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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-05-19

2018-05-12

「なぜお勤めをするべきなのでしょうか? お勤めにはどのような意義があると考えられますか?」(rさんのコメントより)

r 2018/05/09 18:51

あまりにも基本的な質問で恥ずかしいのですが、お勤めの意義を教えていただけると有難いです。

私はお勤め(勤行)する意義を明確には理解していません。

たしかに『正信偈』には浄土真宗の教えが簡潔に示されています。しかし教えを理解するだけなら、一度『正信偈』の講義を聞けば、内容は理解できます。


なぜわざわざ歌うように声に出して、毎日朝晩、読経するように『正信偈』を唱えるのでしょうか? 仏徳讃嘆だというのならば、別にお念佛だけでもよいような・・・?

しかしせっかく蓮如上人が『正信偈』を勤行であげるよう制定してくださったわけですし、あの庄松同行もお勤めをされていたそうです。きっとそこには重要な意味があるのだと思います。

現代では忙しく、なかなか朝夕のお勤めを実行できない、という怠け心も私にはあります。そもそも仏教に反する素質ばかりの自分なので、お勤めをしてみようと考えること自体が不思議なのですが、なぜか今、お勤めをしてみようかなと思っています。

なぜお勤めをするべきなのでしょうか? お勤めにはどのような意義があると考えられますか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180502/1525257624#c1525859480

勤行の元々の意味については、

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

から紹介します。

ごんぎょう 勤行

1 仏道修行に努めること。「易行品」には「あるいは勤行精進のものもあり、あるいは、信方便の易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり」(行巻引文・註151)とある。

2 「おつとめ」ともいう、法要・儀式を執り行い、経典などを読誦すること。

浄土真宗の勤行は、蓮如上人の時代に御門徒の方々に勧められたものが今に続いています。

そこで、勤行について蓮如上人が仰ったことをいくつか紹介します。

聖教は読みやぶれ

そもそもの話として、蓮如上人はお聖教をよくよく読みなさいと勧められています。それが以下にあげる二つの御一代記聞書です。

(5)

一 蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

現代文

蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。

(89)

一 聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

現代文

お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もありません。

蓮如上人は、「ともかく繰り返し繰り返しお聖教を読みなさい」と仰せになりました。

世間でも,書物は百遍,繰り返し読めば,その意味はおのずと理解できるというのだから、このことはよく心にとどめておかねければなりません。

お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。

その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。

自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。

読みやぶれといわれても、そんなに読んでも分からないと私たちは思ってしまいますが、読書百遍自ずから通ずの言葉まで出して勧めておられます。その意味で、私たちが勤行すると、百回以上は一年で越えてしまいます。和讃をくり読みしたとしても、百回くり読みするのに何年もかかりません。


繰り返し読むのは何のため?他宗と違う意味

それだけ繰り返し聖教を読みなさいといわれるのは、いわゆる普通の人がイメージする「読経」の目的である自力回向ではないといわれています。

(11)

一 十月二十八日の逮夜にのたまはく、「正信偈和讃」をよみて、仏にも聖人親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもして回向するなり。御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人和讃にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、和讃にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知して、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。

現代文

十月二十八日の逮夜のときに、蓮如上人は、「<正信偈和讃>をおつとめして、阿弥陀仏や親鸞聖人にその功徳を差しあげようと思っているのであれば嘆かわしいことである。

他宗では、勤行などの功徳を回向するのである。

しかし浄土真宗では、他力の信心を十分に心得るようにとお思いになって、親鸞聖人のご和讃にそのこころをあらわされている。

特に、懇切にお書きになった七高僧のお書物のこころを、だれもが聞いて理解できるようにと、ご和讃になさったのであり、そのご恩を十分に承知して、ああ尊いことだと念仏するのは、仏恩の深いことを聖人の御前で喜ばせていただく心なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

正信偈あるいは和讃にに関しては、親鸞聖人が七高僧の書かれたものを誰が聞いても分かるように書かれたものだったのでそのご恩をよくよく理解して、ご恩を喜ぶものなのだといわれています。


声に出して読むことの意味

現在ならば、文字を読める人も多いので、浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版などで親鸞聖人和讃を読むことは出来ます。しかし、蓮如上人は勤行の形式で「声に出して読む」ことを勧められています。それについて書かれたのが以下の御一代記聞書です。

(3)

一 御つとめのとき順讃御わすれあり。南殿へ御かへりありて、仰せに、聖人親鸞)御すすめの和讃、あまりにあまりに殊勝にて、あげばをわすれたりと仰せ候ひき。ありがたき御すすめを信じて往生するひとすくなしと御述懐なり。

現代文

勤行のとき蓮如上人が、ご和讃をあげる番になったのを忘れておられたことがありました。

南殿へお戻りになって、「親鸞聖人のご和讃のみ教えがあまりにもありがたいので、自分があげる番になったのをつい忘れていた」と仰せになり、「これほどありがたい聖人のみ教えであるが、それを信じて往生する人は少ない」とお嘆きになりました。

このころ和讃を順番によむ形式になっていました。それを「順讃(いまは巡讃)」といいます。順番に前の人が和讃を読み、ご自身も和讃を読まれている内に有り難さのあまり、自分があげる順番を忘れられたということです。


これは、以前のエントリーにも書きましたが、このように声に出してお聖教を拝読するのを「声明」といいます。蓮如上人は、この声明についてとても厳しく教えておられる方でした。*1それは、親鸞聖人がつくられた、正信偈和讃も声に出すこと伝わることがあると考えておられたからです。私たちが好きな歌というのも、歌詞だけを何の事前情報もなく読むよりも、曲に合わせて上手な歌い手だ歌うのを聞いて「歌詞だけ」では分からなかった感動を覚えることがあります。

ここにあげた御一代記聞書3の蓮如上人は、まさにそのような状態で思わず自分の順番を忘れるほど感動をされたことでしょう。

まとめ

rさんのコメントから、勤行の意味をまとめると以下のようになります。

  • お聖教は何度も読まないとは分からないから。
  • 何度も読めば必ず分かるから。
  • 声に出すことでよりわかるから。
  • 自力回向ではなくご恩を知るご縁となるから。

となります。

また、ご質問があればよろしくお願い致します。


まとめのあとに追記で書くと、勤行については、それがこころよいからということに尽きると思います。

歌が好きな人に、なぜ歌を歌うのですか?と聞くようなことではないかと、少なくとも蓮如上人のお勧めに関しては思います。

*1:御一代記聞書87

2018-05-02

「なぜ聞き開いた後は「称名念仏に励むべき」なのでしょうか?」(rさんのコメントより)

rさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

r 2018/05/01 14:53

(略)

なぜ聞き開いた後は「称名念仏に励むべき」なのでしょうか?

私は仏願の生起本末に関係ある話を聞いた時は、思わず念仏せずにおれなくなります。しかし私の自性を見ると、念仏したくない、人前で念仏してる姿を見られたくない、という心があります。いくら最高の宝である、と知識では分かっていても、世間体を優先する自分がいるのです。

しかし親鸞聖人も蓮如上人も、称名念仏を薦めておられます。

獲信者であれば、いつ死んでも構わないし、念仏しようがしまいが変わりないような気もします。

しかし念仏することが「御礼になる(報恩)」ということです。

いまいち、よく分かりません。ご法話を聞いているとき、有難いことを聞くと思わず念佛は勝手に出て来るのですが。しかし

「励むべし」というのは、お礼をたくさん言いなさい、ということでしょうか?

そもそも、念仏することが御礼になる、というのがよく分かりません。とはいえ、「念仏するものを極楽浄土に生まれさせ、必ず仏にする」と聞く時は、念仏せずにおれませんが。

一説には「念仏を称えることで往生するのではなく、他力信心を得ることで往生するということをはっきりさせるために、念仏は報恩行であると強調された」とも、聞いたことがあります。

なぜ「称名=御礼」になるのでしょうか。阿弥陀仏を賛美することになるからでしょうか。そして、獲信者はどのように余生を過ごすべきなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180429/1525000068#c1525153998

称名念仏に励みなさいと言われる理由は、2つあります。

1つは、本願文に念仏を勧められているから

2つは、そのように勧められないと、中々念仏しようとしないのが私たちだから


本願文には、信心と念仏が誓われています。本願から言えば、「本願を信じなさい、念仏しなさい」と勧められています。そこから、私の往生に関しては、信心で定まるのか、念仏で定まるのかという議論がかつてはありました。そこで、親鸞聖人は信心が定まる時に往生が定まるのだと教えられました。*1


そこで、rさんの言われるように、信心定まったなら、念仏を称えるとか称えないという回数そのものは私の往生とは関係はありません。ではこの念仏はなんなのかということで「称名報恩」と教えられました。


以下、浄土真宗辞典より

しょうみょうほうおん 称名報恩

「大経」第十八願には、信心と称名念仏とが誓われているが、信心こそが往生成仏の正因であるから、称名念仏は行者の心持ちからいえば阿弥陀仏に摂取された感謝の思いの中で名号が声となってあらわれ出たものであるということ(略)

念仏そのものは、「はたらき」から言えば、私を往生させる働きがあります。ここでは「行者の心持ちからいえば」と条件付きで「感謝の思いの中で名号が声となってあらわれ出たもの」とされてます。


その意味では、「称名=御礼」ではなく、救われた人が念仏するのは救われる為でもなく、御礼の心で称えているのだということです。このような少々持って回った言い方になるのは、「念仏で救われるのか、信心で救われるのかの議論」とか「信心一つ、念仏一つで救われるのだからといって、救われたあとの念仏を軽視する人たち(一念義)と、生涯念仏を称え続けて臨終来迎で往生が定まるとする人たち(多念義)の争い」があった歴史から出てきたものです。


そこで、阿弥陀仏に救われた上での信心と念仏の関係をいわれたのが「信心正因 称名報恩」という言い方です。


念仏称える回数で往生が決まるものではありませんから、救われた上で念仏する心は、助けて下さいの心ではなくは御礼の心でだということです。

その念仏を励みなさいというのは、「ご恩を思いなさい」ということです。日々のことで忙しくしていると、阿弥陀仏のご恩もなかなか心に懸からない生活をしていますので、阿弥陀仏のご恩を常に忘れないようにしなさい、ご恩を思いましょうと勧められているのが「称名念仏励むべし」ということです。


阿弥陀仏に救われた人はどのように余生を過ごすべきかについては、阿弥陀仏のご恩を思った上で自分がよいと思うように生きていけばよいと思います。報謝の思いから出ることは、自分の仕事を全うすることになる人もあるでしょうし、また別の仕事を始める人もあるかも知れません。どの生き方をしても、報恩の思いを忘れなければそれが念仏者の生き方だと思います。

*1:信心の定まるとき往生また定まるなり。末灯鈔1

2018-04-29

「私はなかなか救われないのですが、その原因は自分が死ぬ気になって聞き抜こうという気持ちになっていないからではないかと思います。その辺はどう思われますか?」(頂いた質問)

私はなかなか救われないのですが、その原因は自分が死ぬ気になって聞き抜こうという気持ちになっていないからではないかと思います。その辺はどう思われますか?(頂いた質問)

お尋ねの内容からすると、すでにいろいろと法を聞くご縁にあわれている上でのことだと思います。

「死ぬ気になる、ならない」「本気になるなら、ならない」「今日にも死ぬと思える、思えない」など、いろいろと表現は違いますがこれらは心の状態、精神状態をさしてのことです。

それらが、阿弥陀仏の救いに関係しているのではないかと考える気持ちはよく分かります。私も以前は、関係があると思っていました。


しかし、これは私が現代の日本に生きているからだとも言えます。遥か昔のことならば、「女性は救われない」と多くの人が考え、それを信じていました。ですから、阿弥陀仏の本願にも女人往生の願が誓われていたり、蓮如上人の御文章には度々「五障三従の女人」と書かれています。その意味で、現代の私たちは「女性だから」「男性だから」というように性別で救いが別れることは考えていないと思います。


また、法然聖人の時代で言えば、臭いの強いものを食べて念仏してもいいでしょうか?と尋ねた人があるくらいです。

一。にら・き・ひる・ししをくひて、かう(香失)せ候はずとも、つねに念仏は申候べきやらん。

答。念仏はなににもさはらぬ事にて候。(百四十五箇条問答*1

ニラや、大蒜、猪肉を食べて、その臭いが消えない間に念仏しても良いものでしょうか?と尋ねたところ、「念仏は何物もさわりにはならない」と答えられています。


こちらの方は、特に現代の私たちからすると、そのようなことを気にする人はないと思います。

「今日は念仏するから、ご法話に参詣するから、こういうものは食べないようにしよう」とは考えません。


性別や食べたものが、阿弥陀仏の救いに関係ないように、また、私たちの煩悩も阿弥陀仏の救いの妨げにはなりません。

「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 (尊号真像銘文)

よって、精神状態も阿弥陀仏の救いには関係がないということです。阿弥陀仏の側から見れば、私の年齢や性別、煩悩も精神状態も救いを妨げるものはなにもないと言うことです。もっといえば、体調とも関係ありません。血糖値や、血圧の高い低いとも関係ありません。


関係があるのは、「こんな状態だから救われない」と阿弥陀仏の救いを疑っている点です。ただ今必ず救う南無阿弥陀仏だと、ただ今聞いて救われて下さい。

*1:法然聖人の語録

2018-04-25

「私は気がついた時にはお念仏を唱えるようにしています。これは観無量寿経でいう第十六の観になるのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2018/04/21 23:45

私は気がついた時にはお念仏を唱えるようにしています。これは観無量寿経でいう第十六の観になるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180418/1523995313#c1524321920

コメントを頂き有り難うございました。今回はエントリーに書くのが遅くなり申し訳ございませんでした。


コメントの十六観について、浄土真宗辞典より引用します。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

じゅうろっかん 十六観

『観経』に説かれる浄土往生のための16の観法のこと。(1)日想観(略)(14)上輩観、(15)中輩観、(16)下輩観の十六。浄影寺の慧遠などの聖道諸師が十六観すべてを定善としたのに対し、善導は日想観から雑想観までの十三観までを定善とし(定善十三観)、上輩観・中輩観・下輩観に分けて説かれた九品のものの往生行を散善とした。


そこで、下輩観の下輩とは何かといえば

(大経に)たださとりを求める心をおこして、ひたすらに無量寿仏を念ずるもの。また、『観経』には九品の往生が説かれるが、これは三輩を展開して、上三品を上輩、中三品を中輩、下三品を下輩としたものとみることができる。(浄土真宗辞典より)

では、その九品の往生という説明の仕方について、観無量寿経では確かに下三品には念仏を勧められています。では、それで往生できるのかといえば、結論から言えば報土往生はできないと言われています。


以下、浄土真宗辞典より

くぼん 九品

(略)

親鸞は「化身土巻」(註釈 376)において、九品往生の説示を第十九願往生の成就文とみており、『三経往生文類』においても「しかれば、『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福九品の諸善、あるいは自力称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり」(註 631)と述べ、自力諸行による往生であるとしている。


みそみそさんは、気がついた時にはお念仏を称えるようにされているとのことで、大変有り難いことです。

「自分が念仏称えることで、その功徳によって往生できる」と思って念仏されているのならば、第十六の観(下輩観)になります。


「本願を信じ念仏するものを救う本願」と信じて念仏して下さい。阿弥陀仏の本願で願われていることは、自力称名念仏による往生ではなく、本願を信じ念仏申すものを報土往生させるというものです。

ただ今救う本願念仏と聞いて、念仏申してみて下さい。疑い無いなら有り難いことです。

2018-04-18

「私がよく分からないのは「仏物(仏に恵まれた物)」と「阿弥陀仏そのもの」はどう違うのか、ということです。」(rさんのコメント)

rさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)

私がよく分からないのは「仏物(仏に恵まれた物)」と「阿弥陀仏そのもの」はどう違うのか、ということです。 

たとえば「私たちは日々、阿弥陀仏の肉を食べて生きているのだ」という法話を聞いたことがありますが、このような表現には違和感を覚えます。

(略)

一粒にも阿弥陀様が宿っている、というような表現がありますが、まるでお米=阿弥陀様のようです。食事をするたびに、阿弥陀様をパクパク食べているような錯覚に陥ります。実際、そのように説く僧侶もおられますし。


ですが、そうではなくて「阿弥陀様はこのお米にも念力を入れて、衆生が仏になるよう働きかけておられるのだよ。だからお米も着物も紙切れさえも、大切な仏物なのだよ。私たちが無下に扱っていいものではないんだよ」と表現した方が、浄土真宗の教義からいっても、近いんじゃないかという気がしています。


yamamoyama様、このあたりについてはどうなのでしょうか。私は上述したように、仏の願いがかかった物=阿弥陀仏そのもの、という説き方に違和感があるのですが・・・。

それともやはり、お米もお肉も阿弥陀仏そのものであり、地球も宇宙も阿弥陀仏であり、私に憎しみ心があることを教えてくれる悪い人(戦争屋、殺人者など)までも阿弥陀仏なのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180416/1523856477#c1523899367

rさんの感じられる違和感については、私も同感です。

しかし、そのように「私たちは日々、阿弥陀仏の肉を食べて生きているのだ」という人の「言わんとすること」も直接聞いた訳ではないですが、同意します。おそらく、「阿弥陀仏に恵まれたものは、阿弥陀仏そのもの」という味わいから言われたものではないかと思います。それは、本人ではないので本当のところは分かりません。

阿弥陀仏は、尽十方無碍光如来と言われるように、阿弥陀仏のましまさぬところはありません。*1

その意味で阿弥陀仏のお働きのかかっていないものはないので、その意味でそれを阿弥陀仏そのものと言われるのも分かる話です。


阿弥陀仏の浄土に於いては、阿弥陀仏という仏も浄土も本願によって成就したものなので、その二つは別々のものではありません。浄土の蓮華も鳥も建物も、すべて阿弥陀仏の本願によって出来たものです。しかし、この私の生きる世界までも阿弥陀仏の本願成就のものではないわけですから、すべては阿弥陀仏であるというのは、味わいとして言われるのはいいのですが、事実ではありません。


例えば、蓮如上人の御文章には、

ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。(御文章1帖目3通)

https://bit.ly/2JP37ah

と言われています。「猟・すなどりをもせよ」とは、魚を捕ることを生業にしている人は、それをしなさい。山にいる動物を狩ることで生計を立てている猟師はそれを続けなさいといわれています。もし、海の魚や山の猪やウサギ阿弥陀仏なら、蓮如上人は「阿弥陀仏を殺してもいいですよ」ということになってしまいます。その点で、蓮如上人は魚や猪を阿弥陀仏だと言われていません。


ここからは、私の日常思うことを書きます。

私は、2年前に急死した父親の跡を継いで生鮮食料品を扱う個人商店を経営しています。そのため魚市場へ足を運ぶことも多いです。そこでは、漁師の人がその日とってきた生きている魚をその場で生け〆する場面をよく見ます。生け〆とは、魚の頭部や尾の近くを切ることで仮死状態にすることです。その意味では、魚市場でセリにかけられる魚はみんな「生きて(仮死状態)」います。そういう魚を仕入れて、刺し身や切り身にするときは、生け〆が上手な魚は、頭をおとしたりするときに、身がブルブルと震えます。思わず念仏することも多いです。


その度に、自身は罪深いものだと感じます。その魚までも阿弥陀仏そのものとは私は言い切れません。もし、そうならば、私は魚も肉も食べることはできません。いわゆる「いのち」の現場と言うのはそんなに観念的なものではありません。他の「いのち」を頂かないと、私は生きていけないような存在なのです。そんなことをいいながらも、魚を食べると「美味しい!」と思う自分なのです。魚を卸すときに念仏しながら、その魚を食べるときに「美味しい」という自分はなんなのかと自問自答することも少なくありません。


私は、それらの魚を阿弥陀仏の願いが掛かったものとして見ています。日ごろ食べる魚も肉も、もともと生きていたのです。私はたまたま消費の現場に近いところにいるので、何を食べてもそれらが生きていた場面を思わない時はありません。しかし、だからといっていわゆるビーガン*2にはなれません。

なぜなら、単純に魚や肉は美味しいと感じるからです。その点ではこれこそ凡夫なのだと思います。それは、「凡夫ですが何か?」と胸をはっていう話ではありません。ただただ、他のいのちを頂いて生きてているだけの存在なのです。その意味では、私が口にする全ての命に申し訳ないと思っています。また、それを申し訳ないと思っていないことに申し訳ないと思っています。


またコメントにあった「私に憎しみ心があることを教えてくれる悪い人」を阿弥陀仏と無理に思うことはありません。ただ、「私に憎しみ心があることを教えてくれる悪い人」だと阿弥陀仏が私に引き合わせて下さったということです。それを自分の姿を知るご縁と思えばいいと思います。

*1:脚注 「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。(尊号真像銘文).

*2:ビーガンとは、絶対菜食主義者・純粋菜食主義者のことである。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A1%BC%A5%AC%A5%F3

2018-04-16

「蓮如さまには、そのような私物化の槪念が無かったように思えます。なぜ蓮如聖人はそのような言動ができたのでしょうか。 他力信心を頂いた人が繰り返し正しく聴聞をしていけば、そのような無我を極めた状態になるのでしょうか?」(rさんから頂いた質問)


r  2018/04/15 04:28

(略)

蓮如様のことなのですが、紙切れが一枚おちていただけでも「阿弥陀様からいただいたものなのに、もったいない」と押し頂かれたり、蓮如様が物品をあげるときに相手が恐縮すると「私(蓮如様のこと)があげるものだと思っているのか。全て如来さまのお働きだ」と言われたとのことです(御一代聞書)。

(略)

なので、蓮如聖人のそのような言行録を読むたびに「すごいなあ、自分とは何かちがうなあ」と思わされます。私は「自分の物、自分のお金、自分の身体」という執着に縛られています。しかし蓮如さまには、そのような私物化の槪念が無かったように思えます。

なぜ蓮如聖人はそのような言動ができたのでしょうか。 他力信心を頂いた人が繰り返し正しく聴聞をしていけば、そのような無我を極めた状態になるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180410/1523360474#c1523734092

コメントに書かれていた御一代記聞書は、以下の箇所です。

(308)

一 蓮如上人、御廊下を御とほり候ひて、紙切れのおちて候ひつるを御覧ぜられ、仏法領の物をあだにするかやと仰せられ、両の御手にて御いただき候ふと[云々]。総じて紙の切れなんどのやうなる物をも、仏物と思し召し御用ゐ候へば、あだに御沙汰なく候ふのよし、前住上人(実如)御物語り候ひき。

現代文

蓮如上人が廊下をお通りになっていたとき、紙切れが落ちているのをご覧になって、「阿弥陀仏より恵まれたものを粗末にするのか」と仰せになり、その紙切れを拾って、両手でおしいただかれたのでした。

「蓮如上人は、紙切れのようなものまですべて、仏より恵まれたものと考えておられたので、何一つとして粗末にされることはなかった」と、実如上人は仰せになりました。

蓮如上人には全く執着がなく、無我を極めたような方だったのかと言えば、それでも凡夫であることには違いありません。


しかし、このように物を大事にされていたのは、一つには、浄土真宗の教えを再興すること一つに生きておられたので、そのために必要なものは大変大事にされました。

(143)

一 御病中に蓮如上人仰せられ候ふ。御代に仏法を是非とも御再興あらんと思し召し候ふ御念力一つにて、かやうにいままでみなみな心やすくあることは、この法師が冥加に叶ふによりてのことなりと御自讃ありと[云々]。

現代文

ご病床にあった蓮如上人が、「わが生涯のうちに浄土真宗をぜひとも再興しようと願った志一つで、浄土真宗が栄えるようになって、みんながこのように安らかに暮らせるようになった。これもわたしに、目に見えない仏のおはたらきがあったからなのである」と、ご自身をほめて仰せになりました。


また、そうして法をひろめるためにあるものは、全て仏様から頂いたものであって、自分のものではないという考えもまた強くもっておられました。

(313)

一 兼縁、堺にて、蓮如上人御存生の時、背摺布を買得ありければ、蓮如上人仰せられ候ふ。かやうの物はわが方にもあるものを、無用の買ひごとよと仰せられ候ふ。兼縁、自物にてとりまうしたると答へまうし候ふところに、仰せられ候ふ。それはわが物かと仰せられ候ふ。ことごとく仏物、如来・聖人親鸞)の御用にもるることはあるまじく候ふ。

現代文

蓮如上人がご存命のころ、蓮悟さまが堺で模様入りの麻布を買い求めたところ、上人は、「そのようなものはわたしのところにもあるのに、無駄な買物をしたものだ」と仰せになりました。

蓮悟さまが、「これはわたしのお金で買い求めたものです」とお答え申しあげると、上人は「そのお金は自分のものか。

何もかも仏のものである。

阿弥陀如来・親鸞聖人のお恵みでないものは、何一つとしてないのである」と仰せになりました。

繰り返し法を聞かれていわゆるお育てに預かっていくうちにこのような心が育っていくものです。しかし、それでも蓮如上人がこのように徹底して物やお金を全て如来聖人から頂いたものであって自分のものではないという態度を取り続けられたのは、浄土真宗の再興を自分の生きている間に成し遂げると強く思い続け活動をされていた影響が大きいと思います。

教えを弘めるのは、法そのものがされていくという視点から見ると、法をひろめるために必要な全ては仏様のものとなります。

2018-04-15

2018-04-10

「南無阿弥陀仏のいわれを聞こうと、ご法話に足を運んでおります。しかし、何度聞いても「話」としか聞けず、これで本当に助かるのだろうかと思います。」(頂いた質問)法は歌のようなものという話

南無阿弥陀仏のいわれを聞こうと、ご法話に足を運んでおります。しかし、何度聞いても「話」としか聞けず、これで本当に助かるのだろうかと思います。(頂いた質問)

南無阿弥陀仏のいわれ、仏願の生起本末を聞いてもそれは「話」ではないかと思われる気持ちはよく分かります。私も以前はそのように思っていました。


そこで、話す人によって違うのだろうかと考え始めるとそれは、知識帰命という「善知識(話す人)の力によって救われる」という間違いになってしまいます。


そこでいろいろと説明をしているうちに、最近気づいたことがあるのでここに書きたいと思います。

それは、同じ話を聞いて「またあの話しか」と思う人と、「また聞けてよかった!」という人の違いについてです。


御一代記聞書には、以下のように書かれています。

一 ひとつことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに、信のうへにはあるべきなり。ただ珍しきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり。(御一代記聞書130 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1273)

現代文

信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように思うべきである。

人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように受け取らなければならない。

https://goo.gl/RLU52H

私は以前、同じ話でも「初めて聞いたような気持ちで聞こう」と思って頑張っていました。しかし、そんな努力はしてみても、やはり「同じ話」は「同じ話」でしかありません。それを「初めて聞いたように聞ける」ように「信のうへには」あるのかと想像し、やはり信心を獲た人は自分とは相当違う境地に立っているのだろうと考えていました。


しかし、それは間違いです。いくら信心を獲た人であっても、「同じ話」なら何を聞いていても「初めたるやうに」聞く訳ではありません。例えば、身内でも知人でもいいですが、「何度も同じ話をする人」はおられます。そういう人が「何度も聞いた話」を話し始めると、大体周りの人は「はいはいあの話ね」という反応をし、中には先回りして結論までいう人もいます。


確かにすでに知っている話を何度も聞くことは、多くの人にとっては苦痛だと思います。しかし、それでも「全く同じ言葉の並び」を「何度も聞きたい」と思い喜んでいる場面は実際にあります。


それは何かと言えば、「歌」です。「歌」というのは、曲と誰が歌っているかを除けば、それこそ一字一句間違いなく同じ日本語を並べています。それでも、いわゆる「良い歌」は何度聞いても良いものだと多くの人が感じて、歌詞まで覚えていても「また聞きたい」と思います。


そのよい例が、紅白歌合戦の常連出場歌手が歌う曲です。例えば、石川さゆりは「津軽海峡冬景色」や「天城越え」を紅白歌合戦で何回も歌っています。見ているほうも、すでにその曲は知っている訳ですが、実際に石川さゆりがそれらを歌うと、ついつい聞き入って「良い歌だな」と感じ入ってしまいます。それを「その歌はもう知ってる」とか「このあとこう歌うんですよね」と茶々をいれる人はあまりいません。


「歌詞」は言葉ですから、ただ目で読んだり朗読を耳で聞いただけでは「ただの言葉」になります、しかし、歌として歌われるのを聞くと、その「言葉」にこめられたいろいろなものが伝わってきます。その意味では、「歌詞」と「歌われた歌」は、同じですが全く同じではありません。


その意味で「南無阿弥陀仏のいわれ」「仏願の生起本末」それを説かれる「法話」は、「歌」と同じです。「法」を歌のように聞く人は「いつもめづらしく初めたるやうに」聞きます。「法」をただの言葉として聞けば、「いつも同じ話」「ただの話」にしかならないでしょうが、「歌われる歌」と聞いていると何度聞いてもよいものだとなります。


歌は歌うことでしか伝わらないものがあるように、法も南無阿弥陀仏とならないと伝わらないものがあります。その南無阿弥陀仏は、言葉ではなく法として聞いて下さい。ただ今救われます。

2018-04-02

2018-03-30

2018-03-18

2018-03-17

2018-03-15

「言葉の意味では六字の名号を常々聞かせて頂いております。ただ聞けば聞くほど、私の心は冷めてゆき、心は虚しさでいっぱいになり、阿弥陀様からはるか彼方に心は離れていってしまいます。」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2018/02/18 23:16

(略)

はい。言葉の意味では六字の名号を常々聞かせて頂いております。

ただ聞けば聞くほど、私の心は冷めてゆき、心は虚しさでいっぱいになり、阿弥陀様からはるか彼方に心は離れていってしまいます。

雑な例えで言うなれば、私には育ての親とは別に、生まれてすぐに他界した生みの親が居たとして、

ある日突然その事実を育ての親から告げられ、

「これから辛い時、悲しいときがあったとき、その親の名を称えなさい。今はもう、『名前』と言うかたちでしか、影も形も存在していないけど、

その人は誰よりもお前を愛し、お前の幸せを願っていた。そしてその思いはあの世の影から、守護霊みたいな形でお前の直ぐ側で今もお前を愛し、支えてくれているから。」

「だからこれからの人生、なんにも心配すんな。後生のことも心配すんな。」

そんなことを言われたって・・・だいたいそんな心境です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180218/1518899734#c1518963419

みそみそさんのたとえ話は、心情をよく書かれていて私もよく分かりました。というのは、私もみそみそさんのようなことは考えていました。


南無阿弥陀仏といっても、六字のいわれといっても、それは「言葉」ですからその言葉をどれだけ眺めて見ても、耳で聞いても「文字情報」以上の何かはなかなか分からないものです。


そもそも私たちが日ごろ使う「言葉」というのは、辞書を引けばその「言葉の意味」は分かります。しかし、言葉はあくまで「乗り物」であり、「誰が」「誰に」「どういう意図で」言ったかによって意味は全く変わります。


例えば「いいね」という言葉も、誰が誰にどういう意図によって言ったかによっては「称賛」にもなれば「皮肉」にもなります。もう少し具体的に言えば、オリンピック競技の素晴らしい映像を見て「(この選手は)いいね!」と言えば称賛することになります。それとは別の場面で、毎日忙しく働いている社会人が夏休みが二ヶ月ある大学生に向かって「(休みが多くて学生は)いいね!」と言えば、皮肉になります。


南無阿弥陀仏は、親鸞聖人は「本願招喚の勅命」と言われていますが、そこで大事なことはその「言葉(南無阿弥陀仏)」は「誰が」「誰に」「どういう意図で」言っているのかということです。

この本願招喚の勅命は、浄土真宗辞典で引くと以下のようにあります。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

ほんがんしょうかんのちょくめい 本願招喚の勅命

衆生に対して「帰せよ」と命じる如来のよび声のこと。摂取して衆生を必ず救うという仏意を表す。(P616)

「帰せよ」とは、ジャニーズ事務所の偉い人風に言えば「You!私に助けられちゃいなよ」といったところでしょうか。大事なことは、「私に」「阿弥陀仏が」「助ける」と言われているということです。


確かに「阿弥陀仏が」というのは、みそみそさんにとってよく分からないといわれるかもしれませんが、「助ける」は「私に」言われていることなのです。


例えば「有り難う」と言う言葉は、世の中にいろいろとありますが、辞書で引いた「有り難う」には大した感慨はないと思います。しかし、私に対して誰かが「有り難う」と言った時に、みそみそさんのコメントでいうところの「心は冷めてゆき、心は虚しさでいっぱいに」なるでしょうか?


少なくとも「いやいやいや、そんな御礼をいわれるほどでもないですよ」とか「ちょっとうれしい」位には思わないでしょうか?


なぜそう思うかと言えば、直接私に「有り難う」と言われるからです。

同様に、南無阿弥陀仏は「かつて尊い仏が仰ったそうな」という話ではなく、現在ただ今私に「助ける」とよびかけられているのです。ただ今私を救うという、南無阿弥陀仏にただ今救われて下さい。

2018-03-14

2018-03-04

2018-02-22

「信心獲得や信心決定といった言葉はどのタイミングを指して言われたものでしょうか。南無阿弥陀仏が私に届いたことか。南無阿弥陀仏ひとつで良かったんだなあーと気づかせていただいたことか。はたまた全く違うことをいわれたのでしょうか。」(常夏さんのコメント)

常夏 2018/02/18 11:38

(略)

最近はあまり獲得!とか決定!とか意識していなかったのですが、信心獲得や信心決定といった言葉はどのタイミングを指して言われたものでしょうか。

南無阿弥陀仏が私に届いたことか。南無阿弥陀仏ひとつで良かったんだなあーと気づかせていただいたことか。はたまた全く違うことをいわれたのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180211/1518295501#c1518921496

エントリーに書くのが遅くなり申し訳ございませんでした。


信心獲得はいつのときのことかといえば、蓮如上人の御文章でいえば「帰命の一念」「たのむ一念」ということになります。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(御文章5帖5通)

「南無と帰命する一念の処」といっても、その時間そのものは人間の知覚にかかるようなものではないので、親鸞聖人は「時剋の極促」ともいわれています。

お尋ねのコメントで書かれた文章でいうなら「南無阿弥陀仏が私に届いたこと」になります。

信心獲得といってもそれは「第十八願をこころうる」とこであり「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」ことです。いわゆる、南無阿弥陀仏に疑い無い状態になったことをいいます。それもすべて、「弥陀如来の凡夫に回向しましますこころ」ですから、オリンピックメダルが確定した瞬間のようなものではありません。

自覚の上で言えば、すでに疑心なかったという人が多いのではないかと思います。その「疑心がなくなった瞬間の自覚の有無」は、救いとは関係ないので拘らなくてもいいところです。

南無阿弥陀仏一つでよかったなと聞き入れるのは有り難いものです。

2018-02-18

「では『念仏に疑いのない関係』になるためにはどうしたら良いですか?

」(みそみそさんのコメントより)

前回のエントリー

「そもそも質問なのですが、他力の信心と念仏がセットになって往生が定まるのではないのですか?私はそう理解しているのですが、皆さんは無条件の救いとおっしゃいます。どっちなんですかか?」(みそみそさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

について、みそみそさんよりコメントを頂きました。また、他の方からもコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそ 2018/02/15 22:44

では「念仏に疑いのない関係」になるためにはどうしたら良いですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180213/1518514819#c1518702258

それについては、前回のエントリーで書きましたように、「関係」という方面から書いてみます。

仏様は私にとって不請の友であることを前回書きました。

友達といっても、友の「関係」であると書きました。その関係が、どうして出来たかといえば、阿弥陀仏から「お前は友達だ」と言ってくるのに対して、私が「そうですね」と言ったところで成り立ちます。


友達になった証拠と言うものは特に何もありません。例えば、何か神秘体験をしたから友達になったということはありませんし、私が何かをしたことによって友達になったと言うこともありません。何かをしたことの見返りとして友達になったと言うことであればそれは不請の友ではなく、取引相手と言うことになります。


阿弥陀仏と私の関係で言うと、私の方から阿弥陀仏に向かって友達になってくださいとお願いして友達になるのではありません。阿弥陀仏の方も何かしたからそれに免じて友達になってくれると言う事でもありません。


同じように、念仏に疑いのない関係と言うのは、阿弥陀仏の方から働いて下さる南無阿弥陀仏を、南無阿弥陀仏と念仏申すところに、私がその通りと頷くところに成り立ちます。


また、阿弥陀仏という「どこかにおられる仏様」を想像すると、何かの神話のなかの作り話のように思えると思います。

そのため、阿弥陀仏が救うと言っても具体的な理由がわからないところが疑いになっているのだと思いますが、その理由について仏願の生起本末が説かれているのですが、それも信じられないということで質問を書かれていると思います。


しかし、南無阿弥陀仏と私は実際に口に称え、耳に聞いております。この南無阿弥陀仏は、私というものなしには存在しないものなのです。


それについて、少し見方を変えてみます、先程の友達の話でいいますと「友達」と言う人間は世の中にはいません。例えばAさんが私の友達だといっても、Aさんの顔が友達なのでもAさんの髪が友達ということはありません。そういう意味で友達というのは関係性のところでいいます。ですから、Aさんという人は、私がいてもいなくても存在しますが、「私にとっての友達という関係」は私がいなければ、存在しないものです。


同じように阿弥陀仏と言う仏は、私を救うために本願を建てられた結果あらわれられた仏なので、「私を救う」関係において存在する仏様なんです。私がいてもいなくても存在する仏様ではありません。


ですから、南無阿弥陀仏も、単独で存在するものではありません。阿弥陀仏が私を救うと言う関係で成り立つものですから、南無阿弥陀仏に疑い無い状態には、阿弥陀仏のお前を救うお働きと言う関係が成り立っています。

阿弥陀仏も、南無阿弥陀仏も私なしには存在しません。私を救うということろの関係についての名前ですから、その関係そのもののことだと聞いて見ると、「念仏に疑い無い関係になる方法」は存在しません。

(82)

十方微塵世界の

  念仏の衆生をみそなはし

 摂取してすてざれば

 阿弥陀となづけたてまつる

(浄土和讃)

南無阿弥陀仏は、「摂取してすてない|という阿弥陀仏と私の関係をいわれたものです。「摂取して捨てない」は、すでにある関係なので、「関係に疑い無い関係になる方法は?」という問いは成立しません。「摂取して捨てない」南無阿弥陀仏を称え聞いたところに、疑い無いのが「摂取して捨てない救い」にあった信心です。

2018-02-14

2018-02-13

「そもそも質問なのですが、他力の信心と念仏がセットになって往生が定まるのではないのですか?私はそう理解しているのですが、皆さんは無条件の救いとおっしゃいます。どっちなんですかか?」(みそみそさんのコメント)

前回のエントリーについて、複数の方からコメントを頂きました。有り難うございました。

みそみそさんからの質問について書きます。

みそみそ 2018/02/12 22:45

そもそも質問なのですが、他力の信心と念仏がセットになって往生が定まるのではないのですか?

私はそう理解しているのですが、皆さんは無条件の救いとおっしゃいます。どっちなんですかか?

私は今他力の信心という荒唐無稽な雲をつかむようなモノを得ようと必死になっています。

信心と念仏があって救われるのですか?それとも念仏さえ称えていれば無条件で往生できるのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180211/1518295501#c1518443113

この件に関しては、私もブログで種々書いてきたので改めて書きます。

みそみそさんの言われる

他力の信心と念仏がセットになって往生が定まるのではないのですか?

についてはその通りです。


しかし、「他力の信心」と「念仏」は別物で二つあるという理解は間違いです。言葉上、「他力の信心」と「念仏」は独立した二つのように見えますが、この二つは決して分けることが出来ません。


念仏は、南無阿弥陀仏であり、阿弥陀仏の本願成就の法そのものです。その南無阿弥陀仏を口で称することを念仏といいます。

次に、他力の信心は「念仏するものを救う本願に疑い無いこと」をいいます。ですから、信心といってもそれは「モノ」ではありません。言い替えますと、「疑い無い状態」とも言えますし「関係」のことです。


信心とは、「モノ」ではなく「関係」だというのは、少々わかりにくいかもしれませんので、例えていいます。

例えば、「友人」というのは、特定の個人というよりは、「友人関係」という間柄に存在する言葉です。Aさんは私の友人ですといったところで、ではAさんの髪の毛が友人なのでしょうか?Aさんの顔が友人なのでしょうか?そういうことはありません。Aさんと私の「関係」が「友人関係」であるときを指して、Aさんは友人ですといいます。


友人と言えば、仏様は私にとっては「不請の友」といわれます。

もろもろの庶類のために不請の友となる。(大無量寿経 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P7)

(註釈)衆生が請願しなくとも、衆生のために大いなる慈しみをもってその親友となる人。


親友となる仏様といっても、それは私との「関係」です。親友になったとたんに、仏様が凡夫になるということではありませし、私が仏になることもありません。


繰り返しになりますが、信心とは「モノ」ではなく「念仏するものを救う本願」と私の「関係」が「疑い無い」関係になったことをいいます。先ほどの例えで言えば、Aさんと私が友達になったと言っても、Aさんが何か変わる訳でもなく、私が何か変わる訳でもありません。ただ、Aさんと私の間柄が、友人という「関係」になったということです。


これを真宗のことでいうと、救われても南無阿弥陀仏は全く変わりませんし、私も変わりません。ただ、南無阿弥陀仏と私の関係が変わっただけなのです。ですから、信心といってもその「関係」のことを指している名前なので、私の方に何か「モノ」があるわけではありません。ただ、南無阿弥陀仏と私があるだけです。そしてその関係は、 「疑い無い」関係です。


お尋ねのように、念仏を称えている行為だけで浄土往生はできません。信心を伴わねばなりませんが、その信心とは先ほど書きましたように、「念仏するものを救う本願と聞いて疑い無い状態」です。言い換えれば、救われたのを信心といいます。信心を獲てから救われるのではありません。


例えば、「念仏はそのとおりと聞き受けました。それで他力の信心はどこでしょうか?」ということはないということです。なぜなら「念仏はそのとおりと聞き受けました」のが信心ですから、それ以外に信心はありません。ですから探しても他にはありません。


また、無条件の救いに関しては、その「念仏するものを救う本願に疑い無いこと」になるのに、知識や努力や神秘体験などの条件がないということです。


念仏を信じる一つで救われるというのが、お尋ねに対する答えになります。

その他力の信心は、あくまで阿弥陀仏に救われたことであり、「念仏に疑い無い関係」になったことをいいます。


ただ今救われて下さいというのも、ただ今信心を獲て下さいということであって、ただ今信心を獲てそれから救われて下さいということではありません。

2018-02-12

2018-02-11

「結局その焚き火とやらに当たるにはどうしたれ良いでしょう?信心決定したいと思い聞法しダラダラと何年もの長い歳月が流れました。(略)もう無理です。私には信心決定できません。」(みそみそさんのコメントより)

前回のエントリー常夏さんとみそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

以下、みそみそさんのコメントについてエントリーを書きます。

みそみそ 2018/02/10 21:10

結局その焚き火とやらに当たるにはどうしたれ良いでしょう?信心決定したいと思い聞法しダラダラと何年もの長い歳月が流れました。信心決定にこだわって現実に迫っている問題から背を向け続けていたた、いつの間にかその現実がもう目の前に迫ってきて居ました。

このままでは信心決定する前に現実に押しつぶされてしまいます。

もう無理です。私には信心決定できません。私にはもう阿弥陀様の本願は救いどころか呪いです。

記事やコメントを何度も読ませていただきましたが、結局のところ何一つ意味が分かりません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180208/1518027162#c1518264627

前回、阿弥陀仏のお働きをたき火に例えましたが、どうしたらあたれるのかについては、あたるしかありません。これは例えなのでたき火でなくてもいいのですが、すでに電源がはいっているエアコンの前で「どうしたらエアコンにあたれますか」と聞いているようなものです。


みそみそさんのコメントの言葉でいえば、たき火と私のあいだにまだ何かがあるという前提で考えておられるのではないかと思います。そのような前提を設けて、自分でなんとかしようとあれこれするのを自力といわれます。

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)

https://goo.gl/mfKeMP

みそみそさんは、これまで「わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ」してこられたと思います。その結果の現在は、「もう無理です。私には信心決定できません」でした。それは、「自力では」無理です。自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつらねば、信心とはなりません。


自力を捨てるとは、について親鸞聖人は以下のように書かれています。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P707)

https://goo.gl/QNCDHB

「みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず」と言われています。こうしたら助かるというこころを捨て、また「自分は駄目だ」というこころを顧みないということです。コメントで「もう無理です。私には信心決定できません」と書かれているのは、自分で自分に決着をつけようとしている心です。これは卑下であって、また卑下慢といわれるものです。自分で自分をなんとかしようにも、何ともならないので苦しくなります。やがて、自分は駄目なものなのだと自分を縛りつけるようになり苦しいばかりで救いはありません。


だから「あしきこころをかへりみず」と言われています。それではどうすれば助かるのかと言えばひとすぢに「無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽」することだといわれています。


もう自分では信心決定できないと分かられたなら、自分で何とかしようという自力は捨てて、南無阿弥陀仏を聞いて下さい。南無阿弥陀仏はただ今救うと喚ばれるお働きですから、必ずただ今救われます。

2018-02-08

「一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせてとありますが私にはそんな心が微塵の起こってきません。そんな私は助からないのでしょうか?」(みそみそさんのコメント)

みそみそ 2018/02/07 00:57

一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせてとありますが私にはそんな心が微塵の起こってきません。そんな私は助からないのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180203/1517598940#c1517932635

この件についてはYGMさんからもコメントをいただきありがとうございました。


今回の、みそみそさんのコメントについて思う事は、自分の心の中に、阿弥陀仏をふかくたのむ心が起こらないと助からないと思っておられるのは間違いだと言うことです。

なぜならば、阿弥陀仏はそのような殊勝な心が起きないもののために本願を建てられました。もし、そのような殊勝な心が起きる人を助けると言う本顔であるならば、全ての人を救う事はできません。世の中には、そのような殊勝な心を持っている人が決して大多数ではありません。


一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。

如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻 本浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P235)

現代文

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。

この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

https://goo.gl/JNbAo1

まとめて言いますと、もともと自分の力で浄土に往生することができないし、自分の力で清らかな心(ふかくたのむような心)がないので、そのような心は阿弥陀仏から与えて下さるのだということです。


ここ数日、例年にない寒波がやってきております。私のすんでいる地域も、大雪の北陸地方のような状態ではないものの寒い日が続いています。外に出てあるいは家の中で寒い思いをしている時に、暖かくなれとどれだけ私が念じてもなかなえ冷えた体は暖かくなりません。しかし、ストーブや炬燵でもいいですが、暖かいものに触れると暖かく感じることは出来ます。そこで、暖かく感じることがあっても、私の体がこの寒さに全く平気なほど熱を発生させられるようになったわけではありません。


これに似たようなことを、今回はみそみそさんは質問をされているのだと思います。「そんな心が微塵も起こってない」といわれるのは、この寒さの話でいうと「体が冷たいです。暖かくなるとは思えません。」と言っていると同じです。寒波にさらされた私の体は冷たいものです。その体は寒波の中で勝手に暖まるものではありません。しかし、暖かいものに触れると、暖かいと感じることは出来ます。その暖かいものに触れて、暖かいと感じるのが阿弥陀仏をふかくたのむということです。どれだけ暖かいと感じても、冷たい私が暖かい私に変わることはありません。それでも、常に暖かいものに触れているということは、有り難いことなのです。


前回のエントリーに、御文章を引用しました。この御文章に書かれていることも、「あたたかい身になれ」ではなく「あたたかいお働きがあるから、あたたまりなさい」と言われているのです。童謡の「たき火」のような場面を想像して見て下さい。「北風ぴーぶー吹いている」なかで、たき火がされています。その側にいる人が「あなたも当たっていきなさい。暖かいですよ」とよびかけておられるのが、親鸞聖人や蓮如上人なのです。その火にあたらないで、「なぜ冷たいのでしょうか」「暖まることはないのでしょうか」と疑問を起こすのは、この場面で言えばたき火に当たらずに「寒い、冷たい」と言っているようなものです。


ただ今救う本願は、寒い雪の中から言えば暖かい火のようなものです。他に暖まるものがなければ、それに当たるしかありません。多くの先達は、その暖かい火を独占するようなことはありません。「ようこそ、ようこそ来られました」と招いておられます。もちろん、一番招きよばれているのは、ここで言えば火そのものがよばれているのです。


さぁ、暖まっていきなさい。と勧められるように、それではそう致しますと暖まったのが「阿弥陀仏をふかくたのむ」ということです。ただ今救う本願に、ただ今救われて下さい。

参照

D

D

2018-02-07

2018-02-04

2018-02-03

「長く仏法聴聞しておりますが、いまだに後生に驚きが立ちません。どうすれば救われるのでしょうか?」(頂いた質問)

「長く仏法聴聞しておりますが、いまだに後生に驚きが立ちません。どうすれば救われるのでしょうか?」(頂いた質問)

このように後生に驚きが高まると救われるが近い、または後生に驚きが立たないと救われないと思っている人がいます。その意見については、私も以前はそのように考えていた時期がありましたので、お気持ちはよくわかります。


結論から申しますと、そのようなことはありません。このエントリーを読まれている方で「後生に驚きが立っていない」状態でもただ今救うのが、阿弥陀仏の本願力です。


ではなぜそのように考えてしまうのかについて少し考えてみたいと思います。

まず、阿弥陀仏の救いはただ今の救いですから、ただ今現在救われないといけないことになります。


しかし、ただ今救われると聞くと、何かものすごい変化が起きるような気がして、その前に1つステップがあるはずだと勝手に考えてしまいます。ちょうど花が咲くのにはタネから芽が出て葉が茂り、大きくなってつぼみができてやっと花開きます。そのようなものを想像してしまいます。以前お会いした方の中には「蓮の花が開くのはポンと開いて時間がかからないでしょうが、そこまで茎や葉が伸びるのには時間がかかるではないですか!」と言われた方もありました。


信心という花か開くには、つぼみの状態や、そろそろ開きそうだという状態になるはずだと考える人があるのは、有る意味自然な発想だと思います。ところが、そうなると今の今までそれこそ何年も話を聞いたり求めてきたのに、ある日突然何の前触れもなく救われると心に決めて、阿弥陀仏の救いの喚び声に対して耳に蓋をしてしまいます。


以前の私はまさにそのような考えで、それこそ棚からぼたもちのようにある日突然救われるなんておかしいと考えていました。


そこで、参考にするのは過去の妙好人と言われる人たちや、いろんな人の獲信体験です。当時私は救われる前になると後生が苦になって夜も眠れないようになってくると言う話を聞いていて、また後生が苦になったら赤飯を炊いて喜ばねばならないのも聞いたことがあります。実際に、後生が苦になって夜も眠れないという人もありますし、そういう人に会ったことがあります。


その頃の私は、そのような夜も眠れなくなる体験もなかったので、これは真剣に求めていないからだとに考えていました。そのため、真剣に求めていけばいつかそのような切羽詰まった心境になるのならと考えています。しかし実際はそうではありません。阿弥陀仏の救いを聞き、言われるにはそのような前段階のステップを踏む必要はなかったのです。


御文章には、そのような造作はいらないのだということを「なにのやうもなく(何の造作もなく、はからいなく)」と言われています。

それ、在家の尼女房たらん身は、なにのやうもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。これすなはち弥陀如来の御ちかひの他力本願とは申すなり。(御文章5帖目3通 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1190)

https://goo.gl/g5Bj7P

この御文章を御覧になるとわかりますが、「なにのやうもなく」であって、「後生に驚きが立った人限定」ではありません。その証拠に、この御文章の相手は「在家の尼女房」です。今日でも、当時でも家庭をもった女性は忙しいのです。気がつけば一日終わっていたというのは、実生活の感覚としてよくあるものだと思います。


そんな人が救われるということを、言われているのが上記の御文章です。

ただ、「一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへ」とする一つです。阿弥陀仏のただ今助けるの仰せをそのまま聞き入れる一つです。


「後生に驚きが立つ」ステップを踏まなければならないと言う私の考えもいらないということです。


このような考えになってしまうのは、阿弥陀仏の救いを「私個人のこと」とするものなのですが「全人類」に普遍化してしまうところから来る勘違いだと思います。阿弥陀仏の救いは「ただ今」ですが、それは「あなた」を救うのであって、まったく仏教を聞いたこともない人が、ある日突然救われるという話ではありません。

こういうと、「じゃあそんな人は助けないのか」という方もあるかもしれませんが、そういう人は阿弥陀仏の本願の鑑査員なのでしょうか?阿弥陀仏が本願通りにちゃんと働いているかを検査してるのでしょうか?


少し前の国会の森友学園問題で出てきたのが、第三者機関会計検査院です。会計検査院は、あくまで第三者として国有地の売買が適正に行われたかを検査する期間であって当事者ではありません。


このように会計検査院のような心で、阿弥陀仏の本願を精査しているのが、いわゆる「はからい」と言われるものですが、言い替えるならば「当事者性が抜け落ちている」ということになります。阿弥陀仏は「お前を救う」と名指しされているのに対して「他の人はどうなの?」としているところに、「後生に驚きが立たないと救われない」論が出てくる元があります。


阿弥陀仏が「ただ今救う」と言われているのに「後生に驚きが立ってないので、少し待って下さい」という人がいると考えるとおかしくないでしょうか?そういう状態が、「後生に驚きが立たないと救われない」論の人です。

そんな考えは、横に置いてただ今救われて下さい。

2018-01-07

2018-01-02

2017-12-17

2017-12-05