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かわいそうに思う心。慈悲。同情
今朝は、マタイ福音書12章1~8節をディボーションしました。マタイ福音書は11章から12章では、イエスの活動が理解されない状況が描かれています。この箇所では、イエスの活動に対するファリサイ派の非難が描かれています。 ある安息日、イエスは麦畑を通られました。空腹になった弟子たちは、麦の穂を摘んで食べました。それを見ていたファリサイ派の人たちはイエスに、あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしていると非難しました。モーセの十戒には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあります。聖別せよとは、この日を神のために特別な日としなさいとの意味で、仕事をしてはならないとの戒めです。麦の穂を摘んだこ…
マタイ福音書9章27~31節には二人の盲人が登場します。彼らは「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と言いながらイエスについて行きました。イエスのあとについて彼らが家に入るとイエスは「私にできると信じるのか」と言います。二人は「はい」と答えます。するとイエスは彼らの目に触り、「あなたの信じたとおりになるように」と言います。すると二人の目が見えるようになったと書かれています。 今回この箇所を読んで「憐れみ」という言葉が心に留まりました。二人の盲人は「憐れんでください」と言ってイエスに近づきます。イエスは彼らの願いに答える憐れみ深い方です。イエスは「あなたの信じたとおりになるように」と言われ、…
神はモーセにこう言われました。 「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」」(出エジプト33・19) したがって、神の祝福は、だれかがそれを得ようと決心したからとか、そのために努力したからといって与えられるものではありません。 それは、神のあわれみによって与えられるものなのです。 ローマ9:15-16 こちらも合わせてどうぞ壊れた器のようになった
今日は憐れみについて書いてみたいと思います。とはいっても考えがまとまっているわけではなく、随想のようなものになると思います。 なぜ憐れみについて書いてみようと思ったかといえば、私には怒りという欠点があるのですが、しかし人によっては怒ることがほとんどない人がいるようで、怒るより憐れんでしまうとその人が意見していたからです。そうなのかと思いました。実のところ私は50年以上生きてきて人を憐れむということをほとんどしたことがありません。誰かを憐れむとき、その相手を自分より下の人だと思わないといけないからだと思います。また私が人生で関わってきた多くの人も憐れみを示す人はあまりいなかったような気がします。…
エフライムよ、どうしてあなたを 引き渡すことができようか。 イスラエルよ、どうしてあなたを 明け渡すことができようか。 私の心は激しく揺さぶられ 憐れみで胸が熱くなる。 ホセア書 11 : 8 (聖書協会共同訳) How can I give you up, Israel ? How can I abandon you ? My heart will not let me do it ! My love for you is too strong. Hosea 11 : 8 紫陽花
主よ。 主のあわれみを知る者はみな、助けていただけることを期待しています。 主はいまだかつて、ご自身に頼る者をお見捨てになったことがないからです。 詩篇9:10 こちらも合わせてどうぞことばと心の思いが届きますように
年末の 異変から 毒に あたったように あおられてた 毒 吐かれる間柄ではない 単に 近隣の 突き詰めたら 知らない人… どんどん吐かれる毒 まだ止まらない 不穏な単語しかなく 生死も 尊厳も 人間も みんな くそったれの 味噌糞だ… これっきり もう 書きたくない… こういう人なのだった というだけのこと と 今日はおもえた あの 激しい専門看護師さんも きっと わたしにだけ あのようであったわけでなく やりなれて 言いなれていただけか… と いまさら いまごろ 気づく… おばかさんなのだ わたし シーちゃん 毒 吐きなれてはいけないなあ… 老死は 誰も避けられず かならず ゆきつくところ …