私の知らない「本心」をたーんとご批判くださる。

 私の知らない「本心」をたーんとご批判くださるわけだが。
 ⇒traviesoの走り書き - 歴史と自由(1)

偶発的事件でなければ、「戦後のドイツ人のように、祖父母・曾祖父母の罪をきちんと暴いていかなくてはならない」(そういえば、ここでは「戦後のドイツ人」が直喩で使われている)というfinalvent氏だが、本心は「そうした問題を持ち出さず民族間の軋轢を減らす努力こそが求められるのではないか」というところにありそうである。

 いえ、私は歴史研究に対しておそらく冷酷ともいえる立場を取りますよ。
 あなたが、きちんと、関東大震災における朝鮮人虐殺を歴史的に取り上げるなら、私はそれをきちんと吟味します。
 しかし、あなたや、あなたちは、それをしていません。
 traviesoさんに至っては、ルワンダの歴史すら考慮していません。私の言説をずたずたにしてその像に批判の言葉を投げかけているだけで、歴史性に眼を向けていません。

ルワンダの虐殺と関東大震災朝鮮人虐殺はとても異なるものであり、その差異をどう理解するかが日本人に問われる」と言っていたfinalvent氏が、しまいには朝鮮人虐殺については偶発的事件として処理すべきで、「問題を持ち出」すべきではないとまで言い出すことになってしまった。

 ご冗談を。
 私は、大きな留保を付けているはずです。ちゃんと嫁。
 現状私が知った範囲では偶発としてとらえて妥当ではないか。そうではないのなら、妥当ではないという、歴史の議論を展開しなさい。私は冷徹にその史実を読み取る努力を惜しみません。
 しかし、あなたがたは固有の歴史を見つめていません。
 修正主義とかいうことを前提にして批判しているだけで、死者数推定すら着手していません。
 私が留保したのは、そういう状態であれば、つまり、私もあなたたちもこの歴史に対して現状無知であるなら、誇張されたイデオロギーより民族間の融和を先行させるべきでしょう、と言ったのです。Hear?

朝鮮人虐殺の「歴史背景」については先に引いたN・B氏のエントリが詳しいので、ここでは多くを述べないが、私の考えを言うと、確かに関東大震災のような未曾有の災害という「偶然」がなければ朝鮮人虐殺は起こらなかったかもしれない。しかし、未曾有の災害の中で特定の民族をターゲットとした虐殺が行われた*3ことも、おそらく歴史に類を見ない*4。ここには「偶然性」・「偶発性」だけで片付けることのできない、歴史の「固有性」がある。

 *3:形質的にはそっくりな日本人と朝鮮人を区別するために「15円50銭」の発音が使われたことを考えれば、「たまたま朝鮮人が犠牲になった事件」ではないことは明らかである。
 *4:もし、他に類例があればご教示ください。

 「未曾有の災害の中で特定の民族をターゲットとした虐殺が行われた」と、さらなるご冗談を。中国人も日本人も間違えられて殺害されているのを知らないのですか(追記:「15円50銭」が発音できなければ日本人も殺されたらしい。なら、狙われたのは朝鮮人に象徴される異者。朝鮮人コミュニティへの襲撃がない点も要考慮)。というか、そこまで歴史を知らないで批判をしているなら、さらなる言葉はむなしいでしょう。っていうか、言うだけ無駄な愚論には特に反論する気もないです。そんなことをするより、ダルフール危機の問題を考慮することにエネルギーを注ぎますよ、私は。でも、traviesoさんは、traviesoの走り書き - お詫びの経緯もあり、もう少し読めるのかと期待していたので、書いています。
 歴史の固有性を言うなら、平和の礎のように、その名前を刻んでいきなさい。沖縄人はそうして歴史に向き合ったのです。あなたたちは、なぜそうしないのですか。
 東京大空襲についてもまたその殺害者の名簿を、死者の名を、刻もうとしています。⇒東京大空襲
 あなたたちは死者に名を戻すことをせず、「虐殺」というシンボルに酔っているだけです。
 死者の名が戻せないなら、そうできないなら、そのできないという現状をどのように受容したらいいのかと考えないのですか。
 いいですか、私たちは、この世界から虐殺をなくしていかなくてはなりません。
 そこが最大の目的です。そのために私たちは賢くなるべく歴史を鏡とするのです。知的満足や歴史を知的興味の対象として終わりではないのです。その歴史からなにを学び、現在と未来にどう向き合うかです。
 だから、重要なことは、重要な虐殺は、今進行している虐殺なのです。
 これをきちんと読みなさい⇒finalventの日記 - ドン・チードルとポール・ルセサバギナの手紙
 ホテル・ルワンダで問われていることは、ホテル・ダルフールを作らないことだとドン・チードルとポール・ルセサバギナが言っている意味を、あなたたちは受け止めているのですか。
 ついでに。
 ⇒CUATORO GATOS広報部はてな非公式出張所・『渋谷ハチ公前広場』 - 治安への欲求と歴史についての言説(13日追記)

「ある集団≒朝鮮人は日本人に憎悪を抱いている、彼らが受けた被害を認めることは我々日本人を命の危険にに陥れる」、これってまさに大震災の虐殺における流言蜚語そのままじゃないですか

 ご冗談をまた。そんなこと私finalventが申したと流言飛語をしてくださる。
 そうではない。憎悪の歴史背景を持つ虐殺の構図を持ち出すそれほどの歴史学的な基盤がないなら、ただ「虐殺だ」と吹聴しまくることは愚かしいことですよ。
 
追記:コメント欄より

esper 『「中国人も日本人も間違えられて殺害されている」のであれば、やはりターゲットは特定の民族だったんじゃないでしょうか?いや、ブックマークから来たんで全然話の流れ分からないんですけどね。』
finalvent 『esperさん、ども。史実をご検討され、そのように結論されるのであれば、そうした考え方もあるかと思います。ただ、新聞を巻き込んだ流言飛語の対象がこのケースで朝鮮人であったということで、それをもって特定の民族の虐殺としますか?』

 補足。「新聞を巻き込んだ流言飛語の対象がこのケースで朝鮮人であった」という点に私はまったくの背景のないものではないにせよ、蓋然性は高いと考えています。つまり、他にも結びつく可能性があった、と。ただ、あの時代、あの状況で、異人化される他の対象は考えにくいようにも思います。フレームワークとしては、genocide としての朝鮮人虐殺ではなく、異常事態の異人への迫害という点で、異人があの状況で朝鮮人に結びついたのだろうと考えています。genocide 的な探し出してその血を絶やすという意図は私の知る限り認識されません(コミュニティ襲撃が無い)。また、あの時、日本国国家は朝鮮人の保護に向かったと思えます(この点、歴史学的に十分研究されてないように思えるので留保がつきますが)。
 

追記:massacre と genocide
 コメント欄にて以下の指摘をいただく。一部編集したので原文はコメント欄を当たって欲しい。

summercontrail 『
  :
 ホテル・ルワンダから始まった一連の話題ですが、2006/03/18 19:48のfinalventさんのコメントを読んで、日本語での「虐殺」と”genocide”との語感の違いが食い違いの一因になっているように思いました。冷静な容認の下で組織的・計画的に実行される大量殺人という事態そのものが、想像しづらいのかもしれません。』
odakin 『日本語の「虐殺」にぴったりくるのは massacre かな。関東大震災での朝鮮人虐殺に使うにも適切だと思う。南京大虐殺からミュンヘン五輪事件まで広く使われているし。
genocide に対応する日本語はないですね。「ある人間集団をまとめて殺す事」だから。
http://en.wikipedia.org/wiki/Genocide
http://en.wikipedia.org/wiki/Massacre
フォローしてないけど、この二つはちゃんと区別せにゃあかんぞ、という話?』

 これはちょっと虚を突かれた思いがしました。私は関東大震災における朝鮮人虐殺を massacre であるという認識は前提にしています。その否定はしていません。私は、genocide を問題にしています。
 まとめると、私はルワンダ虐殺と、関東大震災における朝鮮人虐殺は、genocide と massacre の違いと見ています。
 ただ私がこうした思考の経緯に至ったのは、では、ルワンダ虐殺は massacre なのか?という点です。私は、「ドン・チードルとポール・ルセサバギナの手紙」の主張を見ても明白なように、ルワンダ虐殺は genocide と考えています。そうでなければ、現在のダルフール危機の問題につながりません。
 この点、私の批判者はどう考えているのか多少気になってきました。
 

追記:朝鮮人虐殺の規模に関連して
 私が、私の批判者と異なり、朝鮮人虐殺の規模の史実に関心を持っているのは、それが名をもった固有の人間の死の尊厳を考慮したいことがあるのが一義だが、事件のもっともマクロ的な様相がわかるのでないかという史学的な関心もあります。
 当時のこの地域にどれほどの朝鮮人が居たのかその比率が知りたい。被害者の総数が「10万5千余人」であるとして、その0.5%が朝鮮人であれば、均等に被災が分布したと仮定すると、500人は被災死者として想定できるでしょう。おそらく、被災の確率はそれ以外より高いと思われます。均等に被災が分布という仮定は滑稽といえば滑稽なのですが、朝鮮人虐殺の規模が大きければ分布してくる傾向はあるはずです。
 おそらく一次資料的には、虐殺者と被災者は分別できないのではないかと思うので、朝鮮人被災者推定から上のようなマクロ的な状況の差分がどれほど目立つかというのが、この歴史の解明ではないかというふうに考えています。
 ネットの史料なのでかつこれは偏向した情報の多いサイトのように思えるので信憑性は保留ですが、「大正12年9月1日以降ニ於ケル警備措置一班」では、「死者233名、重傷15名、軽傷27名、計275名。誤殺日本人死者58名、重傷13名、軽傷18名、誤殺中国人死者3名、重傷5名」ということで、この数値からは、日本人の誤殺が1/4にもおよび、朝鮮人虐殺(genocide)とは異なった、集団ヒステリー的な無差別殺人に近い様相が伺われます。
 同様に不確かな朝鮮総督府官憲史料では、被害者は被災被害を含めて832名とあり、これは弔慰金総額とも併せられています。
 私はこれらの史料に信憑性があると考えているわけではなく、一つの参考としているだけです。同様に、「十五円五十銭」と発音させたというお話も史実ではないのではないかという疑念も持っています。
 いずれにせよ、史実の解明から、朝鮮人虐殺(genocide)問題の様相は自明に明らかになるので、私の批判者はその点に注力していただきたいと思います。
 

追記(粘着系):粘着ポイント?

2006年03月19日 kemu-ri 『ちぐはぐ。travieso氏の指摘した「アウシュビッツ」をメタファーに使った問題」「あなたの子をアウシュビッツに送り込む?誰が?」という問題はスルーしている。いくつかの誤りを認めないと自家撞着は解消しないのだが』 ホテル・ルワンダ

 アウシュビッツユダヤ人にいわれなき偏見の歴史的蓄積から生まれた側面が大きい。あのころ彼らは国家を持たず、そうした偏見に十分に対応できなかった。対応できたら……いや現在の某団体活動を見ればわかるだろう。
 私にこの点で誤りがあるとすれば、関東大震災における朝鮮人虐殺が genecide であると史的に妥当に解明された時だ。その時を待たずして、史実を見つめようとせず、関東大震災における朝鮮人虐殺が日本人による genecide なのだと言われれば、私は看過すべきではないし、看過すべきでない懸念の理由は、すでに述べたとおりだ。「誰が」を生まないための話だ。
 そういえば、この手の詰問は懐かしい。日本の防衛というとき、誰が攻めてくるというのかとマジで問われていた時代があった。今の人はあの時代の空気を知らないかもしれない。防衛というのは、誰がどの国がという問題ではない、というのは今では普通の常識になった。
 私はこの点で自家撞着なんかしてないと思うが。っていうか、おまえら、ドン・チードルとポール・ルセサバギナの手紙を嫁や。そこ、スルーしてねか? ホテル・ルワンダの監督と主演の主張をどうしてそこまで無視できるのか、わかんねなぁ。
 

追記(独走系):歴史を学ばない人
 ⇒過ぎ去ろうとしない過去

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060318
酷い。というか、うーん、ここまで頭が悪いとは思えないんだけど。

 あー、熨斗は付けないけど、そっくりお返ししますよ。

関東大震災時の朝鮮人虐殺については、ググるなりopacなりで検索すればいくらでも専門家の著書や論文が見つかるはずです。で、「未曾有の災害の中で特定の民族をターゲットとした虐殺が行わ」れ、その背景には朝鮮人への差別的な社会風潮があったということなんて、誰も問題にしていないぐらいほとんど自明のことがらだと思うのですが。歴史的事件を取り上げるときに、それまでの研究から上がっている成果を踏まえず、いちいち一から議論を組み立てないといけないわけでしょうか。そうでは無いでしょう。

 そうかね、というのは、お返しの理由ではないです。っていうか、専門家の著書や論文がどう史学界で評価され定説化されているのが問題であって、学問においては、スラファ(Piero Sraffa)の論文のように、量なんてどうでもいいことですよ。
 え、お返し理由は、これ。

たとえば平和の礎や東京大空襲の名簿作成は、確かに尊い作業です。しかし、あらゆる虐殺において一人一人の名前が刻めるわけではない。南京事件もそうだし、もちろんホロコーストも。

>もちろんホロコーストも。
>もちろんホロコーストも。
>もちろんホロコーストも。
 ちょっとググるなりopacなりで検索せーや。当方も、貴殿について「うーん、ここまで頭が悪いとは思えないんだけど」なので、訂正お待ちしています。
 この追記
 ⇒ 返答及び追記 過ぎ去ろうとしない過去

何を訂正すればいいのか分かりません。

 あれま。
 ホロコーストの名に関連する行為を知らない? 未解決な部分はあるでしょうし、100%というのは神でなければ無理でしょう。でも、その具体的な努力がなされているのを知らない? もしかして、ホントに知らない?

関東大震災朝鮮人虐殺について何冊か調べてみたところ、

 単純に知的な関心からですが、その何冊かを教えてください。

虐殺の中には警察が保護した朝鮮人集団をわざわざ警察署まで押しかけていって殺した例もあり、これは明らかにジェノサイド的心性から発せられたものだと言えます。

 「ジェノサイド的心性」というタームは存在しますか(語義矛盾のように思える)? genocideの背景となる心理的な背景はあるでしょうし、genocideを遂行する心性はありうるでしょう。しかし、genocideの特徴である計画的特性というのは心性に帰せられることはないでしょう。あるいは、この「警察が保護した朝鮮人集団をわざわざ警察署まで押しかけていって殺した例」なのでしょうか。そのためには、警察がこの殺害に組織的に関与していなくてはなりません。とそれ以前に、そのfactの一次史料はなんですか?
 この追記
 通じてない分はしかたないとして、以下の書籍のインフォは、ありがとう。

目を通した本。
 
姜徳相関東大震災』(中公新書
関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会・調査委員会編『関東大震災朝鮮人虐殺 : 歴史の真実』(現代史出版会)
山岸秀『関東大震災朝鮮人虐殺 : 80年後の徹底検証』(早稲田出版)
山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺 : その国家責任と民衆責任』(創史社)

 genocideの定義をちゃんと嫁

わざわざ警察署を襲撃してまで朝鮮人を殺さなければならなかった、ということは、まさに計画性・組織性の現われであり、ジェノサイドと言ってよい。

 そんな簡単に言ってよいわけねーって。


追記(妄想系):妄想には反論できないよ
 このオサーン、誤読激し杉。
 ⇒あきれたね…(追記あり)

どのように受容するかを彼なりに考えた結果が「日本でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」という一文を削除すべきと言う主張だ、というのだろうか?

 そんな主張してないってばさ。
 ダルフール危機についてどう考えているのか?と問うと。

私が「どう考えているのか」についてはこちら

 こちら⇒全てのものは同じであり、全てのものは異なっている(追記あり)
 (・O ・)どこにダルフール危機が言及されておるんじゃ。

いやだからさ、一体どこの誰が「関東大震災における朝鮮人虐殺が genocide だった」と主張したわけですか? だれも主張していないことを勝手に読み込んだあなたの妄想が発端なんでしょうが。

 ルワンダ虐殺=genocideでしょ、それと、関東大震災における朝鮮人虐殺は同じっていうなら、genocide属性を継承しないんすか?
 私は、ルワンダ虐殺=genocide、関東大震災における朝鮮人虐殺=massacre 、それって違うでしょ、と主張していた。

はじめまして。いつも楽しみにしております。
finalvnetさんはガチで自説が普遍的・科学的なスタンスだと思ってるんでしょうか?さすがに「ターゲット云々」を読むと(比喩・皮肉の類では無く)狂信としか思えなくなってきますが...。
あの童貞中学生のような頑なさで守ろうとしてるモノはなんなのか、謎が深まっていきます。
ビックル | 03.19.06 - 12:49 pm | #

 童貞中学生のような頑なさで守ろうとしてるモノといえば、純情に決まっておろうが。
妄想系のおまけ
 ⇒traviesoの走り書き ■[メモ]危うし

「異端審問」という言葉を使って、この議論の本質が党派的対立であるということにしたがっているのは私ではなく、finalvent氏である。

 ほいじゃ、言葉狩り。「異端審問」で釣れる?
 もっと問題の本質を見なさい。
妄想だってば
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060319#c1142901384

finalventさんの議論は、第一に集団ヒステリー(とfinalventさんが主張するもの)を「悲劇」として放置ましようとする点で問題があり、第二に虐殺参加者の罪を「われわれの罪」にスライドさせ、その上でその罪の「減刑」をはかるという点で議論のすりかえと呼ばれても仕方のないものです。

 悲劇として放置しよとしてねーって。罪の減刑とか考えてねーって。
 genocideとmassacreの歴史をそれを継ぐ国民がどう考えるかと言ってんだけど。
そんなこと言ってないないってば
 ⇒ 関東大震災の虐殺の話とダルフールのジェノサイドの話

finalventさんの主張
1. 関東大震災において「われわれ」が「朝鮮民族」に対するジェノサイドを行なった、という誤解が流布している。あるいは、流布する可能性がある。

 だからぁ、そんなこと言ってないってば。
 関東大震災朝鮮人虐殺(それを否定もしてないって)がgenocideであるかどうか現状ではわからない。わからないのに、それを前提とした議論や控えておけ。その分、ちゃんと歴史学的な追求をしなさいってこと。
 どうでもいいけど、ダルフール危機への日本人ブロガーの貢献に手を貸してくれ。
そんな主張はしてない
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20060322#p2

「擁護論」は、関東大震災の虐殺に関してfinalventさんが「われわれの曾祖父に偶発的虐殺以上の罪はない」(要旨)と主張していた件についてです。

 そんなこと主張してない。ルワンダ・ジェノサイドが関東大震災朝鮮人虐殺と同類で問われていると文脈において、父祖の罪(ジェノサイド)については現状ではよくわからない。よくわからないものを、それがジェノサイドとする断罪は謹んでおこう。そして未来の友好に尽力しようというのが私の主旨だ。


追記(ホゲ系):断末魔らしい

2006年03月19日 shidho 『finalvent氏の断末魔だな。今回のこれで論客としては終わってしまったと思う、とガ島メソッドを使ってみる。』 blog 揉め事

 それで、いいよ。

2006年03月19日 shidho 『finalvent氏の断/追記に取り込まれて納得のいく返事ももらったのでそれでいいや。』 blog 揉め事

 それは、よかった。
そっちの世界でご満悦な人々
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/20060318#c1142868165

# jimusiosaka 『apesnotmonkeysさん。
>というかそのエントリ、無茶苦茶ですね。さすが山本七平シンパだけのことはある。
 同感です。このエントリが『日本人とユダヤ人』に書かれたgenocideに関する非歴史学的な例え話を援用した記事であろうことは想像できましたが、オリジナルに輪をかけて突飛で支離滅裂な内容に思われました。』
# gachapinfan 『・・・そしてそういった無茶苦茶なエントリに対してまじめに批判すると、《空気読めない瑣末主義者》のレッテルを貼られることにwww』
# jimusiosaka 『やはり、「そういった無茶苦茶なエントリに対してまじめに批判する」人に対して、「《空気読めない瑣末主義者》のレッテルを貼」ることが目的のエントリだったのでしょうかねえ。あまりにもあからさまに「トンデモ」な内容なので、かえってその意図を勘繰ってしまいそうです。』


追記(溜息系):そこまで馬鹿と見られてましたか
 不徳の致すところでございます。
 ⇒gachapinfanのスクラップブック

ただ、finalventさんがOPACの存在を知らないとしたら、それはリテラシーの欠如にあたるだろうと思う。

 んなわけないよ。っていうか、なんにも通じてねー、溜息。
 それから、ホロコースト記念館についてちゃんと調べ説きなさい、各位、と言っても虚し。調べられない人はこっち見ておけ⇒The Central Database of Shoah Victims' Names
 でも。
 gachapinfanさんには、以下(追記:ダルフール危機がgenocideでないというご意見)を読んでいただきたい。って言っても無駄か。fenestraeさんのご意見と、ドン・チードルおよびポール・ルセサバギナのダルフール危機認識の差に目を向けなさい。


追記:ダルフール危機がgenocideでないというご意見
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/travieso/20060318/p1#c1142783307

ついでにいうとダルフールの場合、質的に genocide でないというのが、多くの現場を訪れたジャーナリスト、地域専門家、人道支援団体(ex.国境なき医師団)などの見解ですが、その主張の意図が理解されずに党派的に解釈されるのは不幸です。

 なるほど、ドン・チードルとポール・ルセサバギナはその理解していない、党派の筆頭ということですな。
 ⇒finalventの日記 - ドン・チードルとポール・ルセサバギナの手紙

Another genocide is taking place right now in the Darfur region of Sudan. We know, because we just returned from there.
 もう一つの民族虐殺(ジェノサイド)が今現在スーダンダルフール地域で進行しています。私たちがそれを知っているのはちょうどその地から戻ってきたばかりだからです。

Government-backed militias, known collectively as the Janjaweed, are systematically eliminating entire communities. Villages are being razed, women and girls raped and branded, men and boys murdered, and food and water supplies targeted and destroyed. Victims report that government air strikes frequently precede militia raids.
 まとめてジャンジャウィードと呼ばれる、その政府が後押しする民兵たちは、組織的に、社会全体の排斥を行っています。村落は破壊され、婦人と少女はレイプされ傷つけられ、男性と少年たちは殺害され、食料と水は標的とされ破壊されています。被害者の証言によれば、政府軍による空爆民兵の襲撃に先行しています。

 スーダン政府の後押しのある民兵が組織的に行動し、あまつさえ、政府軍による空爆民兵の襲撃に先行しても、genocideではないと、massacre であると。
 もひとつ。
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/travieso/20060318/p1#c1142790740

現に、この議論はダルフールの場合も、一般に思われているようにこの区別は問題の大きさの宣伝や介入の必要性のレベルではなくて、介入方法の実践にに関わってくるので現場の人々がこだわっています。

 その認識は半分正しい。だから、AUに期待した。しかし、冷静に考えればAUになにができるわけでもなく、ただ、ダルフールでの虐殺を拡大しただけだった。
 ⇒極東ブログ: ダルフール危機がチャドに及ぶ
 リベラルの民主党寄りであるニューヨークタイムズの意見はこう。
 ⇒Beyond Strong Words on Darfur - Free Preview - The New York Times

It's not America's job to police the world. But Darfur is a special case, which the Bush administration has rightly described as genocide. Mr. Bush has shown that he understands the scope and urgency of Darfur's crisis. The next step is for him to accept the role America needs to play in a timely solution, before thousands more people needlessly die.
 これはアメリカが世界の警察としてする仕事ではない。しかし、ダルフールは特例だ。ブッシュ政権は正確にジェノサイドだと規定した。ブッシュはようやくダルフール危機の問題の範囲と緊急性を理解したのだ。次のステップは、アメリカの責務を受け入れ、適時な解決の行為に向かわなければならない。さらに数千の人々が意味なく殺されてしまうまえに。

 おまけ。
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/travieso/20060318/p1#c1142790740

その上で、genocide でない massacre であれば罪が減じるという思考は−−特に加害者側の思考としては−−不謹慎と私は判断します。

 誤解の予防線で言うけど、それ、俺じゃないからね。俺にしたてた妄想と混同しないでね。


追記:印象
 FAQ in War Historyにおける一次史料の指摘が正しく、つまり、一次史料が以下、3点のみなら諸研究の評価はこの一次史料との距離で概ね測定できそうだし、史学研究の限界性もある程度明らかになるだろう。

  1. 「現代史資料6 『関東大震災朝鮮人』」
  2. 警視庁編『大正大震火災誌』
  3. 東京市発行『東京震災録』
 その限界性のなかで、解釈をできるだけ排除して、genocide の妥当的な推定が成立するだろうか?
 直接事件に関わらない同時代人が流言飛語をどのように受けとめたかという証言は他にもあり、それらは、massacre を示唆しているようには思われる。
 これはまったく批判の意図なく言うのだが
traviesoの走り書き 吉野作造の「最少限度の要求」

朝鮮支配という現実に居直ることなく、吉野や朝鮮の人々の声に耳を傾けていれば、日本人も被害者意識や朝鮮人に対する恐怖を持たなかったかもしれない。

 その恐怖心によってひきおこされたと想定すること自体、massacre を示唆しているようには思われる。
 そしてこれをいうと非難のように聞こえるかもしれないが(その意図はないのだが)、ルワンダ虐殺=genocideという問題意識が実は私の批判者に欠落していたではないだろうか。というか、彼らのgenocideの理解が実質にはmassacreであり、ゆえに実際にはルワンダ虐殺=massacreと見ていたのではないか。だからルワンダ虐殺も関東大震災朝鮮人虐殺も同じというのも当然の帰結になる。
 また、そう考えると、ダルフール危機=genocideの差し迫った課題が彼らには意識されないのも理解できる。
 彼らに必要だったのは、massacre における被害と加害のナショナリティ配分の構図だけだったのだろう。というか、世界の義のありかたがその構図から超えるはずもないのだろう。
 そして、その審問において、日本人は常に加害でなくてならない。被害の可能性を言及した私は、異端審問に合うのはあたりまえのことでもあったのだろう。
 異端諮問的バッシングに遭遇するのは覚悟の上だが、genocide認識については、ルワンダ虐殺が問われているのだから、私にはそれが自明だろうとするうかつさがあった。(というか、映画を見ていないので憶測なのだが、「ホテル・ルワンダ」はその本質である genocide を描いてないのではないか。)


追記:ルワンダ・ジェノサイドの重要な点
 ⇒武内進一「ルワンダのジェノサイドが提起する諸問題」

第2に、殺戮の手法に関わる問題である。ルワンダのジェノサイドについては、一般大衆が多数参加し、農民がナタを持って殺戮を遂行したとの理解が流通している。しかし、公刊された文書資料や聞き取りから状況を再検討すると、民間人が殺戮に関与した例もあるにせよ、多くの場合、軍や警察が近代的武器を持って殺戮を実践したことがわかる。また、殺戮の動員に際して重要な役割を担った民兵組織は、一党制時代に由来するものであった。殺戮実践の方法は、ポスト・コロニアル国家の構造と密接に関連している。

 そのあたり、「ホテル・ルワンダ」はきちんと描いているのだろうか。
 私の批判者にはこうした制度的な側面の認識がすぽーんと欠落しているように思える。
この項目の追記
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20060322#c1143049778

# hokusyu 『んー、遡及的にかもしれませんが、関東大震災関連の書籍を読むにつれて、ルワンダの虐殺はやはり関東大震災朝鮮人虐殺を想起せざるを得ない、という気がしてきたりしてます。自警団の暴走、それに対して軍や政府の煮え切らない態度、とか。』

 そこに限定するなら、「軍や警察が近代的武器を持って殺戮を実践した」ルワンダ・ジェノサイドとむしろいかに違うかということになる。


追記:擁護論?に欠落しているものそれはgenocide認識
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20060322#p1

おそらく、「われわれ」擁護論は――もしそれを比較的受け入れられやすいかたちで主張しようとすれば――こう言い直すべきだろう。
0. 虐殺に参加したのは一部の暴徒にとどまり、虐殺を止めようとした日本人もいた。また、警察が組織的に虐殺に参加したことはない。むしろ彼らは虐殺阻止のために働いた。*2 *3
1. 私は、虐殺参加者を憎むし、虐殺を阻止しようとした人たちを見習いたいと思う。
2. 虐殺参加者の処罰は厳正におこなわれた(または、おこなわれるべきであったと思う)。
3. もしあのような虐殺の現場に私が遭遇すれば、私はそれを止めたいと思う。しかし止めることはできないかもしれない。そのときは、私は後悔するだろう。
4. あのような虐殺の基盤となった朝鮮人差別、猜疑心、メディアの脆弱性などの問題は、戦後の(再)民主化と経済発展によってかなり解消されていると思う。
4.1. 実際、阪神大震災のときには虐殺は報告されていない。
4.2. そしてわれわれは、あの虐殺をふたたび繰り返さ(せ)ないためにこれからもそういった解消の努力をつづけるだろう。

 なぜ、この擁護論で、genocideが欠落してしまうのだろうか。
 こうした議論では、massacreとgenocideをごっちゃになるばかりだ。
 genocideというのは「虐殺参加者の処罰」だけでは済まないことがわからないのだろうか。gachapinfanさんの擁護案はmassacreである。私が問題にしているのは、genocideだ。
 genocideでは民族を抹殺していく組織性(通常は国家)が問われているのだ。


追記:なんでgenocideとmassacre区分自体はさほど重要でないことになるのか
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20060322#p3

ルワンダ虐殺と関東大震災の虐殺は、「制度化された特定集団虐殺」と「未必の特定(諸)集団虐殺」*1として言い直すこともできます。そして、「特定(諸)集団の虐殺」という結果自体が問題だとする立場からは(そしてほとんどの人はその立場だと思いますが)、両者の区分自体はさほど重要でないことになります。

 皆目わからん。
 だったら、いったい、ジェノサイド条約はなんのためにあるのだ?
 ⇒ジェノサイド条約 - Wikipedia
 (日本政府がこれを批准してないからよし?)
 というかルワンダ・ジェノサイドのことがわかってないのではないか。
 ルワンダ・ジェノサイドの時、当時の米政府はジェノサイド条約による「加盟国による国際的なジェノサイド防止義務」を避けようとして、ジェノサイドではなく「ジェノサイド的行為」(Act of Genocide)であるという主張を続け、この悪魔的な時間稼ぎで国連の安全保障理事会はジェノサイド定義の議論に空転して、結局、ルワンダ・ジェノサイドが進行した。
 あの空転の時間が結果的にルワンダ・ジェノサイドを認可してしまったというのに、その反省もなくいまだ同じレベルの議論を続けていることも皆目わからん。
 繰り返しになるが。
 ⇒武内進一「ルワンダのジェノサイドが提起する諸問題」

しかし、公刊された文書資料や聞き取りから状況を再検討すると、民間人が殺戮に関与した例もあるにせよ、多くの場合、軍や警察が近代的武器を持って殺戮を実践したことがわかる。また、殺戮の動員に際して重要な役割を担った民兵組織は、一党制時代に由来するものであった。殺戮実践の方法は、ポスト・コロニアル国家の構造と密接に関連している。

 genocideというのは、こういう組織・計画的な殺戮を意味するのだよ。そういう組織・計画性をたんたんと遂行していくことが問題なんだよ。それが今なおダルフールで進行しているということがわかんないのか。
 関東大震災時の朝鮮人虐殺について、そういうgenocideかどうか、歴史学的にはわからない。だが、現状ではgenocideとは言い難い。言い難いものをgenocideだと言い張る(ルワンダ・ジェノサイドが関東大震災時の朝鮮人虐殺と同じという主張)のは控えようというのが私の意見だ。
 genocide認識の間違いがダルフール危機への無関心さと通底しているのではないかと疑う。


追記:国家の認定と超国家の認定
 ⇒今、放置されている被害を止めること 過ぎ去ろうとしない過去
 まず、hokusyuさんの論点は理解できるつもりです。
 それに対して、私からは、2つの反論があります。国家と超国家の側面からです。
 一つはすでに書きました⇒http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060318#c1143241320
 もう一つは、国家の立場と安全保障理事会など超国家の立場は異なるというものです。

関東大震災時の朝鮮人虐殺について、そういうgenocideかどうか、歴史学的にはわからない。だが、現状ではgenocideとは言い難い。言い難いものをgenocideだと言い張る(ルワンダ・ジェノサイドが関東大震災時の朝鮮人虐殺と同じという主張)のは控えようというのが私の意見だ。』
 このロジックが、おそらくルワンダ・ジェノサイドの際の安全保障理事会でも繰り返されたのだと思いますよ。曰く、本件については調査中で、そういうgenocideかどうかわからない。「現状では」genocideとは言い難い……

 これは、国家と超国家の関係からまったく別の扱いをしなければならないものだと考えます。責務の主体問題でもあります。この点については、NYTの次の主張にも関連します。
 ⇒http://www.nytimes.com/2006/02/22/opinion/22wed3.html

 これはアメリカが世界の警察としてする仕事ではない。しかし、ダルフールは特例だ。ブッシュ政権は正確にジェノサイドだと規定した。ブッシュはようやくダルフール危機の問題の範囲と緊急性を理解したのだ。次のステップは、アメリカの責務を受け入れ、適時な解決の行為に向かわなければならない。さらに数千の人々が意味なく殺されてしまうまえに。

 ここでこういう言い方で面白いというと不謹慎ですが、超国家の正義の実践に、米国は世界という超国家を前提にしなければならないという理念を持っています。つまり、超国家が機能しなければ正義が世界に必要とされる部分を自らが実践しようと。
 私は、これは、正しいと考えています(もちろん、超国家を名乗る国家が国家主義になる危険性を孕みます)。
この問題の同質の問題として
 ⇒追記その4 - 「ジェノサイド」概念が重要でないと言った主旨について
 ぶっちゃけたところで言えば、gachapinfanさんの主張のように、人が殺される現状をとにかく制止するなら、なんでもよいには同意です。
 しかし、依然、genocideとmassacreの違いは本質的であると考えるのは、この項の議論とも同質であると考えます。genocideは、あえて言えば、国家(民族国家)そのものを問い出す、根底から突き崩す本質を持っていることです。超国家の要請もそれに関連します。
 我々が民族国家としてこの地上に存在するためには、民族を滅ぼしてはならない。genocideを起こしうる国家はそれとの緊張関係に置かれるが故に超国家を必要とします。つまり、人が殺されるのを阻止するならなんでもいいというのとは、原理性において異なります。
 別の側面で、また、私への矛盾として喧伝されている部分に多少関連つけるなら、実際の人間は民族国家幻想のなかにおり、その幻想によって保護されると認識し、そう認識しているがゆえに国家への信頼(幻想)をもっています。その構成員もその保護の幻想を交流し確認しています。私はそういう点で、普通の日本民族の一人として日本人を身内の延長のように考え、人権の超国家的な正義とは矛盾して生きています。だから、民族国家としての日本が大切だと思うのであり、多くの他民族も同様に自己民族とその国家をそのように親族的な愛着を抱くでしょう。それは人が現在世界においてそういうものだという事実だと思います。
 あるいは、その本質的な矛盾のために超国家の希求をある調和・妥協として考えます。
 しかし、依然、現在世界は民族国家という歴史のレベルの限界を持つものであり、私という人間はそこで生涯を閉じるだけです。新しい日本人がそれを打破してくのだろうなとは思いますが、どうなのかそこまではわかりません。
 
追記
 コメント欄の関連の議論⇒http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060318#c