岡田以蔵宜振

「撃刺矯捷なること隼の如し」

天稟の剣才があり、大男だったのですが動きが俊敏だったので、岡田以蔵の剣捌きはこのように例えられました。

 
 以蔵(諱は宜振)は、土佐香美郡岩村郷士岡田義平の長男として生まれました。義平が足軽として徴兵されてから、城下の七軒町に住むようになったので、後年「七以」の通称で呼ばれたこともあります。土佐藩は上士と郷士下士)の厳しい身分差別があり、その反骨心からか抑圧された郷士の層に、武芸や学問に優れた者が数多く輩出しています。その一人が幕末志士の巨魁、武市瑞山(半平太)です。瑞山は身丈六尺、あごが長く、眼中に異彩を放ち、武芸や学問に優れ、威厳があったので、郷士の身分ながら上士も一目置いていた人物です。江戸で遊学中に諸藩の志士と交わり時勢に憂い、攘夷思想に傾倒していきます。文久元年(1861年)、自分で開いていた道場門下生を中心として、挙藩一致で攘夷を実行するための組織「土佐勤王党」を江戸で結成しました。以蔵は瑞山の道場に入門しており、瑞山にその剣の腕前を認められて、子分のように付いて回っていましたが、この時には何故か加盟していません。
 瑞山は攘夷実行の妨げになっていた、保守派の参政吉田東洋を同志と結託して暗殺すると、人事刷新のクーデターを起こし、藩内での発言力を強めていきました。瑞山のその伝わっている人柄は、誠実重厚で義に厚く、孝徳心もある人なので、暗殺を好んでいたとは思えないのですが、東洋暗殺が目的達成にあまりにも効果的だったせいでしょうか、その後は暗殺の元締めのようになってしまいます。薬が効きすぎて中毒になってしまう、人の心の底知れぬ恐ろしいところです。

 以蔵の記録に残る最初の暗殺は、文久二年(1862年)八月二日東洋暗殺を調べていた土佐の下横目・井上佐一郎ですが、「人斬り」ではなく絞殺でした。続いて閏八月二十日・本間精一郎、閏八月二十二日・宇郷玄蕃頭、閏八月三十日・猿の文吉、九月二十三日・与力渡辺金三郎、森孫六、大河原重蔵、上田助之丞、十一月十五日・多田帯刀、文久三年一月二十二日・池内大学、一月二十九日・賀川肇と凄まじい勢いで暗殺を行います。(以蔵単独ではなく、田中新兵衛などと集団で行ったものもあります)当然、瑞山の指示或いは示唆があったと断定してよいでしょう。以蔵の残っている言動や行動の記録を見ても、その暗殺行為に以蔵自身の思想的背景が感じらず、殺人行為を楽しんでいるかのようです。

 こんな以蔵でしたが同郷の坂本龍馬は何故か、何かと気に掛けて親切に接しています。人間としての格が数段違うのですが、この同郷の暗殺者を少しでも真っ当にしてやろうと思ったんでしょうか。幕臣勝麟太郎(海舟)が滞在してい時、龍馬は以蔵に勝の護衛を頼みます。

「あっしが開国論者の勝麟の護衛ですか?斬れというなら、話は分かるが」
「おまん、先生は日本にとって大切な人じゃき。おまんが何人斬ったか知らんが、日本の為に先生を護衛することには、はるかに及ばんぜよ」

と、こんな会話があったと思います。乱暴者の以蔵でも龍馬には一目置いていたようです。渋々引受けると護衛中にちょっとした出来事がありました。このことは明治期に勝海舟の回顧談を記録した、「氷川清話」が詳しいので原本をそのまま引用します。


「仕方なしに其夜は市中を歩いていたら、丁度寺町通りで三人の壮士がいきなり前へあらわれて、ものもいわず切り付けた。驚いて後へ避けたところが、おれの側にいた土州の岡田以蔵が、いそぎ長刀をひき抜いて一人の壮士を真っ二つに斬った。弱虫どもが何をするかと一喝したので、後の二人は勢いに辟易して何処ともなく逃げていった。おれもやっとの事で虎口を遁れたが、岡田の早業には感心したよ。後日おれは岡田に向って
『君は人を殺すことをたのしんではいけない。先日のような挙動は改めたがよかろう』
と忠告したら、
『先生それでもあの時、私が居なかったら先生の首は既に飛んでしまって居ます』
といったが、これにはおれも一言もなかった」
「氷川清話」より


 龍馬の親切もあまり効果はなく、以蔵の行動が改まることはありませんでした。そして文久三年(1863年)「八月十八日の政変」で長州藩が中央政界で失脚すると、土佐勤王党も藩内での力を失い、東洋暗殺の容疑で武市瑞山他、重だった者達は捕らえられ厳しい詮議を受けることになります。
京にいた以蔵は、勤王党から援助もなくなり、身を持ち崩し、土井鉄蔵と変名して酒や博打に浸り、金が無くなると辻斬り強盗までしていました。確たる思想もなく「人斬り」ばかりしていたので、性格も相当歪んでしまったのです。瑞山という飼い主がいなくなり、もはや鎖の切れた猛犬のようです。
元治元年(1864年)六月頃、京都奉行所に追剥ぎ容疑で捕縛されると、入墨され京を追放になり、待ち受けた土佐の下横目らに捕らえられ、土佐に送られました。以蔵が土佐で入牢すると、瑞山は自白を恐れて、天祥丸という毒を食事に混ぜて飲ませますが、余程の特異体質なのか効果が無く、遂に厳しい拷問に耐えきれなくなった以蔵は全てを自白しました。
 瑞山は切腹、勤王党の重だった者は斬首や永牢、岡田以蔵は「土井鉄蔵」の名のまま斬首の上、雁切河原に梟首となり、土佐勤王党は壊滅しました。慶応元年(1865年)閏五月十一日武市瑞山は、滅多に出来ないといわれている「三文字腹」の切腹をして、検死の役人を唸らせたそうです。どの様なものかは説明の必要もないでしょう。


 藩士ではなく、町人のように処刑された岡田以蔵ですが、何故か「辞世の句」が残っています。もっとも他に、後世に残したものは何もありませんが。


「君が為 尽くす心は水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」



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