中国後漢から三国時代の人物(? - 223年)。字(あざな)は子文。三国の魏(曹魏)の武帝曹操の子。生母は卞氏。『魏氏春秋』によれば、魏の第三代皇帝曹芳の祖父にあたるという。
馬鹿力の持ち主で、素手で猛獣を倒せた。虎の尾をつかんで引っ張りまわしたり、象の鼻をつかんでねじ伏せたりしたという。弓や乗馬も名人級であった。
曹操は曹彰に学問を勧めたが、曹彰は勉強を好まず、前線の将軍として活躍することを望んだ。
218年、代郡の烏桓族が反乱を起こすと、曹彰がその鎮圧の任務にあたった。曹彰は積極的に戦って烏桓族の反乱を鎮め、烏桓族と並ぶ勢力である鮮卑族の軻比能をも服属させた。曹操からは虎のようなヒゲをたとえられ「黄鬚児(こうしゅじ。『きひげ』ではない)」と呼ばれた。
烏桓征伐から帰還後、曹操に呼ばれて長安に駐屯していたが、曹操が病にかかると早馬で曹操に呼び出された。曹操の元に向かう途中で曹操の死の知らせを聞き、そのまま洛陽にたどり着いた。そこで曹操死後の事務を取り仕切っていた賈逵に対して、曹操の印綬のありかを尋ねたが、賈逵に叱責されて退いた。
曹丕が即位して魏を建国すると任城王に封じられた。223年に急死した。一説には謀反を疑われての憤死とも、曹丕による毒殺ともいわれる。