物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2010-05-12

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著 メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)

まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」

■メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!


さて、『まおゆう』のメイド姉の詳細に移ってきましょう。



あっ、ネタバレ引用ありまくりなんで、読んでない人は読まないように!!!。



物語は、農奴で悲惨な暮らしをしている二人の少女が、魔王と勇者の住もうとしている屋敷に逃げだしてくるところから始まります。農奴の奴隷状態から逃げ出してきた二人のかわいそうな少女に、魔王の親友であるメイド長は「こんな虫けら、早く村に突き出しましょう!」と。これは、目的から逆算すれば正しい態度です。それは、2点から。一つは、魔王と勇者は、こうした悲惨なことがなくなるように「マクロ」のために立ち上がったわけであって、個々のミクロに関わっていては大局を見失う可能性が高く、また最後まで彼女たちを救うことができないのならば、むやみに手助けすべきではないのです。最後まで面倒を見れないのに捨て猫を拾うなと同じことです。この辺りは非常にミクロ的には酷いいいようなので、難しいポイントですが、ここでミクロの出来事に関わっていては、結局世界が滅ぶ仕組みに加担してしまうことになるというのが、世界の難しさ。人の世界は、こういった極端な二択の積み重ねで出来上がっているものです。またいきなり「虫けら!」と吐き捨てるのは、強い倫理的な怒りがメイド長の中にはあります。メイド長の内面を考えれば、彼女が、この世界のこうした弱者を切り捨てる構造そのものに大きな怒りを抱いているのは、十分すぎるほどわかるはずです。しかし、かといって、世界の仕組みそのものを変えることは、個人の手ではできません。ここは中世の農奴社会なのだもの。ならば、そこは、どんな悲惨な所与の条件があったとしてさえ、個々人がそこから抜け出す戦いをするしかないのです。彼女は、そういった世界のすべてに対する怒りがあり、あのような強い態度に出るのでしょう。・・・悲しいかな、人間の世界は、そんなに優しくありません。ましてや中世の農奴社会には、そもそも人権や現代国家のような基盤は一切ありません。その中では、どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。なぜならば、自分自身で、そこから抜け出る意識を持たない限り、世界がそれを助ける構造が存在していないからです。僕は、このシーンを見ていて、虫けらと過酷な物言いをするメイド長にとても優しさを覚えました。それは、少し考えればわかるはずです。このまま何もせずに彼女を逃がしてあげたとしたら、メイド姉の生きる道は、常識で考えて二つしかありません。一つは、餓死。もう一つは、売春婦に落ちることです。けど、ここでメイド長が徹底的に強く出れば、二つの可能性があります。一つは、そばに当主(まおう)がいたことで、彼女が助け舟を出すのはほぼ確実でしょう。魔王は、マクロの目的のためにミクロを切り捨てるといった単純な思考が取れない人です。そして、メイド姉妹が生き残るすべは、一つしかありません。自分の意思で、職業を見出すこと。そして、メイド長の裁量では、自分の部下しかありません。だから、メイド姉は、自分の意思で、それを「意思しなければなりません」。意思しないところに助けを出すことができるほど、この世界にリソースはないのです。また外部から助けることは、その奴隷の「人間としての動機と尊厳」を傷つけるだけであって、言い換えれば「ただ助けてくれ!」などというもの「実際具体的に戦う方法を見いだせないもの」は、虫けら=奴隷なのであって、「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!というのは、それが、寄生虫だからです。その構造を作ったのがマクロのしくみだろう?といったところで、依存関係にはまり切ってしまっては、支配されるだけなんです。福沢諭吉が行った自尊独立というのは、そういう意味です。自らを助けるために這いつくばってかがまないものに、世界はチャンスを与えません。開発経済学の分野でも、単なる援助が全体手マクロ的には、基本的に効果がないものであることは、もうはっきり分かっていることです。ようは「外部から助ける、助けを望む」という行為そのものが、自助努力を動機づける「人間としての尊厳」を壊してしまうのです、とはっきりここでは示しているんです。そうなってしまっては、どんなに援助を外部から与えたところで、共依存の腐った関係が成り立ち腐敗していくだけです。援助というのは非常に難しい問題で、援助そのものが、支配と被支配の構造を固定化してしまうということは、マクロ的にはよく知られ始めている事実です。とはいえ、マクロ的には、そう単純じゃないとは思うんだけど、個人の内面でいえば、これは間違いなく正しい。「人間であろうとしないものは、人間足りえない」んです。この辺は非常に極端な物言いではありますが、物語としては、非常にメイド長のこの世界の悲惨s内対する強い怒りを感じさせるいいシーンです。以下の、この苛烈なメイド長のくだりを引用してみます。

妹「ちがうよっ、めがねのおねえちゃんはいじわるなのっ。

わたしたちはちゃんとにげてきたもんっ。

 なにもできないわけじゃないもんっ。

 みやこにいって、ふたりで、くらすんだもんっ」


勇者「……それは」


メイド長「何を夢物語を」


妹「でも、やるんだもんっ」


メイド長「百歩譲ってその熱意を努力と呼んでも

 良いでしょう。しかし、それをなすに当たって

 他者の家に忍び込み、あまつさえその厚意にすがり。

 そればかりか寝床と食事を与えてくれた

 その他者の立場を逃亡によってさらに悪くする。

 そのような方法を是とする。

 それがあなたたち農奴のやりようですか?」


妹「だって、だってぇ!」


メイド長

「もう一度云います。

 自分の運命をつかめない存在は虫です。

 私は虫が嫌いです。大嫌いです。

 虫で居続けることに甘んじる人を人間だとは思いません」



姉「……」


メイド長「判りましたか?」




姉「はい……」



メイド長「謝罪を」


姉「このやかたのみなさま……きぞくさまには

 ご、ごめいわくを、かけました。ごめんなさい」



メイド長「よろしい」


姉「……」


妹「ひっく……う。うううぅ」



メイド長「……」 じぃっ


姉「……」



メイド長「……それだけですか?」



妹「やぁ……。もどるの、やだよぅ……こわいよぉ」



姉「……いもうと、しずかにして」


メイド長「……」


姉「わたしたちを、ニンゲンにしてください。

 わたしは、あなたがうんめい、だと――おもいます」



メイド長「頭を下げる時は

 そのように這いつくばってはいけません。

 せっかくスカートをはいているのですから

 指先で軽くつまみ、ドレープを美しく見せながら

 優雅に一礼するのです」



姉 ぺ、ぺこり




このくだりは、メイド姉とメイド妹の初登場シーンですが、ここでは凄まじいやりとりが展開されています。最初、メイド姉、とかメイド妹とか、ただの萌え要員で、まったく価値のあるかやらクターだとは僕は思いもしませんでした。しかし、最終13スレッド目まで読んだとき、この最初の問答の中に、すべてが設計され隠されていることを、知って愕然としました。インターネットラジオでも説明したのですが、まず、このメイド姉というのは、素晴らしく頭がいい子なんですね!。上記の強調した部分を見てもらえればいいのですが、



メイド長「百歩譲ってその熱意を努力と呼んでも

 良いでしょう。しかし、それをなすに当たって

 他者の家に忍び込み、あまつさえその厚意にすがり。

 そればかりか寝床と食事を与えてくれた

 その他者の立場を逃亡によってさらに悪くする。

 そのような方法を是とする。

 それがあなたたち農奴のやりようですか?」




妹「だって、だってぇ!」


メイド長

「もう一度云います。

 自分の運命をつかめない存在は虫です。

 私は虫が嫌いです。大嫌いです。

 虫で居続けることに甘んじる人を人間だとは思いません」



姉「……」


メイド長「判りましたか?」




姉「はい……」



メイド長「謝罪を」


姉「このやかたのみなさま……きぞくさまには

 ご、ごめいわくを、かけました。ごめんなさい」



このくだりは、それまで何の教育も受けていない農奴の少女が「人間とは何を指すのか?」ということ、それは「他者に迷惑をかけないで、自己の意思と能力によって社会で立っているもの」を指すとメイド長が主張していることを、この一瞬のやり取りで理解しているということです。実際、妹と比較すると、妹はそのことは理解していません。つーか理解できるはずないんです。でも、このメイド姉は、この「人間の尊厳」の問題が、このやりとりで一発で理解できているのです。でなければ、謝るということはしません。後でこの部分をして、近代啓蒙主義的な部分を飛び越えているという解説がありましたが、この辺りはヨーロッパのプロテスタンティズムの成立による個人の内面の成立や、公権力や宗教的権威からの個人の独立の歴史の経緯を追っている歴史を感じさせますねぇ。まぁもちろん、こうしたヨーロッパ的な主体を持った近代的自我というのは、これはこれで後に大きな問題を生み出すのですが(物語は、それを全部射程に収める必要がないし、なによりもその時の時代の制約の中でキャラクターがどう生きるかが物語なので)、こと、選択の自由が存在しない農奴が中心の中世社会において、自由ということを意識した近代の歴史のワンエピソードとしてはとてもドラマチックな部分で、それをこうも見事に物語に組み込まれているところに、感心します。


姉「わたしたちを、ニンゲンにしてください。わたしは、あなたがうんめい、だと――おもいます」


そういった認識がなければ、こういう発言はないでしょう。これが、すべての出発点にして答えです。「人間であるというのはどういうことを指すのか?」ということを、メイド姉が心に刻みつけたシーンで、彼女はこのことを悩み続け、ある回答に至るのです。このへんは、WEB小説でその場のノリに近い形で物凄い短期間に書かれたものとは思えないほどの、設計です。だって、メイド姉って、のちで僕が説明する脱英雄譚の構造を最初期のエピソードから、はっきりと設計されているのが見て取れます。この設問自体が正しいので、答えは簡単です。「人間は、人間でなければならない」につきます。この意味するところは深いです。<「人間は人間たろうとしなければ、人間にならない」という意味でもあるからです。ちなみに、会話文の中に、全く漢字がないのは、アルジャーノンに花束をを思い出させますが、この姉妹が、まったく教育を受けていないことを暗喩しています。

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

これはつまり、彼女は、最初のスタート地点から「人間にならなければならない!」という動機を持つキャラクターとして描かれているということです。ある時、中央の教会によって異端審問をかけられる魔王のかりそめの姿「紅の学士」の身代わりを引き受けて、異端審問をされる時に、民衆の前に引き出された身代わりのメイド姉は以下のような宣言をしゃべることになります。これも、実は、最初にメイド長が投げかけたことそのままのパラフレーズです。言っていることは同じです。ここには、他者に運命を委ねることが、どんなにやさしい恵みのように見えても、拒否する!という峻厳な自立意識があります。個人の尊厳を認める時、その尊厳とは、他人に依存することではなく自分の自由意思でこの世界に立つ自主独立の意識だ、と言っているんです。

メイド姉「運命は暖かく、わたしに優しくしてくれました。

 あんなにも優しい言葉を聞いたのは初めてです。

 ――安心しろ、と。何とかしてやる、と」


103 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします [sage]:2009/09/10(木) 17:42:06.78 ID:I7KnzzEP


メイド姉「しかし、みなさん。


 貴族の皆さんっ。兵士の皆さんっ。

 開拓民のみなさんっ。そして農奴の皆さんっ。

 わたしはそれを拒否しなければなりません。

 あんなに恩のある、優しくしてくれた手なのに。


 優しくしてくれたのに。

 優しくしてくれたからこそ。


 拒まねばなりませんっ」

 

ざわざわざわ、ざわざわざわ


メイド姉「わたしは、“人間”だからですっ。


 わたしにはまだ自信がありません。この身体の中には

 卑しい農奴の血が流れているじゃないかと、

 そうあざ笑うわたしも確かに胸の内にいます。



  しかしだからこそ、だとしてもわたしは“人間”だと

 云いきらねばなりません。なぜなら自らをそう呼ぶことが

 “人間”である最初の条件だとわたしは思うからです」



メイド姉「夏の日差しに頬を照らされるとき

 目をつぶってもその恵みが判るように、

 胸の内側に暖かさを感じたことがありませんか?

 たわいのない優しさに幸せを感じることはありませんか?

 それは皆さんが、光の精霊の愛し子で、人間である証明です」



104 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします [sage]:2009/09/10(木) 17:44:51.05 ID:I7KnzzEP

使者「い、異端めっ!」 ビシィッ!


メイド姉「異端かどうかなど、問題にもしていませんっ。

 わたしは人間として、冬越し村の恵みを受けたものとして

 仲間に話しかけているのですっ!!」 きっ



メイド姉「みなさんっ。

 望むこと、願うこと、考えること、働き続けることを

 止めては、いけませんっ。

 精霊様は……精霊様はその奇跡を持って人間に生命を

 あたえてくださり、その大地の恵みを持って財産を与えて

 くださり、その魂のかけらを持ってわたし達に自由を

 与えてくださいました」

  

自由――?



メイド姉「そうです。それはより善き行いをする自由。

 より善き者になろうとする自由です。

 精霊様は、まったき善として人間を作らずに、

 毎日、ちょっとずつがんばるという

 自由を与えてくださった。それが――喜びだから」



メイド姉「だから、楽だからと手放さないでくださいっ。

 精霊様のくださった贈り物は、

 たとえ王でも!

 たとえ教会であっても!

 犯すことのない神聖な一人一人の宝物なのですっ!」



108 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします [sage]:2009/09/10(木) 17:47:57.60 ID:I7KnzzEP

使者「異端めっ! その口を閉じろっ」 ビシィッ!


メイド姉「閉じませんっ。

 わたしは“人間”ですっ。

 もうわたしはその宝物を捨てたりしないっ。

 もう虫には戻りませんっ。たとえその宝を持つのが辛く、

 苦しくても、あの冥い微睡みには戻りはしないっ。

 光があるからっ。

 優しくして貰ったからっ!」


使者「この異端の売女めに石を投げろ! 何をしているのだ。

 民草たちよ、この者のに石を投げ、その口を閉じさせよっ!

 石を投げない者は全て背教者だっ!!」

 

ざわざわざわ、ざわざわざわ


メイド姉「投げようと思うなら投げなさいっ。

 この狭く冷たい世界の中で、家族を守り、自分を守るために

 石を投げることが必要なこともあるでしょう。

 わたしはそれを責めたりしないっ。

 むしろ同じ人間として誇りに思うっ。


 あなたが石を投げて救われる人がいるなら、

 救われた方が良いのですっ。

 その判断の自由もまた人間のもの。

 その人の心が流す血と同じだけの血をわたしは流しますっ」きっ


冬寂王「……っ」ぎりっ



111 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします [sage]:2009/09/10(木) 17:50:17.69 ID:I7KnzzEP

メイド姉「しかし、他人に言われたからっ

 命令されたからと云う理由で石を投げるというのならばっ!

 その人は虫ですっ。

 己の意志を持たない、精霊様に与えられた大切な贈り物を

 他人に譲り渡して、考えることを止めた虫ですっ。


 それがどんなに安逸な道であっても、

 宝物を譲り渡した者は虫になるのですっ。


  わたしは虫を軽蔑しますっ。

 わたしは虫にはならないっ。

 わたしは“人間”だからっ」

2スレッド目

http://maouyusya2828.web.fc2.com/matome04.html


ここは、痛烈なまでの、自立を尊ぶ宣言であることが、わかります。リベラリズムの流れですね。これは、「個」の独立宣言になると思うんです。他者に依存しないで生きるものこそ人間だ、との主張。教会と暗黒の中世に支配されたヨーロッパで、カソリック教会による「モノを考えず教会に従え」という刷り込みの否定を促したプロテスタンティズム、そして、人間の尊厳と美しさを歌い上げたルネサンスの主張がここには、溢れています。人間の「内面の発見」です。うーん、近代啓蒙主義の流れですねー。これが、自由意思の問題を扱っていることが分かるでしょうが?。現代神学の最先端の議論もここから始まります。ここでは「善き行いをする自由」と表現されていることが分かるでしょうか?。これは、人間は、善でも悪でもどちらでも選べる「自由意志」を与えられている存在であるが故に、尊いと言っているんです。決して、「善なるもの」だから尊いと言っているのではないところが重要です。人間の内面には、「モノを考える自由」というものが存在する。これが、神さまから与えられた人間を人間たらしめる部分なのだ、ということです。・・・・プロテスタンティズムの説明をしているみたいですねぇ(笑)。ここが「良心の自由」いわゆる内面の自由・・・・・憲法で主張される「自由権」の問題と絡みます。この自由を過去確保することこそが、近代の血みどろの闘争で要求されてきた、重要なポイントです。このあたりは、ヨーロッパ社会が、封建領主という世俗権力と共感権力という信仰に関わる思想への権力という二元的な対立によって構成された世界で、その分裂が、個々の自由をどういうふうに確保するかという闘争の歴史となり、それがい引いては、行動と内面の自由という自由権の問題に発展していったというのは、ヨーロッパの歴史を勉強するモノの基礎中の基礎ですね。もちろん、つまりは近代社会の基礎中の基礎です。


その彼女は、物語の途中で、勇者と魔王の館を出て旅に出るようになります。


メイド姉「だから、思ったんです。

 勇者も、一人でなくても良いんじゃないかって。

 ……すみません。なんだか、何を云えばいいかよく判らなくて」


勇者「勇者の力が欲しかったの?」



メイド姉「いいえ。……むしろ勇者の苦しみを」


勇者「?」

メイド姉「わたしにも背負える荷物があるのではないかと。

 わたしが流せる血があるのではないかと、そう思いました。

 わたし達は、自らの負債を勇者様や当主様に

 押しつけているのではないかって。

 目には見えないから、実感できないから

 罪の意識もなく罪を重ねているのではないかと」


勇者「……」



812 :以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします [saga]:2009/10/13(火) 19:26:41.78 ID:quxpU4cP

タカタ、タカタ、タカタ、タカタ


メイド姉「当主様も勇者様も優しいから。

 もしかしたら、払いすぎてはしまわないかと。

 それが心配です。

 あの冬の夜、凍り付くような納屋の中で

 別に特別なことでもなんでもないかのように

 わたし達姉妹を救ってくれたように。


  特別なことでもなんでもないことのように、

 世界を救ってしまうかも知れないのが心配です。


  そんなお二人だから、

 それがあんまりにも当たり前のことのように感じてしまって。

 どんなに大事に思っているか、どんなに感謝しているかを

 伝えることも忘れて、当たり前になってしまうのが心配です。


  当主様も勇者様も、血を流すことに馴れすぎているから」



勇者「そんなことは、ないよ」



メイド姉「それを確認したいんです。勇者になって。

 勇者でいると云うことが、どれだけの痛苦を要求されるか。

 どれだけの恐怖を強いられるか」


勇者「……」


メイド姉「膝がガクガクしますよね。

 喉は干上がって、身体は木で出来たかのように

 思い通りに動かないし、

 頭は熱に浮かされたようにぼやけている割に、視界は鮮やかで。

 みんなの不安そうな顔も苦しそうな呟きも

 いやになるほどはっきり聞き取れて。

 手綱を握る手のひらは、汗で滑って。


  滑稽で臆病ですよね、わたし。

 全然向いてないって、よく判ります」



勇者「相当に場慣れして見えたよ」



メイド姉「それはもう。自分のお葬式に参加してる気分で

 生きていますからね。ふふっ」




さて、メイド姉が、「人間にならなければならない!」という、命題を最初の登場のシーンに、ドラマツゥルギーとしてセットされていたことを説明しました。そして、彼女は人間であろうと、悩み続けます。そして、旅へ出て、彼女は、虫けらではなく「人間であるために」何をしなければならないか?との答えに、


「勇者の苦しみ」が欲しい

と、答えます。これが、(3)で語った「全体と個」におけるこの自己犠牲を超克することだということが分かるでしょうか?。彼女は、ただ単に「他人に迷惑をかけなくて、自分で独立して生きられる」という「だけ」には留まることなく、この世界の構造から、「責任」を一人(正確には二人で)で背負う魔王と勇者が生贄になることによって成立するこの世界の、、、世界が成立するための「責任」を背負うという苦しみを、自分が負担してこそ、「人間である!」と喝破するのです。これが、「内面の発見」による自己確立というファーストステップを経て、セカンドステップとして自分の周りの「世界」を成立させている「構造」を、支えるものこそが、人間である!という二番目のレベルまで、彼女が到達しているのです。人間であることは、マクロの重圧や理不尽な仕打ちに打ち勝って自分で自分を「独立」させていく、ということが必要です。・・・・なんか書いていて、福沢諭吉の思想そのままだな、と連想します。ちなみに、この近代の主体の独立を強く主張してそれが国家の独立につながるという福沢の思想と、当時のではルソーの近代社会に対する懐疑を扱った吉野作造なんかの対立が思い出されるなー。・・・けれども、他人に迷惑をかけなくて、ただ独立して生きているだけでは、それもまだ人間ではないと彼女は言うのです。そう、個人を超えた「公」の部分に自分をコミットして、「誰か選ばれた才能があるモノ」を当てにするような虫けらではなく、自分のできる限界で「全体」のために戦うこと・・・・そして、ここが素晴らしいのですが、彼女は「世界を守る」とか「世界を支える」といった、全体が尊いから、全体のために自己犠牲になるとは言っていません。それは全体主義です。彼女は、「世界のマクロを支えるために不可能なことに全身全霊をかけて戦う勇者と魔王」の「苦しみをシェア」することが、人間なんだ!といっているんです。微妙にな論理の問題があるのが分かるでしょうか?。ここでは「公(おおやけ)」にコミットするのが尊い!といったような、「公」が「個」に勝る価値があるから、「公」にコミットしろといっていないんです。みんながみんなでいられるための「公」・・・・それを支える仲間である同胞を一人ぼっちにしはしないんだ!といっているんです。これ微妙な違いですが、物凄い違うことなのが分かりますよね?。公のために戦うのならば、才能や力のあるものだけのエリート主義で終わりですが、それはしょせん、いままで語られてきた英雄譚です。私のブログでの主張は、この一握りの世界の中心たる英雄にすべてを押し付ける物語構造に限界が来ていて、それに対する懐疑が、このような物語形式を生みつつあるのではないか、と思っていますが、そこで、単純に世界のために戦うのが偉いのではなく、苦しみをシェアする意識が偉いという点は、とっても、なんというか人間的で僕はいいポイントだと思うのです。そうでなければ、すぐに全体のために戦うことが正しいというお決まりの「公」重視の右翼的言説というか全体主義的言説になってしまいます。それは、なんか、違うよなー。


ここに至って、彼女は、(3)で語った英雄譚に関する構造的倫理欠陥に対して、はっきりと、宣言するのです。「誰かがみんなのために犠牲になるのは間違っている!」と。そこに才能の有無とかそういう物は関係ない。そこで逃げたら、そいつは虫だ!と彼女はいっているのです。


これが、僕がずっとブログで説明してきた、並行世界の物語の類型における90−00年代の「ナルシシズム(=内面)からの脱出」の問題を、見事にクリアしているのがわかるでしょうか?。ここまでの話では、この世界の並行世界問題にまだ触れていないのですが、にもかかわらず、はっきりと、この「ナルシシズムからの脱出」が、全て語られて、それが決断によって行動にコミットすることによってしか脱出できないことがはっきり示されています。しかも、脱出の理由が、はっきりと「そこに自分と同じくらい大切な「他者」が存在するのならば、その人の苦しみをシェアするのが、世界に対する貢献だ!」と見事に喝破しています。この構造がしめされている時点で、この世界が光の精霊によるループする並行世界だ、ということが示されても、特に分岐を経験させることも、碇シンジくんのように逃げられなくなるんまで追い詰められる演出がなくとも、その解決方法が簡単に示されます。ここでは、「幻想の領域に逃避する」という90−00年代の病がまったく存在しません。並行世界のモチーフ、脱出のテーマ、虫けら(=ナルシシズムの病)という全てのテーマを扱い踏破しているにもかかわらず、ここに出てくる主人公たちは、キャラクターたちは、だれ一人、幻想におぼれる者はおらず、現実に、自分の「役割」を通してコミットして、コミットすることによって「役割」を超えるという自由意志による自由を手に入れています。


そして、彼女が、ただのメイドであった、、、、いや農奴であった少女は、「世界を背負う苦しみを引き受ける」という覚悟を持った時、「勇者」と名乗り、呼ばれるようになります。


そう、、、、だれもが、「世界を支える苦しみを引き受ける」という覚悟を持った時に、物語の主人公になるんだ!と、言っているんです。これは、抽象的いえば、「個」を自立させ(=内面の自由とナルシシズムのからの脱出)、その「個」を持つ「他者」の存在を認めて、共同で世界を成立させる苦しみを引き受ける時、それは、真の意味で「現実を現実として受け入れて体感している時なのだ!」といっているのです。ここで、俗にいえば、真のリア充、本当の意味での実存の充実は、こういう現実認識があって初めて、訪れるものだといっているんです。これは、見事なまでの、、、、90−00年代の問題点をすべて答えるというステップを踏んだ上での、見事なビルドゥングスロマン(=旅を通しての自己成長物語)の一つになっていると思うのです。

メイド姉「争いを始めるのに精霊を理由に用い、

 今また争いを継続するために世界を言い訳にするのですか?

 ――たしかに。

 確かに“彼女”は間違ったかも知れない」


東の砦将「は?」


メイド姉「確かに“彼女”は間違ったかも知れない。

 わたし達がこんなにも愚かなのは、

 彼女がわたし達に炎の熱さを教えなかったから。

 わたし達はゆりかごの中でそれを学ばずに

 育ってしまったのかも知れない。

 それは彼女の罪なのかも知れない。

 しかしいつまで彼女と彼女の罪に甘えるつもりですか、我々はっ」


聖王国将官「何を……。何を言っているのだ?」


メイド姉「“彼女”に……。

 光の精霊にいつまで甘えているのかと問うているんですっ。

 争いを始めるのに“彼女”の名前をいつまで使うのですか?

 人を殺すのに彼女の名前を用いて正当化するなどと云う

 卑劣な責任回避をいつまで続けるおつもりですかっ。

 “この世界は、両者を住まわせるに十分な広さがない”?

 世界の許可が必要なのですかっ!?

 わたし達が……。

 今! ここにいるわたし達が、今この瞬間に責を取らずして

 どこの誰にその責任を押しつけようというのですかっ。 

 確かに民は愚かかもしれません。

 しかし、彼らは望むと望まざるとに関わらず、

 その責任を取るのです。

 飢え、寒さ、貧困、戦。

 ――つまるところ、望まぬ死という形で。

 王弟閣下。あなたは英雄ではないのですか。

 私はそう思っています。あなたもあの細い道を歩く一人だと」


王弟元帥「何を望むのだっ。勇者よ。

 世界を守るというのならば――。

 世界を変えるというのならば、我にその方の力を見せるが良いっ」


メイド姉「望むのは平和。ほんの少しの譲歩。

 そしてわずかな共感と、刹那のふれ合い。

 それだけしか望みません。

 それだけで、わたし達は立派にやっていける。

 その後のことは“みんな”が上手く形にしてくれる。

 私はそれを信じています。

 だって信じて貰えなければ、私は人間でさえなかったんですから。

 あの日、あの夜。あの馬小屋の中で

 虫けらのままで死んでいたんですから」



泣けますね。


その後のことは“みんな”が上手く形にしてくれる。

 私はそれを信じています。



自分が信じて、「それ」に殉じる覚悟さえあれば、「他者」を「続いていくこの世界」を信じることができる!といっているんです。これが、メイド姉の目指したもの。「全体」と「個」の調和であり古典SFの大命題の一つの答えです。ここでは、まおゆうの構造的が2つあることがわかるでしょう。魔王と勇者が、「丘を越えたその先」を見ようとした、というのは、これまでの善悪二元論のその先を見ようとした物語です。けれども、それは、選ばれた英雄の自己犠牲によって成り立つという「英雄譚」の構造を持っていました。その物語の構造そのものを、メタフィクションレベルで、解体してしまうのが第二の柱です。メイド姉が、、、、虫けらだった彼女が、「真の人間となる」という物語を通して、魔王と勇者の英雄譚を解体してしまうのです。これが、脱英雄譚ですね。そして、メイド姉が、魔王と勇者の英雄譚を「解体する」という作業が、、、、、、魔王と勇者という「役割」に縛られていた、彼女彼らに真の自由をもたらすのです。ラストシーンの魔王と勇者と女騎士の新しい門出のシーンは、メイド姉が用意したものなんです。これまでは、いかに自由意思とはいえ、選ばれた英雄は、その役割と使命を全うするという「行為」の次元でしか自由を得ることができませんでした。けれども、彼らが救うはずだった「虫けら」たる「名もなき人々」が、その覚悟を持つことによって、外側から彼らに自由をもたらすのです。「選ばれたもの」はその才能を天から与えられたギフトゆえに、世界に返します。けれど、勇者と魔王、、、、「選ばれたもの」から与えられギフトは、、、、、それをもらった「名もなき人々」は、対等な「仲間」として、彼らの自由を返すのです。ここで初めて、互酬が総合に繋がる円環を見せることになります。そして、それは、とてもフェア(=公正)なことだと思います。ものごっつい構造的に論理がしっかりしているのに、驚くほかありません。シナリオゲームの多選択肢も、内面に閉じ込められるというような「メタ」な形式を一切使わずに、この問題をすべて「物語」の次元で描き切ったこの才能に、乾杯です!。



さて、やっと(5)で、ここまで語ったことで、ランドリオールの話に行けます(笑)。


つっつかれた・・・・・・終電近くでかえってきて、仕事でへとへとなのに、何書いているんだ、、、俺(苦笑)。


寝ます。


誤字脱字、変な日本語は許して、、、、。