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2006年9月から2010年5月までのものです_(_^_)_


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2012おいしい村
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  • アントニオ・ネグリ講演集〈下〉“帝国”的ポスト近代の政治哲学 (ちくま学芸文庫)
  • 地球生命は自滅するのか? ガイア仮説からメデア仮説へ
  • アントニオ・ネグリ講演集〈上〉“帝国”とその彼方 (ちくま学芸文庫)
  • ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)
  • 丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)
  • 戦後政治の崩壊―デモクラシーはどこへゆくか (岩波新書)
  • 本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー (PHP新書 546)
  • 「水」戦争の世紀 (集英社新書)
  • 水戦争―水資源争奪の最終戦争が始まった (角川SSC新書)
  • 中国茶 風雅の裏側―スーパーブランドのからくり (文春新書)
  • 銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎
  • Goldberg Variations
  • 教皇ヨハネ・パウロ2世により挙行された荘厳ミサ モーツァルト:ミサ曲ハ長調 K.317
  • イタリア有機農業の魂は叫ぶ―有機農業協同組合アルチェ・ネロからのメッセージ
  • 現代アート入門の入門 (光文社新書)
  • ぼくには数字が風景に見える
  • 今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)
  • つくる、たべる、昔野菜 (とんぼの本)
  • 自家採種ハンドブック―「たねとりくらぶ」を始めよう
  • 岩崎さんちの種子採り家庭菜園
  • パリのカフェをつくった人々 (中公文庫)
  • フューチャリスト宣言 (ちくま新書)
  • スティーブ・ジョブズ-偶像復活
  • 地球感覚、 (1984年)
  • ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)
  • 宮沢賢治詩集 (岩波文庫)
  • 風の男 白洲次郎 (新潮文庫)
  • 千年、働いてきました―老舗企業大国ニッポン (角川oneテーマ21)
  • モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)
  • 旅をする木 (文春文庫)
  • 幸せな牛からおいしい牛乳
  • モー革命―山地酪農で「無農薬牛乳」をつくる
  • 千年、働いてきました―老舗企業大国ニッポン (角川oneテーマ21)
  • 河童が覗いたヨーロッパ
  • パリのカフェをつくった人々 (中公文庫)
  • 東欧・旅の雑学ノート―腹立ちてやがて哀しき社会主義 (中公文庫)
  • バール、コーヒー、イタリア人―グローバル化もなんのその (光文社新書)
  • 知っておきたい「食」の世界史 (角川ソフィア文庫)
  • 考える胃袋―食文化探検紀行 (集英社新書)
  • パリのカフェをつくった人々 (中公文庫)
  • ヨーロッパ 民族食図鑑 (ちくま文庫)
  • エル・ブリ 想像もつかない味 (光文社新書)
  • エル・ブジ 至極のレシピ集―世界を席巻するスペイン料理界の至宝 (世界最高のレストラン―スペイン編)

2012-01-13

おいしい村をよろしく

f:id:buonpaese:20120113234618j:image:medium

2011年はホントにいろいろなことがありました。

311の震災原発事故では、被災された方のこと、自然の脅威、人災としての原発事故、

社会システムの嘘と限界、何もできない自分、頼り切っている私たち……

石垣りん詩編そのままに、私たちは、「やすらかに 美しく 油断していた」のでしょう。

悼み、嘆き、そしていろいろ考えさせられました

いろいろ考えて、2012は「おいしい村」という仕事を始めます

テーマは「つくる人と暮らしを結ぶ」、キーワードは「伝える」「結ぶ」です。

とはいえ、具体的な中身はこれからつくっていかなきゃいけません。

今日、ホームページも立ち上げました。

アドレスは http://oishii-mura.net です。

こちらの中身もこれからつくっていかなきゃなりません。

どうぞよろしくお願いいたします。

2010-05-26

buonpaese2010-05-26

食に主体的に関わる…おいしい村の輪郭線






とりあえずメインコンテンツとして別blog「おいしい村…il buon paese」をえいこらしょっと、楽しみつつ書き込んでいるんだが、その輪郭のようなことが見えた気がした。

それは、どうも茫洋としてつかみ所がないような「おいしい村」という言葉について。

このコトバ、きっかけはイタリアで出合った「il buon paese」、英語で直訳なら「a good country…良き国」という言葉の勝手訳だったんだが、これを「あ、おいしい村じゃん」と決め込んだ自分自身、その意味するところがわかんなくなっていた。伝えたい食材地域や人、出来事の総体がきっと「おいしい村」ってこととタカくくって走ってきた現在、そのほんの取っ掛かりが見えたような気がしたのでメモっとく…

それは、食の輪郭のようなものだ。

それがあることで、その地域がわかるような食材や料理、人、出来事。食べ物のメインの部分がどんどん変化していっても、これがあるからその地域がアイディンティファイされるようなものごと。

それはその地域に限定されているようなものだが、それらが地域を越えて日本中で親しまれているような食材、料理、人、出来事ならば、たぶんその広域を括るキーになるようなもの。

食べ物や食べ方の均質化は、たとえばお米などの穀物から魚、肉、野菜などの主要食品一次産品については、品種、生産量、流通方法まで含めてどんどん進み、中身、本質が変化している。が、こうした主食材を彩る調味料香辛料は、今なおそれぞれの地域で健在なように見える。忘れられているか、地域では当たり前でも意識に上らないか。同様に料理、食べ方、人についても。こうした主食材からみて周辺に位置する食材たち、食べ方、料理、人たちが、その地域の「食の輪郭」を構成していると思える。そうした周辺食材にスポットをあて、その地域を改めて浮上させたい。

同時に、日本の輪郭のようなものを示していきたいとも思っていた。

ふと気づくのだが、様々な食の輪郭を浮かび上がらせる作業は、その地域をはっきりさせるだけじゃなく、嫌が応にも大都市中心で経済を先行させ先行きの見えない変化を続ける日本を照らし出すことにも繋がるんじゃないか?

食になぞらえれば、主食材が日本の経済なのだとしたら、周辺に位置する「地域」は、大都市という均質化した中心軸に対する輪郭。中心軸が様々に変化しても、変化しづらい周辺たる地域が輪郭として存在することではっきりと見えてくる、保たれている日本。そんな立ち位置から、地域というものを捉え直したい。これはあくまで、地域の中の周辺であるところの食材たちをコツコツと見出していく作業のずっと先にあることではあるが、そんなイメージを抱いてもいた。

さらに、その変化を続ける大都市でも、均質化された通常のインフラではない食との接点がある。都会ならではの周辺的な食についても興味を持って、かかわっていきたい。

さしあたってはそんなところ。まだおぼろげなのだけど、「おいしい村」の輪郭線は、この3点。もちろん、「食に主体的にかかわる」ことに根ざして。

2010-05-13

buonpaese2010-05-13

年老いたヨーロッパの哲学





ネグリ『<帝国>とその彼方』の下巻、『<帝国>的ポスト近代の政治哲学』から、気になる2編のうち「年老いたヨーロッパの哲学」という講演録の「ことば」を抜粋し、勝手に切り貼りしてつなげてみた。もわかりにくいと思っていた話が、ネグリの見るヨーロッパという塊の動的平衡解釈として、わかるような気がした。感想は、ヨーロッパ中心的だナァ。思想を共有する文法の基本部分が、ぼくら東洋人が必死こいて勉強しないと使いこなせないような前提になってる気がするナァ。しかし現代の動きや状況は、ネグリの示すところの<帝国>的状況を物語っているという点で納得できるので、やっぱちゃんと知っとこうと思うんだナァ。だって日本にどんどん押し寄せてるから、っていうところです……

古いヨーロッパの弁護をしたい、ヨーロッパの理念を守りたい。共和政のヨーロッパ、自分たちが土地の境界線によって分かたれているという宿命をけっして受け入れようとしないヨーロッパの伝統、いつも限界にまで到達してはそれを乗り越えなければならないこのヨーロッパ、いつも虚空に身をさらしているこのヨーロッパ、これこそわたしたちが愛するヨーロッパなのです。

わたしたちはヨーロッパをとりわけ何よりもまず共和政として定義することができる、精神の共和政、連帯の共和政として定義することができる。ヨーロッパ共和政の始原神話存在する。合意形成目的として、ともに生きるために、自由と連帯をふたたび統一させるために、もろもろの単独的存在が抗争しあっている共和政。

年老いたヨーロッパにおけるこの共和政の理念が包摂する二つの要素は、第一には自由の主張、第二には協働と連帯です。権力と主権の理論は一者による運営ということにもとづいて生まれたが、それなしには社会が不可能になってしまう真の政治形式は、もろもろの単独的存在の多数性を含み、その実質的形式を構成するのはマルチチュードなのです。わたしたちの生は、共に実存することのこの本源的な図式の持続的な探求以外の何ものでもないのです。スピノザにおいては存在は自らを憲法へと構成していこうとする潜勢力。潜勢力は、もろもろの主体が協働するなかにあっての自由と連帯を表現しようとしたもの。

権力の統一性なるものは、現象学の観点から見ても、虚偽なのです。この統一性は、今日社会を構成している諸条件の総体のもとでは、もはや経験不可能なこと、ましてや理論化などできないからです。別の事柄が主張されているのです。主張されているのは、自由と連帯の新しい消去しようにも消去しえない願望なのです。

現在資本主義の発展が熾烈で全面的なものであった、資本の支配のもとに包摂されてしまった、存在するのは交換価値だけである、人びとの行為は全面的に疎外されてしまっている、このことは明らかなことです。しかし、まさに大問題なのは、どのようにすればオルターナティヴや切断や裂け目を再導入できるのか、を理解することなのです。そして、たえず開かれていながらも、しかしまた限定されることを必要としている、主体性生産なのです。

これこそは年老いたヨーロッパ、人文主義のヨーロッパ、プロテスタント改革のヨーロッパ、階級闘争のヨーロッパ、民衆によって体験されたコミュニズムのヨーロッパ、生の地平において善きものとして存在するすべてのものを提起してきたヨーロッパ。カントが言ったように、人間は<善>を願望することができるという理念を発明してきたヨーロッパなのです。

2010-05-12

buonpaese2010-05-12

地球生命は自滅するのか?





副題、ガイア仮説からメデア仮説へ。著者・ピーター・D・ウォード、っていう本を読んだ。BMのIさんからのいつもの依頼で。でもこれ書評にできるかしら、と渡す前に言いたいこと書いてみた。

まずナナメ読みして拒絶感があった。決定論的なのだ。地球を救えるのは工学技術としかない。熱く語られる宇宙への植民移民の話。しかもその技術系な検証結果は「当面不可能」!で、結びは、ねじりはちまきで技術者にハッパかけよう、未来は開ける!……

こりゃ読みたくないナと思いつつ、しぶしぶ細かく内容を辿ってみる。

全体の組み立ては、レイモンド・ラブロックらによって提唱された「ガイア仮説」への反論として「メデア仮説」の主張。これヨコの軸。主題である「生命」の性質を俯瞰すべく、星・宇宙のタイムスケールと地球の地質年代を対置させ歴史を辿るというタテの軸。タテヨコ織り込みつつ、果たして生命はガイア的なのか、メデア的なのかを論じていく。

浮上してくるのは、生命繁栄の前提が地球の非生命的な循環運動にあるという点。地球でのCO2の出し入れなどを含めた大気の組成が、マントルを覆う岩石プレートの循環運動に決定的に支配されているという。そして生命は、その地質学的変化を契機にしてある種の単一生命が増殖し、それは必ず正のフィードバックとして大気の組成、気温(温暖化、寒冷化など)に大きく作用してしまう結果、生命全体に壊滅的な破壊をもたらすという。この生命のエゴスティックかつ破壊的な側面を「メデア的」と呼び、この性質が将来重篤な打撃を地球生命全体に及ぼすと予測する。

こうした理由により著者は、生命は単体では競争的に見えるが、全体としては共存的に環境と親和し、ある調和のもとで永続的な関係をもたらすとするガイア仮説に反論する。そんな甘いモンじゃないんだヨと。生命っちうのは行くとこまで行かないと止まらんのだヨと。

地球生命の太古を遡って、黎明の頃確実に存在していただろう非DNA的生命を駆逐した地球上単一の生命体が現在の生命として君臨した事実も、植物の増殖によって大気中に酸素を充満させ、嫌気的生命を追い出していった事実もすべて「メデア的」の証左、何回も訪れた寒冷化による大きな絶滅も、生命が大気に影響を与えた結果であり、さらには現代、人類地球環境に大きく影響を与えているのもその現われであると。

そして、そもそも地球生命は遅かれ早かれ太陽超新星化により、また、そこまで待たずともプレートテクトニクスのもたらす長期的な寒冷化作用によってもっと早く死滅する運命にあるが、その作用をさらに増幅させるのが生命の「性(さが)」だから、これを制御できる人間だけが、神に与えられた知をもって、工学技術によって、その作用を無効化させ得るはずだと説く。

極めつけは、それでも限界があるだろうから、地球を捨てて生存可能な別の星に移民することが必要だ、今の技術を発展させて核融合エンジンから反重力云々と、可能性を開陳したあげくに、やはりこれらもムリであろう、で冒頭の「ねじりはちまき」が最終の結論となったのだった。

ねじりはちまきって陳腐な結論しか導き出せないのなら、どうしてそのエネルギーを宇宙移民の不可能性じゃなくって、地球でなんとか生き残る可能性に知恵を絞ろうとしないんだろうかこの人は。

ボクは、こうしたひとつひとつが本当かウソかを確かめる手立てを持たないので、とりあえず個々の事例を諾とするとしても、科学者にも許されている「仮説」というものが、また各々の事例や観測結果実験結果に対する「解釈」というものが、こうまでとらえどころがないものだという事実に、いささか唖然とした。「仮説」とはたぶん、細かな事例を積み上げ解釈を累積した末のある程度体系的な仮構造物、仮構(?)なのだとは思うが、細かな点個々の解釈のズレが「仮説」同士まったく折り合わない、すなわち敵対的な関係をも構築してしまうことにも唖然である。

科学であるから、細かな事例(実験、検証の結果など)のそもそもの出発点で疑義がある訳はないはずだろうし、あるとしたらそれこそ科学って一体何なのかとさえ疑ってしまうことになる。すると「解釈」のズレだけが敵対的な両論を生み出すことになるのだが、果たして科学者に許されるこの「解釈」のズレというものは、いったいどんな動機、動因を背景にするんだろうか。感情的な軋轢は人間関係よくあることであまりに卑近、ならば故意?本の発行が2010年1月だし、著者のピーター・D・ウォードはもともと古生物学者で現NASA所属の宇宙生物学者だっちゅうんだから、オバマ大統領が火星有人計画ブチ上げたことと関係あるかも? っていうのが一般大衆にとってはとってもわかりやすい結論なんですが。わざと?

2010-04-27

buonpaese2010-04-27

帝国とその彼方…ネグリ本2冊




ネグリ講演集

<帝国>とその彼方・<帝国>的ポスト近代の政治哲学 を読んだ。

とても難しく、220ページほどの文庫上下巻2冊をツーキン電車の行き帰り何度も読み返しては1ヶ月もかかってしまった。結論は、素養の不足ゆえ(わからない用語多し、ヨーロッパ近現代の歴史背景知らずほか多数)、言い回しのややこしさゆえ、決して理解したとは言うまい。ただ、2冊を通してこれでもかと同じ用語が反復され、いろんな脈絡を横断して現れてくれるので、おぼろげながらの大枠が見えたような。一冊目の感想?から……

まず、現代の世界に対する認識について。それは君主的な国民国家の権力と、貴族的な多国籍企業の支配によって覆いつくされていること。権力を備える国民国家と、多国籍企業が代表するグローバル資本主義がせめぎ合いもたれ合いして、その中にひよわな民主主義が見え隠れして、見えない管理が完成した、と位置づける。それをポスト近代、ポスト国民国家として立ち現れた<帝国>と呼ぶのだ。

この点多分に心当たり思い当たるフシあり、やっぱそーだったんだと膝を打つボク。生身の生が抑圧され馴化されながらも、理想や動機すらも与えられた中から選択するしかない姿、映画マトリックス表現した世界もちらつくし、その一方説明のつかない困惑と憤りに満ちた精神のやり場のなさが、注意深く眺めればそこかしこに沈潜している可能性も、なんとなくの心当たりによって腑に落ちる。

次に、実はその沈潜は、古い過去から連綿と消えることのない人類の渇望のようなもので、これを潜勢力(潜んでいる勢力?)と呼ぶようだ。権力と支配の歴史が続く中で、<帝国>に連なる支配者に抗いつつ、こつこつと自由の領域を獲得してきたのも潜勢力であり、今もそれは絶対消えないという。ばかりか、2000年以降急速に進んだグローバル資本主義の完成の過程は、たとえばインターネットが象徴するような各種のテクノロジーや、世界標準としての人権の質の拡大なども併呑していかなければ、その潜勢力が及ぶ領域位相も拡大させなければ、グローバル資本主義における権力と支配、見えざる管理の構造そのものも完成を見なかったという逆説的な状況を生み出した。権力と支配はそれそのもの単独では生きることができない、いわば寄生的な存在であることは今昔同じということか。

このような状況下、やむにやまれぬ憤りによっても、この逆説的状況を賢く察知することによっても、その他どののような入り口、契機からでも、近代的な武力ではない、知的情動的なコミュニケーション的なサービス的な(だんだんわからんくなってきた)潜勢力(これをマルチチュードと呼ぶ)が、対抗<帝国>としてのマルチチュードが、虎視眈々を機会を伺う、態勢を整える、そんな情況が急速に現出してきたのだという。

……う〜んマルチチュードか。そっかそうだったのね、ボクはマルチチュードなのかなそうじゃないのかななど考えつつ、ネグリはボクを、こうした言説が具体的にどんなふうにしてボクの生き方に関係してくるのかとの新しい問いを発しなければならないような、そんな状況にですね〜、追い込んだ。

他方、とてもヨーロッパ的で東洋など到底結びつきそうもない、確信的な言葉遣いもの言いとか、どうもアジられているような、父性的で実はネグリの言ってることの対極にある権威的そそのかしの雰囲気とかが感じられもし、いささか萎縮しもする。気になった記述をいくつか引用しておく……

−<帝国>というのは、グローバル市場における主権の構成の過程。主権というのは、命令するものと服従する者との関係。資本もまた、搾取する者と搾取される者との関係。

−近代ヨーロッパの伝統においては、近代と民主主義という二つの概念が衝突

−いつも敗北を喫しながらも、そのたびにいつも復活してきたもうひとつの考え方が「絶対的民主主義」という考え方

−<帝国>というのは、君主政体と貴族政体と民主政体が一体化したもの

−本来なら、インターナショナリズムコスモポリタニズムの名において、この古い世界をひっくり返し、新しい世界を創造する力量を称揚することによって、その新自由主義的な形態目的転覆を可能にするような革命展望が、そこに貫かれていてもおかしくはない

世界市民権が、必要な道程

−世界市民権は、反資本主義の主要な要素

−政治的な自由への情熱社会的平等への愛、権力にたいする抵抗と貧困にたいする反乱

−統一されたヨーロッパなしに希望がない

−<帝国>的主権を分散ネットワークの一形態とみなす

−支配的な国民国家、巨大多国籍資本、超国家的諸制度、その他のグローバルな諸権力は、<帝国>的主権のネットワーク内部の結節点以外の何ものでもありません。そして、それらの結節点は、さまざまに組み合わされて、さまざまな瞬間に一体となって機能するでしょう

−<帝国>のネットワーク構造がどれほど世界市場の要求やグローバル資本の生産サイクルの要求と完全に合致しているかは明白である

−<帝国>は新自由主義的なグローバル経済体制に最も適合的な政治形態として出現している

農業従事者は、つねに非物質労働の知識や知恵や発明を利用してきました

−農業は科学でもあるのです。農民はだれでも、土地とそれにふさわしい種子を結びつけ、果実を酒に、乳をチーズに変える化学者なのです。農民はだれでも、植物の品種改良のために最も適した種子を選び出す遺伝学者であり、日々の天気を観察する気象学者なのです

自然予測不可能な変化とともに推移する、農業に典型的なこの種の開かれた科学は、工場機械的諸科学の諸類型よりも、非物質的労働の中心をなす知識の諸類型を示しています

−農業形態のポストフォーディズム的形態

−非物質的労働のヘゲモニーは−労働の自律組織化のための新しい基礎を提供している

−労働する主体の手に完全に握られている

工場労働者と農民とのあいだの差異、都市農村とのあいだの差異、知的労働と肉体的労働とのあいだの差異という三大差異

男と女とのあいだの序列、人種集団間の序列、世界のさまざまな地域間の序列等々のような他の多くの序列を廃絶するための闘争と同様に、現在もなおきわめて重要である

カウンターインサージェンシィ

−新たなコミュニスト宣言

−コスモポリタニズム、国境線の廃絶、ヨーロッパの創設

……第一冊目で印象に残ったのは、コスモポリタニズムとか、農業にきわめて好意的な解釈を与えているところ、そしてヨーロッパへの愛情、絶対的民主主義の完成への希求。ネグリという人そのものは、明晰で表現力豊かで、常に暴力と近接しているような、前線的な暗さと、理想への激情的な明るさが共存していて、とてもじゃないがお友達にはなりたくないのだが、確かに考えに入れなきゃ、の論点なので、消化不良致し方なしとてここはゴックン飲み込んでみた、という感じでとりあえず一旦締めくくるとします?

2010-04-26

種子島浦部誠んちのトビウオ

食に主体的に関わる






ついついモノゴトを難しく考えてしまうクセはご勘弁。おいしい村と銘打ちかれこれ4年目?になるこのblog、更新もたいしてせずここまで来たけれど、ずっと頭ん中巡り結論出ないのは、「おいしい村っていったい何のこと言ってんのかちうコト。おいおい今さら……そのヒントのひとつは「食に主体的に関わる」といキーワードなのかなと思ったのが今日。たどり着いた経緯はごめんネグちゃんちうことになりますが、その説明は割愛し、直球で「主体的て何よ?」への答弁を試みたい。

まずは経験的なあれこれから。ボクのシゴト先、食べ物を販売している。大体20年ぐらいいるのだけど、やはり20年もすれば変化はあった。だんだんの変化がだんだん確定的になり、変化した確定的なことがまただんだんと変化。節目での組織改革とか方針変更なども当然経るが、良い方向への変化なのか必ず(大体は保守的と言われる)抵抗が生まれ必ず何人かが去っていく。抵抗感の方は最初強くその後緩やかに馴化しを繰り返しながら今に至るという図式はどんな職業、どんな取り組みでもさらされていると思うし、その連続が歴史だったりもする。そのだんだんの変化ゆえ、参加した個人の動機そのものも不明瞭になる傾向もあって、反比例して組織の動機は強まっていく傾向。動機が組織に補填されていく。同時に歴史も組織の動機から解釈され改変されていき、なんとなくビミョーって感じで個人の解釈とのズレも生まれ、至っては主体性の喪失へとコトが進んでいく。

世の中文字が発明され様々な出来事が記述されて以降も、現在に至りまぜっかえしてあーだったこーだったと様々な解釈が乱舞する脈絡も見えてくる。人類がいくら経験を積み重ねてその先端にボクらがいるのだとしても、それがあるから、またその経験のブループリントを個人の経験にまんま移し入れるのも不可能だ。個人の主体性はまず個人から出発しないと。たぶんラディカルな個人そしてそこから出発する組織的ではない集合って言えばいいのか。

また、心当たりはないだろうか、最近その経験なるものがどんどん退行してる感じがする瞬間に。退行だよ。たとえば人と話す。さすがに人生何十年も生きてきて、えっ?そんなこと知らないん?とう人に、最近は珍しくもなくブチあたることないですか?で、おいそれは常識じゃんと返しても逆にそんなことフツー知らないもんだ、知ってるアンタはオタクか?なんて言われそうな表情が返ってきたりして……。でこのパターン感じると事前にその感情はしまいこむクセがついた。そのほうが無難であるし、そのことその常識が、さしあたってその相手との関係では導入されずとも世の中は回るからねと。思わず口すべらせてヤバイと感じたとたん会話を先回り「オレ、オタクだからなぁ」なんて言い訳したりしたこともあったりする。

知らないこと前提で成立する会話。裏返すと互いが知らないどこか何か薄氷のようなまたはどーでもいーよーな共有事項のみを探索しながらその道はずさず、はずされんよう気をつける会話。その前提のみで構築される世界システム自分にフィットする世界をつくるんでなく恐る恐る自分をフィットさせつながる世界。ああ今日も無事はずされんかった、ホッと一息の一日が数十万日続くその世界の退行。みんなは変化にとても敏感。変化にチョー敏感。でも変化の結果は気にも留めない。誰かに強制されるんじゃなくて、自分で自分を強制する、矯正修行するフーコー的からくり世界。変化自体はいいんだけど、現代は、これまでの「変化への認識」からの想像範囲を逸脱し、加速度的にその結果に対して無責任になってきている気がする。どんな自由を守るために?なんでこうなった?どうも個人と組織を埋めているようでいて実際は埋めていない空隙が作動しているような、それが作動を開始したのが現代の異常性というか、その原理……いや話それたごめん直球で行こう。

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主体的、というのは、経験や歴史をふまえて、個人がそのことへの考えを持つということなのかと思う。人と人が主体的に関わりあうというのは、その経験や歴史を付け合せることなのかと思う。その上で何かを共有したり、共に生み出して、より良い何かがつくられる、またはつくられない関係性が生まれる、せめぎあうのだと思う。そしてボクの場合は、食について主体的に関わりたいのだ。

シゴトのことに少し触れると、これもよくある話とは思うのだが、目的はその「主体性の復権」にあったのかと振り返ることができるし、その目的のための方法がだんだんと目的化して、出発時の目的が遠のき、最近ではその目的が話されることもなければ、ボク自身忘れてしまっていることが多くなったとも言えた。食べ物の販売だから、その主体的、はつくる人食べる人ぜんぶが主体的でありうる何か、をこそボクは求めてきたはずだが、もう最近のクセであるが、生産者消費者とか、規格基準価格量目。いやはやその中でどうしたもんだかと悩みつつでも過ぎていく時間に身を任せてのんのんしてきた反面の何かの空隙が「おいしい村」書き始めた動機であったのかと思う。

そう、主体的に食に関わること、それはこれまでの経験や歴史のその先を求めることでしかなく、その逆経験や歴史を捨象することでは、決してないのだ。食を通じてこうなっていったらいいナという思いは、当然だ、捨象されてはいけない。ボクはシゴトの延長上のことを、シゴト上ではなく、既にそれとは別に、求め続け始めてているということになる。経験的には。

それと、オルタナティブということ。やはり20世紀後半から現在までのこの時代は、歴史の全体からみて異常といっていい。だから求めるオルタナティブは、歴史の全体からみて異常ではないフツーの何か。ボクはそれを多分求めている。未来を見通そうとするときに、これまでのシステムの使い勝手がどんどん良くなりフツーになり、当たり前になって空気のようになった上にその先がある、とする未来志向も嫌いではないが、ま逆に元に戻してもいいんではないか、現代は相当なスケールの砂上の楼閣が構築機能し、ボクたちはやっぱ管理されてるんではないか。無批判に全てが未来に至るわけでなし、常に取捨選択を迫られるその瞬間瞬間に、経験に照らした底堅い普遍とものを求めるのがいいんではないか。そんなオルタナティブを、せっかくだから食というテーマから見つけていきたい。だって食はそうとうに、無残かもしれない感じで変化した。肯定的な変化を在野の知から見出すのは困難だからたぶんそうとうに無残な気がする。一方で確実に、自分たちが選び取れば、自分たちが進んで(主体的に)見出そうとすれば、ありえないほどのおいしさや出会いに溢れてもいる。誰でもがたどり着ける。ありえないてことってなかなかないゾ。それは多分、食という領域の通時性共時性に関係しているのだと思う。そこから全部が見えちゃうわかっちゃうかもしれない。人種宗教言語地域歴史観の違いをよゆうで超える、食から出発できる、食がいろんな出来事の終着的な定点でもあると言えそこから生が生まれ継がれる原点的定点でもあると言える。

そして食は大切だ。そんなことが明らかになっていけばいい。いや悪いクセ。

2010-04-25

ニコニコ通り

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20日はシゴトのとちゅう。急ぎ足で青森の駅周辺を歩いた。弘前より大きな街区なのはわるがどうも肌寒い、のは天気のせいでもあるのだろうが、やっぱり青森駅は終着駅、青函連絡線とか、津軽海峡景色とかのイメージもつきまとう。いやそんなことはないヨ、ビルは新しいし、海辺には美しい公園もできている。賑やかとは言わないが、気のせいだと思うけお、とあれは先入観だと振り払って案内所に行く。朝市とか、地元の人々がにぎわう昭和面影あふれる懐かしい町並みとかで、もらった観光地図にはニコニコ通り。おお明るい楽しい、地元の食いモンでも見に行くかと歩く。

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で、やっぱり寂しかった。駅から歩いてたったの5分。入り口を入ると魚や野菜の市が立っているのだが、閑散。店の人もまばら、客はもっとまばら。並ぶ魚はアンコウアイナメタラ、ホタテと北の魚たち。店の台には解体された切り身が乱雑に散らばって、アンチボルトの様相とはおおげさだが、う〜ん話しかけるのもなんとなく憚られ、そそくさと通り過ぎ、上は振り返りざまの一撮。

どんより重たい曇り空、外は寒かったけど、市場の扉の中も、それは別の寂寥(?)。これが真冬だったらそれはそれでぴったりイメージにハマって、雪に埋もれて気にもしなかったようなディティールが、恥ずかしいように露になっちまったというか……

たしかに昭和のそのままがここらへんには漂ってた。と言うと、その昭和は多分、ボクも小さかった30年代ごろのような昔の姿。カラーフィルムもなかった、「幼い私」がいくつも焼き付けられた、モノクロームの印画紙の向こうのような世界に、いやこれはたった今の現代、2010年の今なんだと、つけまつげの女の子が道端を歩き過ぎていった。

人が一生懸命に働いていることは多分、都会も田舎も変わらないだろうに、この違いは何だろうか。海あり山河あり、恵まれていることは疑いようがないんだけど、森も水も人々もぜんぶ、誰でもがじかに触れることのできる豊かさ、春夏秋冬ストックが輝くように溢れる場所なんだけど。でもかなり寂しい風景だった。

東京は何でもあるが、さてボクが触れることができる豊かさはどれほどだろうか。触れることがない豊かさを眺め続け、豊かであるように錯覚し続ける可能性もある。たとえばこの青森でもいい、そして東京も含めて、こんなふうにして見える、見た目のきらびやか、寂しさに、さしあたりすべて、眼ぇつぶってしまって、見ないことにして、考えてみるというテを使って、まあ、言おうとして言えないことを、確認するというのはどうかな〜

2010-04-21

あおもり犬

青森から帰ってきた。時間が少しだけできたので思い立って奈良美智を見に行く。

初めて眼前に見たあおもり犬……

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それは大きく設えられた方形の窪みに縮こまっているようにみえた。

その大きすぎる頭蓋、のっぺり卵細胞のようにフラットな「こうべ」を持ち上げれば、高い高いつがるの春、青空下地平の360度が広がるが、お前は大きく設えられた方形の窪みに縮こまっていた。下半身は太古の土中に埋もれ、前肢わずがに浮遊、内臓のない胴体、真っ白な内部。その内部を見つめ続けよ。その外部を空白として貪れ。

出会うその地点から古代が蘇る。

世界は決して……


ぱっと見、世界は完膚なきまでに分断されているようだが、その氷のような分断と個々の想念潜勢の位相が世界で意識に上っていると聞いた。氷の分断が緻密なほどにその意識は最終局の覚醒に近づくとアジられた。情動の必然で世界がそう転化する止めようのない永久運動が加速する。その地点があると説く父性は何か。翻って歴史の必然を無効にする母性って何か?眠れるミューズ、シャガールの恋人たち、いやムンクの叫び、無音から絞り出される見えないこだま……。さしあたりこの10年の固定化されたかのように見える情況は何か?人を眠らせない負圧はどこから来るの?

walking alone---

2010-04-20

buonpaese2010-04-20

オルタナティブはどこに行った?





ボクがこの世界にきた頃の有機農業は、オルタナティブといった風情も備えていて、取り上げるテーマ脱サラして有機農業はじめた若者たちの生き方なども多かったのだが、まあ、変わった。

振り返ると90年代前半から広く知られるようになったに伴い、間髪おかず農水省が、有機云々銘打って販売しとる農産物けしからんと、ガイドラインつけましょと言い始めたのが93年で、それっておかしいじゃんと志ある(?)団体がこぞって反対と騒ぎたて。96ころかな、団体みんな集まってお祭りしたりして、はんたーい、反対と叫びつつ、政治家なんかも呼んじゃったりして、ボクもがんばれがんばってくださいなんて思っていたんだけど、ところが驚き、騒げば騒ぐほど、有機農業が含んでたまあファジーではあったけどいい香りだったオルタナティブの要素が、抜けていったんだ。

農水曰く、いやいやみなさんの生き方について云々してるんじゃないんですヨ、有機というコトバはですね、、まあ英訳しますとオーガニック、ですか?そのオーガニックは純然たる表示上の定義がなされねばいかんというのがヨーロッパアメリカなど先進国では常識化されておりまして、ここのところ消費者からもですね定義ないのに優良誤認するからとクレームといいますか、あくまでもです、表示のことでありまして…。と団体代表そうかそうか、生き方とうぜんだよ自由だもんでも表示ですか、それはそうですね、でもやっぱほらあまり画一的になるのも何か良くない、でもまあ農水さん表示はそれはそれ、有機というか環境保全を進める観点ではこれは今の農業じゃだめだからなんとかしなくちゃいかんヨ。はいそこは当然ということで。表示とは別途考えていきたいと思いますんで別途のほうは検討会のメンバーになっていただくということで、表示のほうは何卒穏便にですね、お願いしますヨ。ん?それもそうだ、なかなか農水もしっかり考えてるじゃん…

ということだったかどうかは知らないけれど、とにかく96以降はこの件パタっと騒がれなくなったのは事実である。ばかりか、各団体の指導者たち、別途認証団体づくりの準備はじめたり、手のひら返すように「これからは欧米の基準を視野運動せにゃいかん」と……明けて21世紀、各団体のWEBSITEは「有機JAS法って何?」と説明を始めてた!

おお官の狡知お見事。生き方自由にノータッチ権力温存のバーター既得権世界権力者が守り抜いてる、自由自由というけれど、この自由は自己責任と同義、要するに枠内に収めれば治安安泰あとは統計処理でそれこそ出し入れ自由にされちゃう。

世の中良くなったかい?0.18%の普及率で成功?フードマイレージ自給率に目先を変えるのはそこらへん?書類がバクハツ的に増え情報集約が進んだ一方ますます無表情にバカになっていったように見えるんだけど、オルタナティブはどこ行ったの?

…一応言っておきたかった。

まぁ、やっと見えてきたことはあるんだけど。

2010-04-17

buonpaese2010-04-17

出発点再確認









ボクガblogなぞをはじめたのは2006年のころ。そのはじめのときの整理()が、実はいまでも生きている(ちなみにその頃のbloは当時のまま晒しっぱなしでトホホ)。

“おいしい村”という題名はもともと、僕が2002年のイタリアで出会った言葉“IL BUON PAESE”の(僕の)誤訳だ。この言葉は、googleの自動翻訳イタリア語英語)であたると“THE GOOD COUNTRY”となるのだから、日本語なら“善き国”とでも言うべきところだ。

その当時、僕はこの言葉にとても良い響きを感じ、直感的に“おいしい村”としてしまった。なぜか自分の心に落ちて定着して、その時点で新しく生まれた言葉、としておきたい。同様に“terroir”という言葉(フランス語)も勝手に“土地記憶”と決め込んでいる。

僕は都会に住んでいて、“おいしい村”のような場所に暮らしているのではなく、だから“おいしい村にいらっしゃい”と誘っているのではない。この語感が誘う“何か”を探したいと思っている。見つかることのない場所かもしれないし、どこかでそんな場所に出会えたら、終の棲家と決め込んで、民宿 “おいしい村”、居酒屋“おいしい村”(屋台村か!)でも始めて老後を過ごすかもしれない。今のところは、この言葉にずんずん引き寄せられている真っ最中で、はっきりこれとは言えない状態ではあるが、たぶんフーコーの示すとおり、最初ディスクールありきなのではないかと断じて、この言葉が最終的に幻想で終わるとしてもよしとして、“おいしい村”をさがす心の旅を開始しようというわけなのである。

さてだいぶナマイキだが、転記してとどめたい……

〜考えよう〜

“おいしい村”が何を示すか、どこを目指すかを考える場所を考えた。特に範囲を決めず、僕の興味の流れる場所になる。言葉が生まれる場所が必要だからだ。空想でよい。ヘンな言い方だが想像力を“おいしい村”という命題で鍛えたいのだ。昔の記憶も取り戻しつつ、芸術や思想、そして評論の領域に自分の立脚点を取り戻す努力を再開したいのだ。少しずつ “おいしい村”とは何か、に言及して行きたい。

※現「おいしい村annex」→

料理をしよう〜

そして僕の身体が、思考だけでなく“食”も西欧化している意味を考える場所。日本と西欧を行きつ戻りつする僕の思考と“食”の嗜好。この嗜好についても範囲を限定しない。ただし理由付けはされていくだろう。なぜなら、確かに現代の“食”は自由極まりないが、僕の場合有機農業や環境問題など、相当に刷り込まれた体になっており、その狭い了見で食べ物を選択し、料理もせずに薀蓄を垂れている自分をどれだけ解放できるかを詰めて行きたいのだ。その呪縛からどれほど自由になれるかが“食”とりわけ自分で“料理”する行為により進むと思うのだ。思考と思考は矛盾しないことを考えていきたい。

※現main「おいしい村…il buon paese」→ [mono][koto]

〜旅をしよう〜

“おいしい村”は本当にあるのだろうか?幻想なのだろうか?身近な場所に現実の“おいしい村”も同時にさがす。できるだけ色々な風景、人、記憶を辿り、自分の想像の反対側から、実は“涙”したい。自分の想像力が挫折してもいいから、“泣くほどの”人や自然や風景、文化に、本当に出会うことを切望している。

実はシゴト上、もう15年ほど日本各地の農村を回ってきている。僕がこのシゴトに就いた当初に味わった感動もさすがに、様々に色褪せてきてはいる。その意味で時間はとても酷い。美しき農村の風景、額に汗する農家の方々。想像力が挫折する可能性が大きいのだが、その原点価値は不変として、もう一度“失われた環”を結びなおす。……ここが勝負の場所なのだと思う。

※現main「おいしい村…il buon paese」→ [toki][toko][hito]

……とまあこんな感じだ。

おいしい村はどこにある?