋ねについては、私自身明確な答えはありません。なぜなら、私自身耳が聞こえるので、耳が聴こえない人の心境が、本当の意味では分からないからです。申し訳ございません。
ただ、こんにちは点字などで、耳の聞こえない人にも、本願のあることを知ることができる機会があります。それもできない人の関しては私は分かりません。ただ、阿弥陀仏は助けたいばかりです。この私を見捨てられないのが阿弥陀仏ですから、耳が聞こえない人、目が見えない人にも必ず救いの手を差し伸べられています。決して選ばれた人だけを救われる仏ではありません。
「これらの思いは全て自力であり、捨てものです、と言われても私には捨てられないようです。」(新垣真さんのコメント)と、なぜ高森顕徹会長の法話に講師部員は全部参詣することになったのかについて
新垣真さんのコメントに多数コメントをいただき有り難うございました。
新垣 真 2012/01/04 09:45
最終的には、本願の聞けない私である。だからこそ名号六字のお力で聞かせていただく、ということですね。
となりますと、求道者がお聖教を目にし、法話を耳にする過程での心境としては、「本願が聞けない者だなぁ」と感じてくるのはごく自然なことですよね。単に聞くのが難しいと考えてしまうのも同様だと思います。しかし、もちろん意識としては、なんとしても聞きたい、救われたいと思うのですが、それとは裏腹に涼しい顔をして、一向に聞こうとしない自己。聞きたい一杯と聞けない一杯が自己矛盾するところに私は泣かされ、苦しんでいます。確かにこういった心境にならねばいけない、と言ってしまうと間違いになることは再々聞かせていただきました。しかし、結論からいえば、「聞ける」と思うのは、自惚れで本願を撥ね付ける心ですよね、ですから「聞けない自己」が知らされてくるのは不可避的、と理屈ではいきついてしまいます。この心が間違いならただの被害妄想か、という質問もしましたね。これらの思いは全て自力であり、捨てものです、と言われても私には捨てられないようです。いや、捨てたつもりが捨てれていなかったと言った方が近いでしょうか。少なくとも皆さんの求道理論を何度聞いても、今現在の私にとっては堂々巡りにしかならないことが分かりました。とは言いながら、案外皆さんのアドバイス通り自分に合った善知識が見つかれば、何でもなくなるのかもしれませんが…
あと、一つ前の内容になりますが、高森会長は「ワシの話だけを聞け」「ワシが善知識じゃ」と自身の口から言われたことがあるのですか?
少なくとも私は直接聞いたことはありません。むしろ、その取り巻き(主に講師など)が勝手に言っているだけのように思います。実は、私がこのサイトに興味をもった理由は、S会の同行(主に講師)の狂信的に思える求道態度に不信を感じたからです。そんな会員を野放しにしているのは誰だとなれば反論はできませんが、そこのところもハッキリさせておきたく思います。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120104/1325629348#c1325637900
新垣さんのコメントされている、聞こうとしてもなかなか聞けない、捨てようとしても自力はなかなか捨てられないという悩みは、多くの人が感じるところだと思います。
大事なことは、何が私を浄土往生するはたらきなのかということです。私のあらゆる行為で浄土往生するのではありません。南無阿弥陀仏で浄土往生し仏のさとりを開くのです。親鸞聖人は、念仏成仏と言われています。
(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
私が「○○」して救われるというのは、「万行諸善これ仮門」の部類に入ります。それに対して、「念仏成仏これ真宗」です。南無阿弥陀仏で救われるということです。
私の口から称えられるところの南無阿弥陀仏は、私の力を加えて初めて成就するのではありません。また、私が「聞く行為」「信じる行為」を加えて成就するのでもありません。何かをこちらから加えなければ、積み重ねなければ救われないというのは、全て「聖道権仮の方便」の考えですから、本願一つ、南無阿弥陀仏一つで救う第十八願の救いと、それ以外の違いを間違えると「自然の浄土をえぞしらぬ」毛頭浄土を知ることはできないといわれています。
また教行信証には、念仏について
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P186)
と言われています。(現代語訳はこちら)
南無阿弥陀仏は私の行ではありません。ですから、不回向の行といわれ全ての人に念仏成仏しなさいと勧められています。自力は捨てものといわれるのは、この南無阿弥陀仏に手をかけて自分の行のように思うからです。南無阿弥陀仏はこれひとつで救うように成就し、私に回向されるものですから、そのまま聞いて念仏して救われてください。
もう一つの高森顕徹会長が「ワシの話だけを聞け」「ワシが善知識じゃ」と言ったことが有るのかということについて書きます。
すでに、迎春さんほか多くの方のコメントに有るとおりです。
親鸞会という組織は、高森会とか高森教といわれるほどの高森会長の指示通りのことしかやりません。以前に「善知識高森先生」と機関紙に書いていたのも、それを書かなくなったのも全て会長の指示です。なぜ書かなくなったのかは、本願寺派から「善知識だのみだ」と批判を受けたため、機関紙上からは「善知識高森先生」は削除するようになりました。
私が親鸞会講師部にいたころに聞いた話を一つ紹介します。それは、過去全国各地の高森会長の法話に会員が参詣することになったきっかけをつくった会長の発言です。
親鸞会が発足し、講師部員制度ができはじめた当初は、高森会長が遠方に法話に行く際には、講師部員はそれを地元で見送って、高森会長が法話に行っている間地元で活動をしていました。当時は、講師部員も地元の会員もそれが普通だと思っていました。一般的に、自分のところの住職さんが遠方に招かれて法話をするからといって、門徒さんが総出で行くというのはありませんので、当時そのように講師部員が考えたのもごく自然なことでした、
ある日高森顕徹会長が講師部員にこう言って叱りました。
「キミら(講師員)は、いつも人に火の中分けて聞けといいながら、自分は聴聞しなくていいのか?ワシが遠くで説法しているのを見送っているような態度でいるというのは、人に言っていることと自分がやっていることが違うんでないんか!」
これを聞いた当時の講師部員は、「あー、私たちは間違っておりました」と反省し、土日に行われた全国各地の法話に参詣することが、義務化されることとなりました。担当講師が、参詣することになったのでそれに伴い、会員にも同じようなことを勧め、「ワシの話だけを聞け」が実現しました。
善知識帰命の団体を作り上げてきたのは間違いなく高森会長です。会長が「言え」と言ったことを言い、「言うな」と言ったことは絶対に言わないような組織になっているのが親鸞会です。ですから、講師部員が「高森会長の話だけを聞きましょう」と言っているということは、高森会長が言わせているということです。
追記 2012-01-05 17時44分
以上のように、高森会長の発言は、ヤクザの脅しと何も変わりません。
一見相手が反論できない理屈と持ってきて、相手を攻め立てます。
善良な精神の持ち主は、「会長のいうことももっともだ」と判断して、「自分が間違っていたのだ」という思考に落ち着きます。
これは丁度、交通事故の示談交渉にもちこむヤクザと何も変わりません。
ヤクザは「お前は人の怪我をさせといて、何も誠意をみせないのか?1」ともっともらしいことを言います。善良な人は、ヤクザの言うとおりにお金を出し続けてしまいます。
それと同じことが、親鸞会では行われています。直接的に「金を出せ」といわずに、高森顕徹会長は、会員から金と人生を搾取する構造になっています。
とくよしみねさんのコメントに紹介されたURLを追記します。
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2009/09/post-a65a.html
2012-01-04
私に本願を聞く力があるのでしょうか?ないのでしょうか?(新垣真さん・はや3年さんのコメント)
新垣真さん、はや3年さんからコメントを頂きました。有難うございました。
新垣 真 2012/01/03 18:03
(略)
特に方法論はなく、やはり最後は「阿弥陀仏の本願は聞くもの、ただ今聞いて救われてください。」という結論になるのですね。
これはつまり、私に本願を聞く力があるからこその教導なのでしょうか。それとも聞く力が私にはないので、阿弥陀仏の本願力により聞かされてください。ということなのでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120103/1325544092#c1325581396
「聞く力」の「聞く」がどういう意味かによって、返答は変わります。
1つは、「聞即信」の意味の場合は、私には聞く力がないとなります。
2つは、現在本願を法話で聞いている、またお聖教で目にしているという意味での聞く力の場合は、私には聞く力があります。
ブログに「本願を聞いてください」と言っているのは、1つめの意味です。
なぜ本願を聞いてくださいというのかといえば、南無阿弥陀仏に私を救う力があり、それを聞いて救われるように本願を建てられているからです。
ここで「本願を聞く」とは、「聞いて疑いない」のが「聞く」という意味ですから、信心と同義の言葉です。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P677)
http://2i1.gr.sl.pt
聞其名号の「聞」は、「本願をききて疑う心なき」ことであると言われています。また「聞」は信心をあらわすことだと言われていますので、聞即信とこれを言います。
次に「信心歓喜乃至一念」の「信心」は、「如来の御誓いをききて疑う心のなきなり」と言われています。「信心」も「聞」もともに「本願を聞きて疑う心なき」ことです。
本願を聞いてくださいといえば、本願を聞いて疑いない身になってください、救われてください、信心決定の身になってくださいということです。それは、確かに自分で出来ることではないので、早くただ今救うとよびかけられる本願にまかせる以外にありません。
はや3年さんのコメントも、それに関連しています。
はや3年 2012/01/03 20:11
半自力といいましょうか。
それなりに真剣に阿弥陀仏の本願に向かっていかないことには捨自帰他ということにもならないんですよね。
安心問答読んだり、皆さんからのアドバイスを受けて阿弥陀如来に対峙していくというのであれば、結局はそういうことになりませんか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120103/1325544092#c1325589096
「真剣になる」というプロセスを間に挟まねばならないということはありません。ですから、現在真剣になっていない人に「まず真剣になれ」とは言いません。ただ、現在真剣な人に「真剣になるな」とも言いません。なぜなら、ただ今救うと喚びかけられる本願だからです。
「真剣になったら救うぞ」という本願ではありません。
阿弥陀仏に向かずに、自分の真剣さなどを問題にする人に、「阿弥陀仏に向け」といえば、聞いた方は「真剣に阿弥陀仏の本願に向け」と聞こえるかもしれません。しかし、真剣さを出してくださいと言っているのではありません。阿弥陀仏の本願をただ今聞く一つです。
ただただ、聞いてくださいと言うより他はありません。助けてくださるのは阿弥陀仏なのです。誰かのアドバイスが助けてくれるのでは有りません。
ただ今救う本願が、南無阿弥陀仏だけが私を救ってくださるのですから、ただ今聞いて救われてください。
2012-01-03
「自力を捨てるとは例えば、「そのままとは?」というような疑問を考えないようにするという程度のことなのでしょうか。或いは何か方法論があるということですか。」(新垣真さん、はや3年トホホさんのコメントほかより)
新垣真さん、はや3年トホホさんからコメントについて、多数コメントを頂き有難うございました。
新垣 真 2012/01/02 12:56
善知識は悟りを得るための全因縁といわれるぐらいですから、誰からでも聞けばいいというようないい加減なものではないと思っていましたがかといって、殊更に善知識を強調すると今度は知識帰命ということに偏ってしまうことが分かりました。
本願をそのままを聞くとは、どういうことか。という疑問は自力で捨てもの、ということですが、無始より迷わせてきた親玉を自分の意志などで容易に捨てられるものなのでしょうか。
再び高森会長の言ですが、自力とは阿弥陀仏によって一念で切り捨てられるもので、自分でどうこうできるものではない。なぜなら、どうこうしようというのも自力だから離れられるものではない。だから一念のときまでは、自力いっぱいの自己をとりつめていき、いずれの行も及び難き身、と知らされるところまで進まねばならない、と説かれます。
自力を捨てるとは例えば、「そのままとは?」というような疑問を考えないようにするという程度のことなのでしょうか。或いは何か方法論があるということですか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120102/1325455256#c1325476618
善知識は全因縁については、迎春さんもコメントされている通りです。
また、こちらのブログでも紹介されているので参照ください。
※参照:「善知識は全因縁」の元になった阿含経についてのエントリー
※※ 阿含経にはこのような話も出ています(21世紀の浄土真宗を考える会ブログ)
新垣さんのコメントにありますが、「誰から聞いても同じ」では確かにありません。しかし、高森顕徹会長の場合は、教えそのものが違うので上記の話の範囲ではありません。
こう言いますと「教えが正しいかどうかは私に分からない」と言われる方もありますので、極簡単な判別方法をお伝えします。仏教の理解が全くないという方でも、これ一つ知っておられれば「知識帰命を教える悪知識」かどうかは分かります。
それは「ワシが善知識だ」「ワシから聞かねば救われない」という人は間違いなく悪知識です。そういう人からは速やかに離れるべきです。
自力は自分の意志で捨てようとしたから捨てられるものではありません。あくまでも本願を聞くことです。本願をそのまま聞かないことを自力というのですから、自力を捨てるとは本願をそのまま聞いたことです。
ですから、高森顕徹会長の説は、本願を聞くことを一切言わず、自分の機がどれだけ罪悪に問詰まったか努力したかを自力を捨てる条件として話をしているので間違いです。また、「自力一杯の自己をとりつめ」た人を、私は親鸞会にいたころにほとんど見たことはありません。たまに親鸞会の言うとおりの罪悪を問題にした人は、精神的に大きな傷をおって行きました。
本願をそのまま聞くとは、親鸞会のような方法を実践した人だけが聞けるというものではありません。また「考えないようにすればよい」というのも考えなので間違いです。「どうにもならない自力なら自力そのままお助け」というのも間違いです。
なぜなら、阿弥陀仏の浄土は、本願によって成就したところなので、自力を持ったままでは絶対に往生できないからです。自力そのままお助けには絶対になりません。
高僧和讃には、このように書かれています。
(72)
願力成就の報土には
自力の心行いたらねば
大小聖人*1みなながら
如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P591)
http://2hh.n8.sl.pt
ここで「大小聖人」というのは、大乗仏教、小乗仏教でいくつかのさとりをひらいた人のことです。私からみれば、大変尊い菩薩であっても、阿弥陀仏の浄土・「願力成就の報土」には、「自力の心行」ではとても往生できないので、それらを捨てて「如来の弘誓」に乗って救われたのです。
自力を捨てるのが「どの程度難しいか・易しいか」という問題ではなく、自力の心行では浄土往生は絶対にできません。そのため自力は、どうあっても捨てものなので、それは捨ててください。阿弥陀仏の「ただ今救う」の本願を聞いてください。方法論はありません。
はや3年さんからのコメントについて
はや3年、トホホ(~_~;) 2012/01/02 13:42
そのまま阿弥陀仏の仰せを聞くというのは、抽象的でいまひとつわかりません。
自力一杯求める必要が皆無というならば力を抜いて楽にしますが、それでは本願から心まで離れてしまう横着な私です。
昨年はたくさん涙を流してこれ以上ないくらい苦しみましたが、阿弥陀仏は私の自力を切り捨ててはくださいませんでした。
お手上げだなぁ(~_~;)
「抽象的でいまひとつわかりません」といわれるのは、「ただ今救う」以外の意味を理解しようとされているからです。阿弥陀仏の仰せには、聞いたそのままです。もちろん南無阿弥陀仏を成就し、私に喚びかけてくださるには、五劫思惟と兆載永劫の修行がありました。しかし、その五劫思惟や、兆載永劫の行自体や、またその願を起こされた如来の大慈悲心まで私が知ることはできません。
だから私がわかるように喚びかけられる「南無阿弥陀仏」「ただ今救う」を聞く以外にありません。なぜなら、南無阿弥陀仏を聞いて救うように本願はなっているからです。高森顕徹会長の発言を、親鸞会の会員が「言葉の裏にはなにか深い御心があるのだろうか」と思うように、本願を聞いてはなりません。
そのように考える癖を、親鸞会に長くいると付けられてしまいます。それが阿弥陀如来と知識を同一視する知識帰命の考え方です。
人間の考え、特に人を騙そうとする邪悪な者の考えは、善良な人には理解できません。しかし、阿弥陀仏の仰せは、私に分かるように喚びかけられるのですから聞いたそのままです。
阿弥陀仏の仰せは待つのではなく、聞くものです。ただ今聞いて救われてください。阿弥陀仏は苦しめとは言われません。「お前は大丈夫だ。ただ今救う」と仰っています。
*1:【左訓】「大乗の聖人、小乗の聖人」(異本)。
2012-01-02
「本願をそのまま聞いて救われたいのですが、一向にただいま救われません。お手上げです」(安心問答を読んで3年さん、新垣真さんのコメントより)
安心問答を読んで3年さん、新垣真さん、ややさんよりコメントをいただきました。有難うございました。
本願をそのまま聞いて救われたいのですが、一向にただいま救われません。お手上げです(^^;; (安心問答を読んで3年さんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120101/1325365285#c1325402030
そうなりますと、やはり私も そのまま来いの本願をそのまま聞くとは、どういうことか?という疑問が最後の砦になってきます。
もちろん知識の説法を耳で聞くだけ、また理解し、合点したのが信ではないですよね。
ここで高森会長でしたら、善知識の説法を間断なく聞き続け、自己の無常と罪悪をとりつめることで、理解や合点を超えた信心が徹底すると説かれますが、まずここで疑問なのが、皆さんには「善知識」はいらっしゃるのでしょうか。「親鸞会以外をお勧めします」と助言してくださいました方がありましたが、要は高森会長以外なら全て善知識ということなのでしょうか。(新垣真さんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120101/1325365285#c1325427433
「早く救われないかなぁ」と待っているのは、本願を聞いて疑いないとは違います。また、「理解、合点」も信心ではありません。
本願を聞いたそのままの救いですが、これは言葉通りでそれ以上に裏の意味はありません。しかし、「聞いたそのまま」と聞くと、どうしても「そのままってどういうことだろうか?」と考えてしまいます。また、私も以前は「そのまま」とか「ただ」とかいう言葉には何か大変深い意味があるのだと考えていました。ですが、それは間違いです。
ただ今救うという本願の仰せは、親鸞聖人も「本願招喚の勅命*1」といわれています。それは、阿弥陀仏の「ただ今救う」の喚び声は、ただそのまま聞く以外にないという大変強い仰せだということです。阿弥陀仏が「助けるぞ」といわれれば、そのとおりになるということです。
その勅命というのは、今日一般的な言葉ではないので、時代劇を例にします。昨年放送終了した時代劇水戸黄門でいえば、番組終盤で「控えおろう」と格さんが印籠を出すと、その言葉を聞いた人はみな控えてしまいます。それはただの言葉ですが、逆らうことができない大変強い言葉です。
阿弥陀仏の本願も「ただ今救う」とよびかけられる招喚の勅命ですから、それには「いつ?」「どうやって?」「私がですか?」と私の計らいを差し挟む余地が無いということです。しかし、そこに「今ですか?」とか「罪悪も無常もとりつまっていないのですが…」とか「理解がまだ浅いのですが…」と自分の計らいを挟むと、それはその本願の仰せの通りに聞いていないことになります。結果として、本願招喚の勅命の通りにならないということです。
そうやって、自分の考えを本願より先に出して、本願を聞かないのを自力と言います。先ほどの水戸黄門でいえば「控えおろう」といわれて「控えない人」です。水戸黄門のシリーズ中には、必ず「控えない人」が出てきます。どんな人かは、以下の動画を参照ください。
参考動画:控えない人々
この「控えない人々」は、「これがご老公であるはずがない」などと言っては、「控えおろう」と聞いても控えません。
ちょうど同じように、阿弥陀仏の本願は「ただ今救う」と聞いても、「そんなはずはない」とあれこれ自分の計らいを優先するのは、本願招喚の勅命をはねつけているのです。
「控えおろう」といわれれば、控えることになっているのが水戸黄門ですが、「ただ今助ける」といわれれば、「ただ今助かる」ことになっているのが阿弥陀仏の本願です。
「ただ今救う」の本願を、ただ今聞いて救われてください。どうしたら救うという本願ではありません。そう考えるのも自力ですから、それは捨てものです。
もう一つの「善知識」については、ややさんがコメントされていますように、ご自分でいろいろと調べてみることをお勧めします。
理由は、新垣さんが話を聞いている親鸞会教義・高森顕徹会長の説は、知識帰命だからです。知識帰命とは、知識の力で救われるように考える間違いです。
知識帰命については、御文章に以下のように書かれています。
またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。(御文章2帖11通・五重の義)
http://278.dj.sl.pt
このように、阿弥陀仏よりも知識を優先してしまうのが知識帰命です。ですから、親鸞会では「高森会長から聞かねばならない」と徹底されます。大きな講堂を建てたり、ネット中継をしてまで「高森会長の話」を聞かせようとしているのが、高森会長です。
会長自らが、会員の知識帰命を推進しているのが親鸞会です。そのため親鸞会に長くいますと、どうしても親鸞会を辞めても「善知識がダメだったから救われなかった、もっといい善知識から聞いたら救われる筈」という発想になりがちです。
蓮如上人がいわれるように、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむ」のが善知識です。「誰から」聞くかではなく、「何を聞くか」が大事です。救って下されるのは阿弥陀仏であって、善知識ではありません。
新垣さんに「○○先生が善知識だ」と仮に勧めても、上記のような知識帰命の考えを持ったままでしたら、それは弥陀に帰命するのではなく別の知識に帰命することを続けるだけになってしまいます。
「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と説く人は、親鸞会以外に必ずいます。それに対して、高森顕徹会長は「一心一向にワシに帰命したてまつるべし」と言っているので、いわゆる「善知識」ではありません。「一心一向に弥陀に帰命せよ」と勧める方があることは、ネットで調べて勧められる和上方の本を幾つか読むだけでも分かることです。
*1:衆生に帰せよと命じる如来のよび声。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版) P.170)。
2012-01-01
「煩悩ではなく、自力によって苦しむ、ということですが、信前の者はその両者の区別はつくものなのでしょうか?」(新垣真さんのコメントより)
新垣真さんのコメントについて、多くの方からコメントをいただきました。有難うございました。
煩悩ではなく、自力によって苦しむ、ということですが、信前の者はその両者の区別はつくものなのでしょうか。
今まで煩悩を強調した私の発言は問題があったと思いますが、救われて初めて煩悩ではなく、自力が障りであったと知らされるものだと思っていましたので、信前の混同した意味で雑念、妄念と言っていたところがあったと思います。
是非、煩悩と自力の見分け方を解説いただければと思います。(新垣真さんのコメントより)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111230/1325189550#c1325358033
煩悩と自力の区別はつきます。救われて初めてその違いが分かるというのは間違いです。言い換えると煩悩と本願疑惑心の区別がつくから親鸞聖人は疑を誡めて、信を勧められました。
二河白道の譬えでいえば、煩悩は水の河、火の河にあらわされる貪欲瞋恚の心です。それに対して、自力とは白道を前にして一歩踏み出そうかどうしようかと、躊躇する心です。
また、自力について、親鸞聖人は御消息に以下のように書かれています。
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。(親鸞聖人御消息6-浄土真宗聖典(註釈版)P746)
http://2gg.kn.sl.pt
自力とは、「わがはからひのこころをもって」阿弥陀仏に救われるのにプラスになると考えている善を体で行い、口で称え、心を整えて往生しようとする心です。本願に対して手助けをこちらでしようとする心です。
新垣さんのコメントでは、「雑念・妄念」と心のことを問題にされているので、心について言えば「こんな煩悩が起きなければ救われるのに」と考えているのが自力です。
二河白道の譬えでいえば、「火の河、水の河の波が高いから白道に一歩足を踏み入れることができないのだ。もっとこの河の波が小さければ白道に足を踏み入れることができるのに」と考えて、火の河、水の河の波を問題にしているのが自力です。それは「そのまま来い、ただ今救う」と呼びかけられる阿弥陀仏の喚び声声を、聞かず、疑っている相ですから、本願疑惑心とか疑情とも言われます。
ちなみに、二河白道の譬えは、阿弥陀仏の招喚の声とお釈迦様の発遣を聞いて一歩白道に足を踏み入れたのが信心だと言われたものです。それに対して、高森顕徹会長が「白い道を一進一退しながら進み進退極まったときに初めて弥陀の呼び声が聞こえる」と解説するのは全くの間違いです。
本願を聞いていろいろな感情は沸き起こリます。しかし、元来持ち合わせている煩悩で欲を起こしたり、腹を立てたりする心は、文字通り煩悩です。その「煩悩を何とかしなければ、阿弥陀仏は助けてくれないだろう」が「わがはからいのこころ」と言われる自力です。
しかし、自分の力で自力をなんとかしようとするのは、結局煩悩と格闘している人と同じでどうにもなりません。そもそも、阿弥陀仏の本願の仰せを聞かずに、わがはからいを挟んで右往左往しているのが自力ですから、自力を捨てるといっても本願を聞く以外にありません。
ただ今救うの本願をただ今聞いて救われてください。
2011-12-31
18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますが、これもどんな人も助けるということであり罪を問題にせよという意味ではないだろうなと思います。(Kさんのコメント)
Kさんのコメントについて改めてエントリーを書きます。
18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますが、これもどんな人も助けるということであり罪を問題にせよという意味ではないだろうなと思います。このことについてご解説いただけると有難いです。(Kさんのコメント)
「唯除五逆誹謗正法」については、親鸞聖人が尊号真像銘文の中で解説をされています。
「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文・浄土真宗聖典(註釈版)P644)
ここで、最初に「五逆のつみびとをきらひ、謗法のおもきとがをしらせんとなり」と言われています。阿弥陀仏は「唯除」ということで、五逆罪、謗法罪がどれほど恐ろしい罪であるかを知らせようとされています。
そのように言われる理由は、阿弥陀如来は五逆罪謗法罪のものも救ってくださいますが、五逆罪謗法罪自体を許しておられるのではないからです。ですから、未だに五逆罪、謗法罪を造っていない者に対して「ただ除く」ということで、私達に罪を造らせないという大慈悲から言われたお言葉だと分かります。
人間の親子でも、友人でも「もしそんな恐ろしい罪を造ったら縁を切るぞ」というのは、「相手を威嚇したり恐怖に陥れる」ためではありません。本当に相手のことを思っているならば、それは「絶対にあなたに恐ろしい罪を造って欲しくないし、造らせない」という相手を罪から護ろうという心です。
しかし、已に五逆罪謗法罪を造った人や、また今も造り続けている人に対しては、「このふたつの罪のおもきことをしめして、十方の一切の衆生みなもれず往生すべし」と言われています。これは、罪の重いことを知らせて、廻心懺悔させ本願を聞くものに導いて全ての人を救うといわれたお言葉です。決して、已に造った人は、「罪人だから嫌いだ」「言うことを聞かないものはもう助けない」と言われるのではありません。
最初に「逆のつみびとをきらひ、謗法のおもきとがをしらせんとなり」とあるように、已に五逆罪、謗法罪を造っている者をなお哀れに思われて、それを「重き咎を知らせん」とされているのが阿弥陀仏です。また、それを「重き咎」と知る人は、已に法を聞いている人です。
特に謗法罪は、そもそも仏も仏の法も、浄土も認めない人だからです。
問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。(教行信証信巻末-明所被機-曇鸞「浄土論註」引文・浄土真宗聖典(註釈版)P298)
http://2g3.wb.sl.pt
そのため、その少し前にも
また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。(同上・P297)
http://2g3.wz.sl.pt
と言われています。
「仏も菩薩もないからその法もないと言っている人が、どうして浄土に生まれたいという願いを起こすことがあるでしょうか?」
ということです。
仏法を全く聞く気のない人、また逆に仏法そのものを誹謗する人も、阿弥陀如来は決して見捨てられず、その罪が恐ろしいことを知らせようと働いておられるということです。その罪が恐ろしいと知る人は、すでに法を聞いている人になります。
すでに本願を聞き救われようと思う心の起きた人は、それだけ謗法罪の恐ろしさも知っているわけです。しかし、高森顕徹会長は「その知り方はまだあまい。もっと徹底して自己を見つめよ。罪悪を突き詰めよ」と言います。それが、前々回のエントリーで取り上げた12月18日の二千畳座談会の内容です。
少なくとも、親鸞会館にわざわざ出かけて話を聞こうという人は、阿弥陀仏の浄土に往生したいと思っているはずです。そんな人に対して、阿弥陀仏が「唯除」と言われるのは、「決してそんな罪を造ってはならない」と、私達に罪を造らせないようにと大慈悲でよびかけられているお言葉です。また、現在は本願を聞こうという心が起きている人で、過去に五逆罪、謗法罪を造った人に対しては、「どんな罪を造ったものでも必ず救うぞ。もう造ってはならないぞ」とよびかけられています。
「唯除五逆誹謗正法」は、現在仏法を聞いている人も、聞く気がない人も、誹謗している人ももらさず救う大慈悲から仰ったお言葉です。
実際、五逆罪謗法罪を造った自覚のある人に対して、「そんなものは救わないぞ」とか、「もっと突き詰めよ」と仰ったものではありません。仮にそれで苦しんでいる人があれば、「そんなものでも必ず救う」と呼びかけられているのです。
阿弥陀仏に対する罪に囚われている人は、すでに本願を聞いている人なのですから、それ以上罪を問題にする必要はありません。ただ今救うといわれる本願を聞いて、ただ今すくわれてください。
2011-12-30
「特別、罪悪に苦しまなくとも助けてくださる本願ということであるならば、私の今の苦しみはただの被害妄想であるということですか?」(新垣真さんのコメント、Kさんのコメントより)
新垣 真さん、Kさんからコメントをいただきましたありがとうございました。
「水火の難に畏れる」ということを会長さんはどんな意図で解説されているのでしょう。思うに、「畏れる」とは象徴的な言葉であり、少し具体性をもたせれば、「煩悩が問題になる」といったところではないでしょうか。確かに阿弥陀は罪悪で苦しんでいないもの はまだダメだとは仰っていませんが、求道の過程で罪悪で苦しむことは不可避的ではないでしょうか。私は阿弥陀仏に心を集中させようとするほどに噴き出る雑念、妄念に迷惑していますが、特別、罪悪に苦しまなくとも助けてくださる本願ということであるならば、私の今の苦しみはただの被害妄想であるということですか?(新垣 真さんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111229/1325103602#c1325126373
新垣さんが、阿弥陀仏に心を集中させようとしていろいろな雑念が出てくることに迷惑されているとのことですが、苦しんでいる人も当然阿弥陀仏の救いの相手です。被害妄想というのは、何を意味されてのことかわかりませんが、阿弥陀仏は何も危害をあたえようとされているのでもありません。
浄土真宗の教えは、煩悩罪悪を問題にするのではなく、信疑を問題にします。信疑とは、阿弥陀仏の本願を聞いて、疑心が有るか無いかが問題です。
コメントされたように、阿弥陀仏の本願を聞いて浮かぶ色々な心は、煩悩を問題にして「こんな罪の深いものは助けていただけないのではないか」と思うものもあると思います。しかし、その時に、「こんな心は煩悩があるから起きるのだ」と煩悩を止めようとすることに全く意味はありません。なぜなら煩悩罪悪をゼロにすることは不可能だからです。
御一代記聞書には、以下のように言われています。
(39)
一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。(御一代記聞書39・浄土真宗聖典(註釈版)P1245)
http://2fa.c7.sl.pt
もし罪が問題になるとしても、罪を消して助けてくださるのか、罪を消さずに助けてくださるのか、それは阿弥陀如来のおはからいであって、私が悩むことではありません。
煩悩に苦しんだ衆生を助ける本願ではありません。「たのむ衆生を本とたすけたまふことなり」と言われています。ここで「たのむ衆生」とは、阿弥陀仏の仰せをたのむ衆生ということで、本願を聞いて疑いない人のことです。
新垣さんの心に出てくるものが、被害妄想なのかそうではないのかを問題にするのではなく、本願を聞いて疑いないか、有るかが大事です。本願を聞くか聞かないかが大事です。
本願を聞いて、ただ今救われてください。
もう一つのKさんのコメントについては、別エントリーでまた書きます。
18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますが、これもどんな人も助けるということであり罪を問題にせよという意味ではないだろうなと思います。このことについてご解説いただけると有難いです。(Kさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111229/1325103602#c1325161051
先立って、簡単に説明を書きます。
「唯除五逆誹謗正法」とは、五逆罪のものと正法を誹謗するものは除くとの本願です。これは、五逆罪謗法罪を未だ造ったことがない人に、それらの二つの罪は恐ろしい罪だから「唯除」と教えて罪を作らないように戒められているお言葉です。
また、すでに五逆罪謗法罪を造った人には、その罪の重いことを知らせて、廻心懺悔させて救うということをあらわされて、どんな罪深いものも救うというお慈悲から言われているお言葉です。
詳しくは、また書きますのでよろしくお願いします。
2011-12-29
アシスタント「なぜただ今救われないのかと思います。」会長「煩悩を恐れるまで進んでいないからだ」(親鸞会12月18日二千畳座談会より。)
前回のエントリーの続きです。
高森顕徹会長の二河白道の譬えは、罪悪に苦しんだものでないと弥陀の喚び声は届かないというものです。本願を疑う心と罪悪観を混同し、アシスタントの真面目な質問を、「罪悪に恐れていないからだ」と一蹴します。
会長「阿弥陀仏の本願を疑う心とは?罪悪に苦しんでいる心なんです。こんな罪悪を作っているものを阿弥陀仏は助けてくれないのだろうか?と本願を疑っている。
水火の難に堕することを畏れている。そういうものに、畏れざれの弥陀の呼び声が聞こえる。だから罪悪に恐れていないものに畏れざれと仰るはずがない。いや仰ったって「聞こえません」関係ないんです。
二河白道の譬えで善導大師は、阿弥陀仏の呼び声が聞こえるのは罪悪に畏れているものに弥陀の呼び声が聞こえるのだと言われている。それが決勝点。そこまで何に気をつけたらいいのかということを今日の質問で言われている。」
(略)
会長「煩悩がなくならないけど、少しくらいはという心はないか?」
アシスタントI氏「はい。あります。欲を抑えて、腹を立てないようにしないと、とてもこのままでは助からないだろうと思います。」
会長「それを邪見憍慢衆生という。だから直ちに来たれと言っている。」
(中略)
アシスタントI氏「そのまま助けるとおっしゃっているのですから、それならもう今助かるはずなのに、まだ助からないということは、やはりこのままではダメなのではないかと思いまいして」
(会場笑い)
会長「それが自力の心だ」
アシスタントI氏「やはり欲や怒りを減らして、罪悪を作らないようにしないとこのままでは助からないのではないかという心が出てきます」
会長「そう。この白道を進んでいくとその心が問題になっていく。それが水火の難に堕することを問題にすること。そういうものに畏れざれと仰る。
それは観念の遊戯では通れないのですから、あの白道を善導大師の言うとおり進まないと、畏れません、聞こえません。水火の難に堕することと畏れざれと聞こえない。畏れていなんだもの。畏れていますか?」
アシスタントI「本心では畏れていません」
(会場笑い)
会長「本心どころか、なんも恐れていない。堕することを恐れている?地獄へ堕ちることを恐れている?」
アシスタントI氏「はい、堕することを畏れてはいません。」
会長「堕することを畏れているものに、畏れざれと言う呼び声が聞こえる。」
(平成23年12月18日親鸞会館二千畳座談会より)
ここでアシスタントは「なぜただ今救われないのか?」と真面目な質問を会長に投げかけています。それに対する会長の返事は「水火の難に畏れているものに畏れざれと仰るのだ。君は畏れているのか?」で終了です。
高森顕徹会長に代わってアシススタントI氏の疑問に答えるなら、「高森会長から間違った本願を聞かされているから」です。
特に今回取り上げた所では、阿弥陀仏の本願は「水火の難に畏れている人」しか救われないことになってしまいます。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P224)
ここで「すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」とおっしゃっているのは「われよくなんぢを護らん。」の内容を、明らかにされた言葉です。
「われよくなんぢを護らん」については、愚禿鈔に以下のように言われています。
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。(愚禿鈔下巻)
阿弥陀仏が、本願力を疑っている人に対して、若不生者不取正覚の本願が成就しているのだから必ず救ってみせるとよびつづけておられるお言葉です。阿弥陀仏が、必ず摂取不捨されるから、現生護念されるのだと言われています。
「すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」は、上記の内容をより強く強調されたものです。必ず救うから心配するな、大丈夫だと、よびかけられているものです。
本願を疑うなということであって、「水火の難に堕することにまず畏れよ」ではありません。
二河白道の譬えに出てくるこの喚び声は、阿弥陀仏の第十八願をあらわされたものです。本願には、「罪悪で苦しんだ経験のある人だけ助ける」とはありません。
阿弥陀仏は、どんな人もただ今救うとよびかけられています。罪悪で苦しんでいないものはまだダメだとは仰っていません。
座談会に参加してこのエントリーを読まれた人は、座談会で会長自らが言っていますように「群賊悪獣悪知識に気をつけろ」ですから、悪知識から離れるのがまず大事です。
2011-12-22
12月18日親鸞会二千畳座談会より。質問「求道の心がけを教えてください」高森顕徹会長「群賊悪獣悪知識に気をつけよう」(参加者より頂いた情報より)
12月18日富山県射水市の親鸞会館で二千畳座談会が行われました。参加された方より情報を頂きましたので紹介します。
質問は、以下の一問でした。
(前回の会館の法話・正信偈の内容からの質問)
曇鸞大師ほどの方でも病気をきっかけに迷われたのだから、気をつけなければならないと教えられていると聞かせて頂きました。求道の過程では病気やそれ以外のことでも迷ってしまうきっかけは多くあると思います。一念の決勝点まで進ませて頂く上で心がけねばならない点を教えて頂きたいと思います。(12月18日親鸞会館二千畳座談会での質問)
この一問に一日かけて高森顕徹会長が話をしたことは、二河白道の譬えでした。質問に対する答えは、「群賊悪獣悪知識に気をつけよう」でした。
現在親鸞会機関紙では、以下のように「群賊悪獣」を定義しています。
各人各様の体験で信心を語る「群賊・悪獣」が真実の弥陀の救いを求める人たちを餌食にせんとしています。
善知識方が説かれない、各人各様の体験とはどんなものか。その一例です。
(以下、「私の白道」の一部を5ページにわたってまるまる掲載・個人名・団体名はイニシャル)
(顕真平成23年12月号P34)
よって、当日の座談会の高森会長の答えは、別の言葉でいうと「私の白道の作者」や、ネットで親鸞会を批判する人に気をつけろ、耳を貸すなということになります。
年末に富山までやってきた会員も、高森会長は信用できないようです。親鸞会館まで来た人に向かって「他へ行くなよ」では、参詣者は何をしにきたのかわかりません。
二河白道の譬え自体も、「親鸞会版・高森会長解説」は相変わらずでした。
一つ紹介します。
高森会長「水火の難に堕せんことをおそれざれ」といわれているのだから、罪悪に恐れている人に弥陀の呼び声は届くのだ。そこまで進むのが求道だ」
親鸞会では、求道というのは罪悪を突き詰めていくことだと教えます。これでは地獄秘事と何も変わりません。
他にも気になるところはありますが、次のエントリーに書きます。
2011-12-19
阿弥陀仏の本願を疑いなく聞くだけと思っています。しかし、なかなかそこが難しいです。(頂いた質問)
阿弥陀仏の本願を疑いなく聞くだけと思っています。しかし、なかなかそこが難しいです。(頂いた質問)
阿弥陀仏の本願は確かに聞くひとつです。しかし、そこが「難しい」といわれるのは、本願を聞いていない証拠です。
なぜなら阿弥陀仏の本願は「若不生者不取正覚」と言われているからです。「若し生まれずは正覚を取らじ」「浄土の生まれなければ正覚を取りません」と言われています。言葉を変えると、「必ず浄土に生まれさせる。疑うなよ」という仰せです。
その本願に疑いを差し挟む余地は何もありません。一方、本願に「難しい」というのは、本願に疑いを挟んでいる証拠です。
「ただ今救うぞ」「疑うなよ」は、文字通りの意味しかなく、その本願を聞いたままが信心です。「助ける」と言われる以外に、「何かをせよ」の仰せではありませんから、私の方で「難しい」という部分はひとつもありません。
必ずただ今救われます。

