たむ読書&映画&音楽日記

2018-06-21 『日本文学100年の名作 第3巻 三月の第四日曜』池内紀他編(新

[]『日本文学100年の名作 第3巻 三月の第四日曜』池内紀他編(新潮文庫)★★★★☆

「猫町」萩原朔太郎(1935)
 

「一の酉」武田鱗太郎(1935)★★★★★
 ――おきよが、ちょっと、しげちゃん、あとで話があるんだけど、と云った。「なにさ」生まれつき言葉遣いの悪いおしげはぶっきら棒に云った。「――あんた、この頃、いやにめかすのねえ。無理ないわ、十七だもの。私、あんたの肩を持つわ――義姉さんに遠慮することなんてありゃしない。兄さんと相談してあげるわ」おしげの胸はどきどきしていた。この人はあのことを知っていたのか。

 プロフィールによればプロレタリア作家ということですが、まったく思想を感じさせない、一個の市井ものとしての完成度を誇っています。小料理屋で働く「おしげ」の周りの人々――元看板娘「おきよ」の悋気や、店に新しい風を吹き込んだ嫁の「おつね」の凜とした姿勢、いい年をして年下の男に入れあげてしまったおしげの母親「おはま」の情けなさや母親のヒモである新吉のクズっぷりなど、登場人物の一人一人に血が通っています。
 

「仇討禁止令」菊池寛(1936)★★★★☆
 ――鳥羽伏見の戦で、讃岐高松藩は、朝敵の汚名を取ってしまった。帰順か抵抗か、藩論は容易に決せられなかったが、佐幕派の成田頼母の激しい力に圧せられ、土佐兵と戦うことに決まった。勤王の志を懐いている小泉主膳には見過ごせなかった。「今夜中に成田頼母を倒すより道はない」。成田の息女と結納を交わしている天野新一郎はさすがに顔色を変えたが、「天下大変の場合、私情に拘泥って居られましょうか!」と喝破した。

 きれいごとです。とは言え、きれいごとというのなら、大義のために人を殺すのも、さらには仇を殺して恨みを晴らすというのも、何から何まできれいごとなのでしょう。仇討したところで、死んだ者は帰っては来ないのですから。仇討というきれいごとが法律というきれいごとによって終焉させられるその時に、そのきれいごとのなかに個人的な罪と罰を塗り込めて一人逃げてしまった卑怯で汚い遣り口だけに怒りを呼び起こされます。
 

「玄関風呂」尾崎一雄(1937)★★★★★
 ――或日、帰って来ると、家内が待ち構えたと云う顔つきで、三円よこせと云う。「兎に角、ものを買うのよ。なかなか買えない大きなものよ」「大きいのは結構だが、ものは何だ」「ガランドウなの」「なに?」きいてみればつまり風呂桶なのだ。食事をすまして出かけて、帰ったのは十二時近かった。玄関先には風呂桶が置いてあった。「買ったのはいいが一体どこへ置くつもりだ?」

 実在の文士たちも顔を出す、ユーモラスな掌篇です。そもそものきっかけの奥さんが風変わりなひとなのですが、そのほかの登場人物もみんなとぼけていて、おおらかな雰囲気が漂っています。大家さんも警官も堅いことは言いません。井伏鱒二にいたっては天然ボケを炸裂させます。
 

「マルスの歌」石川淳(1938)★★★★★
 ――三治が「冬子」と呼んだ。沈黙。冬子は耳の孔に指をさして「むーっ」といいながら笑ってみせた。「そうか、冬子、聾になったのか。」その日はそれだけのことであった。だが冬子が死んでみると、それが変なことだったと思い返されるのであった。「これはいかんと思ったにしても、どうにもならんことがある。流行歌が巷を風靡しているときなども……」

 冬子のごっこ遊びについて通夜の参列者が寄せる「生活という大きいものの中に、そんな真似をするという小さい別の生活の殻を、どうして仕込む気になったのか」というコメントが新鮮でした。冗談を解さないということはこういうことなのか、と。ただしこれは冗談と無理解の話などではなく、参列者の話は転々としてやがて戦意高揚を謳う流行歌と群集心理の話題にまで行き着きます。たぶん参列者のコメントは的外れです。的外れですが、翻って時代を射抜いているのも確かなのです。
 

「厚物咲」中山義秀(1938)★★★☆☆
 ――七十になる瀬谷は同年の片野から三十円を借りていた。九年前娘が嫁入りする時の支度金に借りたものである。ほんの好意のつもりで期日も利子も決めず、証文さえ入れてなかった。片野はそうして毎月一円ずつを友から取立てた。それが九年になるのだから、元金の三倍以上を払っている訳である。瀬谷は弱気な自分を顧み、片野の巧妙さに驚かざるをえない。

 ほぼ終盤まで片野がいかにクズかということがネチネチと書き込まれ、いい加減勘弁してほしいと思ったところへ、タイトルにもなっている厚物咲が登場します。それまでがうんざりだっただけに、まさしく「あのように心の汚い片野の手からかほどまで美しい花がどうして咲き出るのか」という瀬谷の言葉に深く首肯できました。「毛並の真っ白な猫がじっとうずくまっていた」という表現は、決して奇をてらったものではなく、菊の見事な様子が目に浮かぶようです。最後に明らかになる片野の意地張りについては、あまりにもきれいにまとまりすぎていて嘘くさいとしか感じませんでしたが、瀬谷の心のなかでそういう落としどころを見つけたということなのでしょう。
 

「幻談」幸田露伴(1938)
 

「鮨」岡本かの子(1939)★★★★★
 ――福ずしの常連客に湊という紳士があった。喰べ方は巧者であるが、強いて通がるところも無かった。娘のともよは、初めは窮屈な客と思っていたが、だんだんこの客がよそばかり向いて自分に眼を向けないと物足りなく思うようになった。ある日、魚を買いに行くと、その店から湊が出て来た。「あなた、お鮨、本当にお好きなの」「鮨を喰べるということが僕の慰みになるんだよ」湊は、なぜ鮨を喰べることが慰みになるのかを話し出した。

 何よりもまず、出てくる鮨が「旨そう!」ということに尽きます。亭主が常連客にだけ出す隠しメニュー、湊が子どものころに初めて食べた母の手になる鮨。口のなかに美味しさがじゅわっと滲み込んできそうな前者と、口のなかで爆発的に美味しさがはじけ飛んだような後者、文章だけで旨さを伝えられるだけでもすごいことなのに、美味しさを描くのに二種類の旨さを描き分けられるのがさらにすごい。鮨を食べたエピソードは、天才ゆえに人生に倦んだ湊の、感動というものを覚えた数少ない出来事だったのでしょう。秘密を知られて去りゆく昔話のように、幻の母を求めた少年の思い出とともに、紳士も消えました。
 

「裸木」川崎長太郎(1939)★★☆☆☆
 ――世話をしたいという青木の申し出を、君栄もとうとう承知する破目になった。妾にしようというようなことを君栄の耳に入れた男を突っぱねてきた彼女は、二十三の今日まで、ずっと不見転《みずてん》を通してきた。青年土木技師との恋愛が立ち腐れとなり、荒れている矢先に現れたのが、映画監督の大野であった。

 風俗ものはあんまり興味がありません。
 

「唐薯《からいも》武士」海音寺潮五郎(1939)★★★☆☆
 ――「隼太どんのやつ、刀を砥いどるんじゃ」「なにするんじゃろ?」「戦争に連れて行って貰うと言うとッど」「ははははは」隼太どんな武士じゃ、唐薯ばっかり食うちょっても……夕食の時、敏也はその話をした。母も兄も腹を抱えて笑ったので敏也は得意になったが、父親だけはにこりともしないで、「武士はそうなくてはならん」とたしなめた。

 西南戦争を描いてはいるけれど、どう考えても西南戦争を描いてはいません。最後の最後に昔話にしているのは意図的なエクスキューズなのでしょう。どこの地域いつの時代の戦争の話であってもおかしくはありません。
 

「三月の第四日曜」宮本百合子(1940)★★★☆☆
 ――常磐線の待合室にはサイのほかにもかなりの人が溜っていた。三十人ほどの少年が整列していた。三年会わない東京ぐらしのうちにサイは二十になり、こうして勇吉は小学校を卒業して来た。村からはほかにも二人来ているらしい。引率して来た教員から名前を呼ばれた少年たちが前に出ると、大人たちの列から職場の主人が前へ進んで挨拶した。

 これも、何というか、やってることは現代OLと変わりません。恋の鞘当て、嫉妬心。
 

「茶粥の記」矢田津世子(1941)★★★★★
 ――夫のお骨へは茶碗に少しばかりよそって供えた。この茶粥は良人が好物だった。大分以前から食通として役所の人たちや雑誌の上では名を知られていたほうなので、ついその誉め言葉に乗って一途な清子は無闇とお粥をこしらえる。それが毎朝つづくという風でしまいには姑も良人も笑い出してしまうのだった。

 実際には食べたことのない料理でも伝聞や書物によって得た知識によって生き生きと文章化した――という設定に負けることなく、まさに旨そうな文章が並んでいました。食べたことがないどころか、慣れないものを食べると腹をこわし、好物は妻の作ったお粥だという微笑ましい逸話をはじめとして、夫婦と姑三人の仲むつまじい様子が伝わって来るようです。
 

「夫婦」中島敦(1942)★★★★★
 ――パラオ本島のギラ・コシサンは大人しい男だった。妻エビルは浮気者だったので、又、大変嫉妬家でもあった。痴情にからむ女同志の喧嘩のことをヘルリスと呼ぶ。恋人を取られた女が、恋敵の所へ押しかけて戦を挑むのである。パラオには未婚の女が泊まり込んで炊事の傍ら娼婦の様な仕事をする、モゴルという制度があった。モゴルに来たメリイという美人が、ギラ・コシサンと恋仲になり、嫉妬を燃やしたエビルがヘルリスを挑んだところ、無敗のエビルが負けてしまった。

 バリエーション豊かな悪口の数々や、直情的なエビルらが繰り出す露わな感情など、まるで南国と言ってイメージする理想郷そのもののような、パワフルでおおらかな人々が登場する作品でした。

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2018-06-20 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』フィリップ・K・ディック/浅

[]『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』フィリップ・K・ディック/浅倉久志訳(ハヤカワSF文庫)★★★★☆

 『Do Androids Dream of Electric Sheep?』Philip K. Dick,1968年。

 死の灰の影響で生身の生物が多く死に絶えたため手厚く保護されている世界で、アンドロイドを破壊する賞金稼ぎが主人公です。

 精巧なアンドロイド(あるいはロボット)を人間と見分けることができるのか?という問いは、SFではありきたりの設問で、これもそういう作品なのかと思っていたところ、中盤あたりのある出来事をきっかけに、アンドロイドに愛情を抱くのは人間として当たり前のことなのか?という問いに問題はスライドされます。突き詰めればどちらも「人間とは何か?」という問題ではあるのですが、「他人事」から「自分の事」になった途端に、これまでとは比較にならないほど切実さがアップします。

 しかしながら、結局はアンドロイド狩りを続けることにしたリック。アンドロイドたちのクーデターによって明らかにされる衝撃的なはずの現実は、けれど何ももたらしそうにはありません。ヒキガエルが電気仕掛けであることを知らないほうがよかった、と嘯くリックのように、信じたいものだけを信じていればよいのでしょう。

 第三次大戦後、放射能灰に汚された地球では生きた動物を持っているかどうかが地位の象徴になっていた。人工の電気羊しか飼えないリックは、かくて火星から逃亡した〈奴隷〉アンドロイド八人の首にかかった賞金を狙って、決死の狩りを始めた! 現代SFの旗手が斬新な着想と華麗な筆致で描く悪夢の未来世界!(カバーあらすじより)

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2018-06-17 『紺碧海岸のメグレ』ジョルジュ・シムノン/佐藤絵里訳(論創社 論

[]『紺碧海岸のメグレ』ジョルジュ・シムノン/佐藤絵里訳(論創社 論創海外ミステリ140)★★★☆☆

 『Liberty Bar』Georges Simenon,1932年。

 戦前に邦訳されたきりだった『自由酒場』の新訳完訳。

 メグレはアンティーブの駅で列車を降りた。紺碧海岸《コート・ダジュール》の雰囲気はヴァカンスを感じさせる。メグレはいささか特殊な指令を受けていた。「ブラウンという男がアンティーブ岬で殺された。あまり波風を立てるなよ。戦争中に軍情報部で仕事をしていたんだ……」。地元の刑事ブティーグによれば、三日間路上駐車されていたブラウンの車が急発進して岩に衝突、中から同居していた〈妻〉ジーナ母子が逃げ出したのだという。所持品からは金と貴重品、庭からはブラウンの死体が見つかった。ブラウンの死を通報しなかったのは警察を毛嫌いしていたから、金を持って逃げたのは正式に結婚していなかったからだとジーナ母子は証言した。ブラウンがいつも二千フランを持って出かけ、数日してから酔っ払って帰宅すると聞いたメグレは、自由酒場《リバティ・バー》という酒場を探り当てる。太っちょのジャジャという女が経営している居心地のいい酒場だった。そこにはシルヴィという若い娼婦もいた。

 メグレものというと、メグレや部下や判事たちのキャラクターは印象に残っているのですが、その印象が強すぎるためか、一部の例外を除いて犯人や被害者や関係者のイメージがあまり記憶に残っていません。

 ところがこの作品は、出張中ですからもちろん部下は登場しませんし、メグレ自身も影が薄い。その一方で関係者が(特に女性陣が)強い印象を残します。ブラウンはこんな女二人と十年もいっしょにいたのか、とメグレに同情されるほど面倒臭いジーナ・マルティニと母マルティニ夫人。酒場の経営者らしく気さくで包容力のあるジャジャや、薄倖そうなシルヴィによって、「自由酒場」という酒場が、ひいては紺碧海岸の姿が、伝わって来るようです。そして何より最終章に登場するメグレ夫人!

 メグレを前にした犯人の発作的な感情の爆発も忘れてはなりません。隠されていたコンプレックスを一挙に噴出させたうえ、その場だけに留まらず、その後の病院のベッドの上でさえ感情を露わにする姿には、同情も共感も出来ませんが感情を突かれるのは確かです。

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2018-06-13 『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』フィッツ=ジェイムズ・オブライ

[]『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』フィッツ=ジェイムズ・オブライエン/南條竹則訳(光文社古典新訳文庫)

 新訳を機に再チャレンジしたものの、やはり苦手な作家でした。

「ダイヤモンドのレンズ」(The Diamond Lens,Fits-James O'Brien,1858)★★★☆☆
 ――うんと幼い頃から、わたしの関心は顕微鏡で見る世界の研究に向けられていた。長じてから医学を修めるという名目でニューヨークに出ると、営々辛苦の末にさまざまな発見をしたにもかかわらず、装置の不完全さに研究を阻まれた。あらゆる外皮を突き抜け、大元の原子に到達できるような顕微鏡がほしい。ウルペスという霊媒を訪れ、顕微鏡の祖レーウェンフックの霊を呼び出した。

 レンズと狂気という鉄板の組み合わせによる、理想の美女を夢見た妄想小説。完全無欠なレンズによって見えるものが、ほかの何ものでもなく、完全無欠な女性であるという一点からして、永遠の女性を求めるあまたの古典の系列に連なる作品です。
 

「チューリップの鉢」(The Pot of the Tulips,1855)★★★☆☆
 ――ヴァン・クーレン氏は嫉妬狂で、妻が予定より二月早く出産したことを知って、恐るべき復讐を考えついた。子どもの道徳心を殺し、放蕩者になるようにした。ヴァン・クーレン氏は財産を一文も遺さなかった。これが死後の復讐であった。だが死の床で彼は「わしは間違っていた――」と言って事切れた。

 今となっては滑稽としか感じられない心霊科学かぶれですが、当時としてはここに書かれた現象が「本当っぽさ」を補強していたのかもしれません。
 

「あれは何だったのか?―一つの謎―」

「なくした部屋」

「墓を愛した少年」
 

「不思議屋」(The Wondersmith,1859)★★★☆☆
 ――不思議屋のヒッペ氏はジプシー仲間と協力して、木偶人形に悪魔の魂を宿らせて人間たちを襲おうと企んでいた。娘のゾネーラは夜は暗闇に閉じ込められていたが、古本屋の若者ソロンと愛し合っていた。

 訳者も書いている通りホフマンの影響がモロに見られますが、甘いロマンスと動物の役立ち方に、ホフマンとは違う甘さを感じます。
 

「手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙」

「ハンフリー公の晩餐」

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2018-06-10 『結晶世界』J・G・バラード/中村保男訳(創元SF文庫)

[]『結晶世界』J・G・バラード/中村保男訳(創元SF文庫)★★★★☆

 『The Crystal World』J. G. Ballard,1966年。

 バラード作品の印象を一言でいうなら「けだるさ」ということになるでしょうか。曇っているわけではないのにどんよりと暗いマタールの港は、その倦怠感を存分に醸し出していると言ってよいでしょう。

 検閲や荷物検査に情報統制といった不穏な気配のなか、露天で売られている宝石細工の美しさは、身体の自由を奪うよどんだ水のなかで輝く光のように、心を囚われそうな魅力に満ちていました。

 そんな、良くも悪くももけだるい空気が一変するのは、主人公であるサンダーズ博士が水晶化を目の当たりにする瞬間でした。「もう一波やってくるぞ!」という叫びの意味を悟った瞬間の恐怖はただごとではありませんでした。幻想が恐怖に変わる一瞬でした。

 水晶化の原因は軽く仮説が触れられる程度で、地球物理的な規模を飛び越えて宇宙規模のものなのですが、もともとの作風が終末感の漂うものなので、さほど悲劇は感じさせず、そこで水晶化の魔力に引きずり込まれる人々のドラマが繰り広げられます。

 本来なら外部の目であるはずのサンダーズが、半分あっち側に浸かっちゃっているので、異常であるはずの世界が、本当にきれいなもの、魅力的なものに映りました。

 忘れられぬ人妻を追って、マタール港に到着した医師サンダーズ。だがそこから先の道はなぜか閉鎖されていた。翌日、港に奇妙な水死体があがった。四日も水につかっていたのにまだぬくもりが残っており、さらに驚くべきことには、死体の片腕は水晶のように結晶化していたのだ。それは全世界が美しい結晶と化そうとする不気味な前兆だった。バラードを代表するオールタイムベスト!(カバーあらすじより)

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