翠渓歌集 序 指折り數へれば、もう一昔にもなる、東京高等師範學校の教室に、予は日々前田君を見たのであつた。其時の印象は今もなほ鮮やかに殘つてゐる。あまり濃くはない眉が長く曳いてゐて、眼の涼しい、唇のいかにもいゝ色をした細面に才気の溢れた人であつた。教課とした英吉利の詩文を予が購讀する時、君が會心の章と覺ぼしい條に來ると、その濕ひのある眼中に夢見るやうな影の浮ぶのを度々見受けた。藝術の愛を持ちうべき人かと、其折に予は推察したが、既に君が短歌を詠じ、音樂に親んでゐられた事は、まだ少しも知らなかつたのである。其後數年にして君の抒情詩を讀み、また樂會の爲に曲譜を供する事などを聞いて、噫、君も亦終にあの…