拓海広志「公私論(2)」

 ここで僕が一番言いたかったのは「個」と「全体」が健全な形で真っ向から向き合いながらも、お互いを突き放すのではなく、むしろ抱え合う(包摂し合う)といった関係こそが組織や社会のあり方としては理想的であるということです。そして、そのことは「公」(公共)と「私」(個人)の関係について考える場合にも言えることだと思うのです。


 かつて吉本隆明氏は共同幻想について論じたときに、非常に重要な指摘を二つしています。一つは、共同幻想はその共同体における成員たちの個人幻想の集合和(最大公約数)ではあるけれど、出来上がった共同幻想は必ず個々の個人幻想と逆立(矛盾・対立)してしまうということで、これはその共同体が小さなグループであろうが国家であろうが同じことだと言っています。


 もう一つ重要なこととして、吉本氏は個人幻想、共同幻想とは異なる領域にある対幻想(家族幻想)なるものを語るのですが、対幻想である家族の中には共同幻想たる社会の萌芽のようなものがあるにもかかわらず、対幻想をどれだけ拡張していっても決して共同幻想にはなりえないと語っています。実はこの吉本氏の分析の中に、「私」と「家族」と「公」を結ぶ重要な回路があるように思います。


 吉本氏が指摘する共同幻想と個人幻想の間に現われてくる矛盾と対立についてですが、人類はそれを少しでも解消するために様々な方法を生み出してきました。社会制度の如何を問わず集団の中にリーダーを置き、リーダーが矛盾を背負うというのがその一つですが、制度的には民主主義が現在最も穏当だと考えられている方法でしょう。


 ただ、これはあくまでも国家や自治体の体制について言えることであり、企業などでの意思決定プロセスは一般に極めて非民主的ですので、この点は分けて考える必要があります。しかし、民主主義という方法がより過ちが少ないという理由で広く採用されていることからも、人類はこの問題については相当自覚的であったと考えることができるでしょう。


 ところが、厄介なのは共同幻想と対幻想の関係の方です。吉本氏が対幻想の中には共同幻想の萌芽があると語ったように、原始的な社会あるいは部族社会においては対幻想と共同幻想が交錯している面が多々あり、そこからシャーマニズムなども生まれてきます。


 しかし、近現代の社会において、家族を国家モデルに拡張するというのは、支配者が行う巧妙な詭弁であり、それは戦中の日本で天皇が国父として崇められたことや、発展期のアジア諸国において指導者たち(中国の毛沢東シンガポールリー・クアンユーインドネシアスカルノスハルト、マレーシアのマハティール、フィリピンのマルコスなど)がやはり国父として君臨し、非民主的な国家を築いたことに例が見られます。


 吉本氏の言うように、対幻想はどこまでいっても共同幻想にはなりえないものなので、こうした支配のあり方は必ず破綻しますし、しばしば指導者達の家族が王族化するという公私の混同すら起こったりもするのですが(こうした破綻や堕落から免れ得たのはシンガポールくらいです)、アジアの指導者たちはこうした政治体制を称して「儒教的なアジアモデルであり、西欧型の民主主義とは異なる文化的営為である」と主張します。


 なるほど、そこには確かに一理ありますし、西欧型の民主主義が常に最高の社会モデルだとも言えはしないでしょう。しかし、そのことを差し引いて考えたとしても、実はこれはアジアにある様々な思想の中から儒教のみを選び出し、さらにその儒教を指導者にとって非常に都合よく解釈したものだと言えそうです。


 インドのアマルティア・セン氏は、仏教が本来持っていた自由主義的な思想が、アジアの指導者たちからアジアにはなかったもののように扱われることに対して異議を唱えていますし、孔子の思想についても本来はもっと柔軟で、「個」の自由を認める、現実的かつ多様性のあるものであったと語っています。


 アジアの指導者たちによる想像の産物とも言えるアジア的価値体系の二つの柱である国家への忠誠と家族への献身は、互いに激しく対立しかねないということを孔子は見抜いていたというのがセン氏の指摘なのですが、以下は同氏の本からの孫引きです。


 『楚の国の長官である葉公が孔子に言いました。「私どもの村には曲がったことが大嫌いな正直者がいます。自分の父親が羊を盗んだ時、息子がそれを知らせました」。これに対して、孔子はこう答えました。「私どもの村の正直者はそれとは異なります。父は息子をかばい、息子は父をかばいます。正直とは、そのような振る舞いの中にこそあるものなのです」』


 ここで議論されているアジア型の「国家=家族」と仮定する社会モデルと、冒頭で触れた戦後日本型の「会社本位主義+家族至上主義」の社会モデルには共通する点と、全く関連性のない点がありますが、両者に共通する一番重要な点は、こうしたモデルの中では「公」(公共)も「私」(個人)も生まれにくいということと、そこでは一見「家族」が重視されているように見えて、実はそれが言葉巧みに利用されているに過ぎないということではないかと思います。


 「家族」がそうしたものに振り回されぬ方が、「公」のためにも、「私」のためにも、そして「家族」のためにも良いのではないかと僕は思っているのです。本当の意味で家族、友人、会社、そして社会を大切にするためには、やはり「個」を基本軸として適度なバランスを取ることが必要であるように思います。


(無断での転載・引用はご遠慮ください)








【ムンバイにて】


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