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脱亜入欧

(一般)
だつあにゅうおう

脱亜入欧(だつあにゅうおう)とは、明治時代の日本において、「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパ列強の一員となる」ことを目的としたスローガンや思想である。
欧米列強が植民地戦争を繰り広げていた明治時代初期に、「富国強兵」と共に明治政府が実行した政策の根幹となった思想である。外交、政治、経済、文化に至るまで、幅広く展開された。
具体化された例として、断髪令や廃刀令、1880年代の鹿鳴館が知られている。
1885年(明治18年)に福澤諭吉が書いたとされる論説「脱亜論」は、基本的にこの考え方に沿っていると指摘されることがあるが、これは誤りである。福澤は署名著作・『時事新報』論説のすべてにおいて「入欧」という言葉を一度も使用していない。さらに福澤が「脱亜入欧」という語句と関連付けられるのは第二次世界大戦後の1950年代以降である。
なお1885年(明治18年)の「脱亜論」に正対する「興亜論」は興亜会を中心に展開された汎アジア主義であり、その興亜会には勝海舟や福澤諭吉が顧問として参加していた。もっとも興亜論は後に日清戦争と日露戦争に勝利したのを機に、興亜会を吸収した東亜同文会などを中心として、八紘一宇といった日本を盟主とすべきとする優位性に拠ることになる。その帝国主義・覇権主義への信奉と強行的な侵略の正当化とを背景とするに至った点で、むしろ「脱亜論」とは性格を異にする。

中国・韓国では、「福澤諭吉が脱亜入欧を唱えて明治時代の日本の世論を先導して日本の文明開化を推し進めた反面、中国・韓国に対する蔑視や侵略主義、さらに第二次世界大戦へと導いた元凶にもなった」と認識されている。
2012年(平成24年)4月29日、『サーチナ』は中国の検索サイト百度の掲示板に「中国は日本のように脱亜入欧できるか?」というスレッドが立ったと報じた。スレのレスでは、「福澤諭吉が『時事新報』に有名な短文「脱亜論」を掲載して、中華思想や儒教を廃し、西洋文明を吸収して、アジアを脱しアジア諸国とは絶交することを主張した」との指摘がなされた。
2011年(平成23年)12月16日、韓国の『毎日新聞』はジョン・インヨル論説委員の「脱亜と興亜〜福澤諭吉の残した「脱亜入欧」の亡霊がまだ日本を覆っている」というコラムを掲載した。ジョンはそのコラムの中で、「福澤諭吉は今日の日本で国父のように尊敬されている。そのため日本の最高額紙幣の1万円に描かれた彼は、1885年、文章を通じて『文明国家になるためにアジアを脱してヨーロッパを指向しなければならない』として「脱亜入欧」を主張した」と記している。

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