岡山ゆかりの歴史人物16 倭建命(ヤマトタケルノミコト)下


          
倭建命
東征
西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。
倭建命は再び倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。
倭姫命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣草薙剣)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。

倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受媛(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く。
相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた日本武尊は、野中で火攻めに遭ってしまう。
そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打石が入っていたので、草薙剣天叢雲剣)で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまう。
それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。

相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。
そこで、后の弟橘媛が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。
入水に当たって媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。

さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも
相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……

弟橘姫は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。
7日後、姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。

その後倭建命は、足柄坂(神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ…)と三度嘆いた。
そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。
また甲斐国酒折宮(山梨県甲府市)で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」との下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。
その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る。

尾張に入った倭建命は、かねてより結婚の約束をしていた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中であることを知るが、そのまま結婚してしまう。
そして、伊勢の神剣草薙剣天叢雲剣)を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)へその神を素手で討ち取ろうと、出立する。

素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神自身の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神してしまう。
山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓関ヶ原町あるいは米原市の両説あり)で正気をやや取り戻すが、すでに病の身となっていた。

弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。
ここでは地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情を映し出す描写が続く。
そして、能煩野(三重県亀山市〉に到った倭建命はついに「倭は国のまほろば…」以下の4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。
彼らは陵墓を築いてその周りで這い回り、歌を詠った。
すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちは尚3首の歌を詠いながら、その後を追った。
これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌)となった。

白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがてまたその地より天に翔り、行ってしまう…。




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