NO.12「通潤橋」

水のある風景を続ける。阿蘇外輪山の南西側すそ野、熊本県山都町矢部には城郭のように聳えるアーチ型の水路橋「通潤橋」がある。石橋の多い九州でも異彩を放っている。台地の水田に水を送る水道橋で高さ21㍍、長さ80㍍、3本の石の通水管が1日1万8千㌧の水を送っている。放水は水路の目詰まりを防ぐため、堆積物を水圧で流すために行われる。そのために今も管理人がいる。放水栓を抜くと、凄い勢いで水が噴出した。唐の詩人・韓愉は「水声は激激として風は衣を吹く」と詠ったが、こんな光景か。水煙の周りに虹も立った。橋はペリー来航騒ぎの最中、安政元年(1854年)、惣庄屋が企画、住民の献金と労力奉仕で8ヶ月で完成した。石工頭は二重橋日本橋も手がけた橋本勘五郎。地震対策も行われ、通水管の間には松丸太をくり抜いた木管が緩衝材として入れられており、先人の知恵には感心するばかりだ。
通潤橋は当初「吹上台眼鑑橋」と呼ばれていたが、肥後藩の藩校「時習館」の教導師であった真野源之助が『澤在山下其気上通潤及草木百物(サワハサンカニアリ ソノキウエニツウズ ウルオイハ ソウモクヒャクブツニオヨブ)』(易損卦程伝)という文章から採択して、命名したという。
水は水田灌漑用のため、田植えや水不足の時期は放水は中止され、土日祝日の正午、15分間だけ定期的に放水されている。地元の小学生たちは毎年水路を探検学習し、水の節約に努めているが、水の学習が郷土の歴史、先人の知恵を学ぶ橋渡しになっている。

ほとばしる 水に学ぶや 田植前

NO.11原尻の滝

新聞の日曜版で「風景考」という連載を始めるに当って、1回目の候補地探しで大分県豊後大野市緒方町にある江戸時代に作られたと言う用水路を見に出かけた。見事な水路で猶も現役だったが、1回目に取り上げるにはパンチ不足だった。役場でほかにいい所はないかと聞くと「田んぼの真ん中に滝があり、東洋のナイアガラと言われています」と紹介された。滝と言えば山や崖にあるのが普通だが、田んぼの中にあると聞いて、これは珍しいと食指が湧いた。町外れの広々とした田んぼの中を流れる緒方川が突然落ち込み、高さ20㍍、幅120㍍の滝があった。ごうごうと水が落ち、無数の糸を引いて、時にカーテンとなり見事な虹もかかっていた。滝のすぐ上、川の真ん中には鳥居が立ち、祭りの日には裸の男たちが対岸のお宮まで神輿を担ぎ上げると言う。阿蘇の大噴火で生れた滝で、今は滝を中心に年間様々な行事が開かれ、緒方川の臍であると共に、町の臍であるかもしれない。地方へ行くと、まだまだ新たな発見があるのがうれしい。映画の寅さんシリーズもそんな残したい風景がふんだんに出てくる。

春麗 田んぼの中の ナイアガラ

NO.10「ジャージャー橋」

利根川の支流、千葉県香取市佐原を流れる小野川にかかる樋川橋は「ジャージャー橋」とも呼ばれている。江戸時代、この川をまたいで農業用水を通すため、大きな樋が造られた。その上に板を張り、「樋橋」が誕生したが、両側から水が噴出し滝のようになったという。
小さな川の両岸には、古びた蔵や商家が並ぶ静かな町に、今でも30分おきに小野川の水をくみ上げて、自動装置で落水する音が響く。橋を造ったのは、江戸後期に日本全図を完成させた伊能忠敬の一族らしい。橋の前に忠敬の屋敷跡があって、今の佐原があるのは伊能家と『ちゅうけい先生』のおかげと、地元の人は言う。地元の名主だった一族は測量技術に通じ、利根川の利水治水に尽力したらしい。樋橋がいつ出来たのか、正確には分からないが、わずかな傾斜を巧みに利用した送水システムは見事である。先人の熱意を今に伝えようと、昭和になって樋水を再開した。小江戸情緒を残す町のシンボルでもあり、橋のたもとから水郷めぐりの舟が出ている。

柳の芽 先人の偉業 伝える落水や

新緑や 水郷めぐり いざ出発

NO.9「亀甲墓」

沖縄には亀の甲羅の形をした墓が多い。『風景考』という新聞連載を担当したとき、最終回で人は最後は必ず墓に入るのだという視点でテーマを設定し、ロケーションのいい墓所はどこだろうと探した結果、たどり着いたのが日本最西端の与那国島でした。一年で一番墓所がにぎあうという旧暦1月16日の「16日祭」に合わせて島を訪れました。祖内集落の裏手、コバルトグリーンの黒潮の源流に洗われる明るい小高い丘陵に巨大な亀甲墓が並ぶ絶好の墓所でした。亀の前足のように見えるのは実は母の足で、亀甲部分は母胎だといい、墓に入るのは母の元へ帰ることを意味するそうだ。幅6㍍、長さ10㍍、高さ2.5㍍ほどのものが多い。16日祭は島の伝統行事で、祖先と子孫、つまり死者と生者が共に祝う正月だそうで、当日は古代の遺跡を思わせる墓前に親族が集まり、ご馳走を食べ、ドナンという泡盛を飲み、蛇皮線の音色と共に島歌を歌ったりして一日を楽しく過ごす。あちこちに与那国馬やヤギが放牧され、凧揚げをする子供たちもおり、悠久と共にどこまでも明るい南国の光景でした。

黒潮洗う 墓所の丘に 春の風

NO.8「北大ポプラ並木」

札幌の北海道大学構内にあるポプラ並木は、大学のシンボルだけでなく、北海道を代表する歴史的遺産でもある。明治36年(1903)、大学の前身旧札幌農学校の農場内に実習用に植えられたと言うから、樹齢100年を超える木もあり、平均樹齢5,60年、樹高30㍍前後のポプラ約50本が長さ250メートル、幅4.5㍍の農道を作っていた。が、平成16年(2004)の台風18号により、半数近くが倒壊した。大学では「北海道大学ポプラ並木再生支援」を全国に呼びかけ、支援金を募り、倒木を起したり、若木を植えて再生を目指した。ポプラは成長が早く、10〜20年後には、昔のように大地に雄雄しくそそり立つ牧歌的風景が再現される。近くには長さ300㍍の平成ポプラ並木も育ちつつあるが、元祖ポプラ並木の人気は今尚高い。今はまだ、櫛の歯が抜けたように見える並木を見るには、若葉が茂る初夏がいいと、大学では言っている。
とはいえ、北国がその魅力を一番発揮するのは冬であろう。余計なものを覆い隠し、一面の銀世界に凛とそびえ立つ並木は、幻想的でもある。赤い夕日を背に雪面に浮かび上がったシルエットと共に、決して倒れまいと、踏ん張り、空を見上げる誇り高いポプラの姿は、新天地に根ざそうと、自然と闘い続けた開拓者の静かだが強い姿が感じられるようだ。天を突くように真っ直ぐに伸びる雄大な姿は、北大建学の祖であるクラーク博士の「Boys,Be ambitious](青年よ大志を抱け」という言葉通り、今まで多くの有為な若者が、この並木に勇気づけられ、社会に巣立っていたことだろう。


☆雪原に 踏ん張る姿 雄雄しくも

☆2本に見ゆ ポプラは開拓民 の足かな

NO.7「蔵王の樹氷」

樹氷は東北地方の一部の亜高山地帯(八甲田山、八幡平、蔵王連峰など)でしか確認されず、海外でも余り見られないという。樹氷は、着氷と着雪の基になる過冷却水滴と雪が一定方向の強風で運ばれて、アオモリトドマツ(学名・オオシラビソ)などの常緑針葉樹に張り付き、生まれると言う。気温が高すぎても低すぎても雪がつきにくく、シベリアからの季節風日本海対馬暖流から大量の水蒸気をもらい、雪を生んで蔵王など常緑樹の山で作り出す。気象条件がそろわないときれいな樹氷が出来ないわけで、樹氷の表面は、「エビのしっぽ」と呼ばれ、樹氷群を巡る風が様々に乱れ、複雑に変化して、様々な形の樹氷をを作る。その形からアイスモンスターとも呼ばれる。中でも蔵王は山頂までロープウェーがかかり観光客でも手軽に見られることから冬の人気スポットになっている。2月の最盛期には乗車に長蛇の列が出来るほどで、数時間待ちもしばしば。数年前からライトアップもされるようになったが、矢張り、快晴の青空で見るのが一番だ。樹氷が出来るには、いわば悪天候でなければならず、流氷同様、天気予報をチェックして出かけられることを勧める。樹氷原の全景を望めるチャンスは週に一度あるかないかで、通うこと5回目でやっと快晴無風の絶好のコンディションに恵まれ、スキー共々堪能した。

☆息をのむ 樹氷が造る モンスター

樹氷の顔 ゴメンと言ったり 笑ったり

☆人気者 白い鎧の 軍団や


 

NO.6 「ナイタースキー場」

最近はどこのスキー場も閑古鳥が鳴いているという。スキー人口も半減、新潟県では最盛期の三分の一に減り、どこのスキー場もスキーヤーを呼び戻すのに必死だ。かつては、週末ともなると都心からスキーバスが繰り出し、夜明け前から滑りたい客の希望に応じるためどこのスキー場もナイター照明を備えたほどだ。煌々とした明かりが山のあちこちを染めていた。ここ谷川連邦を背後にする湯沢町ではほとんどのスキー場にナイター設備があり、競い合っていた。が、今では点灯するのは土曜日夜の一日だけというのがほとんどという。
スキーブームの頃は、日本中の山が削られ開発されていった。ブームが去った今は、終日リフトの動かないスキー場もあり次々と閉鎖され、無残な山肌だけを曝している。リフトなどの撤去費用もなく、荒れ果てたまま放置されている所も多い。

☆ナイターで 山眠るとは 昔のこと (1995年・新潟県湯沢町