色々記事について思いをめぐらす前に、ジャーナリズムにおける要件、法律的事項について学習しておきたい。というわけで、メモ代わりにしばらく続けていこうと思います。


 マス・メディアが記事を書く時に大きな問題になってきたものの一つに、「取材源の秘匿」がある。これは、日本国憲法で言えば第二十一条一項表現の自由の部分と関係しているが、判例では特に認められた権利にはなっていない。例えば、昭和四十四年に最高裁決定した「博多駅テレビフィルム提出命令事件」や、平成元年に最高裁決定した「日本テレビビデオテープ押収事件」、平成二年に最高裁決定した「TBSビデオテープ差押事件」などは、公正な裁判の実現のために行なわれた取材源の提出命令は、二十一条一項に違反しない、とするもの。取材の自由は認められているが、取材源の秘匿については厳しい制約が科せられており、ともすると体制・権力側の要求には逆らえないということである。ゆくゆくは、そのことが取材の自由や報道の自由、延いては言論の自由を侵すことになるのではないか、と考える向きもある。このことについて、憲法学者の間の通説では、報道機関と情報提供者との間の信頼関係の重要性と、そこから派生するメディア側の信頼性維持を論点として挙げ、取材源の秘匿も二十一条の保証を受けることを前提に、他の利益と調整を図るべき、としている。
 このようにみてくると、確かに取材源の秘匿の権利は、ジャーナリストにとって認められるべき最低限の権利であり、侵されざるべきものであると考えることは、十分納得がいく。


 しかし、この取材源の秘匿の権利は、今の日本のメディアに正しく理解され、利用されている権利なのだろうか。
 このことについて、弁護士の小倉秀夫氏による参考となるページがある(取材源の秘匿 - 小倉秀夫の「IT法のTop Front」)。これによると、アメリカでは、取材源の秘匿は常に守るべき大前提などではなく、秘匿の約束を、報道の真実性に照らし合わせたジャーナリズムに則った形で、かなり厳しく制限しているようである。かの有名なコーエン事件で記者たちが結局コーエン氏の名前を明示して記事を書いたのは、名前を公表されたことによるコーエン氏個人の不利益よりも、公表されなかったことによる政治的損害が大きいと判断したためではなかったか。
 小倉秀夫氏は、浅野健一氏のページhttp://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2002/shokuhinnhk.htmlを参考として挙げ、日本のメディアの、取材源の秘匿に対する感覚について痛烈に批判する。ここではNHKについての問題が提示されているが、多かれ少なかれ、どのメディアにおいても、よくニュースを見てみるとこのようなことは起こっているのではなかろうか。テレビを観る側、新聞を読む側は、単なる情報の受け手になるのを免れられない。いくら「知る権利」を認めても、私企業であるマス・メディアとの間の情報力格差については憲法上保障することはできない。また、格差があることに鋭い批判の目を向けられる視聴者はまだまだ少ないだろうし、仮にそうした目を持っていても発言力の弱い視聴者は多くいる。そのことを思えば、マス・メディア側が流す情報を甘受することしかできない場合もたくさんある。昨今話題になった「あるある事件」もその一端である。この状態で、「とにかく秘匿する義務があるから」と全ての情報源を秘匿すれば、視聴者側はそれが真実なのかどうか判断する機会も失ってしまうし、マス・メディア側の情報に頼るしかなくなってしまう。このような状況で果たして、「真実を報道している」ということになるのだろうか。
 取材源の秘匿について、明示している日本のマス・メディアは少ないような印象を受ける。「情報公開」に対する考え、という形で捉えているところもある。明示しているところでも、例えば読売新聞では「最も重い倫理的責務」として侵されざるものとしていたり、朝日新聞では「報道の目的以外では使用しない」という表現を用いていたりと、メディア間で一致していないように思える。それぞれがそれぞれの論調で語ってしまっているように見えるが、取材源の秘匿に関する問題というものは報道全体の信頼性に関わるものであり、先に紹介した小倉秀夫氏のページに掲載されていたASNE(米国新聞編集者協会)の「Statement of Principles」のような統一見解が、日本のメディアにも必要であると考える。


 取材源の秘匿が脅かされているかどうかということと、取材源の秘匿が「正当に」行なわれているかどうかということは、別の問題ではなかろうか。記者は、取材源の秘匿について何を秘匿しなければならないのかをもう一度厳密に確認する必要がある。そしてその上で、もし体制・権力側からの取材源明示要求が不当であり、言論の自由を脅かすものと認められる場合には、厳しくこれを追求する姿勢を見せなければならない。
 取材源の秘匿は、葵の御紋ではない。何が守るべき権利なのか、何が暴くべき真実なのか。根幹の部分で大きく揺れ動いている。


 次は、日本国憲法第二十一条二項検閲の禁止から、言論の自由について少し考えたいと思います。そんな大きいこといきなりちゃんと議論できるようには思えないけれど、今できることは少しでもやっておきたい、という感じでやります。生温かく見守って下さい。

 ものすごくご無沙汰しておりました。実はもう一つの方のブログでは少しずつ記事の更新をしていたのですが、最近どうにもレビューなどをアップする気になれず(書いてはいるのですが)、あっという間に最終更新日から三ヶ月も経ってしまいました。この間にだいぶ生活状況も変化し、なかなか楽しいことになっています(何が楽しいのか不明ですが)。
 今少しこのブログの記事を読み返していましたが、同じようなレビューの記事でも日によって「ですます調」になったり「だである調」になったりで、結構文体も乱れていますね。何だか恥ずかしいです。しかし、ブログという特性から考えてこれは僕自身のメモでもあるので、これまでの記事に関しては一つ開き直らさせて下さい(ひどいですね)。これからの記事に関しては、今までよりも読む人のことを意識して、分かりやすく、かつ一貫性のあることを書いていきたいと思います。


 とりあえず、当ブログの路線をやや変更して、「提言」も主に取り込んでいきたいと思います。これまでも思想や哲学に関して書いてきたことはありましたが、もう少し時事的な話題、問題について沈思黙考することが、自分には必要だと感じました。もちろん、読まれる方のことを考えて、多角的に、色々なことを掲載していきたいと思います。関連するページへのリンクもたくさん貼っていきたいです。


 「提言」記事を掲載するにあたって、僕自身の立場を少し明確にしたいと思います。新聞で言えば、基本的に朝日の論調に近い立場を取っています。ただし、誤解の無いように確認しておきたいのは、僕自身の理解では、朝日は左か右かと問われればどちらかと言えば左というだけで、思想的に偏っているわけではない、ということです。報道機関としてのスタンス、平和主義という点で、僕は朝日に同調しています。従って、思想的にどちらかに偏った立場を取る、ということはありません。
 それから、僕が記事を書くに当たって意識しているのは、読む側のリテラシーの問題です。情報格差や、情報ソースに対する無意識の無批判的信頼が話題となっている昨今。この辺りを意識しながら、何をもって情報を正しいとするのか、人々を考えることへといざなう記事とは何かを問うことは、意義深いと考えています。何より、そうすることが自分自身のある種のトレーニングになっているわけですが。


 というわけで(?)、「提言」記事では、気になったニュースなどから僕なりに考え、調べたことを書いていきたいと思います。あくまで僕の意見、論考ですので、その辺りはご了承下さい。何か引っかかることがあった場合には、ぜひぜひコメントをお寄せ下さい。

ぼくを葬る [DVD]

ぼくを葬る [DVD]

<補足作品情報>

上映時間:81分
製作国:フランス
初公開年月:2006/04/22
R-15指定


監督:フランソワ・オゾン
製作:オリヴィエ・デルボスク
   マルク・ミソニエ
脚本:フランソワ・オゾン
撮影:ジャンヌ・ラポワリー
プロダクションデザイン:カーチャ・ヴィシュコフ
衣装デザイン:パスカリーヌ・シャヴァンヌ
編集:モニカ・コールマン


出演:メルヴィル・プポー(ロマン)
   ジャンヌ・モロー(ローラ)
   ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(ジャニィ)
   ダニエル・デュヴァル(父)
   マリー・リヴィエール(母)
   クリスチャン・センゲワルト(サシャ)
   ルイーズ=アン・ヒッポー(ソフィー)
   アンリ・ドゥ・ロルム(医師)
   ウォルター・パガノ(ブルーノ)
   ウゴ・スーザン・トラベルシ(ロマン(少年時代))

 写真家として成功を収めたロマンは、末期癌に冒されていた。余命3ヶ月を宣告された彼は、始め、今まで自分の周りに存在していた人、ものと縁を切り、孤独に身を置こうとする。未来ある他人の姿に苛立ち、自分でもよくわからぬまま、怒りと涙に感情を託すことしかできなかった。しかし、独り郊外に住み、静かに死を待つ祖母にだけは、自分がもうすぐ死を向かえることを告げる。これを機に、彼は自分の存在証明を、そして死に場所を求めて彷徨い始める。
 この作品は、自らもホモセクシュアルであるフランソワ・オゾンが、その切実な想いを映像化したものとして考えることができるだろう。主人公であるロマンはゲイであり、様々な環境、圧力に晒されながら写真家として成功するが、さらなる飛躍に向かおうとした矢先、死を目前に突きつけられる。形を変えて現れる種々の孤独は、監督自身が敏感に感じ取っているものなのか。
 「ふたりの5つの分かれ路」のときもそうであったけれど、映画の中に、普段監督が問題視しているであろう様々な出来事が、めまぐるしい程に挿入される。夫の不妊症に悩まされ、子供を作るために自分と寝てくれとロマンに懇願する女性。ゲイの恋人関係、養子の問題。ロマンが病気と知るとそれはエイズではないかと真っ先に疑い顔を曇らせる女性。親や兄弟との距離感。子供を設けて離婚してしまった女性の、複雑で壊れやすい心。ベースとなるのは、一人のゲイが確かに存在し、いかに死ぬか、という問題であると思うけれど、そのプロセスには、「凡人」には思いも寄らないようないくつもの枝葉が存在するのだ。あまりに重い。
 Akira the Hustlerというゲイアーティストの「Milk」という作品の中で、次のような一節がある。

 子供をつくらなくても、人は命をつないでいけると思っている。
 ぼくはそう信じている。
 ゲイであろうと、なんであろうと、
 過ぎてきた時、
 残されてきた意志や言葉や思い出や、
 言葉に出来ない海や川や木々のきらめきとか、
 笑い声や、涙や悔恨や、
 そういったものをひっくるめて、
 あとをついてくる者たちに
 バトンをつなげてくことは、できるんだ。

 でもね、
 ぼくは、いま、自分がゲイで、子供をつくらないのかもしれないなあ、
 ということに、一度きちんと絶望してみたい。

 崖っぷちっていうのとは違うかもしれないけれど、
 なんてんだろ?明るくのぺーっとした悲しい平野のような場所に出て、
 そこからもう一度、なんとかハッピーにやってける歩き方をみつけてみたい。

 オゾン監督の作品にも、この考えが通底しているように感じる。増して死にゆく人間であるロマンは、自分の人生そのものにさえ絶望しかけている。祖母と話した彼は、いかにハッピーに死ぬか、いかに絶望を転嫁して死ぬか、ということだけを考えていたのではなかろうか。作品の重点は、ここに集約する。
 しかし、映画としてこの作品を振り返ると、多分に「オナニー的」であることは否めない。映画にするにあたって必要であると思われる、問題との距離感が無さ過ぎる。自分の中では切実な問題であり、それを描き切ったと思っていても、観る者の言語で語ってやらねば思考が追いついていかない。映画として多くの者に感じさせたいのであればなおさらである。しかも、この作品はドキュメンタリーではない。下手すると、当事者であるはずのゲイにまで疎まれかねない(現におすぎはこの作品に心底がっかりしている)。オゾン監督の中では、最後の死に際に全てが昇華された様を凝縮したつもりなのかもしれないけれど、作品から受ける印象、観る者に残る印象は、圧倒的な暗さである。それでいいのかと勘ぐってしまう。
 恐らくオゾン監督は、この作品を今撮ることに意義を感じていたのだろう。分かってもらえなくてもいい、その「美しさ」、現在性を、何としてでも画にしておきたかったのだ。アルモドバル監督の「バッド・エデュケーション」や、ジョナサン・デミ監督の「フィラデルフィア」のような距離感が無いのは、そうした切迫感が反映されているからではなかろうか。確かに、映像はどこまでも美しい。監督の中では、映画として面白いかどうかとは関係のない感情が、この作品を撮る原動力となっていたのだ。そうした意思は映画以外のジャンルでも、巨匠と呼ばれる人の作品でもよく見られる。この観点からすれば、作品の「つまらなさ」とはまた別の次元で評価し直すことが必要であろう。
 映像センスはやはりいいので、そういう意味ではとても楽しめます。ジャンヌ・モローダニエル・デュヴァルの存在感も素晴らしい。

マンダレイ デラックス版 [DVD]

マンダレイ デラックス版 [DVD]

<補足作品情報>

上映時間:139分
製作国:デンマークスウェーデン/オランダ/フランス/ドイツ/アメリ
初公開年月:2006/03/11
R-18指定


監督:ラース・フォン・トリアー
製作:ヴィベク・ウィンドレフ
脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:アンソニー・ドッド・マントル
衣装デザイン:マノン・ラスムッセン
音楽:ヨアキム・ホルベック
ナレーション:ジョン・ハート

出演:ブライス・ダラス・ハワード(グレース)
   イザック・ド・バンコレ(ティモシー)
   ダニー・グローヴァー(ウィレルム)
   ウィレム・デフォー(グレースの父)
   ジェレミー・デイヴィス(ニールス)
   ローレン・バコール(女主人)
   クロエ・セヴィニー(フィロメナ)
   ジャン=マルク・バール
   ウド・キア


ノミネート履歴:
カンヌ国際映画祭(2005年)
 パルム・ドール ラース・フォン・トリアー

ヨーロッパ映画賞(2005年)
 撮影賞 アンソニー・ドッド・マントル
 音楽賞 ヨアキム・ホルベック
 プロダクションデザイン賞 Peter Grant

 ラース・フォン・トリアー監督のアメリカ三部作の二作目。『ドッグヴィル』に続く監督の「妄想」映画である。ギャングの娘であるグレースは、古い価値観の父親と折が合わないと感じており、ドッグヴィルを発った後に再び機嫌を損ねる。そんな時、合衆国憲法修正13条で廃止されたはずの奴隷制度が存続していた村、マンダレイを通りかかる。住民に泣きつかれたグレースは、「慈悲の心」からマンダレイで車を降りる事を決意する。彼女の到着直後、奴隷制度を続けてきた「ママ」と呼ばれる人物が死ぬ。これを好機と捉えたグレースは、マンダレイを理想的な自由主義を体現した村にしようと考える。「ママの法律」に縛られた住民たちを「解放」しようと画策するグレース。綿花の収穫の時期までに少しずつ彼らは変わっていったように見えたが・・・。
 相変わらず暗いテイストの映画。観た感じでは監督の色が遺憾なく発揮されているように見える。しかし、僕としてはこの作品は不満であった。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『奇跡の海』、『ドッグヴィル』に見られたような、徹底的な虚しさ、過剰なまでにデフォルメされた人間の暗さは、この作品からは感じられない。監督らしからぬ妥協を感じる。確かに、結末に向けて人々の心は救いようの無い方向へと傾いていく。しかし、それらはどこか空々しく、距離を置いて見られる程度のファンタジーに思えた。語りすぎたのかもしれない。あるいは、役者に恵まれなかったか。情熱的な冷たさのようなものはどこか影を潜めていて、多分にドラマチックであった。ラース・フォン・トリアーの作風が変わってしまったかと一瞬疑う。
 ただし、所々見せる構想はやはり独創的だ。管理する者、管理される者の相互依存的関係。半端な「慈悲の心」など役に立たないどころか毒にさえなり得る。結局利己的な希望にすがりつきたいと思っているだけではないか。一つの完成されたシステムに強権的に入り込もうとすることは、ただの植民でしかない。コンクェストである。それこそ、アメリカという国の拭いきれない毒であり、また白人たちの盲目的な正当性なのであった。正にポストコロニアリズム。そうしたことが、何のオブラートも無く語られる。結局何も変わらない。最も大切なのは、何もしないことだったのだ。
 独創的であるからといって、決して受け入れられる思想ではない。しかし、重要なのは、容易に受け入れられないということである。何故受け入れられないのか。受け入れられないところから一歩も進めなければ、結局はグレースと同じ轍を踏むことになりはしまいか。ただし、多くの人とグレースが決定的に違うのは、受け入れた上で入り込むという態度を決めたことである。これは何を意味するのか。
 もちろん、これらのトリアー式イデオロギーはあくまで妄想でしかない。当事者である黒人たちが必死になって(半ば意固地になって)守ってきたアイデンティティーは、この作品からは非常に表層的なものとしてしか感じ取ることができない。何も、黒人たちに対して誠意を見せろと言いたいわけではない。こうした考え方はラース・フォン・トリアーにしてみれば不本意以外の何ものでもないであろう。彼は、彼なりのやり方で、言ってみれば奴隷という問題に取り憑いて、ある種の映像、表情、感情を撮りたかっただけかもしれない。しかし、寄生する依り代を間違えてしまったように感じる部分も多々あることは否めない。
 カメラワーク、人物の撮り方は面白かった。追い詰められた人間を撮るのが相変わらずうまい。銃を撃って泣き喚くグレースなど圧巻であった。話のテイストに小技を入れてくる(最後の父親のエピソードなど)あたり、やっぱり少し変わっているのでしょうが。
 何となく今後もマークしておく。

現金(ゲンナマ)に体を張れ [DVD]

現金(ゲンナマ)に体を張れ [DVD]

<補足作品情報>

上映時間:85分
製作国:アメリ
初公開年月:1957/10
モノクロ


監督:スタンリー・キューブリック
製作:ジェームズ・B・ハリス
製作補:アレクサンダー・シンガー
原作:ライオネル・ホワイト『見事な結末“Clean Break”』
脚本:スタンリー・キューブリック
追加台詞:ジム・トンプソン
撮影:ルシアン・バラード
音楽:ジェラルド・フリード

出演:スターリング・ヘイドン(ジョニー・クレイ)
   マリー・ウィンザーシェリー・ペティ)
   コリーン・グレイ
   ヴィンセント・エドワーズ
   ジェイ・C・フリッペン
   テッド・デ・コルシア
   ティモシー・ケリー
   エリシャ・クック・Jr

受賞履歴:
英国アカデミー賞(1956年)
作品賞(総合)

 スタンリー・キューブリック監督がハリウッド進出を果たした作品。フィルム・ノワール。この作品のみそは、同時に起きている出来事を、時間を少しずつ引き戻しながら並行的に順列で提示する、というテクニックを映画において行なったことらしい。
 最初の人物相関が複雑で少し混乱するが、核となる人間関係はしっかり差別化されている。人間の欲望、失望、脆さが極めて現実的に描かれている。強奪までは首尾よく事が運んでいるが、誰一人として幸せになったものはいないし、ある意味、関わった者全てが抹殺されたと言える。フィルム・ノワールだけに恐らく低予算であったのであろうが、映像の特殊技術をうまく取り入れて、人物内の動揺と客観的な事態の描写が映し分けられている。何と言っても圧巻なのは、妻の、愛人との関係を知った男が、その愛人とともに強盗仲間をも射殺してしまうシーン。そして、盗んだ金が滑走路内でばらまかれてしまうシーン。何とも言えない無常観が漂う。「渋滞」という不慮の事態に見舞われてほんの少し計画の時間がずれただけで、全ての歯車が噛み合わなくなってしまった。もし時間通りに全てが動いていたなら、何事も無かったかもしれない。もし滑走路に犬が走り出さなければ、何事も無く海外に逃亡できたかもしれない。ほんの少しのトラブルが、思わぬ重要な事態を招いてしまう。それに誰も抵抗する事はできない。正にカオスである。この作品が、ただのサスペンスに終わっていないところは、そこにある。表題の「The Killing」が指し示すものは、正にこの無常観ではなかったか。
 最後のシーン、すごいセンスです。しびれました。

年始のご挨拶

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 今年からはだいぶ生活環境も変わりそうですが、できる限りたくさんの映画、舞台などを観たいと思うので、どんどんレビューを書いていきます(抱負)。思えば、前のブログからこのブログに移行した時、たくさんの情報を入れて発信していく、ということをモットーとしていたのでした。しかし、どうにもわかりにくいことばかり言っていて、中身が乏しい。映画の記事とか読み直してみましたが、言っていることが適当すぎて恥ずかしくなりました。多少時間がかかっても、何回かに分けて書いて、推敲してから載せるくらいの気持ちが無いといけないな、と思いました。自分の思想とか哲学のようなものはその時のライブ感覚でもいいかもしれませんが、他人に伝えるためのレビューとなるとそうも言っていられないです。というわけで、がんばります(抱負)。
 あとはエッセイですね。これがまた全然進んでなくて笑えません。基本的に言い訳が多い人間なので、今年は言い訳せずに、めんどくさがらずに(あるいは本当にめんどくさいときはそれに正直に)、書けることを書いていきたいと思います(抱負)。もっと散歩の話とかもするといいのでしょうね。


 さようなら、ものぐさな自分!(希望)

どうでもいいこと

 本当にどうでもいいことで恐縮ですが、「ひも」と「ジゴロ」はだいぶ意味が違うということを今日初めて知りました。普段色々なところで使われているような、「女性の稼ぐお金で生活する主夫」というのは、どうやら「ジゴロ」のことらしい。「ひも」というのはもっと能動的(?)で、主に情夫のことを言うそうだ。「売春婦のひも」、というかなり限定的な使い方。
 でも、「ひも」を「女性の稼ぐお金で生活する主夫」と考えている人は思いのほか多いと思われるので、もはや、そっちの方が正しい理解になっている可能性もあります。言葉とはそういうものです。
 と、無理やりまとめる。


 あんまり関係ないけど、ユニコーンの「ジゴロ」が結構好きです。