5月27日

阪神4−1西武
中一日で甲子園。今回は外野席。一番端っこ。通路があるからラッキーと思ったら、通路がない所だった。これは厳しい。しかも狭い。外野席で観戦するには強靭な肉体と精神力が必要だ。ヘタレの私には無理と悟った。
試合内容は石井一久投手をどう打ち崩すか。阪神はヤクルト時代の石井投手にめっぽう弱かった。今回はどうか、と思っていたが、双方とも貧打。西武が石井投手のタイムリーでやっと一点をとると、阪神は石井投手の負傷退場に乗じて一気に4点。最後は藤川球児投手の胸のすく投球で終わり。
藤川投手の投球だが、二人に立て続けに安打を打たれた後、目が覚めたかのように三者連続三球三振。記事などでは藤川投手がいろいろ試している、ということになっているが、やはり精神的なものが大きい気がしてならない。いずれにせよ阪神金本知憲選手と藤川投手に頼り切りなので、ここが命運を分ける。
その意味ではこの日は金本選手が全くタイミングが合わず、ストライクゾーンも審判とずれていて、三振が続いた後、死球で出塁と打点をあげるのがやっと。こういう日もある。むしろこういう日にいかに勝てるかが阪神のテーマの一つだろう。その意味ではよい試合だった、と言い得るだろう。

我が九条(その7) 九条師教

九条家がようやく摂関家の一員として残ったため、師教は比較的順調に昇進している。皇太子富仁親王東宮傅を務めながら後二条天皇の関白を務めるなど、持明院統大覚寺統双方とうまくやっているが、おそらく後二条天皇の関白を務めるのは、来るべき富仁親王践祚に向けての伏線と解するべきだろうか。富仁親王の即位後は摂政となっている。花園天皇である。花園天皇は好学の天皇として有名で、師教はその資質に何らかの寄与をしているとすれば、なかなかの人物だと思うが、詳細は分からない。しかもすぐに摂政を辞めているので、何とも評価は難しい。
九条師教(父:九条忠教、母西園寺公相女)
文永10(1273).05.27.生(1)
弘安4(1281).01.08.元服従五位上(9)
弘安4(1281).02.01.侍従
弘安4(1281).03.06.正五位下
弘安5(1282).12.25.右少将(10)
弘安6(1283).01.05.従四位下(11)
弘安6(1283).03.28.兼近江介
弘安6(1283).12.24.従四位上
弘安7(1284).01.16.左中将(12)
弘安7(1284).10.27.正四位下
弘安8(1285).03.08.従三位(13)
弘安9(1286).01.13.正三位(14)
弘安10(1287).02.10.兼播磨権守(15)
正応1(1288).09.12.権中納言
正応1(1288).11.21.従二位
正応3(1290).06.08.権大納言(18)
正応5(1292).12.25.橘氏是定宣下(20)
正応6(1293).01.28.内大臣(21)
永仁4(1296).12.27.転右大臣(24)
永仁5(1297).12.27.兼左大将(25)
永仁6(1298).01.06.左馬寮御監(26)
永仁6(1298).04.29.辞左大将
永仁7(1299).01.11.一上(27)
永仁7(1299).04.26.転左大臣
正安2(1300).01.05.従一位(28)
正安3(1301).08.24.東宮傅(29)
嘉元3(1305).04.12.関白、藤原氏長者(33)
嘉元3(1305).12.17.止大臣
徳治1(1306).12.22.止傅(34)
徳治3(1308).08.26.摂政(35)
延慶1(1308).11.10.止摂政
元応2(1320).06.07.没(48)