杉田玄白『蘭学事始』

蘭学事始 (岩波文庫 青 20-1)
杉田 玄白

400330201X
岩波書店 1982-01
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「暗号解読(感想)」を読んでヒエログリフやら線文字Bやらの解読に心ときめかせ、そののち「江戸の想像力(感想)」に、日本でも右も左も分からない言葉の解読にいそしんだ人がいたことを思い出させてもらったので、これは一丁読まねばなるまいと「蘭学事始」(杉田玄白著)を読む。著者は「解体新書」という本邦初の横文字言葉翻訳書を上梓した人で医者。この本はそれから半世紀近く経ったころに書かれた回想録。驚くべき事には、この本が書かれた当時、蘭学が「解体新書」から始まることはすでに忘れ去られようとしていたらしい。日本のテレビアニメを語るのに、白黒「鉄腕アトム」を抜いてしまうようなあり得ない事態だけれども、そんな状況だったようだ。
 そのため本書はいかにして翻訳がなされたか、を期待して読むと肩すかしを食らう。ここに書かれているのは、誰と誰がどういう経緯を持って、蘭学と呼ばれる学問を創始したのか、という点を語ることに重点が置かれているからだ。実際、70ページしかない本文は上下に分かれていて、上の終わりで「解体新書」の翻訳に着手。下のはじめではすでに翻訳ができている。玄白のテーマは苦労話を語るよりも忘れられようとしている仲間を記すことにあった。
 そんな年代記の中で鮮明な印象を与える人物はふたり前野良沢と平賀源内である。江戸のトリックスター源内はこんなところにも顔を出している。
 ターヘルアナトミア翻訳を思い立ったのは、良沢、玄白、そして中川淳庵の三人で、もとをただすと淳庵が玄白に同書を見せたことからことが始まっている。その緻密な挿絵に医者としての玄白は「これは凄い」と感嘆し、折良く行われた腑分け(解体)をこの三人で見に行く。やってきた良沢がもってきたのもターヘルアナトミアだったとは運命の配剤か。ともあれ、三人はつぶさに腑分けを観察し、同書の挿絵が実にリアルであることを確かめる。それは彼らが学んだ中国医術の説を真っ向から否定するものであった。もっとも自分たちの学ぶ説に疑問をもったのは彼らが最初ではなかったようだ。しかし中国伝来の教科書と実地の矛盾をテキストが間違っていると結論した人は、それまでにはいなかった。
 で、新たなテキストを得た彼ら三人は決意する「この本を翻訳すれば、医学に多大な貢献ができるに違いない」。それは医者を生業としながら自分たちは体について何も知らなかったという衝撃とともに起こった一念発起だ。

翻訳には足かけ四年がかかった。よくぞ四年でできたものだと思う。彼らの武器は前野良沢が長崎で仕入れていた小さな辞書だけなのだ。当時鎖国中の日本では、横文字を習うこともできず、例外は通訳だけ。しかも彼らにしてからが、オランダ語を呪文のように覚えてそれで用をなすという途方に暮れる状態だった。そこからスタートしたのである。呆れるほど凄い先達だ。年表を見ると、まだエレキテルさえ発明されていない頃のことである。
 さて「解体新書」は杉田玄白の名で出版されたが、翻訳の中心は前野良沢だった。なぜ彼の名は削られたのかというと、陰謀でもなんでもなくて、良沢が「オランダ語を極めるまでは、俺は名誉などいらん」と言っていたからだそうで、この人、もうほとんど変人レベルのオランダ語好きらしく、いつも「風邪ですから」と言って、仕事にも行かず、ずっと家に引きこもって、ひたすらオランダ語の勉強に打ち込んでいた。勤め先は藩である。当然非難囂々だが、殿様が偉かった。豊前中津の昌鹿公というのがその偉い人。彼は良沢の文句を言ってくる人々をなだめ、「もともと変な奴だから、放っておけ。日々の仕事に励むのも勤めなら、天下後世民の有益となることをしようとがんばるのも勤めでしょ」と言って、良沢を擁護した。あとの展開を考えるなら、この人がいなければ歴史は変わったかもしれん。
 歴史が変わったという言葉は大袈裟ではない。鉄砲の伝来は1543年、「解体新書」が出たのは1774年。この間、誰もオランダ言葉という横文字を縦にしてみようと思い立たなかったのである。そしてこの本によって、江戸時代人の人間観、世界観は確実に変わった。例えば玄白が途方に暮れた単語のひとつが「シンネン」で、意味が精神だという例を与えれば、その変更の大きさもうかがえるだろう。殿様偉すぎ。
 もちろんバックアッパーだって偉いけど、本人の意志と決断がなければ、どうなるものでもなく、この本を読んでもっとも感動したのはどういうことかと言えば、玄白が「解体新書」出版に踏み切ったところに間違いない。なんのこっちゃねんと思うなかれ、当時は検閲があった。ほんの十年前、長崎に来たオランダ人と話した人がまとめた聞き書き「紅毛談(おらんだばなし)」がアルファベットを載せたという理由で絶版になっているのだ。今も昔も発禁基準など曖昧だ。玄白は自分の本が発禁対象になるかどうか確信が持てない。もし発禁なら前科者である。藩勤めの男にかかるプレッシャーは相当だっただろう。しかし彼は出版を決断する。もちろん失敗の前例を作るわけにはいかないから根回しをしながらだ。しかしここら辺の心意気はなんでもかんでも自主規制の現代の著述家は「爪の垢を煎じて……、って話がずれた。とにかくこの決断が時代を変え、世に蘭学ブームをもたらした。それは長く手本としていた中国人の知らない情報を掴んでいるという喜びと表裏一体だったようで、玄白も蘭学事始の中に、「世界の色々な話のうちにはいまだに中国人の知らないものもたくさんあるだろう」と誇らしげに語っている。実際には中国にもイタリアの宣教師が乗り込んでいたため、そんなことはなかっただろうと想像されるが、まあそれは今から見ての結果論で、玄白の矜持は決して過大なものではなかっただろう。
 と、だらだら書いてしまったので、あと二点だけ初めて知ったことを記しておく。その1、「解体新書」の原書名は「ターヘルアナトミア」ではない。「ターヘルアナ富子」という漫画でこの書名を知ってから約二十年にして初めて知った驚愕の事実だった。正式には「オントレードキュンジヘ・ターフェレン」といったい何がなんだかというくらいかけ離れている。著者はヨハン・アダム・クルムス、ダンヒッチ大学教授。さらにびっくりしたのはこの本がもともとドイツで出版されたものであるということだ。いや思ったより世界は巡っている。と心地よい目眩を覚えながら、その2。「蘭学事始」のタイトルを付けたのは福沢諭吉である。これも驚きの記述。一番最初は「蘭東事始」と名付けられていたらしい。が、すぐに「蘭学事始」と改められ、幕末までにほとんど流通しなくなった。これが明治維新のどさくさでたった一冊市場に出て、それを見つけたのが福沢の友達。で、福沢諭吉があれこれ手を尽くし、明治二年に出版。そのとき、伝本で伝わっていたもののタイトル「和蘭事始」をことごとく「蘭学事始」と改めたらしい。ちなみに和蘭は「オランダ」と読みます。明治の大知識人はヨーロッパを知るという仕事の先達に多大な敬意を払っていたようだ。彼の熱意がなければ、この本はこうして手に入る形で残っていなかった可能性が高い。
 読み出したときは読了できるかなあと不安だったんだけれども、ページ数が少なかったことと、知らない言葉が少なかったこともあってどうにか読み終えることができた。大変面白かった。江戸時代ってほとんど興味がなかったのだが、機会があればまた覗いてみようと思う。