阿南惟幾

阿南惟幾

(社会)
あなみこれちか

1887−1945.
陸軍大将、陸軍大臣(第二次大戦終戦時)。

経歴


1887年、東京牛込出身。陸士18期、陸大30期。
成績は決して良いほうではなく、陸大受験に3度失敗。
最後にと受けた受験でギリギリ合格した。
1929年から侍従武官を務めるが、この時に後の総理大臣
鈴木貫太郎が侍従長であり知遇を得る。
中将に任官し、第11軍司令官として大陸戦線で転戦。
長砂作戦などを指揮した。
第2方面軍司令官に転任後は日本軍が守勢に立たされ
海軍との連携不足もあり、ニューギニア戦線やビアク島攻防戦で大きな被害を被る。
1943年陸軍大将、1944年には航空総監となった。
1945年4月、戦争を完遂することなどを条件に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣。
その理由として、天皇に対する忠義が厚いことや鈴木首相と侍従武官時代に
知遇を得ており、人となりを知っていたためという*1
陸軍の立場から徹底抗戦を主張したが
昭和天皇が「阿南、もうよい」と諭されて主張を引っ込め
陸軍内の暴発の回避に尽力した。
1945年8月15日、割腹自決。

人物


◯第11軍司令官として大陸戦線で奮闘した際には
積極攻勢の戦法をとることで知られ、時には現場の実情を無視した命令も下した。
その一方で「徳義は力なり」をモットーとしていたため、特攻のように生存の道を閉ざす
作戦には反対し、ニューギニアやラバウルに取り残された将兵の救出作戦を構想していた。
陸軍内では「兵隊を大勢殺しても憎まれないのは乃木希典と阿南惟幾だけ」と
言われていたという*2


◯ポツダム宣言受諾決定後、鈴木首相のもとを訪れ
「ずいぶん強硬なことを申しましたが、全て国のことを
思ってのことであったことを理解してほしい」と詫び、鈴木首相に葉巻を手渡した。
鈴木首相は「阿南君は暇乞いに来たのだね」と語ったという*3


◯侍従武官として側に仕えたこともあって昭和天皇の信頼も厚く
「阿南」のことを「アナン」と呼び、食事を共にすることもあった。
ポツダム宣言受諾決定後、青年将校からクーデター案を示された阿南は
「陛下はお許しにならん」「まずは阿南を斬れ」と拒絶するなど、最期まで忠義を全うした。


◯陸軍幼年学校長などを務めたことから教育にも力を入れ
生徒を自宅に招くなどして、陸軍としては珍しくオープンな
性格であった*4
観桜会を開いた際には、陸軍大佐で退役した同期に配慮して
「桜を観る会などと言うと遠慮するだろうから、ちょっと用事があると言って
連れてきてくれ」と指示し、その同期のために隣の席を空けていたという。


◯陸海軍は犬猿の仲であり、米内光政海相とも対立する場面があったが
米内海相が議会の主戦派議員にうんざりして辞意を漏らした際に
いち早く手紙を書き、辞任しないよう説得した。
その手紙を見た米内は「阿南がこんなことを言ってきたのか、感心だな」と
語り、その他の閣僚の努力もあり、辞意を撤回したという。



一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾 (ちくま文庫)

一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾 (ちくま文庫)

*1:角田房子『一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾』

*2:角田房子『一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾』

*3:『鈴木貫太郎自伝』

*4:角田房子『一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾』

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