「カリスマ」堤義明、ついに逮捕。
盛衰之理、天命と曰ふと雖も、豈に人事に非ざらんや。
いま、堤前会長の往時の栄華をしのばせるような対談集や関連本を読んでいます。だいたい、私は彼の「全盛期」を直接知る世代の者ではないので、こういう本を読むと、ちょっと新鮮な感じをうけます。
その「対談集」というのは、上之郷利昭編『堤義明は語る』(講談社文庫,1989)。対談の相手がおもしろい。松下幸之助盛田昭夫中内功城山三郎渡辺美智雄吉永小百合森英恵うつみ宮土理などなど…。堤康次郎(義明の父)が、池田勇人に、河野一郎と縁をきれと迫ったときの話(p.126)など、興味ふかい話題も多々あります。
また、「関連本」というのは、上之郷利昭『西部王国 堤一族の血と野望』(講談社文庫,1985)、同『新・西部王国 堤清二vs.義明の新経営戦略』(講談社文庫,1987)、永川幸樹『堤義明の発想』(KKベストセラーズワニ文庫,1984)といった類。ぜんぶ、ブックオフで拾ってきたものです(各百五円)。

「千里眼」を追って

寺沢龍*1『透視も念写も事実である 福来友吉千里眼事件』(草思社

透視も念写も事実である ――福来友吉と千里眼事件
2004.1.28初刷。
まず言っておきますが、私はオカルトや神秘体験の信奉者ではありません。いわんやガチガチの否定論者でもありません。UMAとか幽霊とか占いとか、まあ大抵のものは信じられませんけれども(しかし妖怪は大好きです。このことについては、いずれお話しします)、不思議な体験をした、これこれこういうことがあったのだ、ということを聞いても(実際に、家族や知人からそういう「経験」を何べんか聞かされましたが)、それをあえて否定しようとはおもわない。「不思議なこと」は「不思議なこと」として、おいておくのが無難だとおもいます。なぜというに、人智で解明できないことがあってもよかろう、いやむしろあったほうがおもしろいじゃないか、とおもうからです*2
本書の著者、寺沢龍さんは、「透視」とか「念写」*3とかいったテーマを取上げつつも、つとめて客観的かつ冷静な記述をこころがけており、非常に好もしいスタンスを保っています。福来をことさら称揚するでもなく、また「イカサマ」*4と決めつけるでもない。ただ、「事実」は果してどうであったのか―、という点にのみ注目して、いわゆる「千里眼事件」、それから、その事件によって事実上東大から「追放」された、福来友吉*5の生涯に取材しています。そのため、「結論ありき」の本とはちがって、いろいろの知見をうることができます。
さて、御船千鶴子―。貞子の母親のモデルになった人*6、といえば、ピンとくるかたもあるとおもいます。熊本県人で、濟々黌の舎監の妹。そもそも、「千里眼事件」の発端となったのが、御船千鶴子の登場でした。彼女の名が中央の新聞にあらわれたのは、明治四十二(1909)年八月十四日の『東京日日新聞』をもって嚆矢とします。その千鶴子の登場については、一柳廣孝さんが、

「こっくりさん」と「千里眼」 ―日本近代と心霊学― (講談社選書メチエ)
千鶴子が千里眼の能力にめざめたのは、催眠術がきっかけだった。それは、明治三十六年以降の、催眠術ブームによって生まれたものである。その意味では「千里眼」の流行は、催眠術の流行とつながっている。精神の絶対性への眼差し、アカデミズムの関心、容易に他人と異なる能力が持てるようになるという、民衆の素朴な期待。「千里眼」の流行は、こうした要素を催眠術から引き継いでいる。
一柳廣孝『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉 日本近代と心霊学』講談社選書メチエ,1994.p.102)

と書いておられるように、「催眠術ブーム」をぬきにしては語れません。しかもこのブームは、日本古来の「幻術」との混淆、「西洋最先端の科学」というイメージの附加によって一気に浸透した―というのですから、話がややこしい*7。そのために、

御船の出現によって、催眠術の流行は新たな展開を迎える。「催眠術」を「科学」の側から回収する装置として、心霊学への関心が高まり、やがてそれは「科学」そのものの価値を問うレヴェルにまで移行することになる。(一柳前掲書,p.97)

というようなことも起るわけです。つまり、「催眠術」や「千里眼」には、科学の側に回収しえない論理が内在しているという事実が、あらためて確認されるようになったというわけです。
また一柳氏は、とくに催眠術を発端とする「心霊学」興隆の理由を、ウォーレスによる進化論の絶対化、心理学や物理学の分野におけるパラダイムシフトに見出します。このようなアカデミズムへの接近の後に、千里眼は「新科学」として期待されるようになりました。そしてその信憑性は、皮肉なことに、もっぱら新聞報道によって「保証」されるものになってしまった、というのです。
ともかくも、千鶴子は福来による「千里眼」実験の最初の被験者となりました。寺沢氏の本は、その千鶴子の生い立ちにも言及します。「千里眼」をもつ能力者は、御船千鶴子ただひとりにかぎられたわけではなくて、丸亀の長尾郁子、東京の高橋貞子、それから大阪の塩崎孝作、…というように、千鶴子以降もたくさん現れます。
そして、長尾郁子が被験者となった実験時に(福来による「念写」の「発見」があったのも、郁子の実験においてでした)、有名な「千里眼事件」が起きました。これは、かんたんに言うと、念写実験に使うはずだった乾板が「紛失」したこと、ロール・フィルムが盗難にあったこと、途中から実験に参加していた元・東大総長山川健次郎*8の鞄(これも実験につかわれるはずだった)が何者かによって開けられていたこと―このみっつの「変事」をさします。
この事件の経過については、書いていると非常に煩雑になってしまうので、本書や一柳氏の本を見ていただくよりほかありません。しかしここで重要なのは、そこに福来の「不正」が入り込む余地はなかった、ということです。寺沢氏は当時の状況の再現をこころみており、その結果として、福来の名誉を回復することにも成功している、ということができます。またその過程で、『時事新報』の虚偽報道をあばいてみせたり、いわゆる「学閥」の結託による実験の妨害について言及がなされたりもします。
その他、意外なエピソードを交えて語られるのも本書のひとつの特徴です。
たとえば、芥川龍之介が福来の新著を待ちのぞんでいたという事実。
また、土井晩翠志賀潔が、福来と親しく交遊していたという事実。彼ら三人は、昭和二十一(1946)年八月に結成された「東北心霊科学研究会」の顧問にもなります。
ただし、

(晩翠とその妻は―引用者)ときおり盛岡の霊媒者の女性を招き、霊界との交信と称する「招霊会」をおこなって子供たちの霊を呼び寄せてもらい、涙を流しながら霊と語らっていた。晩翠は霊魂の存在を信じた心霊研究家でもあり、かつて東京の日本心霊科学協会の顧問を務めたこともあったので、心霊現象の研究に通じる福来友吉に対しては特別の親近感を持っていたようである。しかし福来自身は、この交霊現象を強迫観念から信じる幻視・幻聴だと考えていたので、晩翠の招霊会には批判的であった。(p.288)

とあるように、福来は今日のいわゆる「オカルティズム」を一緒くたにして、無批判に受容していたわけではなく、「招霊会」と「心霊研究」とを明確に区別していたというのがまた興味ふかい。
千里眼事件」によって、催眠研究や異常心理学といった類の学問はことごとく排斥されるようになりました。それは、日本近代化の過程において、果してやむを得ざる選択であったのか否か―。
むつかしい問題ではありますが、確実にいえるのは、この事件によってその地位を逐われたひとりの教授がいた、ということ。また、移ろいやすい輿論に翻弄された被験者たちがいた、ということでしょう。
そして、すくなくともこの私は、「千里眼事件」を嗤うことができないのです。

*1:この洒落たペン・ネームは、著者の集団疎開した先が福井県の龍澤寺であったことに由来するのだそうです(『讀賣新聞』2004.3.7付「本よみうり堂―著者来店」による)。

*2:「現代民話」にあえて手を加えていない、松谷みよ子さんの『現代民話考』を、私が名著として推すゆえんです。

*3:「念写」や「霊写」、あるいは「心霊写真」や「幽霊写真」といったタームの辨別や変遷については、小池壮彦さんの好著『心霊写真』(宝島社新書,2000)に詳しいのでご覧ください。これはもちろん、いわゆる「非科学的」な心霊写真の本ではありません。写真にとどまらず、心霊ビデオからインターネット情報にいたるまで、手広くあつかっています。ただしこの新書は、残念ながらすでに品切になっています。吉田司雄さんも、「増補版の刊行を強く待ち望んでいる」(一柳廣孝編著『心霊写真は語る』青弓社写真叢書,2004.p.183)と書いておられるくらい、たいへんおもしろい本ですので、いつか私も取上げてみようとおもっています。

*4:たとえば、大槻義彦さんによる次の評。……「そういう時代(欧米でも「心霊学」がさかんに研究されていた時代のこと―引用者)だったからこそ、一時的にせよ、こんな『千里眼』なんてイカサマが世間にもてはやされたのです」「第一回目の実験で、御船(千鶴子―引用者)は、福来に前もって手渡されていた鉛管の中の文字しか、透視できなかった。実験は、タネも仕掛けもある手品だった。新聞も、すぐ、そのことに気づき、否定的な報道に変わっていったのです」(『日録 20世紀』第2巻第47号,講談社,p.29)。

*5:『リング』に登場する伊熊博士のモデルです。

*6:『リング』と千里眼の連関については、吉田司雄「回帰する恐怖」(『心霊写真は語る』所収)にくわしいので、ぜひご覧ください。

*7:いまだに、催眠術が独特のアウラをただよわせている理由も、あるいはここにあるのかもしれません。

*8:立花隆さんは、山川が「千里眼」については否定的だった―というように書いているのだそうですが、寺沢氏は、山川はむしろ肯定も否定もしない慎重な態度を堅持していたことを明らかにします。