日本三大祭の一つ。毎年7月1日から31日までの1カ月間、京都市内の中心部や八坂神社(東山区)で行われる。クライマックスの山鉾巡行と神幸祭(いずれも17日)をはじめ、多彩な祭事が繰り広げられる。
14日の宵々々山(よいよいよいやま)、15日の宵々山(よいよいやま)、16日の宵山(よいやま)は、四条通のうち、四条河原町から四条烏丸までは、夕方(18時)以降歩行者天国となり、通りの両側にぎっしりと多種多様な夜店・露店・屋台がにぎわう。中にはカメすくいやチヂミロールなど、ユニークな商品を取り扱う店もある。これらの出店は比較的若い層をターゲットとしており、デートスポットとして訪れる人も多い。浴衣を着て来る人もいる。
山鉾巡行(やまぼこじゅんぎょう)とは、17日の夕刻に、八坂神社での神幸祭に先だって中京・下京の町衆が各町に伝わる山や鉾を曳行する行事。メインは唯一生身の稚児(ちご)が乗る長刀鉾(なぎなたぼこ)で、観光客はこの鉾を一目見ようと殺到する。
また、祇園祭には多くの稚児(ちご:10歳前後の少年)も参加する。稚児には長刀鉾の稚児、綾傘鉾の稚児、四条傘鉾の稚児、久世駒形稚児、馬長稚児など様々あるが一番注目されているのが、出発を告げる「しめ縄切り」をする長刀稚児で、毎年メディアなどで大々的に発表される。補佐役の禿(かむろ)としても毎年2人の少年が選出される。
なお、祇園祭のスケジュールは毎年同じである。(詳細は後述)
平安時代の前期、869(貞観11)年に京で疫病が流行した。その際、広大な庭園だった神泉苑(中京区)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。
各山鉾では、病気除けとされるちまきや、学問成就や立身出世などのお守り(護符)を手に入れることもできる。
応仁の乱(1467−77年)で祭りは一度途絶えたが、1500(明応9)年に町衆の手で再興された。以後、中国やペルシャ、ベルギーなどからもたらされたタペストリー(装飾用の織物)などを各山鉾に飾るようになった。これらの懸装品の豪華さゆえに、山鉾は「動く美術館」とも呼ばれる。江戸時代にも火災に見舞われたが、町衆の力によって祭りの伝統は現代まで守られている。現在、巡行に参加している鉾は9基、山は23基である。
祇園祭の「ちまき」は、厄除けのために各山鉾町で売られている。
ちまきが厄除けの役割を担っているのは、八坂神社の祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)が旅の途中でもてなしてくれた蘇民将来に対し、お礼として「子孫に疫病を免れさせる」と約束し、その印として「茅(ち)の輪」を付けさせたのが始まりと言われる。その後、茅(ち)の輪」が変化して「ちまき」になったのではとされている。
授かったちまきは、家の門口につるしておき、翌年の祇園祭で新しいちまきと取り替えるまでの1年間、厄除け・災難除けとして重宝されている。祇園祭のちまきは、食べ物ではない。通常は、ササの葉をイ草で巻き、束にして作られる。しかし2006年には黒主山保存会が、祇園祭で初の「食べられるちまき」を販売。「食べられる」と勘違いする人もいることから発想を転換し、生ふでちまきを作り、話題になった。
各山鉾では、お守りも販売されている。
お守りのご利益は、山鉾の由来によってそれぞれ異なり、役行者山のお守りは、疫病よけや安産、交通安全をもたらし、鯉山は立身出世、浄妙山は勝ち守りとされている。
⇒ 葵祭(5月15日)、祇園祭(7月1日〜31日)、時代祭(10月22日)