ヴォルテール萌え

気持ちのいい、ぽかぽかした日よりで私はとてもうれしい。まるで春が来るみたい。
って、そんなわけはなくて、部屋の中からガラス越しに見た光景にだまされてそのまま外に出ると大変なことになる。夜間はもう帽子をかぶらないと頭が寒くて仕方がない。帽子というのは飾りではまったくなくてとにかくとてつもなく必要なものなのだと心から、あるいは身体の芯から納得したのはカナダに来てからだ。


と、そういう寒い国の女王さまの展示会を夕べ見てきた。トロントのアートギャラリーで、

Catherine the Great
http://www.ago.net/navigation/flash/frameset.cfm


というのを来年の1月はじめまでやっている。

キャサリン・ザ・グレートと書いて、エカテリーナと読むというのが日本で教育を受けた私の頭の中だったりするのだが、このエカテリーナおばさんの集めた絵画の諸々とか工芸品に並んで、彼女の肖像および戴冠式につかったという馬車というのかそれが会場の真ん中にじゃーんとあった。なんかこれって、牛車を思い出させるものがあるんですがというデカイ車のついたデコラティブなものだった。


馬車のサイズを目の前で見せられると、なんだって私たちは今日こんなに小さいサイズの車に乗ってるんでしょう?とちょっと考えさせられるものがあった。乗用車ってなんであんなに小さいのだろう・・・。それはつまり多くの人が歩くように乗ろうとするとあれが限界だということなのか。スピードが出るから上下のバランスもある程度限定されるだろうし。しかし、もし町ができるよりも、車が来るよりも先に道路を作ろうという国があるとしたら、そして燃料および材料に深刻な懸念がないとしたら、道路を大きくしてその上に走行可能な車を大きくしたらいいのではないのか? ああそうか、それで伝統的にアメリカの車はヨーロッパの車に比較してでかかったわけか、と、妙なことに納得。それを今日私たちは、アメリカ人は馬鹿だからなんでも大きい方がいいと思ってるのさ、みたいに考えているが、それは酷すぎだ。


で、このエカテリーナおばさんは、誰でも知っているように元をただせばロシア人ではなくて、ロシア人になったのは皇位継承者と目されていた夫と結婚したからだし、その結婚も幸せなものではなくて、そもそもこの皇位継承予定者を配置したのは夫のおばさん、ピョートル大帝の筋を汲むことを誇ってというか、売りにしてクーデターを起こして皇位についたエリザベート。このおばさんが、甥の嫁には政治的に面倒なことなんか起こさない貧乏な貴族の娘なら誰でもOKよ的に、エカテリーナことソフィー(ゾフィー)をロシアに連れ来てたことからエカテリーナの人生ははじまる、と。


ここらへんは、あれなんで私、この人の人生を思い浮かべることができるんだろう(あってるかどうかはともかく)?と展示を見ながら少しへんな気がしていたのだが、後で考えてみるに、おそらく池田理代子大先生の漫画を読んだのだったか? 
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122021456/250-6889004-8503432


しかしどうしてもこの本を買った覚えはない。ポーランド秘史は買って読んだけどエカテリーナはどうだったか・・・。自分のことなのに思い出せないのだが他にソースがあるような気はしないのでやっぱりどこかで読んだのだろうと思う。関係ないですが、こっちいいですよぉ。これを読んでからワルシャワに行くと楽しさ倍増よ!


天の涯(はて)まで?ポーランド秘史 (1)中公文庫?コミック版 池田 理代子 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122034302/ref=pd_sim_dp_3/250-6889004-8503432


このエカテリーナ展の見せたいテーマというのがどのへんにあるのか、ちょっとよくわからないテーマではあったし(カナダの展示ってこういう感じが多い。好きに見てと)、ブツ自体の数も多いとは言えないものではあったが、私としては、このおばさんの肖像画に非常な興味を覚えた。


どっからどう見ても、影のある人じゃん、この人、というのがまるわかりな肖像画がこれでもかと並んでいた。18世紀のものだから、もうロココ風とかのある種の飾りとしてのそれよりも、写実っぽいというのか人間っぽいというのかそういうのが普通になっている時代でもあるし、それ以上に技法も揃ってたってのも大きいのだろうが、写真のような感じのするものが並んでいた。写真より書き手が長い時間オブジェに向き合っているからさらにリアルなのかもしれない。



しかしそれらの肖像のうちの多くは、この人は偉いんですよ、グレートなんですよ、という目的のために書かれたのだろうし、そのように流布もしていたのだろうに、それにもかかわらずこの影はなんですかというのに私は少し驚いた。


グレートな雰囲気を出す構図となっていて、衣装もすばらしいんだが、それにもかかわらず顔に影がある。エカテリーナ自身が、なんといっても、上に書いたような心楽しいとは言えないような巡り合わせで皇室に入ってきて、で、その当時の自分の目標を、皇后(配置したおばさん)と夫と人々を楽しませるために全力を尽くすのが私の努め、みたいなことを嫁に来た最初の頃に書いているらしいんだが、これはつまり、自然にしていて自分の位置のある人でないことを計らずも表すわけで、その上で自分もまたクーデターで夫の代わりに皇位につくわけだから、周り中は敵だらけ、かもしれない。ここにも自然はない。だからこそ、「ひとびと」の支持、ひとびとがエカテリーナは凄い、と言ってくれることがとても大事だった。それしかない。


そしてその方策のひとつが、ピョートル大帝の意志を継いでいるのは私なんですよ、キャンペーンなわけで、それを知らしめるために様々なところで言及したりある種のイベントをかましたりもする。


と、これってつまり、今の政治家の原型と言ってもいいのだろう。つまり、なるようになった、血によって受け継いだものではないからこそ、ここを支配する位置に自分がいることの正当性を作らないとならない。それが偽善だろうが、それがわざとらしかろうが、そんなことは知ったことではない。


そのへんが肖像画から見てとれてしまう感じがするということは、しかしながら逆にいえば、当時にとっての(今でもそうかもしれないが)、「良きこと」とは異なっており、それが故の罪悪感が漂うということではないかと思ったりはする。もちろん、そういう国内対策だけでなく、ロシア帝国大転回開始っす!という思いきった展開を目一杯やってたおばさんではあるわけで、それはそれだけ恨まれることに繋がるんだからそう安泰ってことはないだろう。どうあれ。


なんにせよ、しかしこう、世襲って大変だなというのも改めて思った。ソフィア変じてエカチェリーナがそもそも、子供産んでくれりゃそれでいいよ、というポジションに入れられたわけだが、それもしかし上手くいったわけではない。


日本語のwikiの、エカチェリーナの息子のパーヴェル1世の項目を見たら、

パーヴェル1世

また、母が多くの愛人を持ったことから、パーヴェルはピョートル3世との親子関係を疑われてもいた。母の暗殺を計画したこともあるとされるが、真相は定かでない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB1%E4%B8%96_%28%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%9A%87%E5%B8%9D%29


とあったし、実際「真相」が「定か」になることはないのかもしれないわけだが、展覧会で買ってきた本(というか、展示会のカタログ)のエカチェリーナ伝では、パーヴェルは誰の子供なのかは知られていないとあった。前後から考えて(考えるまでもなく)、夫ピョートル3世ってことはないんだが、それ以外の誰なのかがわからない、という意味。どうしてそう言い切ってしまうかといえば、結婚して9年間も子供ができなかった夫婦に、当時不妊治療があるわけでもなし、突如子供ができることはほぼありえない、という合理的見解が優先されているからなんだろうなと思う。


しかしそれが達成されないと、ソフィアちゃんがここに来た意味がないというので別の誰かの子供を生んだと。でそれでも全然OKで何事もなくソフィアちゃんは公務に邁進。この話はルイ14世もそうやって生まれたんじゃないのかという説があるらしいし、冷静に考えればそりゃあるんだろうなぁ、だ。つまり、系統を引き継ぐ柱と見なされる男子の血統が普通か、好色であった場合には何の問題もないのだが、好色の逆の場合に面倒が起こる。女性の血統でもいいんだという場合には意志もしくは精神的なものが問題になることは、強制的に妊娠させられのを極端にいやがったとしてもできることはできる、というメカニズムを了承した場合にはないが、しかしそれでも、この女性が不妊だった場合に面倒が起こる。どっちから行ってもやっぱり系統維持というのは大変なのだなとしみじみ思った。だから、好色OK+複数血統確保(兄弟にスライド)という筋でやっていくより仕方がないということなのか。

それよりも、一代づつ選んだ方が楽だとも言える。そもそもソフィアが女帝のポジに入れるなら、血統問題はパスされているんだから、原理的には誰でもいいってことに限りなく近い。帰化すればロシア人と見なす、とも言えるから、アメリカの大統領選びよりもラジカルだ。


と、全然まとまりのないメモになっているけど、もひとつおまけは、ヴォルテール
書いたものだけでエラク有名なこの人の肖像画が4点ぐらいあってその上で大理石の首の像も2点あった。妙にヴォルテールがいっぱいいた。


変わった人なうえに、へんな人、へんな顔、へんな風貌でもあった模様。

wikiのこの写真。オスカルの友達みたいにキレイなんですけど、いかに若かったとしてもあれら肖像画群中の平均を美しい方にどれだけ修正してもこうはならないと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB


へんな顔といったけど別に醜いという意味ではない。ひょうひょうとした仙人みたいに見えた。そう仙人。で、仙人と漢字で言いたくなるほどに、なにか北西方ヨーロッパとは関係ない人に見えた。そして、著しい興味を覚えた。

 カナダとアフガニスタン


先週金曜日は、カナダの、Rememberance Dayという、過去の戦争で亡くなった人を忘れませんよの日だったものでこの2週間ぐらい軍がらみのものがたくさん放送されていた。


そして、しかしこれはリメンバランスデーのせいだけではないというのが、なんというか、カナダにとっては大変。
というのは、カナダの軍事力はどうなるべきなのか、について、実際岐路といえば岐路にあり、そうして、現実には既に、多分、私が思うに、多くの人が考えているよりも、軍事的に踏み込んでいる・・・。もちろん、引き返すことも可能なわけだが。


というのは、カナダはずっとアフガンに関係していて、そのプロジェクトは、どうやら、マジで、ある評論家の発言を借りれば、それはもうPeace Keepingじゃない、Peace Makingだ、ということのようだ。


つまり、アフガンの国作りに精力的になっている、ということ。

夏頃にカナダ軍のgeneralが発言した、これは20年もので取り組むものだからね、というのがわかり安い一言で、これを巡って、それでいい(peace makingはOK)、いいやそれじゃやり過ぎだ(peace keepingに留まるべきだ)と、もめてる。つか、でももめててももう行ってるわけだし、それを覆すまでの反対勢力はないといってもいいだろう。

'Afghanistan is a 20-year venture' warns Canadian general
http://en.wikinews.org/wiki/'Afghanistan_is_a_20-year_venture'_warns_Canadian_general


でので、これって、ある種、本家アメリカのリベラルがしゃかりきになりそうなテーマが下敷きになっているところが、カナダという戦争ものに対する過剰なまでの(いいことだが)反対を特徴とする国を、軍事的行動に首をつっこませている。


つまり、つまり、学校に行きたいといってる子供が学校に行けたり、女性の地位のあまりの低さをどうにかしたいじゃないのよという人がいるのなら、私たちはそれを助けるべきでしょ?という話。ここでカナダ人の多くは、そうだな、とならざるを得ない。なんていってもそれを良い事として日々暮らしてるんだから。


が、そこに、いわゆるwar loardというのか、軍事力を持った部族がいて、結構な惨いことも起こってる。じゃあどうするの? 軍事力を引いてそこに行くことが助けになるの? 


となって、現在に至る、と。


でので、カナダ人たちは絶対に認めないだろうが、これって、隣のアメリカの、ネオコンの本義ではあるわけだ。このたびのネオコンは仕事があまりにも荒っぽいは、手っ取り早すぎるはで、いかにも暴力にしか頼ってない、という具合に捉えられ、さらには実際そう言われるような仕事をしたわけだが、伝統的に、自由と民主主義とは言うものの、あまり他国の「作り方」には興味のないアメリカ人の中で、もう一方踏み込んで、「体制」を変えるようなことまでしたがった人々こそがネオコンだとも言える。だからこそ、ネオコンはリベラル変じての人々、リベラル原理主義者と呼ばれたわけだ。


さて、そうすると、カナダが現在アフガンでしている、あるいはしようとしているのは、これと本質的な脈は同じではないのか? ということになる。もちろん、嘘の証拠を使ってなんかしようとはしないし、軍に関しても、ある軍人さんが言っていたが、「あなたたちはどうするつもりですか、じゃないんですよ、あなたたちが私たちを送っている人なんですからね(だから政府を通してあなたたちが引けというなら引くんです)」という態度を明らかにしているし、それに関して恐いとか、嘘くさい感じは、とりあえず私には見てとれない。さすが、みたいな感じだ。


さてさてしかし、ここに、ある種リベラルの「一光」とでもいうべきものが残るってことは、いや、へんな心配だが、私は、ここに、そうだ私たちはリベラル原理主義者よと、隣の大国のリベラル勢がこぞって沸き立ったらどうするんだろうと心配する。そうよ私たちは自由と民主主義のデフェンダーなのよ、と。いつか、共和党の時代ってリーズナブルに温和だったよなとかいう日が来たりして、など思ってしまう。民主党って頭がでかいから恐い。クリントンの頭がそうであったように。あはは。

 ぬる湯の正論


「正論」編集部が開設したブログが正論すぎるというか正直すぎる件について
http://column.chbox.jp/home/kiri/archives/blog/main/2005/11/11_113413.html


隊長の指摘。のぞいたら、まんま、普通のおじさんが初めてネット世界湯に足をつっこんではみたものの、お湯が熱かったかしてちょっとダメそうな気がしたが、しかしもう服ぬいじゃった。そいじゃと素っ裸でしばらくすっとぼけて所在なげに、でもちょっと体裁はつけて、「紅葉、きれいでしてね」と見知らぬ男に語りかけるの図、というのを、無意味だが想像した。


たいていのおじさんたちというのはいい人なんだよ。