一般的には、浄土教系の仏教の宗派や宗教団体において「南無阿弥陀仏」と称えることを言う。 元々の仏教(上座部仏教)においては読んで字の如く、仏陀を念じ釈尊の説く教えや振る舞いとその尊さを思う事である。
仏を念じる念仏以外にも、僧(十大弟子が主たる対象になる)を念じる念僧、法(ダンマ)を念じる念法がある。
日本最古の国産宗派「融通念仏宗」華厳・法華の知恵と響き合う共生の教え 公開日:2024年5月 日本仏教の多くの宗派が中国からの伝来を起源とする中で、「融通念仏宗」は平安時代末期、良忍(りょうにん、1073–1132)上人によって開かれた、初めての日本独自の宗派です。法明上人(1279–1349)による中興ののち徳川時代の大通上人(1649–1716)による本山大念仏寺の確立と教学の体系化がなされ今日に至っています。 この教えの核心は、阿弥陀如来から授かった『一人一切人、一切人一人』という言葉にあります。これは、『自分一人の祈りが世界中の人を救う力になり、同時に、目に見えないところで世界中の人た…
『無量寿経』が明かす阿弥陀仏の救済と「他力本願」の真髄 世親が『浄土論』を記し、阿弥陀如来の極楽浄土に生まれることを願い、その真実の安らぎの道を説き明かしましたが、その根幹をなすのが釈迦如来がお説きになった『仏説無量寿経』です。この経典は、阿弥陀如来の成仏の因果と、苦悩する我々衆生がその浄土へと往生するための道筋を説き明かした、他力思想の頂点とも言えるものです。本作は、『観無量寿経』『阿弥陀経』とともに浄土三部教の一つに数えられます。 法蔵菩薩の願いと四十八願の成就 『無量寿経』の上巻では、阿弥陀仏がどのようにして究極の仏となり、極楽世界を完成させたのかが描かれています。はるか過去世において、…
法然上人『一枚起請文』に学ぶ、究極の「おまかせ」 法然上人が亡くなる前に弟子たちに向けた念仏について記した一枚起請文を読んでいきます。これは、法然上人が、弟子たちに念仏についていろいろ言わないでとにかく念仏をしなさいと残した文章です。 1. 一枚起請文の原文 もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の仔細候わず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠もり候ふなり。このほかにおく…
念仏は「阿弥陀仏の呼び声」である――親鸞の説いた他力の真髄 「南無阿弥陀仏」と口に称えるお念仏。それは私たちが救いを求めて仏様に差し出す言葉ではありません。実は、阿弥陀如来からの「あなたを必ず救う、われにまかせよ」という呼び声が、私たちの口を通して顕れたものなのです。念仏を聞くことが大事です。 1. 母と子の絆に似た「呼び声」の味わい 子供が「お母ちゃん!」と呼ぶとき、その声はどこから来るのでしょうか。それは、お母ちゃんが自分を愛し、見守ってくれているという安心感が子供の心に届いているからこそ、自然と溢れ出すものです。 母子の情愛のメタファー:子供が母親を呼ぶのは、母親の愛情がすでに届いている…
念仏の信心について、弥陀から信心を衆生が受ける時には信じる心が先なのか? | Peing -質問箱- ○質問 念仏の信心について、弥陀から信心を衆生が受ける時には信じる心が先なのか? (歎異抄第一章より弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。)それとも念仏を聞くのが先なのかどちらなのでしょうか? (仏説無量寿経下巻(現代語訳) 無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至…
後世に残す最大の遺産 お仏壇 亡父 壮年の時 今日は亡父33回忌の祥月命日、お仏壇にお参りして自分自身をふり返りました。私はどのような遺産を相続したのだろうか・・・。 父は57歳のときクモ膜下出血で倒れ、右半身麻痺となり失語症もともない16年間自宅療養生活を送り、73歳のとき自宅で息を引き取りました。 介護したのは主に亡母です。日常生活では動くことが困難で、食事・排泄・入浴・服薬など日常生活のすべてで介護を必要としていました。 失語症は、脳の言語中枢が損傷されることで、「聞く」「話す」「読む」「書く」の、言葉を操る能力に障害がある状態を言います。脳の損傷部位や広さによって、一人一人症状が異なる…
今回のテーマは、「信心と喜びと日々の念仏」。 【他力信心】と【喜び】との関連性、【日々の念仏】についての話。 まず大前提として、【阿弥陀様の仰せを素直に聞ける喜び】といっても、【素直に聞ける耳】は「阿弥陀様が皆へ等しく与えるもの」なので同じだが、【喜び】は「個々の意業への反映」なので、人それぞれである。 また、【喜び】自体はただの意業であり、【お救いの証拠ではない】。 庄松さまの、こう言うお話もある。 或人庄松に尋ねて言えるに、「喜ばいでも御浄土へ参られるだろうか」。 庄松が答に、「参られる参られる」と。 又暫くして曰く、「喜ばんのに御浄土へ参られたら、御阿弥陀様に愧(はず)かしかろうじゃ」。…
今までずっと「念仏となえる者を救う」と聞いて、念仏となえる自分の心のありようばかりを気にしていました。 主役の阿弥陀さまを脇へ追いやり、自分が舞台の中心に立って、「疑い心がなくならない!何をすればいいんや!どうしたら救われるんや!」と わめき散らしていたのでした。 主役は阿弥陀さまなのですから、自分は舞台から降りて客席に戻らないといけません。 自分の心の声ではなく、阿弥陀さまの声を聞くということです。 阿弥陀さまが、今この瞬間の私に対して「南無阿弥陀仏」と呼びかけてくださっているのです。 「疑心あることなしがわかんない!どうしていいかわかんない!と言って地獄に落ちていく その文長を必ず救います…
「〇〇生活のすゝめ」という事で。大した引き出しもないのだが、一応シリーズとして括ってみようと思う。 全体的に、教学上の話ではなく、個人的なすゝめとなる予定だ。 今回は、「お念仏生活のすゝめ」。 案外、知らない人が多かったりするのだが……お念仏は、必ず御本尊の前で合掌して、大きく声を出さないといけないものーーではない。もっと自由に、気軽に、何処でも、周りに聴こえないぐらい小さくても、自分にだけ聞こえる形で称えても良いものなのだ。日頃、余りお念仏をされない方は、是非、日常の中でお念仏に親しんでみて欲しい。 ※声に出すのが難しい方は、心で念じても大丈夫です。 参考:「なぜ口称念仏を勧めてられるのか分…
令和8年、2026年になりました。今年が平和な年でありますように。 年が変わっても、大切なことは変わりません。本願寺第8代宗主・蓮如上人(1415~1499)の歌です。あら玉の年のはじめは祝(いはふ)とも南無阿弥陀仏のこころわするな。2026 has just begun! May this year be a peaceful one. Even though a year changes, the important things remain the same. The following is one of Rennyo Shonin's (1415-1499) songs in pr…