アルチュール-ランボー著作集の序

aroma22006-01-10

アルチュール・ランボー著作集の序

         ポール・クローデル   渡 辺 守 章 訳


     原注及び訳注は{ }内。特に原注は重要なので、併記。


 アルチュール-ランボーは野性状態の神秘家であった。湧き口を失っていた地下水が、水をいっばいに含んだ土のなかから再び姿を現わしたのだ。その生涯は一つの「誤解」〔正しく聞かないこと〕であり、彼をそそのかし駆り立てるあの声、そして彼がそれと認めようとはしないあの声から、遁走によって逃れようとする空しい努力であった。ついに追いつめられて、片脚を切断され、あのマルセイユの病院のベッドに横たわって、やっと彼にわかる時までは!

「幸福よ!ひどく優しいそいつの歯が、鶏の鳴く音を聴いて、………..朝明けに、だの、キリストは来り給えりの祈りの時に  { 手稿は、始め、「強き人々のためにキリストの来り給う時」。 }  -----陰欝極まる街々で、こう俺に教えてくれた」〔『地獄の一季節』錯乱Ⅱ〕「私達の居るところは、この世ではない!」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅰ」〕「精神によって、人は神のもとに至る!……俺に純潔の幻想を与えたものは、この目覚めの瞬間なのだ…もし俺がこの瞬間からはっきりと目覚めていたならば………」  { この部分、ランボーの原文と順序が違うし、多少、単語の異同がある、自由な引用だが、文意は変わらない。 }  (そして『地獄の一季節』の絶唱の部分すべて)……「胸を引き裂かれるこの不幸!」〔『地獄の一季節』「不可能」〕

 多くの文献のなかで、今、(ブレモン師の引用に従って)聖女シャンタルの言葉から借用しようと思う以下の文章を、比較参照して頂きたい。

「夜の白々明けに、神は、私の精神の高みを極めた至上の尖端において、私に微かな光明を、殆ど知覚できぬくらいにではあるが、味わわせてくださいました。私の魂の残る部分のすべても、その機能も、この光明には与りませんでしたし、またそれは、アヴェ・マリアの祈りを唱える時間の半分ほどしか続かなかったのです」  { アンリー・ブレモン著『フランス宗教精神文学史』第二巻、第七章、「フランソワ-ド-サルとジャンヌ-ド-シャンタル」五五三項。 聖女シャンタル(一五七二〜一六四一)は、十七世紀フランスの神秘家であり、夫シャンタル男爵の死後、聖フランソワ・ド・サルの精神的指導を受け、宗門に入り、千六百十年に「聖母訪問会」を創設した。}
 
 

 アルチュール-ランボーの出現するのは、一八七○年、わが国の歴史のもっとも惨めな時期であり、敗走と、内乱と、物質的・精神的壊滅と、実証主義の生み出す麻痺・昏迷の最中であった。突如として彼は立ち上がる--------「まるでジャンヌ・ダルクだ」〔『地獄の一季節』「悪い血」〕と後年の痛ましい叫びにあるとおりに。 { 「ヨハネと呼ばれる男が居た」訳注 新約「ヨハネによる福音書」第1章第6節「….彼自身は光ではなかったが、彼は光を証すために来たのだ….」。この「始めに言葉ありき」の章は、基督降誕祭の昼のミサにおいて称えられる。クローデルはこの日に回心した。 } この天から与えられた使命の悲劇的な物語を、パテルヌ・ペリションの著作『詩人、ジャン・アルチュール・ランボー』(メルキュール-ド-フランス社刊)に読まねばならぬ。彼に聞こえたものは、言葉ではなかった。声であろうか。いや、もっとっと徴かなもの、単に或る抑揚ある音にすぎぬ。だがしかしそれは、爾後、彼に休息も、「女たちとの交友」〔『地獄の一季節』「悪い血」〕も不可能ならしめるに充分なものなのである。彼を駆り立てたものが至高の意思であったと考えるのは、それほど無謀なことだろうか?我々すべてがその掌中にあるにもかかわらず、物を言わず、頑として口を閉ざしている或る至高の意思なのであったと。天才的な一人前の人間の表現力を備えた十六才の少年に出会うことは、ありふれた事柄であろうか。疑う余地のない記述が私達に語る、幼児が生れ落ちるや神の御名を讃えたということに劣らず、それは稀有のことである。ではいったい、この奇怪な事件に如何なる呼び名を与えればよいのか。
 
 

「俺は生きた、自然の光の金色の火花と散って。歓喜の余り、できるだけ道化て錯乱した表現を取ったのだ」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅱ」〕エデンの園の純粋無垢と、無限の優しさと、引き裂かれんばかりの悲しみを湛えた調べが、下卑て愚劣な世間の目に、くだらぬ文学の喧騒のなかに、一度か二度、響きだす。そしてこれで充分なのだ。「俺は、俺の血を掻き回した。俺の務めは果たされた」〔『イリュミナシオン』「生活Ⅱ」〕彼は語ることを止めた。封の切れている心に秘密は打ち明けぬものだ。彼に残されたのは、もはやただ沈黙すること、聴きとることだけである。再びあの聖女の言葉を借りれば、「思考は口に出すことによっては成熟しない」ことを知っているから。我々を取り巻くこれらの事物を、我々には反映として謎としてしか見えないことを彼は承知のこれらの事物を、熱烈な深い好奇心を以て彼は見つめる。もはや「異教徒の言葉」〔『地獄の一季節』「悪い血」〕では表現され得ぬ神秘的な共感を以って、彼は見つめるのだ。「何らかの始まり」、或る端緒なのである。終わりゆく世紀の探険家たちによって開かれたこの宇宙に、精神的な征服を挑むためには、被造物を汲み尽すには、被造物が言おうとすることから何かを知るためには、そして要するに、彼の存在の底にあって十字架にかける如くに苦しめるあの声に、幾つかの言葉を賦与するためには、人生をそっくり使っても余ることはないのである。
 


 我々の手に残されているのは、彼が苦渋に満ちて、「地獄堕ちした者の手帖」〔『地獄の一季節』の最初の章〕と呼んだ数葉の紙片である。この地上で一日限り我らの客となったその人が、「我々の如くかくも高貴でない輩の顔は見たくない」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅰ」。原文は「あなたのように……..」〕と、決定的にこの地を去った時、そこに残していった数ぺージの書に過ぎぬ。ランボーの文筆生活が如何に短かかったとはいえ、なおそこに、三つの時期、三様のあり方を認めることは可能である。
 
 
 
      
 


 第一の時期は、狂暴さの時期、純粋な雄の時期、吹き上げる血しぶきの如く、抑えきれぬ叫びの如くにその姿を現わす盲目的な天才の時期であって、前代未聞の力強く硬い詩句に表現されている。


躯は大きな苦痛によって、また金縛り、
恐るべき生の営みをまたもお前は飲む!感じている、お前は
血管中に群り湧く鉛色の蛆虫を!

(「巴里は再び大賑い」)




だが、女って奴は、累々たる臓腑の山よ、
優しくも衷れな!

(「看護修道尼」)

 
 


 天才の声変りとも言うべきものに立ち会い、罵倒や鳴咽や舌足らずの言葉のうちに、閃光目眩くあの筆致が炸裂し出現するのを見るのは、何と感動的なことであろうか! { ランボーのもっとも古い作品においても、すでに次のような詩句に出会う。  そこに、徐々に勝を占め、彼は事物を馴らして、万物の上に、馬上に跨る如く君臨しよう。…………………. 知らずにいる物事は、多分怖ろしいものだ!(「鍛冶屋」) }
 
 


 第二の時期は見者(ヴォワイヤン)の時期である。悲槍なまでに烈しく不器用な調子で記された、一八七一年五月十五日付の手紙 { 最近、パテルヌ-ペリションにより発見され、『新フランス評論』の一九一二年十月一日号に発表されたもの。 } のなかで、また、『地獄の一季節』の「言葉の錬金術」と題する数ぺージにおいて、ランボーは、彼の創始したこの新しい術、真に錬金術であり、質的転換の術の一種、この世の構成分子の精神的傾潟であるこの新しい芸術の方法を、我々に理解させようとする。死ぬまで彼を放さないこの逃走の欲求、すでに子供の時、自分の拳で我が目を潰させた「見る」ことに対するこの欲求(「七歳の詩人たち」)には、漠とした浪曼派的郷愁とはまったく別のものがある。「真実の生活はここには無い。私達の居るところは、この世ではない。」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅰ」〕問題なのは逃げることではなく、見つけることだ。「空間と公式とを」〔『イリュミナシオン』「放浪者」〕「エデンの園」を〔『地獄の一季節』「不可能」〕、そして、「太陽の子」として我々の原始の姿を〔『イリュミナシオン』「放浪者」〕回復することであったのだ。

 


 朝、人間と彼の記憶の世界とが同時には目覚めていない時、或いはまた、街道を行く長い一日の歩行の途中で、魂と、己れの律動的な遊戯に従わされた肉体との間に、断絶が生じる。一種の「開かれた」催眠状態が確立する。それは極めて特異な、純粋な受容性の状態である。この時、我々の裡において、言葉は表現であるよりは暗示的符号としての働きを持つ。精神の表面に昇ってくるふとした単語の数々、ルフラン(折返し句)、執拗に取り憑いて離れぬ連続的な文、これらが一種の呪文を構成し、それが意識を凝結せしめるに至る。が、一方、我々の内部の鏡は、外部の事物に対して、ほとんど物質的な感受性の状態に置かれたままでいる。事物の影は直接に我々の想像力の上に投げかけられ、その虹彩によって調色される。我々に対して交流が開かれたのだ。『イリュミナシオン』が表現しているものは、まさにこの歩行者の重層的状態である。一方には子供の輸踊りの唄やオペラの台本の言葉に似た短い詩句があり、他方には、文法的な彫琢や外在的な論理の代りに、一種の直接的で暗喩的な結合を構成する無秩序な映像がある。「俺は架空のオペラとなった。」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅱ」〕詩人は単語を探すことによってではなく、反対に、自分の身を沈黙の状態に置くことによって、そして、自然、つまり「こちらを引っ掛けて、引きつける」 、{  前掲、一八七一年五月十五日付書簡〔訳注 ポール・ドムニー宛の原文は、「思考をひっかけてとらえ、引きつける思考」〕。  } 感覚的形質を、自分の上に通過させることによって表現を見出す。世界と詩人とは、共に相互的にあばき出される。この力強く豊饒な想像力の人にあっては、「のような」という単語は姿を消し、幻覚が棲み着き、そして暗楡(メタフォール)の二つの極は、彼にはほとんど同じ程度の現実性を持ったものに思われてくる。「それぞれの存在には、然るべき他の生活が幾つもあるように俺には思われた。この人には自分のしていることが解らない。彼は、天使なのだ。この家族は一腹の仔犬の集りだ。」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅱ」〕 極端・過激な宗教的実践であり、「いわば物質主義的」神秘神学であって、そしてそれはさしも強靱で理性的なこの頭脳をも錯乱させかねないものであった。  {  前掲書簡  「僕は続けることができなかった、きっと気違いになっていただろうし、それに……..苦痛だった」(イザベル-ランボーに述べた言葉)。なお、『地獄の一季節』を参照   }   しかし問題は精神に至ること、「不在の」この自然から仮面を剥ぐこと、そしてついに、すべての感覚に受け入れ得るものとなったテクストを、「一つの魂と一つの肉体との裡に真理を、」〔『地獄の一季節』「訣別」〕我々の個性を備えた魂に適合した世界を、所有することであった。  { 「彼は真理を見たかった、欲望と本質的な満足の頃合いを識りたかった。それが、信心の迷いであろうと、なかろうと、とにかく彼は欲したのだ。少なくとも彼は、充分に広大な人間の力を持ち合わせていた」。ランボーの破壊的な面をよく示しているこの「小話」(『イリュミナシオン』)全編を参照。 }


 
 

 第三の時期-------------私はすでに屡々『地獄の一季節』を引用した。 { 一八七三年、すなわち『黄色い恋』〔トリスタン-コルビエール作〕と『マルドロールの歌』〔ロートレアモン作〕の年である。-------この時、神へ向かう道で、ランボーは、いわば嫌疑を抱いた時期のなかで立ちどまろうとしたのだ。しかし、宇宙と、「そして、二人が棕櫚の庭園のほうへ進んで行った午后」(『イリュミナシオン』、「王権」)とが残っている。} 如何にも沈欝で、苦渋に満ち、しかも同時に不思議な優しさのただようこの書物について、バテルヌ・ベリションのおこなった決定的な分析に、{ 『詩人、ジャン-アルチュール-ランボー』(メルキュール-ド-フランス社刊)。 } あえて私がつけ加えるものはほとんどない。この作品においてランボーはその詩法を完壁に駆使するに至ったのであり、ストラディヴァリウスの柔軟で乾燥した木質のように、その繊維のくまぐままでも明晰な音の浸透した、あの見事な散文を、彼は我々に聴かせようとするのだ。フランスの散文は、詩の歴史とはまったく別の、固有な、豊饒な歴史をもち、その歴史をとおして創造の営みはついぞ中絶も間隙も識らないのだが、そのようなフランスの散文は、シャトーブリアンとモーリス・ド・ゲランののちに、ついにここに到達したのだ。挿入節の持つ可能性のすべて、人類の国語がしつらえうる限りもっとも豊かでもっとも徴妙な語尾の響き合いのすべて、これらがついに全面的に活用されたのである。パスカルによって確立された、「内在韻」や主調音の調和の原理は、比較を絶して豊かな音楽的転調や協和音への移行と共に展開されている。  { 訳注 クローデルが一九二五年に書いた「フランス詩についての反省と提言」(『立場と提言』に収録、拙訳は筑摩書房『世界批評大系』第3巻に載っている)(日本での書名、『書物の哲学』(1983年法政大学出版局)が今日でも入手可能である。)を参照。    「パスカルによって確立された内在韻云々」は、単に同じ音素の照応ではなく、例えば同じOでも、………}

 

 一度ランボオの呪縛を体験した者は、ちょうどワーグナーの楽節の呪縛を受けた者と同様、金輪際それを祓うことはできないのだ。------論理的な展開によらず、音楽家における如き、メロディーの構想と、並置された音の関係とによって運ぶ思考の歩みも、重要な考察の主題となるはずである。

 
     
 


 私はペンを置き、彼の故郷、私が遍歴して帰ってきたばかりのあの土地を思いうかべる。黒々と澄んだムーズの流れ、メジィエールの町、険しい丘陵に挾まれた古城、鉱炉と轟音に満ちた川沿いの町シャルルヴィル。(彼が少女の墓のごとき白い墓石の下に眠っているのもこの地なのだ。)そしてあのアルデンヌという地方。土地は痩せ、幾棟かのスレート葺きの屋根がぽつんとかたまっている。常に地平線に連なるものは、伝説的な森の線。それはまたいたるところに泉の湧き出る土地。あくまでも澄んだその湧き水は、あまりにも深く、湧き出てはそのままにゆるやかに廻り続ける。睡蓮の群がる青緑色のエーヌ河と、硬玉の水の上に姿を見せる黄色く枯れた三本の長い芦。そしてあのヴォンクの駅。見渡す限りのポプラ並木がその縁に沿って連なる、不吉な運河。ここで、陰欝な夕べ、マルセイユから戻った片脚のない男が、母親のもとへと彼の身を運んでくれる車を待っていたのだ。それから、ロッシュにある、あの浸蝕された石壁の大きな館。百姓家風の屋根。戸口の上には一七九一年と刻まれた日付。彼が、最後の著作を書いた穀物部屋、その手稿を焼いた、大きな十字架像のある暖炉、彼の苦悩のベッド。そして私は、黄ばんだ紙片やデッサンや写真を、この手に取って見るのだ。なかでも、特に悲劇的なこの写真、ランボーがニグロのように真黒な顔をして、丸刈りの頭で素足、そしてかつて彼が称讃した徒刑囚 { 『地獄の一季節』、「悪い血」 } さながらの服を着て、エチオピヤの河辺に立っているもの、 {「ああ!僕のほうは、人生というものにまるで未練がありません。僕が生きているのは、疲れて生きることに慣れっこだからです。…….それから、このひどい気候のなかで、馬鹿げてもいるし激烈でもある苦しみで自分の心を養い続けることにも。……..この世において、真の休息の幾年かを、僕らも味わうことができますように。しかし幸いにもこの人生はこれ一度限りだし、それは分かりきったことです。なぜなら、この人生よりも大きな苦労を伴ったもう一つの人生なんて考えもつきませんから。」(アデン、一八八一年五月二十五日付〔家族宛〕)。彼は底に触れたのだ、少なくともそう信じている。さまよう男をついに定着させたこの紅海沿岸は、地上でもっとも古典的な地獄に似た地域である。「人の子がその扉を開いた、あの昔ながらの 地獄」(『地獄の一季節』) }  また鉛鉱山での肖像や、そして最後に、イザベル・ランボーマルセイユコンセプシオン病院における兄の最後の数日を物語るこの手紙を。 { この時期には、彼女は兄の著作をまったく知らなかった。この手紙はランボー夫人にあてたもので、コンセプシオン病院、一八九一年十月二十八日付のものである。}


「………彼は私を見つめていました、晴れ晴れとした眼をして…。すると、彼は言いました、部屋のなかをすっかり準備しなくては、すっかり片づけなくては、もうすぐ神父が聖体をもって戻って来る頃だ。いいかい、もうすぐ蟻燭やレースを持ってくるんだ。どこも白い布を掛けておかなければ……。目が覚めると、彼は絶え間ない一種の夢幻の状態で過ごすのです。彼は奇妙なことを口走りますが、その声の調子はとても優しく、もしその声が私の胸をえぐるような事がなければきっとわたしをうっとりさせるに違いないと思います。言っていることは夢です-------でも、熱のある時とは全然別です。
殊更に彼はそうしているのだとも言えるでしょうし、私もそう思います。{ この一文に傍点あり。 傍点は筆者クローデル } そのような事を彼が呟くので、修道尼がごく低い声で私に、また意識がなくなったのかしらと言われたことがありました。それが彼にも聞こえて、真っ赤になりました。それでもう何も言わなくなりましたが、修道尼の出て行ったあとで、私にこう言うのです。僕のことを気が狂ったと思っている。お前も、そう思っているのかい?いいえ、私はそうは思いません。生きていると言っても、ほとんど肉体は無いも同然なのですし、彼の考えていることは、どうしようもなく口に出てしまうのです。時々彼は、お医者様方に、自分に見える途方もないものが見えるかと尋ね、私の筆では表せないような言葉で、自分の感じていることを優しい声で話し出し、長々と物語るのです。お医者様方は彼の眼を見つめて、________これほど美しく知的であったことはなかったようなあの美しい眼を見つめて、お互いに、奇妙です、と申されます。アルチュールの症状には、この方々には分からない何かがあるのです。もっとも、お医者様方はもうほとんどお見えになりません。彼がお話をしながらよく泣きますし、それで困ってしまわれるからです。________彼はどの人を見ても誰だか区別がつきます。私のことは時々ジャミと呼ぶのですが、それはそうしたいからで、これも彼の求めている夢に属しているのだということが、私には分かっています。それに、彼は何もかも混同します。しかも、........巧みに。私たちはハラールに居るのです。いつもアデンにむかって出発するのです。駱駝を見つけ、隊商を組まなくてはならない。かれは関節のある新しい義足をつけて、いとも楽々と歩き廻ります。私達は豪華な馬具をつけた美しい騾馬に跨って、あちらこちらと散策に出かけるのです。それから、働かねばなりません。帳簿をつけ、手紙を書かなくては。早く、早く、人々は私達のことを待っている。スーツケースの蓋をして、出発だ。どうして自分を起こさなかったのだ。なぜ、服を着るのを手伝ってくれない。もし、今日中に着かなかったら何といわれるだろう。人はもう自分の言葉を信じちゃくれない。自分のことを信用してはくれなくなるなるだろう!そして彼は泣き始め、私が不手際だ、投げ遣りだといって恨むのです。なぜって、私はいつも彼と一緒にいて、すべて用意は私の役目になっているのです。」

 私は、彼の言葉をそのままに信じてきた者の一人である。彼を信頼してきた者の一人である。

         一九一二年七月

       Paul Claudel: PREFACE AUX CEUVRES D’ARTHUR RIMBAUD