播磨屋の「うたかたの記」

2018-08-15

隠居独り言 61 隠居の独り言 61のブックマークコメント

夏が来れば思い出す。其の十。今年も8月15日が来た。この年に生まれた人は今年73歳になる勘定で、この辺りに生まれた人達は多少のひもじさを知っているが戦争体験戦前大日本帝国という我が国の誇らしさは理解できない。団塊の世代以降は映像書物等でぼんやりとしか映らない。戦前欧米列強アジアの殆どを植民地化して搾取をして偉そうに闊歩している中で唯一、厳とした君主国日本があり日本人の誇り愛国心アジアのどの国にも負けなかった。世界地図を見れば日本は赤色で描かれて北は樺太千島、西は朝鮮半島、南は台湾から南洋群島が勢力圏だったが現地の人に対しての政策欧米植民地搾取主義と違い日本人と対等の同化策で多額の国費で開発が進められた。そこが欧米諸国にとって面白くない。肌色違う黄色人種日本が我々と同様にアジア覇権を求めるとは生意気だ。人種的差別感の深い背景が絶えずアジア存在した。日本アジアに共栄圏を理想とし欧米に追い付くための国策で、富国強兵路線をとった。日本人みな一致結束し、貧しくても隣近所は助け合い国民目的意識が明確で雑念のひとかけらも無かった。欧米の締め付けで戦争が始まったが、米英を撃滅する心は意気軒昂で祖国のため、天皇陛下のため、死をも厭わなかったし、一刻も早く戦場で身を持って盾を望んだ純粋無垢な軍国少年自分だった。しかし天は味方せず緒戦の日本軍の勢いは一年に満たず物量に勝るアメリカ軍に、制海、制空権を完全に奪われて日本本土空襲、そして息の根を止める原爆を落とされた。おまけに火事場泥棒ソ連が突然参戦して、遂に降伏した。国破れて山河あり・・・軍国少年祖国に殉ずる心意気がここでポックリ折れた。日本敗戦を境に手を返したように一億総懺悔アメリカンデモクラシーの大洪水に溢れる。極東軍事裁判がかけられ日本指導者たちが処刑されたが、あれは敗北者へのリンチで、日本一方的に悪いのならABCDラインなどで戦争せざるを得ない条件を付きつけたルーズベルトチャーチルスターリン蒋介石には戦争に対する責任は全然無いのか!今も左巻きの日本人の中に「戦没者は犬死だった、上官の命令で無理やり戦闘行為をやらされた、今日平和犠牲者の礎に成り立っている訳ではない」と戦没者に鞭打つ人が大勢いるのは事実だ。あれから73年、今年こそ安倍総理は堂々と靖国参拝しよう!「あどけなく笑みを浮かべて眠る吾子平和時代続けと祈る」佐々木美和子

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2018-08-13

隠居独り言 60 隠居の独り言 60のブックマークコメント

夏が来れば思い出す。其の九。上京して小僧になったのは昭和23年14歳の時。東京大空襲で丸焼けになった東京復興はまだ完全でなく、勤め先の浅草橋から「浅草松屋」のビルが見えていた。小僧は10人部屋の一部を与えられて仲間と共に寝食を共有したが、唯一自分空間時間が無かったことが辛かった。当時の世相は戦後の混乱が残り、帝銀事件下山事件三鷹事件松川事件犯罪が多発し世の中は安定していなかった。日本列島にもキティ台風ケイト台風による被害が大きく夏は旱に苦しんだ年だった。町を歩けば同じ年格好の戦争孤児少年たちが靴磨きで進駐軍の靴を磨き、戦争で負傷した兵がハーモニカを吹き、乞食大勢、駅の近辺や、道路の端やで銭をせびっていた。赤線地帯ヒロポンカストロ誌、パンパン、DDTストリップ、見るもの聞くもの全てが、14歳の少年には刺激が強すぎた。平成の人たちが聞いても言葉意味さえ分からないだろう。小僧の生活については前にブログに書いたので省くけれど、給料も休祭日もなく一日中働き詰めの生活が出来たと思う。逆説めくが家が貧しかったからで、小僧仲間のほとんどが田舎の貧しい農家出身だった。世間民主主義時代だがそれは公のこと。中では旧態依然のしきたりが厳然として、とくに上下関係が厳しく、先輩の炊事当番、洗濯風呂番、繕い物、寝具の上げ下げなど、後輩の役目と定められた。それも苦にならなかったのは、何もかもが初めての体験で物珍しい興味と、若かった体力の故だったかも知れない。月一度の休日はおにぎり二つを懐に自転車東京中を駆け巡るのが楽しみだったがどんな苦労もどんな貧乏も世の移りざまに若い目を向ければ希望青春といえる。当時は東京信号機は殆どなかったが通りは進駐軍ジープ、トラック、軍用車が行き交い大きな交差点では、進駐軍兵士が台の上で手信号で車の誘導をしていた。初めて見る西洋人による進駐軍の背の高いスタイル洋服、帽子、軍靴など、カッコ良さが少年の目に輝いた。街には、ラジオからシナトラキングコールの歌が流れ、アカ抜けしたジャズ西洋音楽に、少年は感動した。意味も分からず英語の歌を口ずさむのが時代バスに乗っている気分がした。一方人はみんなよく働いていた。貧しい日本が高度成長に乗る基礎固めの時期だったろう。

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2018-08-10

隠居独り言 59 隠居の独り言 59のブックマークコメント

夏が来れば思い出す。其の八。姫路の街も戦災跡がバラックから徐々に家が建ち始め徐々に明るくなった。それでも人間にとって、生きることは食べることだった。食料の配給制度はあったけれどあれは形だけのもので日本中が闇商品や闇米をめぐって生死を彷徨っていた。或る日、新聞に某判事が「人を裁く者がどうして闇米を買えよう」と配給食品以外は摂らず餓死したとの報道を耳にして官吏としての潔癖さに悲痛感と尊敬を覚えた。実家は多少の援助はしてくれたが日々の生活家族で賄わなければならず恥も外聞も捨て働いた。最初は家にあるモノを農家に持って食べ物物々交換をしたけれど、家にモノがなくなると、少年は近所から御用聞きをして交換物を大八車に積み農家に足を運び駄賃を貰った。そんなある日、農家のお婆さんから握り飯を頂いたが、そのまま家に持ち帰って家族みんなで分けて食べた。今も農家が好きになれないのは、皆が飢えている時、白い飯を食べ買い出し者を軽蔑し、偉そうにしていた。当時も今も役人は冷たいが法律上は米の買い出しが御法度なので見つかると没収される。しかし子供だと見逃してくれたので近所での御用聞きは重宝された。少年はこの頃から商売は儲かるという経験で覚えた。恥ずかしながら食べるため汚いことも厭わなかった。食料だけでなく、煙草の葉を買ってきて、庭で干して家族みんなで手巻きをした煙草は飛ぶように売れた。それは専売違反だが、そんなこと言っていられない。お金を手にすることがどれほど大事か、子供心にも本音が分って純真さが無くなっていったのも仕方ない。少年学校不登校日常的だったが、それでも卒業式答辞を読む栄誉を頂いたのは嬉しかった。担任先生が家に来られて早稲田中学を推薦して下さったが、家の貧乏避けがたく東京の帽子職人丁稚奉公に行くことにした。選択肢はもう無かった。夜行列車で旅立つとき、母は見送りに来なかった。母の気持ちを察すると今も胸が熱くなる。

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