「主がこの所におられる」

  「ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。そして彼は恐れて言った、『これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ』。」(創世記 28:16, 17)

   神に真の崇敬の念を抱くということは、神の無限の偉大さと神の臨在を自覚することによるのである。すべての者は目に見えない神に対して、こうした思いを心から抱かなければならない。祈りの時間と場所は神聖である。なぜなら、神がそこにおられるからである。そして、崇敬の念が態度とふるまいにあらわされるときに、その感じはさらに深まるのである。「そのみ名は聖にして、おそれおおい」と詩篇記者は言っている(詩篇 111:9)。そのみ名を語るとき、天使たちは彼らの顔をおおうのである。もしそうであるならば、堕落した罪深いわれわれは、どんな崇敬の念をもって、それを、われわれの口にしなければならないことであろう。神の特別の臨在があらわされた場所は、どんなに重要視すべきであるかを示す次のみ言葉を老いも若きもともによく考える必要がある。神は、燃えるしばのところで、「足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」とモーセに言われた(出エジプト3:5)。(国と指導者上巻 23, 24)

    神は高く聖なるお方である。そして、心低く信じる魂にとって、このお方の民が礼拝のために集う場所である地上の神の家は天の門である。賛美の歌やキリストの牧師たちによって語られるみ言葉は、神が上なる教会のために、すなわち、不純なものは何も入ることのできないより気高い礼拝のために民を準備させようとお定めになった手段である。……神は不遜な思いや行為を一つ一つご覧になり、それは天の書に記録される。……くまなく探られる神の御目には何一つ隠れるものはない。もしあなたが神の家で不注意や無関心な習慣をいくらかでも身につけてきたなら、それを正すために持てる力を働かせなさい。敬虔があなた自身の一部となるまでそれを実践しなさい。(青年への使命 262)

「キリストを通して神に」

 「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。」(第二コリント5:19)

 聖なる歴史のすべてのページは、主の選ばれた民達に対する神の扱われ方が記され、そして、『有ってある者』といわれる大いなる方の強烈なみ足のあとが存在しているところである。神のご臨在のこれらのすべての啓示の中で、神の栄光はキリストを通してあらわされた。救い主の来臨においてだけでなく、堕落と、救いのみ約束後の全時代を通して、『神はキリストにおいて世をご自分に和解させ』られた。キリストは、父祖の時代とユダヤ人の両時代を通して、犠牲制度の基礎であり、中心であった。私達の最初の両親が罪を犯して以来、神と人間との間には直接の交わりはなかった。天父は世をキリストのみ手に与えられた。そして、主の仲保の働きによって、人間を救い、神の律法の権威と神性とを擁護しようとされたのである。天と、堕落した人類との交わりのすべては、キリストを通してなされている。私達の最初の両親に救いの約束を与えられたのは、神のみ子であった。ご自身を父祖たちにあらわされた方は主であった。アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセは福音を理解した。彼らは、人間の身代わり、そして、保証人による救いを待ち望んだ。……
 聖所の神聖な奉仕は、各時代を通してあらわされねばならなかった根本的な真理を象徴していた。イスラエル人の祈りと共にのぼっていった香の雲は、罪人の祈りを神に受入れていただくことを可能にする唯一の主の犠牲を表している。犠牲の祭壇の上で、血を流したいけにえは、来たるべき贖罪者を示していた。至聖所から神のご臨在を見ることのできるしるしが輝き出ていた。暗黒と背教の時代を経ても、信仰は約束されたメシヤの来臨が到来した時まで、人々の心に生き続けた。イエスは、人間のかたちをとって地上に来られる前から、ご自分の民の光一世の光であられた。…地上の住民の上に投げかけられた天の輝かしい光線のすべては、主から来た。救いの計画においてキリストは、アルファであり、オメガ、初めであり終わりであられるのである。(PP366,367)

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「すべての時代のための一つの計画」

 「確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である。」(使徒行伝15:11)

 主の真理は、各時代の主の民たちの必要に答えるため、ちがった発展はしてきたが、あらゆる時代を通して、同一のものである。旧約時代にあっては、あらゆる重要な働きは、聖所に密接な関係があった。偉大なる「有ってあるもの」といわれた方は、至聖所にとどまられた。…そこの恵みの御座の上には、ケルビムの翼がかげを落とし、主の栄光のシェキーナがとどまり、主の臨在の永遠のしるしがあった。宝石をちりはめた胸当ては、聖所のその聖なる場所から、エホバの厳かな使命を民たちに知らせた。聖なる方、天地の創造者が、このようにして主の栄光をあらわし、主のみ心を人の子たちにあらわされたその時代は、またすばらしい時代であった。
 その時代の型であった犠牲とささげ物は、罪深い人間のために、完全な献げ物となるべき方であるキリストをあらわしていた。これらの神秘的な象徴、影としての型が来るべき救い主を指し示していたかたわら、イスラエル人には、その時に、救い主がおられた。それは、昼には雲の柱、夜は火の柱でおおわれた主であって、彼らの旅路を導かれ、そして民たちに聞かせるためにモーセに直接み言葉を賜わった主であられた。…人間の創造において、父と一つであられた方が、古代の人々の命令者、律法授与者、そして案内者であられた。(RH18H、3、2)
 多くの人は、キリストのいない、悔い改めも、信仰もなかった暗黒の時代に、イスラエルの人々は住んでいたと考える。多くの人々は、キリストにある信仰が、何の役割も果たしていない形式的で儀式的な宗教を、イスラエルの子供たちは持っていたという誤った教義を持っている。しかし、今日の人々が、キリストによって救われているように、その時代の人々もキリストによって救われたのである。……キリストは、実体なる主が私達の世界に来られる時まで、あらゆる種類の犠牲や、ささけ物において、型を影として続けられてきたのである。ヘブル人たちは、救い主の来られることを喜んだ。私達は、再び来られる救い主を喜んでいる。…キリストの血は、古代のイスラエル人に対してそうであったように、私達にも有効なのである。(YII901,7,18)

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「兄弟愛のくさり」

 「神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。」(使徒行伝10:35)

 イエスが教えられた聖書の宗教は、自己中心的排他性、個人的な快楽の中には存在しない。それは愛の行動の実践、他人に最大の善をもたらすこと、純粋な善意の中に存在する。…主のご生涯には、どんな誇りも、見せかけもなかった。・‥主は全世界の創造者であられたが、地上生涯の間、ご自身について「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(ルカ8:20)と言われた。……
 イエスは、天の君主、栄光の王であられた。しかし、主の人格には、忍耐深さ、親切、正しい礼儀、寛大さ、小さな子供達に対する満ち満ちた愛、試みられている者、試練の中にある者、しいたげられている者達に対する豊かなあわれみと同情があった。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ…」(ルカ4:18,19)とご自身について言われた。
 このようにあわれみをもって、地上に使命を成就するためにこられたにもかかわらず、主には、家もなくしばしば飢え渇かれたのである。主ご自身の民たちは、術策や、ねたみと嫌悪の陰謀をもって主を迫害した。……
 主は、最大の辱めの死を遂げられた。そして一人も滅びないですべてが悔い改めに至ることができるように、十分で完全な犠牲をなされた。主は、すべての悔い改めた人々、信じる魂が罪を負われた主を見出すことができるように、贖いをなされた。主を信じる人々が、霊と命である主の言葉を、実行しさえするならば、彼らが主の模範に従い、世に対する尊い光となるならば、彼らは、いかなる人間の哲学も完成できないものを、世のために成すであろう。キリストの教訓は身分、すなわちユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷の区別のない宗教の基礎を据えている。人々はお互いに兄弟関係に結ばれ、神の前に平等である。なぜならば、彼らは皆生けるぶどうの木の枝である。彼らは自分達の個人的救い主として、キリストを信じているのである。(YI1894、8、16)

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「キリストにある信徒の平等性」

  「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。…もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテヤ3:26,28)


 「結合の秘訣は、キリストにある信徒達の平等性の中にある。すべての分派、不和、争いの理由は、キリストからの分離の中に見出される。キリストは、すべての人が引きつけられるべき中心点である。なぜならば、中心点に近づけば近づくほど、イエスのご品性とみ姿に成長し、感情、同情、愛において、お互いがより近づいて来るからである。神にかかわることによって、人間にかかわることがなくなる。
 世的華麗さの無価値を知っておられたイエスは、それをあらわすようなことになんの関心も示されなかった。魂の尊厳さ、品性の高潔さ、原則の気高さにおいて、主は、世の空しい流行よりも、はるかに高くあられた。・‥主は、人間のかっさいを望まれなかった。……あらゆる種類の富、地位、世的階級、そして人間の偉大さの栄誉は、天のはまれと栄光を捨ててこられた主にとっては小さなものにすぎなかった。主は、世的に豪華なものは所有されず、ぜいたくも顧みられず、飾らず、むしろ、謙遜を示された。
 貧乏に縛られ、心配に押しつぶされ、労苦をになっている人も、主のご品性と模範の中に、イエスが、彼らの試練について、また彼らの環境の重圧について何も知っておられず、人間の欠乏や悲しみについても同情を持たれないと考えるようなものは何一つ見出すことができない。主の謙遜な日々の生活は、主の誕生と環境の低さに調和していた。無限の神のみ子、命と栄光の主は、最も低い階級の人生を送るために、屈辱の中に下降してこられた。それは、だれもが主の臨在の前から排除されたと感じることがないためであった。主はご自身をすべての人に近寄りやすい方にされた。主は、ある好ましい人だけを選んで交わり、他の人を無視なさるということがなかった。(1SM259、260)
 すべての人は創造によって、また、贖いによって一つの家族になっている。キリストは、すべてのへだての壁を破壊するために来られた。…それで、すべての魂は、自由に神に近づくことができるのである。主の愛は、とても広く、深く、完全であり、すべてのところに浸透する。(COL386)

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「全人類に対するキリストの祝福」

 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)

 キリストの恵みは、少数の人だけに限られるものではない。キリストによって天からもたらされた恵みと許しの使命は、すべての人に伝わるべきである。私達の救い主は、「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)といっておられる。主の祝福は全人類に対するものであらゆる国民、部族、国語、民族に及ぶものである。キリストはすべてのへだての壁を砕くために……ユダヤ人も、異邦人も、すべての人が自由の礼拝者となり、神に近づく道を持つために来られた。
  天の使者達は多くの通路を通して、世界のあらゆるところで活動的な交流を果たしている。もし人が、真実で熱心な心を持って主を呼び求めるならば、神は、天の主のみ座から身をかがめて答えてくださる。主は、すべての切望する叫びを聞いて、「わたしはここにいる」と答えてくださる。主は、悩みを持ち、圧迫されている人々を、起き上がらせてくださる。主は、善人同様に、悪人にも祝福を与えられる。
 キリストが教えられたあらゆる戒めの中に、主はご自身のご生涯を詳しく述べておられる。神の聖なる律法は、この生ける代表者の中に拡大されている。主は、無限な思考の啓示者であられる。主は、不確かな感想や意見は述べず、純粋で聖なる真理を告げられた。…主は、ご自身の中に、そして、無限な愛の中にあらわされている神をはっきり見るように人間を招いておられる。(YI1,1897,7,29)
 神を知ることは、人間が持つことのできる最もすばらしい知識である。世の人々の中には、知識の豊かな人もいる。しかし、彼らは自分の持つ知識を使って、全世界の創造主の美しさ、荘厳さ、そしてその義、知恵、善、聖を見ることをしない。主は、主の摂理によって人間の間を歩かれる。しかし、主の堂々たる歩みの音は聞こえない。主のご臨在は気づかれない。主の御手は、認識されない。キリストの弟子達の仕事は、神のご品性を世の中に現わすために光として輝くことである。彼らは、神のみ言葉から、光の増し加わっていく光線をとらえて、神を誤解して暗やみに、おおわれている人々にそれらを反映しなければならない。キリストのしもべ達は、神とキリストのご品性を正しく人々に示さなければならないのである。」(RH1889,3,5)

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「すべての光の源」

 「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。』」(ヨハネ8:12)

 ナザレのイエスは、ご自身を世の光であると、宣言された。あなたがたは、主をどのように考えるだろうか。主は、世の中の宗教指導者の中にあって、どのような地位を占めているのだろうか。確かに、何千何百という人々が、偉大なる思想家、思索の人、自分の理論を公にし、その知的、道徳的学識で、多くの人の心を魅了した人として認められている。自分の生涯の所産として、思想を世の中に残した、いわゆる偉人と言われる人々は、この世の中がこれまでに知った、最も賢い人々として認められてきてもいる。しかし、この人々も、キリストと比べることはできない。人間が、そういったものを造り出す前に、啓示があったのである。人間の有限な知識は、教師の中で最大の教師、キリストの教えの中に含まれていて、私達の世界に輝き出てきた驚くべき事柄を見た結果に過ぎないのである。いかに偉大なる理想を人間が展開しようとも、キリストによってもたらされたものである。思想という宝石、知性のひらめきのすべては、世の光によってあらわされているのである。……
 キリストは「わたしは世の光である」と宣言された時、どんな弁明もなさってはおられない。主は、生活、教え、福音において純粋な教理のあらゆる基礎であられた。太陽が天にあるもっと小さな光と比べられるように、すべての光の源であるキリストは、御自分の時代の教師達と比べられた。主は、どの者達よりも進んでおられ、太陽の輝きを輝かせておられた。主は、全世界にご自身のよく通る輝かしい光をまき散らされている。…有限な心で測るならば、人間は学識があり、偉大であると言われる。しかし、彼らの自負する知恵、科学、学問のすべてをもってしても、彼らは、神と、また、神がつかわされたイエス・キリストとを知ることはできないのである。…過去に生きたどんな人も、あるいはこれから生きるであろうどんな人も、真理のあやまることのない案内者、最高の啓示者になることはできない。人間は、学問の最高の水準に到達しようと求めることはできる。しかし、「神から送られた教師」がおられる。そのかたは、どの人よりも高い水準におられるのである。いかなる人間の教師も、主に等しくなることはできない。(YI1897,9,16)

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