ウィズネイルと僕


<公式>
ストーリー:1969年、ロンドン。ウィズネイルと僕はシェアメイト。2人とも売れない役者志望だ。自分勝手で変人でアル中でヤク中のウィズネイルにいつもうんざりさせられる僕だけど2人は仲良しだ。マンネリな日々から脱出するために僕たちは田舎に旅することにする。ウィズネイルは実はぼんぼん、田舎に別荘をもってるリッチなおじさんがいた。ぼろいジャガーで古民家そのものの別荘にたどり着いた僕たちは....

聞くところでは1987年公開のこの映画、本国イギリスのみなさまにことのほか愛されているとのこと。当ブログとしてはさっそく権威あるみなさまが定めたところの「英国映画ランキング」を引用するのにためらいはない。まずは映画雑誌エンパイアのベスト100。ここでは堂々の10位にランクイン。『ショーン・オブ・ザ・デッド』が6位に入るなど波乱含みの展開だ。つぎはタウンニュース、タイムアウトロンドンのベスト100。ここでも15位にポジショニング。『ショーン』は影も形もない。そして信頼の British Film Institute による「20世紀の映画」ランキング。順位を下げたものの29位に踏みとどまった。1980年以降の映画で(かつ2000年までということになる)3つとも30位以内に入っているのは『トレインスポッティング』『モンティ・パイソン :ライフ・オブ・ブライアン』だけ。これはもう、まぎれもなく名作扱いだ。

でもどうだろう。不朽の名作の香りがむんむんただようかというと、そういうのじゃない気がする。コメディなのだ。だからといってそんなに笑えるわけでもない、比較的ゆるいつくりである。絵は1987年という時代を考えるとクラシックで、とはいえ古典的に美しいわけでもない。美しいはずの湖水地方の風景もなんか普通に撮られているし、全般にわりと雑然とした画面だ。役者たちはいい味だしてる。でもきーきー泣きわめいたり、正直名演というほどかはどうかと。
みなさんの琴線に触れるんだろうね、なにかが。ある年代で出会うべき作品なのかもしれない。古典的名作なんかより「自分たちの物語」がささるときってある、というかあった。そういう映画なんだろうと思う。監督の半自伝的なこの物語、代表的な「等身大」の青春モノなのだ。それにひしひしと時代の空気が感じられるんだろう。そこは『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』と少しちがう。1960年代前半という特定の時代を設定して、映像的にはていねいに再現しつつも、空気としては時代を越えた普遍性を漂わそうという映画だからね、あっちは。
主人公たちは絵に描いたようなダメ男たちだ。徹底的にだめで、だからこそコメディなんだけど、なにひとつヒロイックなことも、立派なことも、格好いいこともしない。俳優をめざしているものの、まともなキャリアの出発点に立つこともできないでいる。ウィズネイルは酒とドラッグにはまっているし、それほどじゃない“僕”もいっしょに酔っぱらってばかになる。キッチンのシンクにはなんでこんなに食器持ちなんだと思うくらいに洗い物が堆積して、不気味なエコシステムを形成しつつある。遊びにくる友人も、友人なのか商売人なのかわからないドラッグディーラーだ(ちなみにものすごくいい味を出している)。

それともう一つ、男としてきついダメさがある。つまり彼らは徹底的に非マッチョなのだ。よわよわしく、へたれで、パブでデブな男にからまれるとひたすら逃げるしかできない。田舎でも2人ともこわがりだ。そのくせ上流階級の老人たちがあつまるティールームでは急に酔った勢いでワイルドになってみせたりする。じつに格好わるい。
セクシャリティの面でも微妙な描き方だ。まともな女性が一人もでてこない男2人のこの映画は、イギリスによくある腐女子垂涎映画の典型に見えつつ、お話としてはゲイムービーのパロディのようになっていて、あまり洒落ていないギャグで毎回男同士の淫靡な雰囲気を茶化してみせる。主人公の“僕”もきっぱりとストレートだと言い切る。ウィズネイルが理由をつけてベッドに入ってくるといやがるのは彼なのだ。でも彼のしぐさやセンスはことばとはうらはらだ。あらゆる面で彼が女性的な傾向をもっているように描かれる。風呂の中や風呂上がりのシーン、田舎での着こなし、意味ありげな新聞記事……..知らない人にも無遠慮に「オカマ」とあざけられてしまう。“僕”は、社会的にも性的にも「こうありたい自分像」と実像がずれてしまっているのだ。

“僕”の鏡像のようなのが、別荘をかしてくれたウィズネイルのおじさん、モンティだ。太って童顔のかわいらしいおじさんで、ゲイである。そして若い頃に役者をめざして断念している。十分にリッチで高級ワインをたしなむ彼だけど、ひょっとすると生涯自分の愛を成就させたことはいちどもなかったのかもしれない。“僕”が同類だと思っているかれはせまってきたあげく「じぶんのように不幸になっちゃいけない」という。
お話は『インサイド….』ほど出口なしじゃない。旅に出て帰ってくるとへたれ側だった“僕”がすこし変わる。「こうありたい自分」にむかって少し踏み出す。それはぐだぐだでダメで、だけどそれが居心地よかったひとときの終わりでもある。そんなエンディングのきれいさも、ただしき青春映画という気がする。

インサイド・ルーウィン・デイヴィス


<公式>
ストーリー:ニューヨーク、グリニッジビレッジ、1961年。ルーウィンはプロのフォークシンガーだ。エージェントがいてレコードも出し、定期的にライブもこなす。でもギャラはろくに出ずレコードもたいした枚数じゃないのにほとんど在庫。家がないルーウィンは知合いの家を転々としてすごす。いきがかりで知人の猫をあずかって、いつものように転がり込もうとした友人のジェーンに「わたし妊娠したの。あんたの子かもしれない」と告げられる…..
「なにものにもなれない僕」が旅に出る。そして帰る。『ウィズネイルと僕』とおなじだ。あっちは役者、こっちはミュージシャン。でもこの映画、等身大懐かし青春ものじゃない。ふつうの男の日常のディティールが描かれているのに、コーエンらしく、妙に抽象化された雰囲気になり、しまいには何かの寓話のように手の届かないお話になっていく。『アメリ』『ロング・エンゲージメント』などの撮影監督、ブリュノ・デルボネルによるフィルム画面は、一分の隙もなく、沈鬱ともいえる、暗く、さむざむしく、彩度の低い世界を描く。日常のディティールはちりばめられていても、よき雑然さみたいなのがなく、どこか冷え冷えしている。そして『オー・ブラザー!』がギリシア神話オデッセイア』の翻案だったみたいに、この物語の旅もあきらかに冥界めぐりの道行きになっている。

お話の時間軸はラストの時間をファーストシーンにもってくる。そこから◯日前にもどって時間どおりに進んでいく。でもその構造はちょっと分かりにくい。ファーストシーンから次のシーンは、わざと時間的につづいているんじゃないかと勘違いさせるつくりだ。「◯日前」の字幕もないし、夜のシーンから朝のシーンにとぶから、ふつうは翌朝だと思う。ただ、たしか昨夜だれかに叩きのめされていたはずなのに、顔がきれいなので「ちょっとおかしいな?」と感じるのだ。
それにしてもこの環はなんだろう。この形式で多い、回想しているスタイルじゃないのだ。よくあるでしょう。どことなく哀しい現在があって、過去にもどるとイノセントで楽しかった日々があった、的な。そういうのじゃぜんぜんない。過去といってもちょっと前だしね。かといって、なにかの事件の発端にもどり、因果が巡って最終的にラストシーンに収斂していくタイプでもない。印象としては、ファーストシーンがあって、そのあと(じっさいには過去に)主人公はいろいろと現状を打開しようとあがくわけだ。ギャラの交渉に行ったり、妊娠したジェーンの責任を取ろうとしたり、レコーディングに参加したり、ステージに出してもらおうとしたり、別の仕事につこうとしたり。でもいろいろあったはずが、結局最初に見たあまりすくいがないシーンにもどっていってしまう。観客からすれば、出口なし感をうえつけられるだろう。
旅にはでたけれど、どこにも行けない。別の旅に出ようとすると、キャッチ22を思わせる「こっちをするにはこれをしなくてはいけない、でもそうするとこっちができない、よってダメ」みたいなルールに阻まれてそれもできない。文字通り迷路をさまよっているみたいなお話だ。ロケは多いけれど、すこーんと抜けた青空がでてくることもなく、地下鉄の闇や夜道のロングドライブ、うすぐらいライブハウス、全体に闇のウエイトが高い画面だ。迷路感を象徴するのがルーウィンが居候するあるアパートで、行き止まりになったものすごく狭い廊下に、向かい合わせに2つの部屋のドアがある。人生の行き詰まりをビジュアル化したみたいな空間だ。『バートン・フィンク』でもホテルの廊下が印象的だったのを思い出した。

そのループ感を強化するのが猫だ。猫は居候先の飼い猫で、ルーウィンといっしょに出てきてしまい、しかたなく連れて歩いていると、とちゅうで逃げ出してしまう。そのあとも微妙に違う猫に変化しつつシカゴの旅にまでついてきて、より冥界めいたところへ送り込まれたあげく、最後には帰ってきている。なまえはわかりやすく「ユリシーズ」だ。つまり『オデッセイア』の主人公名の英語読み。ルーウィンと猫、2人の冥界めぐりが重なりつつもずれた2つの輪みたいに話のなかにある。ちなみにユリシーズの飼い主はルーウィンを応援する老教授夫婦なんだけど、ルーウィンが彼の家に行くと、印象としてはそっくりで、でも違う夫婦ものがゲストで来ている。このデジャブめいた感覚もループ感をさらに強めている。
この映画の題材であるフォークソング、正直くわしくない。音楽的な解説は聖者、ピーター・バラカン師におまかせしようじゃないの。 この物語が実在のフォークシンガーの人生にインスパイアされていて、当時の唄を歌い、実在のライブハウスでロケをし…...というところは公式にも書いてあるけれど、ルーウィンが所属するレコード会社やシカゴで個人オーディションをするプロモーター、ルーウィンがバイトで参加するレコーディングのプロデューサー、それからフォーク仲間たちも、みんな実在の人物をアレンジしてあるそうだ。音楽プロデューサーはT−ボーン・バーネット。当ブログでは渋いカントリーの世界『クレイジーハート』でも主題歌を書いている。コーエン兄弟だと『オー・ブラザー!』。レコーディングシーンは、いわゆる一発録りで、3人のミュージシャンがギター弾き語りで1曲キメる。昔はみんなそうだったといわれればそうだけど、映画でもここは切らずに撮っていたんじゃなかったかな。

ちなみに、黒髪ストレートのキャリー・マリガンさんは相変わらずかわいいんだけど、主人公にたいしては「てめえ妊娠させやがった(かもしれない)な」という立場なのですごく言葉がきたない。というかFワードの連発だ。あれってさ、だいたい何年頃からふつうに使うようになったんだろうね。『ウィズネイル』でも60年代の若者たちは普通につかっている。『ウルフオブウォールストリート』みたいに怒ってもいないのにふつうに会話にまぜるのはもっと後年じゃないかという気もするが……...