徳川幕府8代将軍吉宗が御三家が将軍家との血が疎遠になったことを鑑み、御三家の他に徳川宗家に後嗣なきとき将軍の後継者を提供する役割を負った家系を創設したのが始まり。当主が従三位にのぼり、省の卿の官に任ぜられる例であったから御三卿と呼ばれた。御三家と異なり臣下ではなく将軍の家族との位置づけで、幕府から賄い料10万石が給せられ、家老も旗本が出向で勤めた。屋敷は江戸城の城内にあり、屋敷地の地名から各家名がつけられた。 各家は以下の通り。
大河ドラマ「べらぼう」は、前週4月27日の放送お休みを挟んで、5日から蔦屋重三郎の青年期編がスタートしました。耕書堂の発展と蔦重の活躍に期待が膨らんでいきますね。 さて今回のコラムですが、蔦重とは離れて徳川家について書きます。8代将軍・徳川吉宗が自身の血筋で将軍家を継いでいこうという意思で設けた御三卿(田安、一橋、清水家)を取り上げてみます。 田安家は吉宗の二男である宗武が創設した家です。徳川宗家は宗武の兄である家重が継ぎましたが、器量の面で宗武の方が勝っている言われ、一時は次期将軍の候補にする動きもあったようです。 徳川家には、初代家康が血脈を守るために創設した尾張家、紀伊家、水戸家の御三家…
江戸時代、日本は260年以上も戦のない平和な時代を続けました。その中心にいたのが徳川将軍家です。でも、もし将軍が突然亡くなったり、跡継ぎがいなかったら? そのときのために用意されていた“保険”のような存在が「御三家(ごさんけ)」や「御三卿(ごさんきょう)」でした。 まず御三家とは、水戸・尾張・紀伊という三つの大名家のことです。この三家は徳川家康の子どもたちがそれぞれ治めることになり、将軍家ととても深い関係にありました。たとえば、水戸藩を治めたのは家康の十一男・徳川頼房で、後に「水戸黄門」として有名になる徳川光圀(みつくに)はその息子です。光圀は学問に力を入れ、『大日本史』という歴史書を作らせた…
*文春文庫(Amazon) 【あらすじ】 徳川御三家の1つ、尾張家の当主継友の弟徳川宗春は、幕府で進めている倹約令に反発して、上の者がお金を使うことで町民たちが潤うと考える。そのため遊び仲間の芸州広島の浅野安芸守吉長や姫路の榊原式部大輔政岑と、芸者を招いて倹約どこ吹く風とばかりに気勢を上げていた。 7代将軍家継がわずか8歳で早世すると徳川宗家の血統は途絶え、尾張、紀州、水戸の御三家から家督を継ぐ必要に迫られる。水戸は候補から外れ、尾張の継友と紀州の徳川吉宗で争われたが、家格が高い尾張を有利とみた大方の予想を裏切り、紀州の吉宗が宗家を継ぎ8代将軍に就任する。次期将軍就任を信じていた尾張の継友は、…