疲れた。

三田祭が終わった日曜は横浜トリエンナーレに行こうと決めていたのですが、諸般の事情により延期。
ってことで、今日は11月27日(つまり今日)終了の企画展を2つまたいでアートホリデーをやってきました。
バイト先のミーティングがあったことには今気づいて、どうしようもない気持ちに苛まれています。辞めたい。

イサム・ノグチ展@東京都現代美術館。

今日が最終日であり、どうやらビッグネームであるらしいことを考慮し9時半に家を出る。
つーか清澄白河ってどこだよ;終点じゃねーか。
さびれた町を(ぎょうにんべん使えないぐらいさびれてた)とぼとぼと右へ左へ曲がってたどり着いたはMOTですよ(Museum of Contemporary art Tokyo。MCTでない理由は謎)。
開館30分ぐらいなのにチケットがすでに10分待ちで、朝早く出てきて正しかったんだなあ、とぼんやり思う(後に俺は同じ内容を確信するが、それは後の記述に譲る)。
企画展がノグチ以外にもあって、200円プラスでそれも見れるというチケットを買ってみた。べつにキョーミなかったけど200円だし。なんだなんだ、200円だよ。どーせ200円だぜ。へっ。いいよいいよ。みたいなノリで(何
結局その200円はちょっとアレな結果となって大東京牧場の暗渠へ転がっていったんですけどね。反省。
----ここから本論----
まずは「2mのあかり[Two-Meter Akari]」の暖色系の光がぼんやりとお出迎えです。ここで俺は(もともと彫刻が不得手なのもあって)この展に一抹の不安を覚えたんですけど、それは杞憂だったことが後に判明します。
そういえば、入り口で簡単なカタログと一緒に「ことものためのノグチイサム」的な解説パンフを配ってたんですけど、これがマシュー展の時みたいにけっこう参考になるんですよねこれ。こどものためのって銘打ってるからあんまり生真面目なことは書けないし書かなくていいんだけど、だからって適当なことは書けないっていうのが却っていい感じです。
最初の方に彫刻作品がいくつかあったんですけどまあそれはいいよって感じで、「パリの抽象[Paris Abstruction]」と名付けられたシリーズの中に良いのがありました。入り口に近い順に1番目と3番目のやつです。
一つめのやつは白と黒で色分けされた二つの人らしき形態ががっちりはまりあって、凸ったり凹ったりして(読み方は不定、適当にカナふってヽ( ´ー`))るっていうやつで、白いほうに乳房のイメージがあったかと思えばのどぼとけっぽいのがあったり、黒い方が白い領域に突き出てるのって例のあの男のシンボルのことなのかなあと思ったら胸であろうあたりがふくらんでたりでいろいろ楽しかったですw
後者(3番め)はそれよりは冷たい感じの抽象で、黒い線と白い面がなんともオシャレな空間のごときものを作りだしてました。
ここで気づいたんですけど、これ紙面が茶色な上に書かれてるんですよね。黒も白も何も考えずに使えるようにかしら。(長いのでトピックわけます)

「身ごもった鳥[Pregnant Bird]」

次の部屋との境目にあった「身ごもった鳥」という作品に俺はおもわず顔が緩んでしまいました。
彫刻をロダンの手から解き放ったと言われているらしい近代(現代?)彫刻家コンスタンティンブランクーシイサム・ノグチは師事していたそうなのですが、そのブランクーシの作品に、氏の代表作であり現代彫刻の金字塔であるらしい「空間の中の鳥(ここ参照)」というのがあります(正確にはこれに類する作品がたくさんある)。
これは実は抽象彫刻でも鳥の羽根だけをクローズアップした換喩による象徴でもなく(俺ははじめ後者だと思った)、鳥の形状や様態の本質を極めていった結果、頭部から腹部を通じて足に至るような、空間に介入していく流線型のフォルムだけがかろうじて残った、という歴史というか理由のようなものがあるわけです。
ところがこの「身ごもった鳥」は、材質こそ大理石であるものの、そのブランクーシの鳥のイメージをそのまま引用しているわけです。のみならず、表題通りおなかがぽっこりとふくらんで身重になっている(画像の物体が大理石製になって妊娠したと思いねぇ)わけですw
ブランクーシの厳格なまでの余計なものをそぎおとす態度に逆らって、そのうえ妊娠なんてしない鳥さんのおなかに子供を宿してしまう態度がなんかもうおかしくて。。。

「ミラー[Mirror]」、「グレゴリー(偶像)[Gregory(Effigy)]」、「化身[Avatar]」

次の部屋にあった彫刻は、薄いパーツを縦に横に組み合わせてできたなんか紙パズルみたいなやつだったんですけどほとんど良かったです。
まず「ミラー」。縦の面のようなワクのような、おそらく鏡面であろうところのなかを図形が自由に行き来してるっていう。つーか鏡じゃねえしwまあ、鏡って言ってくせに。。。っていう部分も大きいと思いますけど。
次に「グレゴリー(偶像)」。グレゴリーというのはカフカの「変身」の主人公の名前からとったそうです。形も、長方形の角を落としたみたいな感じのボディーに縦のスリットみたいな穴がいくつか空いていて、そこに毒虫の足を思わせるような形状が刺さるみたいな感じでぶらんと下がってるわけです。で、上の方に部品の下がってない丸い穴が空いていて、それがたぶん目なわけです。
始めのうちはその目がすごく悲しげに見えて、身体に穴開けられてそこに毒虫たる足をとりつけられて、みんなに見回されて。。。みたいな悲観的な空想に浸っていたわけなんですね。
でも、他の所もちらっと見て戻ってくると、その目がすごく超越的というか、まあお前ら色々やりたいならやれよ的なしーんとした目に見えたわけで、そうすると逆にちょっとコミカルにも見えてまあおもしろいなあというわけでしたw
三つめは「化身」です。これ、はじめは何かわかんなくて一回次の部屋に行ったんだけど悔しくて帰ってきたらなんとなく見えたかなっていう経緯があったんです。
ていうのも、誰かビジュツの分かってる人が有用なこと呟かないかなーと思ってたら美術館は来なれてるぜ的なカップルが来たので耳をそばだててみると、女の子のほうが「私にはこれ人体を分解して再構成したやつに見えるんだけど…なんていうか、『肉』?」みたいな感じで彼氏に囁いてたのを聞いてああなるほどと思った訳なんです。
その後も女の子はいろいろなディティールを喋ってましたけど、俺は俺でいろいろ思う所がありました。ていうかそんな彼女ほしー(彼女じゃなくても、ビジュツがなんでもわかってて一緒に美術館にいってくれる、個々の作品に長い時間をかける女の子でいいんだけど。。。って注文がより厳しくなってるな;)
どんな彫刻かって言うと、曲線的で有機的な形状が3つの足みたいなつっかえ棒みたいな長い形状によって高く掲げられているわけなんです。たぶん上におさまってる形状は人間とか生命とか思念とかそういうものの「化身」なのでしょう。それは足に掲げられながらも、その一部分はどろり、ってな感じで足で支えきれない感じでたれていってるわけです。その足はたぶん正論とか必然とかそういう断然たるものの象徴なのかもしれません。その足が掲げる化身は、その高さに甘んじながらも自発的にはそれを維持せず、上辺では好きなカタチをとり、いっぽう下辺はだらしない肉となって足のあいだをこぼれようとしている、というふうに俺には見えた訳です。そして断固たるものたるべき足もやはりへんな出っ張りがあったりとか化身を支えられなかったりとかそういう間の悪い部分があるよ、みたいな。
まあ足を断固たるものの象徴とするのは読みすぎかなあと自分でも思いながら書いてるんですけど。

「ツー・イコール・ワン[2=1]」

次の部屋は、それがもっと直線的になって、紙パズルって言うよりは折り紙みたいな感じでした。
「ツー・イコール・ワン」は、「¶」←これを塗りつぶしたような形が高さ違いで2つ、大きい方が膨らんだ部分を小さいほうに乗っけるような形で直角に組み合わさってる感じでした。このへんから疲れ始めてたのでなんなんだろうこれは。。。とかって思いながら壁にもたれてたわけなんですけど、ちょうど大きい方だけが見える角度だったときに、大きい方の形がぐったりと何かのつっかえに頭をもたれる人の抽象に見えたんですね。そうすると下のはそれを支えながら頭をたれる人にみえてくるわけで、金八先生よろしく「人という字はー!ふたりが支えあって生きていくのですー!」みたいな空想にとりつかれていたんです。
が、ちょっとまてよと。だってツー・イコール・ワンですよ。それらはひとつなわけです。現にそのふたつの「¶」←これの根元はくっついちゃってるのですから。それは比喩でもなんでもなくて、たぶん本質のところから1つなんじゃないのと。
じゃないとイコール・ワンとはいわないよねーってことで、今度は同じ観念体系や自己同一性のなかから生まれでたふたつの系というとらえかたをしてみることにしたわけです。でも、それらは相反するわけではなく、あくまでイコール・ワンなわけです。ある頭がある頭に乗っかられ、それでもどちらを拒絶する事こともできないし、それ以前に拒絶するという発想がない。ただそれぞれの同一性とも言えないぐらいのささやかな特徴を静かに提示しているだけだったのです。
あとは。。その部屋では「フィギュア・イマージング[Figure Emerging]」とか「道化師のような高麗人参[Korean Carrot as Clown]」がちょっとだけわかりました。
後者はキュビスム彫刻っていうのかなあ。。。全然別なあれなのかな。とにかくそんな感じです。「びっくり箱[Jack in the Box]」とか「リス[Squirrel]」とはあまりにそのまますぎてチャネリングできませんでした(何)。逆に「メッセンジャー2B[Messenger 2B]」は全く何が何だか分からなかった。むかつくけどまあいいです。

「この場所[This Place]」、「エイジ[Age]」、「オリジン[origin]」

次の部屋は、イサム・ノグチがアースワーク*1に傾倒し始めたころの作品が4点置いてありました。
「この場所」は、軽くすりばち状になった平たい彫刻が床に直置きされてて、ひびが入ってるんだけどよく見るとそのすき間から床が見えるのでいちおうそれぞれの部品は物理的にはばらばらなんですね。
まあこのへんから俺のチャネリング重篤なものになってきていまして、ちょっとそのまま人には晒せないような文章が作品から聞こえてきたわけなんですけど、ちょっと体裁を整えて書けば、

それらは非連続である。と同時に連続である。彼らは非連続なものとして生まれたうえで寄せ集められてここにいるが、彼らはまた連続であるべきものとして生まれたうえでその使命に従ってここに集まった。彼らは部分であり、「個」ではなく「部分」であるという避けがたい宿命(とそれへの抵抗感)と同時に、全体への、ひいては完成された意味への否びがたい意思や欲求とを併せ持ってここにある。

みたいな感じです。
すりばち状という形状を定義するうえで特徴的なのは、いまここからへこみはじめてます!っていう「へり」の部分なのだと俺は思うわけで、ところがそのへりの部分にかかってない、まったくへこんでるだけのパーツがあって、それのアイデンティティーを心配してみたりとか、あとはすりばちの「へり」以外にでっぱりのあるパーツをよくばりだなあとかって思って見てました。
「エイジ」は、基本的に縦長の四角柱であるものをいろいろに削ってあるという作品です。
俺はまずその固まり全体を、時代だとか時間みたいなもののあるひとつのかたまりだと仮定してみることにしました。いろいろに削ってあるというのは、ほんとに色々な手段で削ってあったわけで、横にボーリング(遊戯にあらず)したみたいに半円柱状に何本もあとがあったりとか、ある部分は磨くようにけずられてたりとか、普通にガシーンと削ってあったりとか、まあいろいろだったので、それぞれの部分にそれぞれの表情があったわけです。加えて、その部屋は暗い中にスポットライト的な方向を持った照明が使われていたので、光のある部分とない部分がばっちりと対比されて見せられていたわけです。
つまり、それはある時代やある時間のそれぞれのアスペクトなんじゃなかろうかと。光や影とか、つるつるやガシガシとか、それらを綜合したものを俺らはエイジって呼ぶんじゃなかろうかと。まあいろいろ書いた割にはたいしたことない見解ですけどw
「オリジン」も直置きタイプの彫刻で、こうなにかスライムのようなものがぐぐっともりあがってくるような形状をしています。地面に近い所はざらざらで、上の方はつるつるしてます。部屋の説明のパネルには「地球と一体になったかのような……」って書いてあったんですけど、その地球というのはまあむしろ我々にとっては母なるものであり、宇宙であり、そういった意味ではカオスととらえていいのだと思います。我々人間や生きとし生けるもの、はては山や海でさえ地球から生まれ、ひとつずつの同一性とともに存在しているわけなんですが*2、だから我々や現在の表象としての地球でさえひとつずつの分化の結果であり、ロゴスであるわけなのです。そしておそらくいま地球がカオスに見えないのは、生まれるべきロゴスはすべて生まれてしまったからなのでしょう。
でも、「オリジン」では今になってなお生まれようとする遅れてきたいのちの姿が描かれているように見えました。大地は今や象徴化された母体としての平面と化し、カオスからロゴスが生まれでるまさにその瞬間がもりあがる物体として描かれていると思いました。そして、大地こそがオリジンであり、今生まれたモノこそが、後に繋がるより分化されたモノ達のオリジンである、というわけなのかなあと思いました。
ただ、これは「オリジン」のカタチを上への運動を主にとらえた見方であって、横への運動に注目するともっと別のおもしろいストーリーが出てくるのかもしれません。俺は疲れたのでやめました。
あともういっこ「砥石[Whetstone]」というのがあったんですけど、一カ所だけ盛り上がりのあるのっぺりとした四角い石、って感じであまりに厳しすぎたのであまりわかりませんでした。ずーっと眺めてて、おそらく失われた意味とか全体の、かつては一部だったものだったんだろうなあ、ぐらいにしか思いませんでした。それも自信ないし。
このへんで、俺の集中力はどうやらほとんど底をついていたようです。

*1:http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/a_j/earthwork.html を参照のこと。

*2:その同一性は人間は認識するから生まれるんだ、的なややこしい認識哲学は無視

「無言の歩み[In Silence Walking]」、「エナジー・ヴォイド[Energy Void]」

作品名の掲示のない細長いあかりと、赤い石が山形に切ってある「山[The Mountain]」を通り過ぎると、今回の目玉「エナジー・ヴォイド」はありました。
嘘です。形が似てたので間違えました。いやー前評判のわりに小せぇなあと思ったんですよw
それは「無言の歩み」でした。一見石で作られた「0」みたいにみえるんですけど、それは「[」と「]」の組み合わせだったわけです。もうこれは「[」と「]」がそれぞれすれちがう人(に象徴されるその他の自律的な存在)ととるしかないっしょ!
彼らは無言なのです。お互いの存在に気づいています。そして、自分たちがなにかを知らないことにも気がついています。あるいは具体的になにを知らないのかさえ知っているのかもしれないです。そして、通り過ぎます。彼らの頭(のような所)と足(のようなところ)は融合し、彼らの意識はお互いの存在を認識することによって交錯します。
でも、彼らは知らないのです。彼らは彼ら自身を本当には知らないし、お互いを本当には知らないです。そしてそれらを知らないということはたぶん知らないのです。もうここまで来ると、フツーあるでしょっていうふたつの間の空間でさえ、なにかこう空虚性のようなものを表しているような気になるわけなんです。
そして、その先の角を曲がると、今度こそ本当に「エナジー・ヴォイド」はありました。
圧倒的な量感とそれに矛盾するような軽やかな流れ、それから中央の空間。
でも、俺は戸惑ったわけです。前の部屋の作品のようなものがすっと浮かんで来ないわけです。
少し角張ったところは理知性を、とか上から落ちてくるところはなんか高揚感のようなものを、とか考えてはみたんですけど、周りをぐるぐる歩きながら「あー。。。」とかって思ってるだけでした。
うーん、どうなんだろう。だれか「エナジー・ヴォイド」の分かった人、俺にヒント教えてくれ;

その後。

えー、そしてイサム・ノグチがたどりついた最大のアースワーク「モエレ沼公園」の紹介に至る訳なんですが、ほぼ素通りでした;
そして実質200円の企画展「東京府美術館の時代展」に行ったのですが、コレクションが渋すぎるか現代すぎるかして誰もチャネリングしてくれませんでした;;
俺はやっぱり現代美術は要勉強のようです。。。

東京都現代美術館常設展。

美術館のカフェでサンドイッチ喰って休んで、常設展です。ここのウリは何と言ってもロイ・リキテンシュタインの「ヘアリボンの少女」!!あとはドナルド・ジャッドの無題のやつもありました。
・・・とはいえ、俺はあまりポップアートとの相性が良くないのです;
えー、あとはまあいろいろあったのですが。。。正直イサム・ノグチ展のようにチャネリングしまくることは稀なので。。。書く事がないです。でもよかったです。サム・フランシスとか。あと、原美術館にもあったいろいろな時間間隔で1から9、そして空白を繰り返すデジタル数字を構成していろいろを作る宮島達男ちゃんの作品とかもよかったです。
あとはミニマルっぽい白ーいだけの作品が壁の四方にかけてある部屋とかね。
 
美術館を出るとき、ふと振り返ると長蛇の列が見えました。ウワサによるとピーク時にはチケットで1時間、入場で30分ならんだらしいです。
ここで俺は確信したのです。休日の朝に頑張って起きて早く来てよかった、と。。。

生の芸術、アール・ブリュット展@資生堂美術館

つーか俺銀座になじまなすぎwwwwwwwwww
資生堂美術館というのは資生堂本社ビルの1・2階にあるわけなんですが、住所が銀座7丁目7-5なのですよw
えーと、ヘンリー・ダーガーという人がいるのですが。。。「この中にロリコンがおる……おまえやーー!!」的なwwでも大好きです。
まあ、マトモな大人が見に行く展覧会ですよね。そうでないと闇に惹かれちゃうですから。
てか、作品紹介の代わりに著者紹介を配ってるんですけど、その内容が悲惨な人生オンパレードって感じで、それだけでおなかいっぱいなわけなんですよねー。。。
なんというか、でも、彼らの作品からは、なんというか切ない想いと言うか。。。
前に「まかいの牧場」についてユートピアの話をしたことがありましたが、ユートピアというか、せめて普通の安穏とした人生でもいいから欲しいんだよ!!っていうのが伝わってきてすごく辛かったです。