50〜70年代のプロ野球選手、指導者。 旧名「和弘」。
通称「打撃の職人」「かっぱえびせん*1」。
右投右打、ポジションは外野手。背番号は8番。
1932年5月1日生まれ。愛知県出身。
起工業から川島紡績を経て1952年、毎日オリオンズに入団。
3年目の1954年から外野手に定着。
シュート打ちの名人とも言われ、内外角のボールを左右へ巧みに打ち分けるバットコントロールの持ち主であった。
その技術に加えてパワーもあり、1960年には32本塁打を放つなど、榎本喜八らと共に
毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)のミサイル打線の中軸として活躍した。
同年本塁打王と打点王を獲得し、MVPにも輝いた。
1964年、小山正明との「世紀のトレード」で阪神タイガースへ移籍。同年31本塁打を放ち変わらぬ打棒を見せた。
1968年、根本陸夫監督の広島東洋カープに移籍。
1970年、現役引退。
1971年〜1974年、読売ジャイアンツ打撃コーチ。 1975年〜1976年、阪神タイガース打撃コーチ。
1977年、ヘッドコーチに就任。
1979年、ロッテオリオンズの監督に就任。落合博満*2、リー兄弟、有藤道世、弘田澄男らのミサイル打線でチームを1980年、1981年の半期優勝に導いた。
1984年、故郷の中日ドラゴンズの監督に就任。強竜打線を率いて快進撃に。
1986年、成績不振の為に監督退任。後任を高木守道に託す。
1987年〜1989年、読売ジャイアンツ打撃コーチ。1991年〜1993年、オリックス・ブルーウェーブヘッドコーチ。
1995年、阪神打撃コーチ。 1998年、台湾プロ野球の和信鯨(現・中信鯨)の打撃コーチ。
2002年、野球殿堂入り。
引退するまでに史上最多の39球場で本塁打を放ち、日本記録保持者である。*3。
オールスターゲームでは毎年のように快打を放ち、「お祭り男」「賞金泥棒」などと呼ばれた。
名球会では最年長だった。
その後は野球解説者、株式会社エイトヤマウチ代表取締役社長、マスターズリーグ・札幌アンビシャスの監督などを務めた。
2009年2月2日、都内の病院で逝去。