文久2年(62年)4月、島津久光は約千名の兵と共に上洛、自藩の過激攘夷派を上意討ちにし(寺田屋事件)、公武合体の姿勢を明確にした。更に孝明の賛意を得て勅使と共に江戸に向かい、慶喜、春嶽、容保の要職就任、参勤交代制度の緩和、兵制改革などを推進した(文久の改革)。 薩摩の動きに対抗し、長州は真木和泉らを中心に攘夷を急進化させた。京都では天誅が頻発し、朝廷内も三条実美ら攘夷派が優勢となった。翌文久3年(63年)3月には、家光以来約二百年ぶりに将軍が参内し、天皇から攘夷委任を受けた。この時、将軍警護に結成されたのが浪士組(後の新選組)だ。 攘夷祈願の賀茂行幸に際しては、家茂、慶喜ほか諸大名は徒歩で随行…