坂の上の雲 (1)

 司馬遼太郎坂の上の雲』第1巻(ISBN:4167105284)読了。
 全8巻から成るこの小説は、3人の伊予人の視点から日露戦争を描こうとするものである。第1巻は、登場人物のお目見えといったところ。
 まず1人目。秋山好古(よしふる)。下級武士の生まれで、10歳の時に明治維新を迎える。貧しさのために学校へ行けず、風呂焚きをして金を稼ぎ、本を買った。この頃、全国に小学校が設けられていたが、大阪では教員が不足していた。というのも、江戸時代に学問をしていたのは武士階級であったから、商人の町である大坂には適切な人材が少なかったのである。明治8年(1875年)、好古は大阪に出て試験を受け、代用教員となった。さらに試験を受けてみると、あっけなく本教員になった。時に好古17歳の時のことであるから、ここから当時の教員の質をうかがい知ることが出来る。しかし赴任先の校長とそりが合わず、教員としての生活を4箇月で終える。そして、そもそも大阪へ出てきた目的であった無料の学校(師範学校)に入学を果たした。1年で卒業し、名古屋に赴任。半年後、主事をしていた同郷の人物の薦めに従い、士官学校に入学。折しも西南戦争が勃発しており、開始が遅れはしたものの3期生として入学。ここで好古は、早く卒業して給料が得られるという理由で騎兵科を選択した*1
 2人目、秋山真之(さねゆき)。好古の弟で、明治元年(1868年)の生まれ。日露戦争時には、有名な電文「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」を起案することとなる。そして3人目、正岡子規。後に俳人となる。秋山真之より1歳年長だが、この二人は長らく学業を共にする。なお、夏目漱石は友人として、高浜虚子も後継者として、この小説にしばしば登場する。明治16年(1883年)、子規は17歳で中学を中退し、大学予備門を目指して東京に出る。ここで子規は、叔父の友人・陸羯南(くが・かつなん)の世話となる。陸羯南は司法省法学校に入ったが、校長と衝突して原敬*2 らとともに放校。その後、新聞「日本」を創刊して言論界で活躍するに至る。
 秋山真之も旧松山藩育英会から学資を得、子規にやや遅れて上京。子規と共に、大学予備門を受験するための予備校に通った。この学校の英語教師が、後に大蔵大臣として名を馳せ、二・二六事件で凶弾に倒れる高橋是清*3
 さて1年後、入学試験を受け、大学予備門に合格。真之は兄・好古のところに転がり込んでいたが、子規と同宿することにする。在学中、正岡子規は詩歌小説にのめり込み、文芸の才能を開いていく。明治22年(1889年)、肺結核を病む。喀血した自分を、血に啼くような声のホトトギスにかけたことから、この時に「子規」の号ができる。
 対して秋山正之の方はというと、学業にかかる金に苦慮していた。加えて、このまま官吏か学者になっても一流にはなれないと思い悩む。「うまれたからには日本一になりたい」という当時の青年に共通の望みが叶う場を海軍に求めることにした。明治19年1886年)、学費のかからない海軍兵学校へと入学する。
――と、登場人物の確認だけで、この分量。いやはや。それにしても司馬は、面白い人物達を見つけてきたものです。折しも今年は、日露戦争から100年*4。しばしの間この書を紐解いて、一世紀前の歴史を学んでみようと思います。
http://y-hyouma.hp.infoseek.co.jp/retsuden/yoshihuru.html(侍庵)

*1:歩兵科と騎兵科が3年、砲兵科と工兵科は4年。なお、好古の体格が見込まれたことも理由にはあるらしい。

*2:後に総理大臣となり、藩閥を打破して初の本格的政党内閣を打ち立てる。

*3:宮沢喜一氏が、首相を経験した後でありながら小渕内閣で大蔵大臣となった時、「平成の高橋是清」などという声がありましたっけ。

*4:日露戦争の開戦は、明治37年(1904年)2月10日