カルカルクアン・マサリマ諸島

カルカルクアン・マサリマ諸島は、マカッサルはカユバンコア港から西へ、およそ30時間の距離にある島嶼です。30時間というのは3トン程度の小さな木造船でかかる時間で、この船はフェリーと呼ばれています。ある程度長い時間マカッサルに停泊するときは、マカッサルの北側にある古い港、パオテレ港にフェリーが係留されています。カルマスへ行きたいと言えば、小さな船に案内されることでしょう。
バランロンポ島の漁民にとってはカルマスはたいへん重要な漁撈活動上の要所です。飲料水や食料の備蓄が減っているようであれば、ここで供給します。また塩乾魚、ナマコやフカヒレなどを買い付けることもあります。バランロンポ島の通婚圏でもあります。カルマスの主要な住民はマンダールの人々です。バランロンポ島の「先住民」もまたマンダールの人々とされていることから、カルマスからマカッサルへ自分の船で出てくる人は、まずバランロンポ島を目指します。旅の疲れを癒すために、まずはバランロンポ島に住んでいる親戚などの家を訪れ、水浴びをしたり仮眠を取ったりします。そしてさっぱりと着替えてから、マカッサルの街へ向かうのです。
このときに船一杯にココナツやバナナを満載していることがあります。そして船室のいたるところには塩乾魚の入った袋。バランロンポ島の女性商人たちは、このようなカルマスからの船を見かけたら、迷わず遠くから手を振って、丸ごとすべてを買い付けます。大八車で三往復ものバナナやココナツを買い付けたらば、まずは荷下ろしをしている最中の桟橋や浜辺ですぐに売り出します。ようやくすべての荷を高床式家屋の床下に運びこんだら、さあココナツ屋、バナナ屋の開店です。
島のあちらこちらから奥さんたちが新鮮で安いカルマスの産物を買いものに来ます。奥さんたちは自分の家で食べる分の他は、ただちにピサン・ゴレン(バナナ・フリッター)にして軒先で売り始めます。ココナツミルクとバナナといえばマカッサルのおやつのゴールデン・コンビ、ピサン・イジョ(pisang ijo 緑のバナナ)やパッル・ブトン。水で溶いた小麦粉を鍋にかけ、十分に溶かします。そこに新鮮なサンタン(ココナツミルク)を少しずつ注ぎ入れ、ゆっくりとかき混ぜます。適度な塩味を効かせたらできあがりです。バロンドというココナツソースは、それだけを食べてもおいしいのですが、ここに新鮮なバナナを蒸してカットしたものを混ぜます。とても豊かなで素朴な味がするパッル・ブトンのできあがりです。ピサン・イジョは、蒸しバナナを、白餅米粉を練ってパンダンの葉の汁で色と香りをつけたものでくるみます。これを10分ほど蒸して、そこにバロンドをかけます。真っ白なバロンドのソースに、深緑色のバナナが鮮やかに映えます。断食月にはブカ・プアサのお菓子としても大人気です。
さてこのようにバランロンポ島とは縁の深いカルマスですが、なんとも不思議なことにバランロンポ島の人々は、「カルマスでは絶対に、アイル・クラパ・ムダ(ヤシノミジューズ)を飲むな。飲むとマラリアにかかって、帰れなくなる」と言います。しかしこれはきっと、カルマスのすばらしさに酔いしれて、帰ってくるのを忘れるな、という意味があるのではないかと思います。カルマス出身の島の人に聞くと、比較的大きな島では農業もおこなわれていて、コメのほかキャッサバやその他の野菜、果物が豊富であるとのこと。毎年かならず巡礼に出かける人が島嶼全体で10人近くいるとも聞きます。豊かな島であることには違いありませんが、行政の目が行き届く範囲からはなお遠く、学校教育や保健医療上の不安を抱える住民が多くいます。そのことも踏まえて、「カルマスのココヤシジュースは飲むな」ということばが生まれてきたのかもしれません。
もっとも、教育に関しては、カルマスで幅広くアガルアガル(キリンサイ科の海藻)の栽培をおこなっている企業の援助もあり、村民立の小中学校と、定時制高校が開校されているとのこと。小型飛行機の発着もできるらしく、決して絶海の孤島ということではないようです。ぜひ一度訪れてみたいと思いつつ、親しくしていたハッジ・ハネおばあさんも亡くなってしまいました。80歳を越える高齢でしたのに、毎年少なくとも2回はフェリーに乗ってマカッサルへ遊びに来ていました。孫の顔をみるために。今年こそは、ぜひカルマスに行ってみたいものです。

お国訛り

全国放送のテレビ局が制作するドラマは、シネトロンと呼ばれます。高校生などの学園恋愛もの、家族や結婚といったオーソドックスなテーマに宗教が組み合わさったり、なぜかインドネシア人が大好きな幽霊・妖怪などお化けものの話が組み合わさったものが多くあります。ドラマやエンターテインメント系の番組では公用語インドネシア語が使われているわけですが、実はジャカルタ方言であることが一般的です。とくに学園ものの場合、今時のジャカルタ近郊で高校生活を送っている若い人たちの話すアクセントや言い回しがふんだんに使われています。さて、地方の人は一体、どの程度、会話の内容を理解しているのでしょうか?
バランロンポ島界隈の島では、島毎にアクセントが異なります。またサカナや海の生物などを示す単語も、微妙に異なることがあったりと、その人が少し口を開いただけで、どこの島の出身であるかがすぐにわかります。
ジャワ島で言えば、バニュマス地方の方言に相当するのはバランチャディ島の訛り(Logat)。特徴的な抑揚とリズムを持つこの島の人のマカッサル語は、一度聞いたら二度と忘れることができません。聞けば聞くほどにとても愉快な気持ちになってきます。バニュマサンとはちがい、演劇に使われるような言語にまでは至っていません。残念なことですが、バランチャディを少し歩くだけで、なにか別の世界に踏み込んだような雰囲気を味わうことができますから、これはとても貴重な方言文化ですね!
このように、さまざまな微妙な方言を聞き分け、話すことができる島嶼部地方の人々ですが、実はジャカルタ方言(ジャカルタ弁)は、あまりよくわかっていないようです。とくにある程度に年配の人々は、学園もののドラマを見ても、何を言っているのかちんぷんかんぷん、という人もいます。
このようなバランロンポの人々は、やはり典型的なマカッサル語訛りをその会話の端々に見ることができます。

  • 〜mi(例:sudah mi)
  • 〜pi(例:belum pi)
  • 〜ji(例:ada ji)
  • 〜to(例:begitu mi to)
  • mbak'i(例:jappa ma, mbak'i)

日本語に置き換えれば、…だべさ、…やねん、といったような感じになるような接尾辞。しかしそれぞれに意味があります。すでにおこなわれたことを語るときには、mi。まだおこなわれていないことを語ったあとでは、pi。未来について語るさいには、ji。間投詞的にひじょうによく使われるのが、to。標準インドネシア語のmari kitaに相応するmbak'i。年長者の質問に答えるさいの接尾辞となるのが、ma。と、大体、意味を与えることができます。普通に役場や大学で職員や先生たちと話していてもひじょうに頻繁に登場するこれらの接尾辞を使いこなすことができたら、もうマカッサル語訛りのインドネシア語は合格です。
また何かを話し始める前に、アノ〜というのもあります。日本語で、なにかを尋ねる前に、あのー、というイントネーションとはことなり、「ノ」音をぐっと下げます。これがさらに加われば、マカッサル人にも笑われるようなマカッサル語スピーカーへの第一関門は合格です。

総選挙、今昔。

4月9日は、インドネシアの総選挙の当日でした。全国的に一斉休日となったこの日、投票時間は正午まで。三々五々に、開設された投票所に出向き、選挙人登録を済ませて、4種類の投票用紙をもらいます。投票したい政党あるいは立候補者の名前にチェックを入れて、もとどおりに投票用紙を折りたたんで投票箱に投函して終了。投票所の入り口に貼られた立候補者や政党の名簿を見て、誰に投票するかを決める人が多く、時間帯によっては混雑するところもありました。

今から10年前、スハルト政権崩壊後、初めての総選挙がおこなわれた頃。バランロンポ島を含めたスプルモンデ諸島南部地域は、黄色を政党色としたゴルカルが圧倒的な支持を集めていました。選挙の1週間前までは、島のどこを見ても、島の周囲に係留されている漁船のマストのどれを見ても、黄色一色。島の人は党の支部から配られた黄色のTシャツを着ており、レフォルマシ(改革)の時代だとはいうけれど、辺境の小島まではやはり届かないものなのかと思ったものです。ところが、選挙まで一週間を切ったところで、突如、赤色と青色が、黄色一辺倒の島に広がりだしました。と、黄色と黒、緑色もまた、モザイクの隙間を埋めるように現れてきました。赤地に黒の牛の顔の旗が、ナマコ漁船のマストにたなびいています。その当時はまだたくさんあったパンノキの幹には青や黄色、緑に赤色の政党の旗がペンキで描かれています。色とりどりのTシャツが島に溢れている光景を見て、もうゴルカルの時代は終わったね、と若い学校の先生がささやいたことをよく覚えています。

さあおもしろくなってきたとばかりに、選挙当日、投票所に設定されたバランロンポ小学校で写真を撮っていたところ、わたしは突然、島外から来た選挙監視人から「それ以上、写真を撮ったら警察に引き渡す」と勧告されました。新聞記者やその他のマスコミ関係者は、事前に登録して撮影許可をもらわねばならなかったとのこと。投票している人の写真を撮っている訳ではないのだからと申し立てたところ、さあたいへん、当局に反抗したということで、カメラとフィルムは没収されてしまいました。選挙が終わってからカメラは返してもらいましたが、この件で、わたしは投票時間中、ずっと自宅待機を命じられていたので、投票所の様子をみることもできませんでした。しかし確かに多少のルール違反があったかもしれません。長期間にわたる独裁政権がようやくおわり、インドネシア全体がおっかなびっくり変革の時代に向けて動き始めていた頃のことです。なにをどこまで許可してもよいか、そう簡単には決められない背景もあったのでしょう。

さて今年の投票所の様子です。投票所に近づくと、「やあやあ、これは日本人。よくぞ選挙の観察に来てくださいました。とくと観察してくださいよ」などと、アナウンスされてしまいました。その後も入っていく人の写真を撮ったり、中に踏み込んで全体の様子を観察したり、投票用紙とにらめっこしている人の写真を撮ったりしてみました。どこからもアラームは聞こえてきません。開票時も投票所に紛れ込み、老齢に達した人々がめがねをかけ直したり外したりしながら、「これはどっちに投票しているんだ」などと頭を付き合わせている様子をおもしろく見ました。最後には、「外国人の目から見て、これはどう思うかね?」などと助けを求められたりして、のんびりとした選挙の一日を過ごしました。。いいえ、のんびりといっても、すべての開票作業が終わったのは4月10日の午前1時のこと。10年前の緊張漲った総選挙の一日を思い出しながら、翌日の投票所解体作業を眺めていました。

広がる世界

半年ぶりの更新となります。
スプルモンデ諸島で携帯電話を使う人が増え始めたのが2000年頃のこと。当時はまだ契約料金が高く、一部のジュラガン(マカッサルでは雇われ船長)やプンガワ(船主)が、マカッサルの華人ボスなどと連絡を取り合う目的で貸与されたりプレゼントされたりで、手に入れるのが普通でした。そのうち、東カリマンタン州やパプアに移動したりナマコ漁船などで操業中の船に乗っている家族などと連絡を取り合うために、携帯電話を持つ人が現れるようになりました。安くはないけれど、中古品がマカッサルでも出回るようになり、少しお金を貯めれば携帯電話を持つことができるようになっていたのです。ちょうど2001年頃、マカッサル市が有線の電話を架線するから出資金を出すようにとお触れを出しました。余裕のある世帯は出資金を出し、実際に電話が敷かれるようになりました。ところが毎月の基本料金は電話を使っても使わなくても支払わねばならなかったり、しょっちゅう不通状態が発生し、ほとんど使うことができなかったりで、近所の人が気安く電話を借りに来るのがたまらないという人が続出します。次第に電話料金の滞納が続き、いつのまにかごく限られた世帯だけに電話が残るという事態になっていました。
しばらくしてバランロンポ島南部に、Indosatという電話会社の大きな受信塔が建てられました。さてこれを機会にバランロンポ島だけではなく周辺の島にも一気に携帯電話ブームが到来します。この少し前にFlexiという携帯電話の番号が市中に出回るようになっていました。これはインドネシアの電信電話公社Telekomが販売する携帯電話専用電話番号で、固定電話の携帯電話版だと説明されます。料金設定は固定電話に準じますので、一般の携帯電話番号から電話をかける場合は比較的料金がお得になります。マカッサル市内だと0411、ジャカルタだと021から始まる地域番号(市外局番)のうしろに電話番号が続きます。地域番号エリア内であれば、固有の電話番号だけでOK。ただし地域番号の異なる場所からは、この電話番号は使えません。今ではあらかじめ登録しておけば電話の受信はできるようになっているとのこと。電話料金の安価なFlexiと、いつでも受信状態がよくはっきりと聞こえるIndosatと、2種類の電話番号を持ち、目的や状況に応じてカードを差し替えて携帯電話を使いこなすことができるわけです。
この2月に、ジョグジャカルタの調査地に、マカッサルから古い友人たちが遊びに来ました。気が置けない間柄の彼女たち、始めてのジャワ島上陸にそわそわしていたのは最初だけで、そのうちなにやらしきりに電話でやりとりを始めました。尋ねれば、バランロンポ島の人たちとのこと。マカッサルのパサールで仕入れるような繊維製品や化粧品、家具装飾品は外国からの輸入ものも多く、国産であっても輸送コストが加算されているため、仕入れ価格がたいへんなことになっているとのこと。ジョグジャカルタであれば、なにかおもしろいものがまだ安い値段で売られているはず、ちょっと適当に見繕って、まとめて買ってきておくれ…と頼まれたのだそうです。といっても資金はせいぜい一人あたり10万ルピア程度(千円くらい)。これはpercobaan(試し)だそうで、全部売り切れたらまた仕入れるとのこと。はて、仕入れるとはいうものの、みんなは2月下旬にマカッサルに戻るはず。そのあとは誰が?と尋ねれば、その後の仕入担当はわたしが任命されているとのこと。驚きましたがバランロンポの人々のネットワーク作りや利用について長らく調査してきたのです。なるほど、いざ自分がその当事者になってみると、いかにも自然ななりゆきです。国際出稼ぎに行くような人はなかなかいませんが、知り合いの知り合いという糸を手繰りながら、さまざまな場所へ出かけていくのがバランロンポ流です。東カリマンタンから南カリマンタン沿岸部やジャワ北岸の港町といったおなじみの場所に加えて、ジョグジャカルタが加わるのはわたしも楽しみです。わたし自身もまたバランロンポ島から移動した人だと見なされているのだとしたら、移動研究者冥利に尽きる思いがします。別の機会に詳しく書こうと思いますが、ジャワの村でバランロンポから来た娘さんたちは、さまざまなインパクトをジャワ人に与えたようでした。自分がきっかけとなって、思いがけずインドネシアの普通の人たちが新しい場所や人と出会う現場に居合わせたことは、とてもおもしろい経験でした。

マカッサル海峡では、毎年、5月から8月一杯までが、トビウオの卵漁の漁期です。漁場は、バランロンポ島からずっと西のほうのカルカルクアン・マサリマ諸島Kepulauan Kalu-kalukuang Masalimaの海域。ランカイ島やランジュカン島の沖合もまた、漁場のひとつ。出漁するのは、タカラール県北ガレソン郡と南ガレソン郡の漁師たちです。ココヤシの葉をたくさん船に積み込み、これを漁場の海に流します。トビウオは、このヤシ葉の陰に卵を産み付けるのです。それを引き上げ、マカッサルへ運びます。卵は日本や韓国、そしてアメリカなどにも輸出され、お寿司などの具や、さまざまな総菜の材料となります。
マカッサル語でトビウオは、トラニtoraniトビウオ漁に従事する漁民のことは、パ・トラニPa'toraniといいます。トビウオにはもうひとつ呼び名があります。トゥイン・トゥインTuing-tuingといいます。この呼び名に関しては、ちょっとしたユニークな説明がありますので紹介してみましょう。
マカッサル語では、星のことをビントゥイン(ビントゥエン)bintoing/bintoengといいます。流れ星が海に落ちて、それが海面をトゥイン、トゥインと跳ねて、トビウオになったのだ、というもの。マカッサル語では、名詞をふたつ重ねることで、より小さな形のもの/若いものの意味になります*1。たとえば、ラヤンという魚の若いものは、ラヤン・ラヤン。チャカラン(カツオ)の場合は、チャカ・チャカラン、というようになります。トゥイン・トゥインは、海に落ちた小さな星という意味になるでしょうか。トビウオの卵は、バランロンポ島でも、よく食されます。ジュルック・ニピス(小さな柑橘類)を絞ったジュースをかけてお酢でしめるようにしばらくおいたあと、ココナツをおろし金ですり下ろしたものと、千切りにしたまだ青いマンゴを混ぜ合わせるだけ。これは島のバジャウの人びとの好んで食べる料理でもあります。トビウオのかわりにイカン・ルーレやイカン・マイロ(カタクチイワシやキビナゴ)などの小さな魚をさっと湯に通したものを混ぜることもあります。マカッサルの田舎の料理は、ただ辛いだけではなく、チャンバ(インドネシア語ではアサム:タマリンド)や青いマンゴなど酸味を重視した味付けがたくさんあります。魚の煮炊きも、ゴレンも、基本の味付けは、チャンバ。チャンバという地名やその派生語が地名となった場所がたくさんあるのは、マカッサルの人にとってチャンバがとても重要な食材であるからなのかもしれませんね。
さてトビウオが海に落ちた小さな星だとしたら、トビウオの卵は星の卵になるでしょうか。カサール(粗野)な人びとだといわれることの多いマカッサルの海の人びとですが、ロマンチックな言い伝えや民話もまたあるのです。

*1:複数形となる場合もあります。Kalu-kalukuangは、ココヤシの木がたくさんある場所という意味。

かれこれ13年近く、バランロンポ島で地域研究の調査を続けてきました。この2年ほどは、長い期間、バランロンポ島を訪れることができず、一年の間に3回ほどは島を訪れるものの、毎回、3日間ほどが精一杯でした。
バランロンポ島には、マカッサルの人、ブギスの人、華人系の人、ムラユの人、マンダールの人、バジャウの人、アラブの末裔の人、ジャワの人などが、住んでいます。どの民族名を名乗るかは、自称と他称では当たり前のように異なります。歴としたムスリムの人であっても、アチ(華人女性に対する呼称)やオンコ、ババ(いずれも華人男性に対する呼称)がムスリム名の前に着く人がいます。わたしの家のibuも、ハッジ・アチ・ママ*1と呼ばれています。
さて、この懐かしい島の家の隣には、おばあさんが3人住んでいました。1920年代から1960年代にかけて、バランロンポ島の交易活動華やかなり頃に、多くの商業船や漁船を所有し、カンポン・チナとカンポン・ムラユのちょうど境目の、島一番の立地に大きな高床式家屋を構えていた華人商人の三人娘です。姉妹の呼称は、長女がノナ・ロンポ、次女がノナ・タンガ・三女がのな・チャッディ、末っ子がノナ・ブンコ(バンコ)となります。ポッポとナンナは、ノナ・ロンポとノナ・タンガが詰まったもの。三姉妹は敬虔なムスリムでありましたが、見た目はどこから見ても、華人のおばあさんでした。プカロンガン柄の色彩が鮮やかで、美しい花の絵がモチーフのバティックは、とくに華人が好んだもの。三姉妹の父親がいつの日か、交易活動の途中で立ち寄ったスラバヤで求めたものだと聞きました。男性用と女性用の対になった動物模様の美しいバティックをみせてもらったこともあります。経年変化と厳しい島の気象条件のため、虫に喰われたり退色した部分もありますが、模様をじっと見ていると、小さな島のダイナミズムが浮かび上がってくるような感覚が沸きあがってきたものでした。
この三姉妹は、わたしを孫のようにかわいがってくれました。わたしもまた、早くに亡くした祖母によく似た、ナンナおばあさんからは、昔の話をたくさん聞かせてもらいました。
昨年1月6日に、ナンナおばあさんの娘さん、ビビ・チェッが亡くなりました。その一年後、今年の1月26日に、ナンナおばあさんが老衰のために亡くなりました。残されたポッポとノナ・ブンコは、それでも足繁く訪れる近所の人や孫たちに囲まれて、ままごとのような台所で、慎ましくも楽しい生活をしていました。そして先月26日、断食月最後の金曜礼拝があった日、ポッポは少し西日が差し込んできた寝床でいつものように昼寝をしていたようですが、そのまま目覚めることはありませんでした。
13年前からおばあさんであった三姉妹は、亡くなったときはもっとおばあさんになっていた筈なのですが、わたしの目にはみな、最初にあったときと同じように、元気でおしゃべりで大きな声のマカッサルのおばあさんでした。カンポン・ムラユのインチェ・マンドゥ、カンポン・バジャウのダエン・アルサ、産婆のサンロ・シッティ、サンロ・ジュムリア、仕立て屋のノナ・スイ、バジャウの儀礼・ティッティリ・バンタンを司る呪術師マ・タッラ。このおばあさん、おじいさんたちのおかげで、たくさんの昔の話を聞くことができました。博士論文までしたものの、その後、今日まで放ったらかしにしてしまっていて、この人びとに御礼をすることがまだできていないことが悔やまれます。
ポッポおばあさんの初七日の儀礼には、たくさんの人が集まりました。島に帰れば、真っ先に挨拶に立ち寄った三姉妹の家も、まもなく取りつぶされると聞きました。経済生活や自然環境の変化だけに目を留めてきたわけですが、人が亡くなるということの変化がそこに加わるようになりました。わずか13年の関わりに過ぎませんが、どれだけ大切な人びとであったことでしょう。ポッポおばあさんの冥福を祈ります。

*1:マ・ラフマが詰まったもの。

久しぶりの更新です。
5月23日に、日本からインドネシアに来ました。デンパサールで乗り換えたジョグジャカルタ行きのガルーダ便は、マカッサルから来た機体であったようで、機内の新聞にFajarがありました。
23日付の新聞によると、6月上旬から撮影が開始される、TVRI Makassar制作のシネトロンがあるとのこと。Setitik Noda Hitamというタイトル。撮影の中心となるのは、マカッサルとマリノで、ブギス人の男性と華人女性の恋愛ものであるようです。
出演者の中には、Garing Apa Nonaで有名な歌手Anci Laricciもいるのだとか。
どのような内容になるのかなんとなく想像もできそうですが、放送されるのがとても楽しみです。全国放送されるのでしょうか?あるいはやはりローカル局内でしか観られないのでしょうか。いずれにしても、そのうちDVD化されることが期待されます。。すでにこのドラマがとてもすばらしいもののように思いこんでしまっています。


Fajar/23May2008
TVRI
(23 May 2008, 1 x , Komentar)

Libatkan Syahriar Tato dan Anci Laricci, Telan Biaya Produksi Rp60 Juta

MAKASSAR- Satu lagi sinetron produksi TVRI Sulsel sedang digarap. Sinetron teranyar stasiun televisi milik pemerintah ini berjudul "Setitik Noda Hitam".Sebuah sinetron yang bercerita tentang kisah cinta yang penuh intrik antara lelaki Bugis dengan gadis Tionghoa.

Menurut Frans Thioris, koordinator sinetron, kepada Fajar, Kamis, 22 Mei, sinetron ini bakal menghadirkan satu sajian hiburan yang berkualitas. Pasalnya, sinetron yang disutradarai Zaldi Yusuf ini melibatkan sederet nama-nama artis lokal Sulsel yang sudah malang melintang di bidangnya.

"Ada nama-nama seperti Tomy Sianto, Syahriar Tato, Nova Gowinda dan masiah banyak lagi. Semua nama tersebut siap memberikan kemampuan terbaiknya untuk membuat sinetron ini menjadi menarik," kata Frans, yang juga akan ikut bermain dalam sinetron yang direncanakan hanya satu episode dengan durasi 60 menit ini.

Bahkan, penyanyi lokal kenamaan Sulsel, Anci Laricci pun akan ikut mendapatkan peran dalam film ini. "Selain sebagai pemain, Anci juga akan menggarap soundtrack film ini, sekaligus menjadi penyanyinya," kata Frans lagi.

Proses syuting sinetron "Setitik Noda Hitam", tambah Frans, akan dimulai pada awal Juli mendatang. "Syuting digelar di dua tempat, yaitu Makassar dan Malino. Sementara untuk biaya produksi hingga honor artis, kita gadang-gadang bakal menelan anggaran hingga Rp60 juta," kunci Frans. (rek6)