小林行雄「前方後円墳」『図解考古学辞典』(東京創元社 昭和34年)より
日本の古墳時代に特有の墳墓形式。円丘の1側に方丘を付設した外形をもつ。蒲生君平の『山陵志』にこれを「前方後円」と形容したのが、現在の名称の起源となった。
名称の由来は江戸時代の国学者蒲生君平が1808年にあらわした『山陵志』による。前が方で後ろが円なのは、これは古墳を牛車に見立て、車の部分=後としたためであり、当時の古墳の機能についての研究に基づくわけではない。
北は岩手県胆沢郡胆沢町の角塚古墳から、南は鹿児島県肝属郡東串良町の唐仁大塚古墳まで、北海道と沖縄、東北地方北部を除く列島全体に広く分布する。現在では韓国の全羅道地域でも前方後円墳が確認されていて、「日本の」という限定詞はつけられない状態である。
日本最大は大阪府堺市の大山古墳(仁徳天皇陵)全長486メートル。そのほか大阪府羽曳野市の誉田山古墳(応神天皇陵)、奈良県桜井市の箸墓古墳(276m)、奈良県橿原市の見瀬丸山古墳(310m)など200m以上のクラスの古墳の多くは奈良盆地と河内平野に集中するが、岡山県岡山市の造山古墳(360m)・岡山県総社市の作山古墳(286m)のような例もある。
古墳が出現する時代=古墳時代という時代区分上の前提がある。その開始を考える上で前方後円墳と弥生時代の前方後円形の墳丘墓との峻別が問題になっている。
近藤義郎氏は成立時の前方後円墳をそれ以前の弥生墳丘墓と区別する特色のうち主要なものとして以下の三つを上げている*1。
1.鏡の多量副葬指向
2.長大な割竹形木棺
3.墳丘の前方後円形という定型化とその巨大性
これらの条件を満たすもので最古となるのが箸墓古墳である。
都出比呂志氏は同様に箸墓古墳を定型化した前方後円墳としつつ、前方後円墳に見られる中国思想を重視し
-北枕の思想
-墳丘の三段築成
-朱の愛好と密封思想
-(神仙思想)
を前方後円墳の特徴として付け加えている*2。そしてその成立時期は「3世紀半ばすぎ」とする。
両者とも弥生墳丘墓からの連続性は認めつつも、畿内の大型古墳とは大きな断絶があるとした考え方である。そのためこの条件に該当するもの=前方後円墳は畿内中枢とその周辺にしかなく、非常に限定されたものになる。
これとは別に、前方後円形の墳丘という古墳の形を重視した考え方がある。奈良県纏向遺跡にある墳丘墓は数十メートルの円丘に短い前方部がつくものであり、これらは箸墓古墳より古い。これらを「纏向型前方後円墳」とし、これから古墳と捉え、古墳時代の開始を3世紀の前半にさかのぼらせるというものである。
「纏向型前方後円墳」の条件に当てはまる前方後円墳は千葉県市原市の神門古墳(墓)など関東地方でも見つかっていて、その分布範囲が広いことが分かってきている。これを前方後円墳に含めると全国的に古墳が分布することとなり、列島的な古墳時代の開始を論議する上で非常に有効である。
だがそれでは箸墓古墳のような巨大な定型的古墳の出現はなんの画期にもならないのか、という反論もある。政治史的に見た場合に畿内の大型古墳のもつ規模および副葬品の卓越性というのは無視できない問題だからである。
このようにどこから前方後円墳であるかは、古墳時代の時代区分論とも絡みまだ決着を見ない。
畿内では見瀬丸山古墳と奈良県高市郡明日香村平田梅山古墳(欽明天皇陵)が最後となり、6世紀末から7世紀初を境に前方後円墳は作られなくなり、奈良県高市郡明日香村石舞台古墳のような方墳へと変化する。
北・東関東地方などでは、茨城県かすみがうら市風返稲荷山古墳のように、7世紀前半くらいまでは前方後円墳が作られ続けるが、やはり方墳へと変化する。