中国三国時代の人物(生没年不詳)。蜀(蜀漢)の2代皇帝・劉禅の寵愛を受けた宦官。
劉禅に重用されたが、侍中である董允の存命時には大きな力を持つことは無かった。董允の没後、後任の侍中である陳祗と結託することで強い影響力を持つようになり、政治や軍事にしばしば口出しして国政を混乱させたという。軍事のトップである姜維とは犬猿の仲で、また、劉禅の弟である劉永とも対立し、劉禅へ讒言して劉永を遠ざけさせてもいる。
陳祗の死後は姜維が北伐の失敗で政治的に孤立するようになったこともあり、黄皓は、諸葛瞻や董厥と結託し、姜維に代わって閻宇に軍権を握らせようとしたが失敗した。その後も、諸葛瞻・董厥・樊建といった人達をしのぐ権勢を誇り、姜維は難を逃れるため地方で屯田し、中央に戻ることはなくなっていたという。
263年、魏(曹魏)の大軍が蜀に侵攻したときも、黄皓は流言を用いて劉禅を惑わし、援軍を求める姜維の意見を黙殺した。鄧艾の軍勢が成都に迫ると、劉禅は降伏した。この時に鄧艾は黄皓を処刑しようとしたが、黄皓は賄賂を鄧艾の側近に使い、刑罰を免れた。