(増補版)515E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月〜1890年7月)

題:(増補版)515E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年7月〜1890年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年7月27日、偉大な画家フィンセント・ファン・ゴッホ
 が、悲しいかな、この日に、猟銃で自殺をした。
  歴史に大きな足跡を残した画家、ファン・ゴッホ・・
  その人生は・・幸せだったのだろうか・・?
  この日・・可哀想に、1890年7月27日、猟銃により自ら
 を撃ち、そして、2日後の7月29日に亡くなった。
  キリスト教の牧師の家庭に生まれたファン・ゴッホ・・、
  生誕は、1853年3月30日・・それ故、37歳4ヶ月の短い
 人生だった。
  弟のテオドルス・ファン・ゴッホは、この兄を一生懸
 命に支えた。
  (この弟は、1857年5月1日生まれ、4年1ヶ月の年齢差
 の弟だった。
  そして、驚くべきことに、この弟のテオも、この兄を
 追うように、5か月後に亡くなっている。
  33歳8か月の命だった・・
  この兄弟の命は、共に、あまりにも短かった)
  兄を失ったこの時は、33歳3ヶ月だった。
  ファン・ゴッホ・・その人生は・・幸せだったのだろ
 うか・・?
  彼の人生を辿ってみると・・、
  1860年(7歳)ズンデント村の学校に入る。
  自然をよく観察し、そして、よく絵を描く、その才能
 を感じさせる子供だった。
  1864年(11歳)寄宿学校に入り、親元を離れる。
  1866年9月(13歳)国立高等市民学校に進学する。
  パリで成功した画家が、ここで教えていた、この画家
 に、絵を習ったという。
  1868年(15歳)1年を残して学校をやめ、家に帰る。
  理由は不明。
  後に(30歳の時に)、弟のテオに書いた手紙には、「
 僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いてい
 る。
  1869年7月(16歳)叔父の助力で、画商に勤め始めたが、
 約4年後の1873年(20歳)に解雇されている。
  この時のことについて・・「2年間は割と面白くなかっ
 たが、最後の年はとても楽しかった」と書いている。
  1872年夏(19歳)まだ学生だったテオが、ハーグに居
 るファン・ゴッホの所を訪ね、数日、滞在した。
  職場でも、両親との間でも、孤立感を深めていたファ
 ン・ゴッホは、この時、弟との親しみは深まった。
  ファン・ゴッホにとって思い出の深い日々であった。
  後に、鮮やかな思い出として回想している・・、
  レイスウェイクまでの散歩、にわか雨に会って風車小
 屋でミルクを飲んだこと・・などなど、
  ファン・ゴッホは、テオに手紙を書き・・書簡のやり
 取りが始まった。
  この10代後半の時代に、美術館で、レンブラントやフ
 ェルメールらのオランダ黄金時代の大家の絵画に触れた。
  仕事でも、新興のハーグ派の絵にも触れ、美術への興
 味を深めた。
  1873年5月(20歳)ロンドン支店へ転勤となる。
  栄転の様に見えるが、実際は、叔父と会社の上司の関
 係悪化だった。
  1873年8月末、ロワイエ家の下宿に移る。
  この下宿先の娘に恋をし、思いを告白した。
  しかし、婚約していると断られる。
  1874年冬(21歳)キリスト教への関心を急速に深める。
  1875年5月(22歳)パリ本店へ転勤。
  この同じ本店の仲間とキリスト教の本を読みふける。
  その8ヶ月後・・
  1876年1月(23歳)勤め先から、「4月1日をもって解雇
 する」との通告を受ける。
  両親へ衝撃と失望を与える。
  1876年4月(23歳)イギリスの小さな私立の寄宿学校で
 無給で教師を始める。
  教えた科目は、算術、書き取り、フランス語初歩。
  1876年6月(23歳)伝道師となって聖書を教える。
  しかし、父から、聖職者になるのは無理だと説得され
 る。
  1877年1月〜5月(24歳)書店で働く・・
  この頃も、肉は口にしないとか、聖書の翻訳をしたり、
 日曜日には、カトリック教会や、ルター派教会や、ヤン
 セン派教会に行ったりした(キリスト教ならどこでもよ
 いという状況だった)
  1877年3月、聖職者になりたいという気持ちが強く、叔
 父や、母の肉親(母の妹の夫)の牧師に相談する。
  1877年5月(24歳)叔父の家に下宿して、神学教育を目
 指して勉強に励むことになった。
  しかし、その勉学に挫折する。
  精神的に追い詰められる。
  自暴自棄になる。
  パンしか口にしないなどの行動をする。
  家に入らないで、夜も外で過ごすとか・・と。
  1878年2月(25歳)父から、勉強の進み具合のチェック
 を受ける。
  そして、勉強が進んでいないことを厳しく指摘される。
  学費は自分で稼ぐように・・と、言い渡される。
  聖職者になるための勉強から遠ざかるようになる・・
  が・・しかし・・伝道師になりたいという思いを固め
 た。
  1878年7月(25歳)アムステルダムの叔父の家を出る(
 10月の試験は、すっぽかし)
  1878年8月、ベルギーのブリュッセルの伝道師養成学校
 に試行としての3ヶ月の期間を過ごす。
  1878年12月(25歳)ベルギーの炭坑地帯で伝道活動を
 始める。
  1879年1月(26歳)熱意が認められて、半年の間は伝道
 師として仮の免許ををもらい、また、月額50フランの俸
 給ももらった。
  しかし、キリスト教会の伝道委員会が、ファン・ゴッ
 ホの常軌を逸した自罰的(じばつてき、みずからを責め
 る傾向があるさま)行動を、伝道師の威厳を損なうと否
 定した。
  ファン・ゴッホは、その指摘に従うことを拒絶した。
  すると、伝道師の仮免許は剥奪され、俸給は打ち切ら
 れた。
  1879年8月(26歳)父からの仕送りに頼ってデッサンの
 模写や、坑夫のスケッチをして過ごす。
  仕事をしない状態を、家族は厳しい目を注いだ。
  テオも、その生活ぶりを批判した。
  1880年3月(27歳)絶望のうちに、北フランスへの放浪
 の旅に出た。
  金も食べるものもなかった・・ひたすら歩いた・・、
  そして、ついに、エッテン(父の新しい赴任地、オラ
 ンダ、ベルギーに近い)の実家に帰る。
  父は、常軌を逸している彼を憂慮し、精神病院に入れ
 ようとした・・
  口論となった・・クウェム(ベルギー、フランスに近
 い)に戻る。
  1880年6月頃、クウェムに戻ったファン・ゴッホに、テ
 オからの生活費の援助が始まった。
  この時期、ファン・ゴッホは、周りの人々や風景をス
 ケッチしている・・そのうち、画家を目指す事を決意す
 る。
  1880年9月、北フランスへ・・苦しい放浪の旅に出る。
  後に・・この時期を振り返って・・
  「しかし、まさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってく
 るのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いてい
 た鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた」
 と書いている。
  1880年10月、絵が勉強したいと、突然、ブリュッセル
 (ベルギーの首都)に行く。
  そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをデッサン
 し続けた。
  そして、本格的に画家を目指すのならアカデミーに進
 むように勧められる。
  1880年11月(27歳)アカデミーに短期間出席する。
  遠近法や解剖学のレッスンを受ける。
  1881年4月(28歳)ブリュッセルに住んだ・・が、その
 経済的負担に堪えかねて・・実家のエッテンに戻り、田
 園風景や農夫たちを描く。
  この頃の夏、母の姉の娘・ケー(従姉妹)と散歩をし
 たりするうちに、彼女に好意を持つ。
  ケーは、未亡人で、7歳年上で、8歳の子供もいた。
  ファン・ゴッホは求婚した。
  しかし、「とんでもない、だめ、絶対に」という言葉
 で断られた。
  ケーは、アムステルダム(オランダ)へ帰ってしまっ
 た。
  ファン・ゴッホは、あきらめられず、何通も手紙を書
 いた。
  アムステルダムまで会いにも行ったが、会うことさえ
 拒否された。
  ケーの牧師の両親から、ファン・ゴッホの執拗さに『
 不愉快だ』と非難された。
  絶望した彼は、ランプの炎に手をかざして、「私が炎
 に手を置いていられる間、彼女に会わせて下さい」と迫
 った。
  夫妻は、ランプを吹き消し、会うことを拒否した。
  1882年1月(29歳)ハーグ(オランダ)に住み始める。
  オランダ写実派の担い手のモーヴを頼った。
  モーヴは、油絵と水彩画の指導をしてくれて、アトリ
 エを借りる資金を貸してもくれて、親身になって面倒を
 見てくれた。
  また、絵画協会の準会員にも推薦してくれた。
  しかし、関係は・・だんだん疎遠になって行く・・、
  ファン・ゴッホが、手紙を出しても、返事をくれなく
 なり・・態度もよそよそしくなった。
  石膏像のスケッチから始めるようにと助言するモーヴ
 と、
  モデルを使って人物画を描きたいとするファン・ゴッ
 ホの意見の違い・・、
  ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いでも、全否定
 されたかのように受け止め、怒りを爆発させるようだっ
 た。
  モーヴ以外にも、ハーグ派の画家たちも、彼を避ける
 ようになった。
  それでも、モデルをひたすらスケッチをすることに集
 中した。
  テオの月100フランの仕送りも、その大部分がモデル料
 に費やされた。
  送金が送れると、テオをなじるくらいだった。
  1882年3月(29歳)ファン・ゴッホのもとを訪れたコル
 叔父が、街の風景の素描を12点、注文してくれた。
  その為、ハーグ市街を描き続けた。
  出来上がった素描を叔父に送ったが、それを、「商品
 価値が無い」と、ファン・ゴッホが期待したほどの代金
 は送ってくれなかった。
  1882年4月、作品:シーンを描いた「悲しみ」、素描
 (黒チョーク)がある。
  1882年7月(29歳)引っ越した新居に、長男ウィレムを
 出産したばかりのシーンと、その5歳の娘と、暮らし始め
 た。
  テオは、売れる絵を描くようにと忠告した。
  1883年5月(30歳)1年あまり共同生活をしたシーンに
 ついて、「シーンは癇癪(かんしゃく)を起こし、意地
 悪くなり、とても耐えがたい状態だ。
  以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる」
 とテオに書いている。
  1883年9月初め、ハーグでの暮らしが経済的に行き詰ま
 る。
  シーンと別れる事を話し合った。
  シーンと別れたことは父へ知らせている。
  1883年10月、ニーウ・アムステルダム(オランダ・ド
 レンテ州の村、ドイツ国境に近い)の泥炭地帯を旅する。
  1883年12月5日(30歳)ファン・ゴッホは、父親が仕事
 のために移り住んでいたオランダのニューネンの農村に
 初めて帰省した。
  ここで、2年間を過ごした。
  小部屋をアトリエとして使ってよいと言ってくれた。
  1884年1月(31歳)骨折のけがをした母親を介抱する。
  家族関係も仲良く、ファン・ゴッホの落ち着いた生活
 だった。
  近所の職工たちの家へ行ったりして、古いオークの織
 機や、働く職工の姿を描いた。
  今後、テオへ作品を規則的に送るから、テオから受け
 取る金は、自分が稼いだ金である事にしたいと言う。
  この頃の作品の多くが鉛筆やペンによる素描で、水彩
 や、油彩も少し試みているが、バルビゾン派(フランス
 に発生した派で、ミレーなど)を手本とするので、いず
 れも色調は暗い。
  しかし、テオは、モネやピサロの様な印象派の明るい
 作品を求め、意見の対立があった。
  1884年夏、村のスキャンダル事件を起こす。
  また、友人ラッパルト(オランダの画家、助言を貰っ
 た、一目置いていた友人)との関係も悪化した。
  そして、悲しいかな、再び、父親との関係も悪化。
  1885年3月26日(32歳)父親のドルス牧師が急死する。
  妹から、「父を苦しめて死に追いやったのは、あなた
 であり、あなたが家にいると、お母さんも殺されること
 になる」と言われた。
  1885年4月(32歳)作品:「ジャガイモを食べる人々」、
 ニューネン、油彩、最初の本格的作品と言われている(
 ゴッホ美術館所蔵)
  この作品は、数年間に渡って描き続けた農夫の人物画
 の集大成として完成させ、自らが着想した独自の画風を
 具体化させた。
  ファン・ゴッホ自身は大きく満足していたが、テオを
 含め周囲からは理解が得られなかった。
  友人ラッパルトからも、人物の描き方など色々と手紙
 で厳しい批判を受けた。
  ファン・ゴッホも、手紙で強い反論の返事を書き、二
 人は絶交に至る。
  1885年5月初め、牧師館から出て、前から借りていたア
 トリエに移る。
  1885年夏、農家の少年と一緒に村を巡り、鳥ミソサザ
 イの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描く。
  ファン・ゴッホの絵のモデルの女性との関係を疑われ、
 カトリック教会から、「ゴッホの絵のモデルになるな」
 と村人たちへ告げられる。
  1885年10月、アムステルダム国立美術館で、レンブ
 ラント、フランス・ハルス等の大画家の絵を見直す。
  モデルになってくれる村人を見つけることが出来なく
 なっている。
  また、部屋を借りていたカトリック教会の管理人から
 契約を打ち切られる。
  1885年11月、やむを得ず、ニューネンを去る。
  残された多数の絵は、母親によって二束三文で処分さ
 れた。
  弟のテオは、兄の援助をし続け、弟の援助を受けなが
 ら絵を描き続けた。
  1886年2月(33歳)弟を頼ってパリに移る。
  この時は、前ぶれなく夜行列車でパリへ向かった、そ
 して、モンマルトルの弟の部屋へ、そして、住み込んだ。
  1886年6月、優しい弟のテオ、二人では狭い部屋のため、
 ルピック通りのアパルトマンに、二人で転居した。
  同居となり、二人の手紙のやり取りが無いので、この
 パリ時代は、動静が不明状態の期間となる。
  しかし、テオとの口論は、しばしばあったようだ。
  1887年3月(34歳)テオが妹へ、「うまく行っていたの
 は過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい」という意
 味の苦悩を伝えている。
  ファン・ゴッホは、この頃から、印象派や新印象派
 画風を積極的に取り入れる様になり、絵の色調が明るく
 なる。
  テオも、これを評価する。
  ファン・ゴッホは、テオが画商として作品を購入する
 ので、その関係もあって、画家との関係を持った(ファ
 ン・ゴッホ兄弟との親交)
  ファン・ゴッホが絵の具を買うタンギー爺さんの店も、
 若い画家たちの交流の場となっていた。
  また、ファン・ゴッホは、プロヴァンス通りの店で、
 多くの日本版画を買い集めた。
  この頃、日本の浮世絵にも関心を持つ、作品「おいら
 ん(1887年9月〜10月)」
  また、ファン・ゴッホは、「パリ・イリュストレ」誌
 の日本特集号を、表紙が擦り切れるほど愛読していた。
  この日本好きは、ベルナールも影響を大きく与えてい
 た。
  1887年11月、ポール・ゴーギャンが、カリブ海のマル
 ティニークからフランスへ帰国し、テオ兄弟とも交流す
 る様になる。
  作品:「タンギー爺さん(1887年)」「ひまわり(1888
 年8月)」「夜のカフェテラス1888年9月)」など・・、
  この頃、名作を次々に生み出した。
  1888年2月20日(35歳)弟のもとを去って、南フランス
 のアルルへ・・、
  この頃のファン・ゴッホのベルナールへ宛てた手紙に・・
 「この地方は、大気の透明さと明るい色の効果のため、
 日本みたいに美しい・・、
  水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み
 出し、まるで、日本版画に見る風景のようだ」・・と書
 いている。
  1888年3月、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ
 橋を描く、「アルルの跳ね橋」(クレラー・ミュラー
 術館所蔵)
  また、アンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と・・花の
 季節の移ろいに合わせて・・果樹園を次々に描いた。
  この年1888年・5月、宿から高い支払いを要求された・・
 その為に転居・・、
  転居先には、ベッドなどの家具は無かった・・
  この頃、ゴーギャンが、経済的苦境にあることを知っ
 て・・、この家で、二人で、自炊生活すれば、弟からの
 送金で何とかやり繰りできる・・と、ゴーギャンに提案
 を書き送っている・・優しい、友達想いのファン・ゴッ
 ホだった。。
  この年・1888年7月(35歳)、アルルの少女をモデルに
 描いた肖像画に、ピエール・ロティの「お菊さん」を読
 んで知った日本語を使って「ラ・娘」という題を付けた
 絵を描いた。
  同じく、この月に、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像
 画を描く。
  1888年8月、「ひまわり」を4作続けて制作。
  1888年9月、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガー
 ルを描いた、「夜のカフェ」を3晩徹夜で描く。
  ファン・ゴッホは、手紙の中で、「『夜のカフェ』の
 絵で、僕は、カフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂っ
 た人となり、罪を犯すようになりやすい所だということ
 を表現しようと努めた」・・と書いている。
  1888年9月8日に、弟から金が贈られて来る。
  そして、この金で、ゴーギャンとの共同生活の準備の
 ため、ベッドなどの家具を買いそろえた。
  1888年9月下旬、「黄色い家」を描く。
  ゴーギャンが来るまでに自信作を描きたいという気持
 ちからだった。
  この頃、弟に送金を、度々、催促する。
  制作も重ねた。
  過労気味となり憔悴する。
  1888年10月23日、ゴーギャンが来る。
  二人が一緒に絵を描く行動が始まる。
  ゴーギャンは、ファン・ゴッホに、まったくの想像で
 絵を描くことを勧める。
  ファン・ゴッホは、思い出によって「母と妹がエッテ
 ンの牧師館を歩いている絵」などを描いた。
  しかし、この想像の絵は、満足できるものではないと
 弟のテオに伝えている。
  1888年11月下旬(35歳)「種まく人」2点を描いた。
  制作を続ける中で、次第に、2人の関係は緊張するよう
 になった。
  ゴーギャンは、ベルナールへ、
  「ヴァンサン(ファン・ゴッホ)と私は、概して意見
 が合う事がほとんどない。
  ことに絵ではそうだ。
  彼は、私の絵がとても好きなのだが、私が描いている
 と、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す・・
  色彩の見地から言うと、彼は、モンティセリの絵のよ
 うな厚塗りをめくらめっぽうをよしとするが、私の方は、
 こねくり回す手法が我慢ならない・・」・・などなどと、
 不満を言った。
  そして、12月下旬、ゴーギャンはテオに、
  「いろいろ考えた挙句、私は、パリに戻らざるを得な
 い。
  ヴァンサンと私は、性格の不一致のため、寄り添って
 平穏に暮らして行くことは絶対できない。
  彼も私も、制作のための平穏が必要です」と、書き送
 っている。
  ファン・ゴッホもテオに、
  「ゴーギャンは、このアルルの仕事場の黄色の家に、
 とりわけ、この僕に、嫌気がさしたのだと思う」と書い
 ている。
  1888年12月23日、耳たぶを切り落とす事件が発生する。
  この事件は、新聞にも報道された。
  「哀れな精神異常者の行為でしかありえない」との通
 報を受けた警察は、ベッドに横たわっているファン・ゴ
 ッホを発見した。
  そして、直ちに、病院に収容された・・と報じている。
  この翌日の1888年12月24日に、ゴーギャンは、電報で
 テオをアルルに呼び寄せてから、パリへ帰った。
  テオは、ちょうどこの頃、婚約を決めたばかりだった
 から・・、
  テオは、アルルに夜行列車で急行し、兄を病院へ見舞
 うと、すぐにパリへ戻った。
  容態は、快方に向かう。
  1889年1月2日、ファン・ゴッホは、テオへ、
  「あと数日、病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻
 れるだろう。
  何よりも心配しないでほしい。
  ゴーギャンのことだが、僕は、彼を怖がらせてしまっ
 たのだろうか。
  なぜ、彼は、消息を知らせてこないのか」と書いた。
  1889年1月7日(36歳)に、退院した。
  退院して、耳に包帯した自画像などを描いた。
  ファン・ゴッホは、耐えられない幻覚はなくなったと、
 テオに書いているが、
  1889年2月7日になると、自分は毒を盛られている。
  至る所に囚人や毒を盛られた人が目につくなどと訴え
 たことから、
  近所の人が警察に伝え、病院に収容された。
  1889年2月17日に、仮退院したが・・、
  住民から市長に、「オランダ人風景画家が、精神能力
 に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、
 住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、
  家族が引き取るか、精神病院に収容するよう求める請
 願書が提出された。
  1889年2月26日、警察署長の判断で、再び、病院に収容
 された。
  1889年3月23日までの約1か月間は、単独病室に閉じ込
 められた。
  絵を描くことも禁じられた。
  1889年4月18日が、テオの結婚式で、テオも新居の準備
 などで忙しく、便りの無い状態となった。
  ファン・ゴッホは、結婚するテオに見捨てられるとの
 孤独感に苦しんだ。
  家主から、「黄色い家」の立ち退きを求められた。
  荷物を片付けたが、その時、不在の間に、多くの作品
 が、湿気などのため損傷している事に、落胆せざるを得
 なかった。
  1889年4月下旬、テオに、サン=レミの精神病院に移る
 気持ちになったので、手続きを取ってほしいと手紙で頼
 んだ。
  この病院の院長は、「これまでの経過全体から、ファ
 ン・ゴッホ氏は、てんかん発作を起こしやすい、と私は
 推定する」と記録している。
  病院で絵を描いた。
  イチハツの群生やアイリス、そして、麦畑やアルピー
 ユ山脈の山裾の斜面、オリーブ畑や糸杉、「星月夜」を
 制作・・「オリーブ畑」「キヅタ」・・
  ファン・ゴッホは、
  「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自
 由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表
 出しようとする仕事だ」と述べた。
  テオは、その兄の作について、
  「これまでになかったような色彩に迫力があるが、ど
 うも行き過ぎている。
  むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求すること
 に没頭すると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険
 がある」と心配している。
  1889年7月初め(36歳)、ファン・ゴッホは、弟の妻が
 妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑
 な心情をのぞかせている。
  1889年7月(36歳)再び、発作が起きた。
  1889年8月22日に、ファン・ゴッホは書いている、「再
 発はないと思っていたところなので、苦悩は深い。
  ・・完全に自失状態だった。
  今度の発作は、野外で風の吹く日、絵を描いている最
 中に起きた」・・と。
  1889年9月初め、意識は清明に戻る。
  自画像、「麦刈る男」などを描く、
  また、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事な
 どを描く・・、
  1889年のクリスマスの頃、再び、発作が起きた。
  この時は、収まるまで1週間程度かかった。
  1890年1月下旬(37歳)、アルルへ旅して、戻って来た
 直後も、発作に襲われた。
  1890年2月、テオの息子が、1月31日に生まれたのを祝
 って、「花咲くアーモンドの木の枝」を描いて送ってい
 る。
  1890年2月下旬、ゴーギャンとの共同生活時代にスケッ
 チしたジヌー夫人の絵を描く、
  そして、その絵を、ジヌー夫人自身に届けようとアル
 ルに出かけた。
  その時、また、再び、発作が起き、意識不明となった。
  1890年4月、病院の院長がテオへ、
  「ある時は、自分が感じていることを説明できるが、
 何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わし気な
 様子になって、何も答えなくなる」と、伝えている。
  また、1890年5月、院長の記録には、
  「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵
 の具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに油を注入
 している時、その灯油を飲もうとしたりなど、
  数回にわたって服毒を試みた。
  発作のない期間は、患者は、まったく静穏かつ意識清
 明であり、熱心に画業に没頭している」・・と記載され
 ている。
  この頃、ファン・ゴッホの絵画は、少しずつ評価され
 るようになっていた。
  1890年2月の展覧会で、『赤い葡萄畑』が初めて400フ
 ランで売れた。
  テオは、そのことを、兄のファン・ゴッホへ伝えた。
  1890年3月、パリでのアンデパンダン展で、ゴーギャン
 やモネなど多くの画家から高い評価を受けたと、テオは、
 兄に書き送った。
  1890年5月、体調が回復し、ピサロと親しい医師を頼っ
 て、パリ近郊のオーベル=シュル=オワーズに転地する
 事にした。
  「糸杉と星の見える道」を描き終わってから、5月16日
 に、サン=レミの精神病院を退院した。
  翌日、パリに着き、数日間、テオの家で過ごした。
  しかし、パリの騒音と気疲れから、早々に、オーベル
 (フランス、オーベル・シュル・オワーズ)へ向かった。
  1890年5月20日、ファン・ゴッホは、オーベルの農村に
 着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。
  ファン・ゴッホは、ガシェ医師の事を、
  「非常に神経質で、とても変わった人だが・・体格の
 面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、ま
 るで、新しい兄弟みたいな感じがして、まさに、新しい
 友人を見い出した思いだ」と、妹のヴィルへ書いている。
  そして、好きな絵を描いて過ごしている。
  テオに、オーベルの素晴らしさを強調する手紙を書い
 ている。
  そして、テオへ、こちらに来なさいと・・、
  そして、何年も一緒に生活したいと、ファン・ゴッホ
 の夢は膨らんだ。
  1890年6月8日、パリから、テオと妻のヨーが、息子を
 連れて一緒にオーベルを訪れた。
  食事をしたり、一緒に散歩をしたりと・・
  ファン・ゴッホは、「とても楽しい思い出を残してく
 れた・・また、近いうちに戻って来なくてはいけない」
 と書いている。
  1890年6月30日、テオが、ファン・ゴッホへ、仕事上の
 意見対立や、友人と共同で自営の画商を営むのが良いの
 かを迷っていると、
  また、ヨーと息子が体調を崩しているなどと、悩みを
 吐露した長い手紙を書き送った。
  1890年7月6日、ファン・ゴッホは、パリを訪れた。
  この時、ロートレックやアルベールやギヨマンも来る
 はずだったが、
  ファ・ンゴッホは、「やりきれなくなったので、その
 訪問を待たずに、急いで、オーベルへ帰って行った」と
 いう。
  この時、ファン・ゴッホは、テオやヨーとの間で、何
 らかの話し合いがされたようだが、ヨーはその詳細を語
 っていない。
  1890年7月10日、ファン・ゴッホは、テオとヨー宛てに、
  「こちらへ戻って来てから、僕もなお悲しい思いに打
 ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が、自分の上にも重
 くのしかかっているのを感じ続けていた」と書き送った。
  また、「カラスのいる麦畑」「荒れ模様の麦畑」など
 を描き上げたことを伝えている。
  また、ファン・ゴッホは、その後にも、テオの「激し
 い家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(
 手紙は現存していない)
  1890年7月22日、テオは、ファン・ゴッホに、共同自営
 問題について、ドリースとの議論はあったが、激しい家
 庭のもめ事など存在しないという手紙を送っている。
  そして、ファン・ゴッホの最後の手紙となる7月23日の
 手紙で、
  「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可
 能性も、それを脅かす嵐の可能性も、僕には、同じよう
 に納得できる」などと書き送った。
  1890年7月22日の日曜日の夕方、怪我を負ったファン・
 ゴッホが、オーベルの旅館に帰り着いた。
  旅館の主人に呼ばれたガシェ医師は、彼の様態を見た、
 傷は猟銃による銃創だった。
  弾丸は、左脇腹の下から撃たれ、心臓をそれているが、
 移送も外科手術も無理と判断された。
  絶対安静で見守ることとした。
  ガシェ医師は、手紙でテオへ連絡した。
  翌28日の朝、テオは、パリで手紙を受け取った、兄の
 もとへ急行した。
  テオが着いたときには、まだ、ファン・ゴッホの意識
 はあり、話す事ができた。
  しかし、29日、午前1時30分に・・死亡した。
  1890年7月30日に、葬儀が行われ、テオの他、ガシェ、
 ベルナール、シャルル・ラベル、ジュリアン・フランソ
 ワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。
  テオとファン・ゴッホが会話した最後の言葉の一つは、
 「このまま死んでゆけたらいいのだが」・・だった。
  そして、何と、弟のテオは、兄を追うように、この5ヶ
 月後の、1891年1月25日に、亡くなった。
  1914年4月、ヨーの手によって、テオの遺骨を移し、
 テオの墓地を移し、兄弟一緒の墓石が並ぶような墓地と
 された。
  尚、ファン・ゴッホは、自殺ではないという説がある。
  少年の持った拳銃が暴発したのだ・・という。
  それは、弾の入射角が不自然ということから、その様
 に言えるという、
  ファン・ゴッホが、少年を庇(かば)っているという。
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